私はちょうど学生運動の真っ最中に大学生でした。
特別な思想もなく、頭も良くない平凡な女子大生でしたから、運動とは全く無関係でした。
しかし、そんな私であるのに長兄は抗議デモに出ろというのです。
友達も日和見主義はいけないからと言うので、デモの列に加わりました。
でもシュプレヒコールだって何を叫んでるのかさえ意味も分かりません。
集会の会場を機動隊が取り囲んでいると聞かされた時、ビビッて友達に捕まったらどうしようと泣きつきました。そんな私でした。
オリンピックじゃあるまいに、参加すればいいというものではありません。
反省し即、普段の何も問題意識も持たない女の子、に戻りました。
あさま山荘事件の時には、初産で退院したばかりで、機動隊の突入のニュースを見て衝撃をうけておりました。あさま山荘と聞くと未熟児だった娘を懸命に世話していたことを思い出します。
小学生が全学連に入って大暴れするぞ、と意気込んでらしたなんて、かわいいもんだな、と笑ってしまいました(失礼)
作者からの返信
@88chama様、
コメントをありがとうございます。
田舎のガキ大将だった私が、テレビニュースを見て、大学に入ると、警察と角材で殴り合いが公認されていると勘違いしていたのは、本当に黒歴史です。その後、浅間山山荘の事件が起きた頃には、もう中学生で、そんなに甘くはないとわかっていました。学生運動家達の中で過激派が孤立して暴走していたのは、中学生にも理解できました。公の場で、シュプレヒコールを叫びながらデモしていた頃には、比較的多くの市民も賛同していた人も多かったのではないかと思いますが、浅間山山荘事件では、完全に支持を失ったと思います。
デモに参加されたということは、私もそのニュースを見ていたかもしれませんね。
こういう学生運動が起きないように、「考えることのない人間」を作ろうとしたのが、その後の教育かなあって思っているのです。
いま、学生運動するような気力を持った若者はいません。
(わたしも「社会を変えよう」とか全然思わない。)
日本はどこへ行くのかなあ。
学生運動に関しての、わたしの知識は、なぜか村上春樹から得ております(笑)。
作者からの返信
西しまこさん、
>ういう学生運動が起きないように、「考えることのない人間」を作ろうとしたのが、その後の教育かなあって思っているのです。
お返事が遅くなりましたが、私も同感です。
もう一つは、学校から不良や悪と呼ばれていたやんちゃな生徒を締め出すような教育方針にもなって、自由が失われていると思います。
幼い頃から、偏差値と内申書で縛り付けて。
編集済
私が大学を出て最初に勤めたシンクタンクの会社の社長が昭和18年の生れでした。京大を出て一部上場のメーカーに勤めていた時に、過激派に入り活動を始めました。ある時、加福君、俺なあ昔懲役5年になるとこやってん、また機会があったら話するわなと言うので何したんかなーと思っていたのですが、会社辞めて留学して帰国して社長に久々に会いに行きました。中華をおごってもらったのですが、その時にあの懲役五年って何だったんですか?聞いたら「放火」。「ええー!!そんな事やって良いんですか?」と私が言うと「ええねん。証拠ないから」、「………」。そんな彼が、会社を引退してのうのうと大学教授やっていたのだから開いた口が塞がりませんよね。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
私よりも10歳くらい年上の教授の中には、過激派だった先生たちも多くいました。私は、日本の大学が国防関連の機関(国防省や自衛隊等)から研究費を受けいることに賛成ですが、そういう教授たちの流れ(もう現役にはいませんが)で、似たような思想の孫弟子とかが残っていて、猛反対します。欲しくない教官は受け入れなければ良いし、受け入れたい教官には受け入れさせれば良いのです。
放火というと、子供っぽい悪さとも取れますが、証拠がなければ良いとは、驚きの発言ですね。殺人も証拠がなければ良いのか?という流れになりますよね?
編集済
東大安田講堂から、学生運動は、どんどん闇堕ちしていきましたよね。
ヨド号ハイジャックの人たちは、北朝鮮にいるとか。日本に帰りたいというニュースを見たことがあります。
日本がいろんな意味で激しい時代だったと思います。
そうした表舞台の、いい意味でも悪い意味でも、そういう人々が目立つ時代、敗戦国で他国から鬼のように思われ差別され、それでも欧米に赴任した日本人ビジネスマンたちが差別と戦い、心を殺しながら良い評価を得る努力をしていた。名もない英雄たちがいたと思うのです。
そういう方達を尊敬しています。
作者からの返信
雨 杜和 さん、
コメントありがとうございます。
あの頃、まさに激しい時代だったですよね?それに少し遅れてきたと感じていました。
日本人ビジネスマン、戦前生まれの方達の覚悟は違っていたと思います。バブル経済のもとをになるほど、日本製品を売りまくった方達です。そして、その製品を開発したエンジニア達も。その儲かったお金の使い方を誤ったのが、大蔵省の官僚と銀行家でしょう。エンジニアは世界でもトップレベルだったのが、お金をマネージする方は最悪だったのでしょう。ある英国で教育を受け、日本の大学の教授だったた経済学者(息子の友人の父親)が、日本の経済学の教育は相当遅れていると言っていました。そのれで、Japan Timesにでかい紙面を使った記事を書いていました。
我々の世代は、皆、欧米に憧れを持っていました。九十年代に日本へ帰ってみると、日本の方が住みやすいので、海外に行きたくないという若者多さに驚きました。その頃の大学は、日本で十分トップレベルの研究ができると認識され始めていたので、それでも良いかとは思いましたが、今は、レベルも落ちているのです。若い人たちには、また海外に飛び出す意欲を持ってほしいです。
私の時代の10年くらい前ですね。
安田講堂の時代の過激派も残ってましたが。
ただ私の時代はバブル景気で物価上昇で、みんなで賃上げをヤレーという感じで、ストライキを応援する雰囲気がありました
(ただ国鉄の一部過激派が仕切るストは別)
1990年代はじめの早稲田大学の学生がストライキをやっていたのは学費値上げ反対で、基本的には革マル派が仕切っていましたが、期末試験は中止になるし、学生は願ったり適ったりだった、と記憶しています。
ピケを張るのを、普通の学生が手伝っていたとか
作者からの返信
コメントありがとうございます。
私は、93年から九州の大学に勤めていました。入試の際には、学生運動家達が入試の邪魔をする可能性を指摘されていました。学生寮に、昔からの活動家が、未だに住み着いていると言う話も聞きました(京大の寮の方が有名ですが)。一度、トイレの便器がハンマーのような物で壊された事がありました。
米国では、試験を受けたくない生徒が爆破予告の電話を入れるのが定番です。主に、中学と高校です。
@fumiya57さま
こんにちは。
「その頃の私は、大学生になったら、警察と角材を持って、公(ここが勘違いのポイント)に殴り合いができると思い、絶対に大学へ行きたいと思ってしまった」
そうか、(喧嘩の強い)男の子にとって、大っぴらに好きなだけ殴り合いができるというのは、魅力的なわけですね(笑)。
警察官の大叔父さんの家に下宿していながら学生運動にこっそりと参加していた従姉さんも、大したものですね。これは、血筋なのか、当時の世相の影響が大きいのか、考えてしまいました。
作者からの返信
佐藤宇佳子様、
コメントをありがとうございます。
こちらは、メモリアルデイと言って、戦没者記念日とでも言える休日で、明日、月曜日も休みです。
喧嘩が強かったからといっても、田舎の子供同士の喧嘩だったので、大したことはなかったと思います。私の田舎から、大阪へ出て、専門学校へ行った奴が、地元の若者3人と喧嘩になり、割と上手く戦っていたと思っていたら、彼が殴って倒れた相手が、近くにあったブロックを拾ってそれを投げつけて来たそうでした。そのブロックは、彼の顔のすぐ前を落ちて行ったとか。ここで、私の同級生は、こいつらは殺しても良いという態度で喧嘩をしていると実感して、降参したそうです。そうしたら、向こうも、ドブ川を歩けと言ってきて、それで済んだそうです。田舎では、そんな喧嘩ではなく、出来るだけ武器は持たないで済ましていました。
小学生時代の勘違いも、私の若気の至りでした。恥ずかしい話で、黒歴史の一つです。
従姉は、静かな優等生でしたが、実は芯は強い女性です。結婚した相手が金沢大学の教授になったので、名古屋から金沢へ引っ越しました。その後、旦那は名古屋大学へ呼び戻されたのですが、彼女は、旦那に単身赴任させて、子供3人と金沢に住み着いてしまいました。一緒に住んでいた義両親も、旦那に付いて、名古屋に帰って行ったそうでした。彼女は、男なんていらない女性だと思います。旦那は名古屋市内の私立大学の学長でしたが、今も別居中です。