第64話 大学・研究所は変人ばかり II
大学院には、天才と言って良い先輩がいた。彼は、マサチューセッツ工科大学(MIT)の物理学を主席で卒業後、私のいた大学の大学院へやって来た。院での成績も一位で、普通の院生は一年以上かけて準備してから受ける博士課程へ進むに必要な資格試験も、準備期間なしで受け、即合格していた。周りからは、彼は、このまま、エリートコースを進んで、どこかの著名な大学の教授になるとみられていた。しかし、私の教授の研究室でリサーチを始めてから、魔が刺したというか、リサーチに飽きたらしい。そこで、大学院を辞めて、イエール大学の天文学部の技官になった。その職は、観測機器を世界中へ持ち歩いて、天体観測する職だった。その間に彼は、同僚から勧められて、ロッククライミングを始めていた。しかし、数年もすると、その職にも飽きて、再度、大学院へ戻って博士を取る決断をした。最も手っ取り早かったのは、同じ教授の研究室へ戻ることで、私が院へ入る2年ほど前に復帰していた。
その頃、彼は、ガールフレンドと同棲していたが、二人とも質素な暮らしをしていた。車を持たず、二人とも、自転車で町中を移動していた。研究以外の彼の日課は、昼食時間に、ジムへ行き、筋トレをこなしていた。その目的はただ一つ、ロッククライミングをするために必要な筋肉を鍛えるものだった。彼と、彼のガールフレンドは、キャンパスで、院生や若い教授達が、お金を出し合って食料を買い、コックを雇い、夕食を一緒に夕食を食べるグループに属していた(サパークラブと呼ばれていた)。そこは、分野の異なった人たちと出会える場所で、時々私たちも招待されて食事に行っていた。先輩は、夕食後、建物の外壁が石積みできている数学科の入っているビルに行き、ロッククライミングの練習をしていた。時々、不審者と間違われて、警察を呼ばれていたが。彼のおかげで、ロッククライマーがすごい身体能力を持っていて、いつも鍛えていると知った。後に、彼がいなくなった研究室で、天井に張り巡らされていた配管の周りに、装置を繋ぐ配線を張り巡らしていたら、彼の手跡があるパイプ等が見つかった。実験の間にできた街時間に、このパイプなどにぶら下がって懸垂をしていたのだ。そして、ドアのフレームの上には、指だけで懸垂をしていた後もあった。
彼との雑談でも、頭の良さが伝わる会話が多かった。釣りに必死になっていると、あの小豆よりも小さな脳を持つ魚たちを騙そうとして、ほぼ失敗するのが釣り人だと言われた。ハンティングもほぼ同じことだと。まあ、向こうには、莫大な自然という見方と進化という長い歴史が味方しているので、簡単には行かないことも確かだと。後に、映画、「グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち」に出てくるようなMITのとんでもない数学教授の話なども面白かった。MITの普通の学部生に、制限時間24時間で、未だに解かれていない数学の難問を期末試験問題として出して、自由に試験場から出入りしてよいと告げるらしかった。食事をしに行ってもいいし、図書館へ言って本を片っ端から探しても良いと。翌日、解答用紙を回収する時間だけを指定して、帰っていくのだそうだった。溶けない問題を学生がどうやって解こうとするかがこの教授の採点対象だった。答えはどこにも書いてない、もうガチの研究と同じではないか?いや、それ以上か?
そんな彼が、一年に一度、ロッククライミングのためにいなくなる時期があった。一ヶ月ほど、ヨセミテ国立公園などへ出かけて、ロッククライミングをしていた。休暇を取ることを知らない私たちの教授は、彼が早く帰ってきて、研究を終えるのを待ち遠しく待っていた。やがて、その彼も、博士課程を修了して就職活動に入ると思われたが、彼は、論文を投稿すると、そのまま、ヨセミテ渓谷へ行ってしまった。それから、ずっとキャンプ場に泊まりながらほぼ毎日ロッククライミングをしていたそうだった。世界中から来たクライマーと出会い、パートナーとなり、岩を登る毎日だった。携帯もない時代だったが、一応、毎週日曜日には、同棲していたガールフレンドへ公衆電話から連絡入れる様に心がけていた。
投稿した論文に関して、査定者から、質問などが帰ってきて、それに反論などして返答していた教授が、彼に質問等があると、このガールフレンドに頼んで、教授のオフィスへ電話してもらっていた。そんなある日、教授の基へ、彼の父が心臓発作で入院したので、連絡がしたいという知らせが彼の実家から届いた。ガールフレンドは、言語学の院生で、連絡がつかなったらしかった。多くの家には、留守電もない時期だった。そこで、教授は、我々を、キャンパスのガールフレンドのいそうな場所へ送り出して、彼女を見つけて、連れて来させた。そして、二人で、彼が週一で、連絡をくれていたヨセミテ渓谷の公衆電話へ電話をかけたり。最後には、国立公園の管理事務所から、キャンプ場を管理しているレンジャーへ連絡入れて、彼が泊まっているキャンブの場所を突き止めて、実家へ電話する様にとの伝言を残してもらった。キャンプ場には、登録してから泊まる必要があったので、突き止められた。ようやく、その夜、ガールフレンドへ電話があった。彼の実家へ電話してみたら、父の症状は軽く、もう退院していたので、帰ってくる必要はなかったという連絡が入った。彼の実家は、ペンシルベニア州のフィラデルフィアであった。ここで、彼がすぐに帰って来ないと聞いて、一番残念だと思ったのは、研究を再開させたかった教授だっただろう(笑)。その彼が、一ヶ月後くらいに、大学へ帰ってきた。理由は、クライミング中に、落下事故を起こして、頭を10針ほど縫う怪我をしてしまったためだった。命に別状はなかったし、一応、実家にも寄ってから大学へ戻ってきた。クライミングをやり過ぎたという自覚はあったらしい。教授は大喜びだった。
なんとか無事に、ヨセメテでの絶壁の岩登りの休暇(4ヶ月以上)を終えて、彼は研究室へ復帰した。難し理論的な計算を行う研究をしながら、教授から勧められた就職活動をしていた。しかし、教授の思惑とは違い、彼は、彼なら就職できた一流大学で教えながら研究費を集めるための競争には興味がなかった。そこで、ワシントン州にある小さな大学で、研究の必要がない教卓を専門にする職についた。もちろん、ワシントン州には、大きな山がたくさんある。引っ越す前に、同棲していたガールフレンドの母親を安心させるためににと、結婚式を挙げて行った。
その後の彼は、キリスト教系の小さな大学で、主に学部生に物理を教えていたが、日曜日に教会に来る様に勧めた学部長の誘いを拒否していた為、無任期のテニュアは取れなかった。しかし、その頃には、彼の奥さんは短期大学の英語の教授となり、テニュアを取っていた。子供も生まれていたので、彼は、しばらく、主夫をやっていた。やがて、彼は、高校の物理と数学の教師になった。それを知った時、私は、思わず、その高校へ行って、彼の生徒たちに、「お前ら、こんな優秀な物理学者に教わっている高校生なんて、全米でも極少ないのだぞ!」言ってやりたかった。東大博士の先生たちが、シリコンバレーの日本語学校の生徒を教えていたのと同じくらいの事だと私は認識いていた。基礎研究を続けていたら無限の可能性を持っていただろう彼が、最後は、高校の先生として引退したと聞いた時には、なんだか複雑な気持ちになった。
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