第19話 猛烈な母の話。

もうここで何度か書いたのだが、息子がやらかすと、私の弟が必ずと言っていいほど、「誰の子?」と言い出す。こちらは、シンパシー(同情?)を期待して、息子の話をしているのに、全く、私への同情感はない。


息子が幼い頃、4歳前の息子に会うために米国へやってきた父に、その前の週に、息子がしでかしたことについて(かなり年上の女子の指を噛んで泣かせてしまったので、妻が謝りに行ったこと)、私が苦情を言っていたら、「お前が小さい頃は、お前の母親は、近所を謝って回っていた(ここで近所と言っても歩いて行けるような距離ではなく、原付に乗って行っていた)。今度はお前の番だ!」と全く同情してくれなかったのを覚えている。同じ親同士で、少しは同感してくれるかと思っていたのに、その時は、これはかなりショックだった。息子が自分の子供(私の孫)の悪さについて文句を言い出したら、私も父と同じようなことを言いってしまいそうだが。


私の母はかなりせっかちであるという話は何度か書いたが、母が、免許を取ったら、ちょっとすごいことになってしまった話を書きたい。母は私が幼い頃から、原付の免許を持っており、ホンダのカブを乗り回していた。私が熱があっても、学校まで、カブの2代に括り付けられて、送り届けられた。例え、保健室で体温を測られて、昼前に、私を迎えに来るように呼び出されることがわかっていても、私は校庭に放り出された。おかげで、小中は休んだことがない。その頃、私の町の学校には皆勤賞はなかったので、賞状はもらっていない。風疹は春休みの間になってしまった。


私が小学校高学年になった頃、母が車の免許を取った。最初の車は、トヨタのスプリンターの中古だった。免許取りたての頃は、母も初心者でそれほど飛ばすことはなかった。しかし、2年後、母はロータリーエンジンで5速のマツダサバンナを買ってしまった。一応4ドアのセダンだったが、この頃の車は、時速80kmで、警報としてチャイムが鳴り出すようになっていた。時100km速を超えると、チャイムの音が変わり、時120kmでは、チャイム音から警報のベルの音になった。私が遅刻しないように時々送ってくれたが、私の住んでいたところは、あまり家もなく交通量も少ないとこだったのを良いことに(息子が無免許で原付の練習をしても良いと言った場所でもあった)、母は制限時速60kmの道路を平気で警報を鳴らして走っていた。良く大きな坂を時速120km超で降って行っていた。私が、バイクに乗り出してからでも、その道でそんなにスピードを出したことはなかった。


ある時、警察のスピード取り締まりに捕まってしまい、二人の若い警官に説教をされたらしい。切符よりも警告にしてもらおうと、自分よりも少し警官の説教を大人しくしく聞いていた。しかし、その二人の若い方が、「奥さんのような女性は、5速のミッションではなくて、オートマにした方が良い、、、」と言ったの聞いて、母が、かちーんときてしまい、「余計なお世話じゃ!」と言う感じの言葉を返してしまった。そして、母は25km超の切符を切られてしまった。免停にはならなかったが、後で、父に、黙って聞いておけば、切符は切られずに済んだのにと、ネチネチ言われていた。これを見ていた私は、母の「男らしさ」に共感した。父の態度には軽蔑的な思いがあった。運動抜群の脳筋だった母らしい出来事だと思った。もし母が、戦前の田舎生まれでなかったら、きっと、何かのスポーツで、奨学金がもらえるくらいの体育系の選手になっていたと思う。しかし、学校の成績は良くなく、五人姉妹弟の間で、ただ一人、高校を卒業後、花嫁修業をしろと父に言われたらしい。その悔しさは、幼い私を厳しく教育する方針に変わっていった。私の性格からして、幼い頃の母のスパルタ教育がなかったら、ただの体のでかい、田舎のジャイアンとして育っていたかもしれない(小学校の先生達が危惧してくれていた様に、もっとひどい事になっていたかもしれない)。


母と交通違反の話をもう一つ。私が中学生になって、夏休み前の三者面談の時の話である。その頃、中学生の男子の多くはバイクに憧れていた。もちろん、高校生になるまで免許は取れない。しかし、何人かの男子は、三者面談で、担任から無免許運転を指摘されていた。私の出席番号は後の方なので、面談から出てきた同級生が担任から叱られたと言っていた。これは私もやばいと思ってしまった。彼らの母親は、もう2度とさせないと、担任にしきりに誤ったと聞いた。私の番になって、担任が私の母親に、私が無免許でバイクに乗っていたのが目撃されていると告げた。すると、私の母は、男の子はいずれバイクの乗り方を習わなくてはならないので、我が家の周りは交通量も少ないので、練習するのは問題はないと返した。それを聞いた担任は口が空いたままになってしまった。担任は、この時「この親にして、この息子あり!」と思っただろう。


何年か後、卒業式後のPTAの先生達へのお礼の会で、親達が順番に担任にビールを注いで、お礼を言う列で、もう大分酔っていた担任に、母も挨拶に行った。ビールを注ぎながら、「〇〇(私の名前)が大変お世話になりました。」と言ったら、酔っていた担任は思わず、「〇〇(私の名前)は、いけん(広島弁で良くない)!〇〇は、いけん!」と何度か繰り返したそうだ。母は、「すみませんでした、、、」とか適当な言葉で頭を下げて、謝ってきたそうだ。この3年生の時の担任は、1年生でも担任で、無免許運転の件でもお世話になった先生だった。その後、家に帰ってきた母に「中学校で、今まで何をしょうった?」と怒鳴られた。ちなみに、同じ年に小学校を卒業した弟の担任は、お褒めの言葉しかなかったらしい。


幼い頃には、私を橋の下で拾って来たという話を信じかけていた私ではあるが、私は母の子である。

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