第92話 転がり込んできた18歳少女との結末

前回のエピソードに、妻が私の住むアパートへ転がり込んできた経緯を書いた。その後がどうなったかを今回のテーマにしたい。御察しの通り、結果として、我々は籍を入れるんですが。


妻が転がり込んできてからも、彼女は仕事に通っていたし、私も変わりなく授業(講義や実験)に出ていた。その他に私は、パートで、週20時間程度、大学院生の実験を手伝ってもいた。これは、その頃の学部生は経験できない、大学院生の研究と生活を垣間見ることができたのが何よりの収穫だった。院生になって、研究をどうやって行っているのか、自由な時間はどれだけあるのか等もわかってきた。その上、彼らの経験談を聞かせてもらうと、いろいろな大学院生がいることもわかった。私は大学院に進み、博士を取得するつもりでいたが、この経験で決心がついた。私の大学の物理学専攻の学生のうち、7割以上が大学への進学を希望していた。その中には、医学部や弁護士を目指して法学部大学院へ進学する者のいた。物理以外の理工系の大学院へ行く者もいた。米国の大学では、同じ大学で学部と大学院へ行くのは勧められていなかったので、私も別の大学へ応募するつもりでいた。しかし、妻と籍を入れた後、この街から移住したくなかった妻のために、同じ大学で院へ行くことを決めた。妻は引っ越しをトラウマ的に捉えていたが、それまで彼女の身に起こったことを考えれば、不思議でもなかった。成績は良かったので、私がバイトしていたグループの主任教官であった教授に相談して、彼のグループへ入れてもらうことになり、大学院へ進む話はスムーズに進んでいった。


妻との関係は、転がり込んできてから、二人でどうしようかと毎日相談していた。妻は、時々母や兄とも話をしていたが、母は早く帰ってくる様に説得していた。兄は、自分の好きな様にしろと言っていた。家を出て独立するまでは、兄は一才下の妻の面倒をよく見てくれていたたらしかった。しかし、兄が独立してからは、妻が最年長となり、家での責任を兄がいた時よりも多くなしりつけられていた。独立した兄とは、距離ができてしまったと、妻は感じていた。兄も、妻に成長して欲しかったのかもしれない。実は、この兄は、私たちが結婚した2年後には、イリノイを離れて、父と、父の親族を頼って、元住んでいたフロリダ州へ戻っていった。


結局、私たちは、籍を入れることで、一緒に暮らしていくことにした。夫婦となれば、母も継父も、あまり彼女の生活に口出しできなくなると思ったのが最大の理由だった。二人が愛しているからが最大の理由であるはずが、その時は、妻を守るにはこれが最適の決断だと二人で決めたのだった。感情的(または人間的には)には、私達は未だ子供すぎて、結婚などまだ早すぎるとも自覚していた。それでも、このままだと、妻は、自立するか、実家に帰らなければならないが、彼女にとって、自立する決断は怖かった。妻の母は、一番年上の姉が出て行ってしまってからは、妻には、自分に自信を持たせず、独立できない様に育ててきたのだと思う(彼女の母のこの企みは、姉の件の前からあったと思う)。妻は母に、子供の頃からキッチンへ入れてもらえず、家事とかは全くさせてもらえなかったと言っていた。これは、その頃の米国においては異常なことだった。妻が母に依存する様に仕向けたのだろうが、妻は私に依存する決断をしたのは、母の計算には入っていなかっただろう。妻を愛していた私にとってはラッキーだった。


理想的には、私たちは、もう2−3年付き合ってから結婚すべきであったとだろう。妻は未だ18歳、私は世間知らずの22歳(精神年齢20歳以下?)だった。もう少し大人になってからの方が、お互いを理解し合えていたと思う。その頃の二人は、若すぎるカップルが陥る、「俺たちは世界を敵に回している」、Us against the world, またはTwo against the worldの心境に陥っていた。数年後に大ヒットしたロックグループBon Joviの曲、“Livin' on a Prayer”を聴くと、この頃の私たちを思い出してしまうのも、この曲が、まさに、Two against the worldであるカップルの心境を歌っているからだろ思う。70年代・80年代のロックにはそんな思い出がたくさんある。


結局は私達は、約1ヶ月の同棲後、郡の役所で籍を入れるための書類をもらってきた。血液検査も必要だった。私はパスポート、彼女は、出征証明書が必要で、この書類はアラバマ州で、彼女の父が取って送ってくれた。籍を入れるだけで、結婚式などするつもりはなかったのだが、この話を大学時代のホストファミリーにしたら、式を上げろと言われた。準備する費用もないと言うと、この家族の家長である男性が、牧師の資格を持っているし、自分が副牧師をしている教会で式を挙げられると言ってきた。彼の妻が、自分が使ったウエディングドレスを貸してくれるとまで言ってきた。私は彼らにかなり気に入られていて、よく家に呼び出されて、遊びに行っていた。この教会の日曜礼拝への招待されていたので、妻と二人で時々参加してもいた。高校時代のホストファミリーに電話して、翌日結婚式を挙げることになったと伝えたら、式に出るため、急遽、3時間かけてやって来ると言ってくれた。


その式は、日曜の礼拝が終わった午後に行われた。高校時代のホストファミリーも、一番下の娘以外は全員揃って参加してくれた。妻のウエディングドレスは、少し訂正が必要だったため、第二のホストファミリーの奥さんが、縫い直してくれた。しかし、時間がないとかで、妻はウエディングドレスを着たまま、ミシンの周りを走り回らされたと言っていた。私は、自分の持つ一番良いスーツを着て結婚式に参加した。カルビン・クライアンだったと思う。バイトでためたお金で買っていたものだった。儀式で交換したウエディングリングも借り物だった。妻の側からは、母と兄が参加したが、母が変な格好で来たと妻は怒っていた。兄はまともな格好で、友人の結婚式に出る様な格好だったが、母は60年代のドレスにでも見える格好でした。スリッパの様なサンダルも履いていたので、嫌がらせだと妻は理解していた。妻は後に母が自分の結婚式に家用のスリッパーとパジャマを着てきたと友人に言いふらしていた。高校時代のホストファミリーは、もちろんちゃんとした格好で来てくれた。式が終わると、高校時代のホストファミリーが一緒に夕食に誘ってくれたが、義母はすぐに帰ってしまった。義兄も、母を送っていくために帰っていった。大学時代のホストファミリーは、夜の礼拝があるので、断ってきた。彼らの娘二人は、高校時代のホストブラザー達に興味があったようで、この招待を断った両親に苦情を言っていた。おかげで、私と妻に、高校時代のホストファミリーだけで、近辺で一番高級なステーキハウスへ行った。全て驕りだった。私たちは、普段は飲まないワインを飲みすぎてしまい、帰りは、車を駐車場に残して、タクシーでアパートへ帰ってきた。酔っ払っていて、結婚初夜は二人ともすぐに寝てしまった。


翌日、起きてみると、その日は、イランで革命が起こった日だった。米国大使館で米国人が人質に取られて、大変なことになっていた。そのおかげで、私は、結婚記念日を忘れることはなかった。一週間くらい前から、この日がやってくるとニュースで話題になるからだった。人質達が解放されても、それは毎年変わらないニュースだった。私は、あの人質達は解放されたが、私はいまだに束縛されたままだとジョークで言っていたが、妻は、本気で笑った顔を見せなかった。これに懲りずに、毎年このジョークを放っていた私は馬鹿者だ。


妻の借り物ウエディングドレスの写真を、現在、我々が子守りをしている孫が興味を持ち、写真盾で遊び始めたので、それをスマホで撮ったので、近況のノートに載せておく。

https://kakuyomu.jp/users/fumiya57/news/16818093084138037109





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