第58話サンホゼ カリフォルニア III

前回の続きです。この米国の大学へ留学した日本人ボーイフレンドを追っかけて米国に来てみれば、彼は、米国人と結婚してしまっていた女性の話です。日本へ帰りたくなかった彼女は、三ヶ月ほど前に出会った、元ボーイフレンドの同僚のドイツ人留学生と席を入れて、米国へとどまりました。そして、私たちが出会った時には、二人の子供がいました。長女が日本語学校の5−6年生くらいで、下の長男はまだ、幼稚園に行き始めたくらいの年齢でした。習い事をのおかげが、彼女は、日本人駐在員の奥様達の情報にも詳しくて、その世界の話をしてくれました。私の妻が今でも覚えているのは、究極の食材をもとめるために、シリコンバレーだけではなく、近辺の街へ出向いていたことでした。パンは、サンフランシスコのベーカリーのサワードーブレッド。新米が出る時期には、サクラメント(車で2−3時間)の日系人が経営する農家で列に並んで(こっちでは、車の列)、田牧米という米を買いにいき。イカの塩辛を自作するために、またもや、車で2時間以上のところまでイカを買いに行く。豆腐は、サンホゼのジャパンタウンにある戦前から続く豆腐屋でと。この豆腐屋は、全米で唯一苦汁を使った豆腐を作っていると自負していました。その頃の米国では、日本でいう苦汁は毒とされ、食品加工には使ってならないと御達しが出ていたが、ここはその条例が出きる前から使っていたので、使い続けることを許可されたとか。そして、彼女は。テニスと、琴のレッスンを受けていた。その上、子供達の習い事にスポーツと、ものすごく忙しい方でした。妻が、入院した時は、息子を学校から、彼女の自宅へ連れて帰ってくれて、面倒を見てくれたこともありました。妻に、日本人の奥様達は家事を本気でやると聡らしてくれたのが彼女でした(その結果、妻が彼女を真似ようとした事実は存在しません)。私が日本語を忘れかけていたことを面白がって、私に日本語の質問をして笑っていたのも彼女でした(「前略で始めた文章はどう終えるか?」ー>私の回答は、「後略!」)。ジャパンタウンでの日本語学校の後、一緒に昼食を取ることもあったのですが、ある日、ジャパンタウンで一番日本の家庭料理に近いと言われていた食堂で、白菜の漬物に味の素がかかっていたので、ちょっとキレていたのも、妻はよく覚えています。妻は、他の日本人の奥様達を全く覚えていませんが、彼女だけは今でもよく覚えています。


そしてもう一人豪快な日本人女性がいました。この方は、日本語学校以外では、あまり付き合いはなかったのですが、旦那さんは米国の航空会社のパイロットでした(白人男性)。子供も二人いたと思います。彼女は、上記の女性と少し似た様な性格でした。今でもよく覚えているのが、駐在員の奥様達が、自分達の旦那様の勤め先を自慢しあっている時に、ある奥様が自分の主人は富士通勤務と言ったら、彼女は、「運送会社に勤務されているんですね?」と言ってしまったらしく、その奥様はかなり気分を悪くしたとか。その頃、富士通と聞いて日通と同じ系統だと思ったそうでした。私は半導体に関連する研究をしていたので(と言っても商品には程遠い基礎研究でしたが)富士通やNECがパソコン大手となっていたことは知ってました。(実は、日本へ帰った後で、教え子から、彼の父親は電通に勤めていると言われた時には、電通が何の会社かは知りませんでした。このサンホゼの日本語学校の女性の話を思い出して、運送会社なのかとは言いませんでした。)


次回は、日系米国人の友人についての話となります。

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