第23話 8月6日に思うこと。

私は広島の生まれで育ちも広島である(市内ではない)。毎年、8月6日には、登校して全校同時に午前8時15分に黙祷していた。小中学校の頃は、この登校日の催し(?)の一部として、被曝者に関する映画を見ていたような気がする。高校では何をしたか覚えていない。被爆者に対する差別を無くそうという趣旨の教育を受けていたような気がする。原爆禁止とかいう話が出てきたかどうかは覚えていない。


しかし、私は被爆者をそれほど知らなかった。唯一知っていたのは、私の母の父が原爆投1週間後に、市内の家屋解体作業などに駆り出されたことと、祖母の義理の弟が広島市内で生き残った数少ない警察官だったため、市内での警察任務の指揮を取っていたこと(この大叔父は投下の翌日に市内へ入った)。親戚の中でも、私が幼い頃から、被曝手帳を持っていると知っていたのは、この二人だけだった。そして、私の住んでいた県北では、被爆者という方達にほとんど会ったことがなかった。私に取っては、被爆者の方達は、ほぼ皆、広島市内に住んでいると思っていた。高校を卒業して、米国へ渡るまでこう考えていた。


私に取って、原爆について思い出す大事な出来事が、高校時代にあった。普段は、授業が終わると、部活の準備を始めて、教室を後にするのが習慣だったが、その日は、なぜかクラスに残って話している生徒達の輪の中に私はいた。男女共に、合計で十人以上はいたたと思う。そこで、将来の話になり、生徒の多くはは将来の職業について語っていたと思う。その頃すでに、米国へ留学することが決まっていた私も、将来は物理学者になると言ったと思う。きっと女子生徒の一人だったと思うが、結婚について話し始めた。何歳まで結婚して、子供が何人とかいう話も出てきたように思う。その頃、女子と付き合ったともなかった私には、結婚とは、はるかな未来の話のように思えた。その中で、今は名前も覚えていな女子生徒が、「私の両親は被爆者なので、私は将来結婚できない、、、」と言いだした。今、名前も覚えていないのは、それほど親しい生徒ではなかったからだ。それを聞いて、私の頭にはショックが走った。今までの原爆投下日に受けてきた被爆者に対する差別に悩んでいる同級生がいたとは、思ってもいなかった。それを聞いて、周りの生徒は、彼女もきっと結婚する相手に出会うだろうと言っていた。「それでも将来結婚できなかったら、俺が結婚してやるよ!」と、思わず言いたかった。しかし、ヘタレである私には、それが言えなかった。これは、今でも、後悔している。


私が80年代半ばに帰国すると、町内に被爆者手帳を持つ方達の数がものすごく増えていた。県北からも多くの方達が市内の清掃等に駆り出されていたらしい。妹の中学校では、町内の被爆者の経験談をまとめた報告書を作っていた。それまで、被曝経験があったことを隠して生活していた町民が多くいたが、私が米国にいる間(5−6年)に、社会の受け入れ方が変わったように見えた。そして、その10年後、家族とそろって日本へ移住した頃には、父の姉も、実は、原爆投下後の後片付けに駆り出されていたので、被爆者手帳を持っていた。父の中学の同級生の中にも、そういう人たちは多くいた。父は、原爆投下後の市内へは長い間経ちっていなかったが、最寄りの国鉄の駅で、顔の皮膚が溶けてしまった被爆者を目撃したことがあると、その頃、初めて話しだした。これは、原爆投下、30ー40年後くらいの話だ。人々は、その頃ようやく、話し始めることができたのだろう。


そして、福岡県で働き始めて、原爆投下の日に、よその県では夏休みに登校しなと聞いて驚いた。長崎出身の学生は9日が登校日だったらしい。これが広島県だけで行われていたと知った時は、少し、我々広島県民だけ(長崎県民は我々の同胞だったが)が浮いていたように思えた。


あの女子高校生の言ったことは、今でも忘れてはいないが、米国では、被爆者の子供達に遺伝的な影響は出ていないという統計結果は出ていた。私達の世代は、ああいう偏見を気にしない者はいくらでもいたと思うので、彼女は結婚していただろうと思っている。

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