第56話 サンホゼ カリフォルニア I

私たち家族は、90年代初頭に、中西部の大学中心の街から、シリコンバレーで一人口の多いるサンホゼ市へ引っ越した。サンホゼにはジャパンタウンもあり、大きなお寺もあった。昔は、サンノゼとも日本語では言っていたらしい。


アジアからの移民が多いカリフォルニア、サンフランシスコのチャイナタウンは有名だが、実はサンホゼにもチャイナタウンはあった。サンフランシスコのチャイナタウンは、香港からの移民が主な住民で、その頃はまだ英国領であったため、引き続き多くの中国人が移り住んでいた。しかし、サンホゼのチャイナタウンは、中国本土からの移民が主流だったため、共産党が主導を取って米国と国交を絶えた後には、移民してくる者がいなくなった。その上、60年代には、米国では、固定資産の売買と賃貸市場で人種によって差別することが’違法となり、全ての国民が好きなところに住んでも良くなった。そうなると、若い中国人2世や3世は、白人の住む市街地へと移住していったため、移住してくる者がいなくなったサンホゼのチャイナタウンは消滅した。


サンホゼにはジャパンタウンもあったが、日系人が第二次世界大戦中に収容所へ送られていた間は、人口が激減していた。しかし、白人の住職が守っていたお寺が潰れずに存在していたため、収容所から出てきた日系人の拠り所となったため、戦後も、衰えずに、栄えていた。このお寺サンホゼ別院には武道の道場があり、柔道と剣道がとくに盛んだった。90年代までの柔道と剣道の全米の覇者は、全て、この道場で一度は練習していたと聞いた。初期の米国オリンピック柔道代表もそうだった。(他にも、バスケのできる体育館があり、NBAでプレイしたレックス・ウォルターズ(母親が日系人)やオリンピックアイススケートで金眼d流を取ったクリスティー・ヤマグチなども、このサンホゼ別院に通っていた。さすがにアイスリンクはなかったが彼女は両親と共にこのお寺の常連だったらしい。)しかし、60年代から70年代になると、消滅したサンホゼのチャイナタウンと同じ様に、若者の郊外への移住で、ジャパンタウンは衰えていた。それを救ったのが、半導体産業のおかげで繁栄し始めたシリコンバレーだった。多くの日本の企業がシリコンバレーに支社を設けたため、多くの日本人が派遣されるようになり、その派遣されたスタッフと家族の需要に応えるために、商業施設が増え出し、ジャパンタウンに活気が戻ってきていた。ちなみに、サンフランシスコのジャパンタウンは、もう80年代には日系人はあまり住んではいなかった。旅行客がやってきて、土産物を買うだけのビルが一つだけのようになっていた。


私の妻と息子は、このサンホゼ別院で土曜日の日曜学校で、日本語を学んでいた。息子のクラスは、日系人の子供達が主なクラスで、別に、日本の学校へ帰って進学する派遣社員の日本国籍の子供達のクラスがあった(後者は帰国子女用)。その日本語学校の先生達は、主婦から、元大学教授とまでと、さまざまな人たちが’教えていた。私の妻の日本語の先生は、私と同じ研究所にいた東京大学で化学の博士を取った人だった。私の友人は、そのお寺の住職に頼まれて、日本語教師をしていた。他にも、東大博士号をもつ先生がもう二人いた(それぞれ、NASAとIBMを引退した方達だった)。日本中を探しても、東大博士の先生がが三人もいる少中学校はなかなか見つからないと私は言っていた。

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