ⅠⅡともに興味深く読ませて頂きました。
サンフランシスコのチャイナタウンの文字に、子供の頃によく流れていた「桑港のチャイナ街」を思い出しました。
懐かしいのでYouTubeで聴いてみましたら、タイトルのサンフランシスコの字が桑港だったので、私の雑学ノートにすぐ記入です。(頭の中ですのですぐに忘れるのが難ですが)
飛行機嫌いの夫のせいで、外国に行ったことがない私で、外国の日本人学校は興味ありますし、帰国子女はずいぶん憧れの的でした。
50年前、近所の外国勤務を終えて帰国した家族と親しくしてたことがありましたが、憧れのせいか奥さんが輝いて見えました(実際にも美人でしたけど)
今では外国で暮らしてることなど少しも珍しくはありませんけれど、50年以上も東京のこの地から離れたことのない私には、やはり異国の地での暮らしは憧れです。
博士のアメリカ便り?(勝手に名付けています)はいつも興味津々でありがたく思っております。(武勇伝も、です)
次も期待しています。
作者からの返信
@88chama様、
コメントをありがとうございます。
70年代に留学した時は、私が知っていた海外経験のあった人たちは、両方とも両親が移住していたため米国で生まれた、私の祖母と、伯母の夫の叔父さんの二人だけでした。
私の留学していた大学は、全校生徒が5万人に上る大学で、学部生は3万人ほどでしたが、私の在学中には、日本人学部生は私だけでした(日系人は除く)。
私が90年代にシリコンバレーへ移住した時には、日本人留学生がたくさんいたので驚きでした。
いろんな方がいるんですね。
駐在の奥様は世間が狭くて、ちょっと合わないという人も聞いたことがあります。
作者からの返信
雨 杜和さん、
コメントありがとうございます。
駐在さんの奥様方にも別世界があった様でしたが、外国人や移住した日本人男性と結婚しておられた日本人の女性達とは又別の世界であった様でした。私など相手にしてもらえませんでした。と言うか、接点がなかったですね。私達が息子をこの日本語学校へ通わせていた理由は、レクリエーション的な物でしたが、いずれは日本へ帰り受験戦争へ加わるお子さん達は、そんな甘い態度ではなかったと思います。
@fumiya57さま
こんにちは。
駐在員の子供たち、週五で米国の学校へ通い、土曜日に日本用の勉強までやってのけていたとは、ものすごい努力家たちですね。
「日本人らしからぬ、お淑やかの反対の性格で、活発なの女性だった」
よほど闊達な女性だったのですね(笑)。婉曲に、穏当に、そのすさまじさを表そうと苦労なさっているのが分かります。そのあとの、彼女の破天荒な武勇伝を拝見するに、なるほどなあ、とうならされました。次にも続くのですね。楽しみです。
作者からの返信
佐藤宇佳子様、
コメントをありがとうございます。
この方は本当に日本人離れした日本人女性でした。日本を忘れかけていた私とは違って、日本にどっぷり浸かっていながら、米国生活をエンジョイしておられた様に見えました。日本人移民が多く日本の文化が普及していたカリフォルニア州が彼女にとっても一番生きやすい場所だったのではないでしょうか?
「活発なの女性だった」これも直しておきました。ありがとうございました。