第3話 掛けた本人
蓮が祐樹と付き合い始めてからデートにこぎつけるまで、少し時間が掛かった。祐樹の方はオープンな付き合いを望んだが、蓮の方で少しオープンには躊躇があったからだ。
蓮の気持ちを分かっているのか、付き合い始めてから、祐樹の方からデートに誘うことはなかった。最初に一度だけ、
「今週の日曜日、どこかに行こうか?」
と、軽い気持ちで誘ったデートのつもりだった祐樹だったが、
「ああ、今度の日曜日ね。友達と約束があるの」
と、簡単にあしらわれてしまったことで、祐樹に対して、
――おや?
という疑心を抱かせた。
こういうことには聡いタイプの祐樹なので、蓮に対しては簡単にデートに誘えないものだと思うようになった。
その気持ちの奥にあるものが、
「私はあなたのようにはオープンになれない」
という思いだということに祐樹は気付いた。
誘わないことが蓮に気を遣っていることだと思うと、少し寂しい複雑な気持ちになったが、とりあえずは祐樹もそれでいいと思った。
しかし、付き合うということに対して躊躇も迷いもなかったはずの蓮なのに、付き合い始めてから急に躊躇するようになるというのもおかしなものだと祐樹は感じていた。
――僕の知っている蓮ちゃんとは違うような気がするな――
と祐樹は感じた。
祐樹は、どちらかというとネガティブ志向の方だった。蓮のように細かいことをあまり気にしない性格ではないので、却って彼女のように天真爛漫な性格に憧れているのだった。
細かいことを気にするのは祐樹の長所だと自分では思っていた。
「石橋を叩いて渡る」
ということわざがあるが、それを信条だと思っているくらいだった。
元々この性格は父親から受け継いだものだと思っている。子供の頃には自由に遊ばせてくれなかったことで不満もあったが、中学生になった頃から、そんな父親の気持ちが分かる気がしてきた。それはきっと自分が元々から堅実な性格であり、遺伝によるものだと感じたからだ。
「こんな遺伝、くそ喰らえだ」
と思うこともできたが、祐樹にはその思いを抱くことはできなかった。
祐樹は自分の運命から逃れられないという思いを中学に入った頃から抱くようになった。諦めの境地と言ってしまえばそれまでなのだが、諦めの境地というよりも、運命を受け入れるという言い方にすれば、自分を納得させられると思うようになった。
「物は言いよう」
とはよく言ったもので、簡単に受け入れることのできないことでも、考え方でどうにでもなるという理屈は頭の中で理解できるようになった。
しかし、実際の感覚とは差異があるのも仕方のないことで、それをいかに克服するかということを考えた時、
「僕のまわりに天真爛漫な人を置いておけば、僕も次第にその人の影響を受けて、ポジティブな考えができるようになるんじゃないか」
と思うようになった。
しかしなかなか天真爛漫な人というのは見つかるものではなかった。元々友達も多い方ではない祐樹は、
――自分のまわりに寄ってくる人というのは、しょせん似たような考え方の人だけなんだ――
と思うようになった。
その考えは間違いではなく、確かに似たような考えの人が寄ってくるからこそ、会話も弾むのだし、逆に違う考えの人との会話では、絶えずぎこちなくなり、気を遣わなければ会話が進まなくなるため、下手な会話でその場を持たせようとしてしまう。そんな状態が長く続くはずもなく、友達としてありなのかという疑問を感じると、やはり友達というのは似た者同士でないと成立しないものなのだと考えさせられてしまうのだった。
祐樹は、その頃まで異性を意識したことなどなかった。
――女の子は別の人種なんだ――
とまで思っていて、友達として見ることはできないと感じていた。
父親の頑固なところを見てきて育ったので、女の子に対しては軟弱なイメージしかなく、昔の男尊女卑に近い考えを抱いていたのかも知れない。
――学校では、男の子も女の子も平等だって習ったけど、信じていいんだろうか?
という思いすら感じたほどで、確かに女の子の態度を見ていると、家で母親が父親に対するような服従は感じられない。
むしろ男性の方が女性に気を遣っているという雰囲気だった。
――男子も女子も、そのことをどう思っているんだろう?
アンケートを取るわけにはいかないし、学校では男女平等を教えているので、生徒の方から男女平等の正否を問うようなマネはできるわけもなかった。
そんな時、祐樹が初めて興味を持った女の子が睦月だった。
睦月は、男子に対してまったく興味を持っておらず、いつもしかとしているようにさえ見受けられた。
当然、男の子からは評判も悪く、一緒にいる蓮にも同じような思いを抱いていたのだ。
祐樹がどうして睦月に興味を持ったのかというと、
――彼女には頑固なところがある――
というものだった。
自分と同じような頑固さがある女性というのを、祐樹は今までに見たことがなかった。
特に自分の母親などは父親に従順で、決して逆らうことのない、
――プライドをどこかに捨ててきたんじゃないか――
と思うような人で、
――何を楽しみに生きているんだろう?
とまで思わせる人だった。
だが、母親は決して辛そうな表情をしない。実際には辛かったのだろうが、そう思わせなかったのはきっと寂しそうな表情をしなかったからに違いない。
そう思ったことも、祐樹が女の子に興味を示さなかった理由の一つだ。
――僕のような性格の女の子がいるはずもない。ましてや父親ほどの頑固な人は、男を含めても、そうそういるものではない――
と思っていた。
そんな時に見つけたのが睦月だった。
見つけたと言っても、最初のきっかけは本当に偶然だった。
目の前で睦月は蓮にいろいろと指示をしていた。
――人から言われなければ、何もできない女の子なんだ――
と蓮の方を最初に感じたのだが、蓮の顔を見ていて、決して嫌な顔をしているわけではないことに気付いた時、
――おや?
と感じた。
――どうしてそんなに命令されているのに、ヘラヘラできるんだ?
と思って、今度は睦月の方を見ると、これまた一生懸命に諭しているのが分かった。
それは叱りつけているわけではなく、諭しているのだ。これだと相手も嫌な顔にならない理由も分かる気がする。
――彼女は僕と同じで頑固なんだ――
と思って見ていたが、次第に少し違っているのに気が付いた。
そのうちに、
――彼女は頑固なのではなく、強情なんだわ――
と感じた。
「強情と頑固のどこが違うのかを説明しろ」
と言われると難しいだろう。
しかし、祐樹は睦月の考え方を受け入れることができないと思っていた。そしてその思いがうまく口では説明できないが、睦月のことを正面から見つめることができなくなっていた理由ではないかと思うようになっていた。
祐樹の目は、次第に睦月といつも一緒にいる蓮の方に移っていった。それまで蓮のことをほとんど気にしていなかった自分に対して、
――どうして気にならなかったのだろう?
と思わせた。
――もし僕が蓮ちゃんの立場だったら、どんな気持ちになるだろう?
きっと、すぐに顔が真っ赤に紅潮し、自分に対して引け目を感じさせる何かが存在していることを意識させるに違いない。
蓮は祐樹に見つめられているという意識は持っていないようだった。睦月も祐樹に見つめられているという意識は持っていなかったようだが、同じ持っていない感覚とはいえ、お互いにそのイメージは違っていた。何がどう違うのかすぐには分からなかったが、
――蓮ちゃんの目には、僕が僕らしく映っていなかったんだろうな――
と感じさせた。
そう感じるようになると自分の興味は、
――睦月に対してというよりもむしろ蓮の方にあるのかも知れない――
と思うようになっていた。
いつからそう感じるようになったのか分からないが、やはり蓮が自分をどのように見ているのかが気になった時からだったような気がする。
蓮に告白をしたあの時、祐樹には自信があった気がした。別に根拠があったわけではない。元々根拠がなければ自信など持つことができない性格だと思っていた自分には信じられないことだった。
頑固なところがある人間は、その頑固さに根拠という後ろ盾がなければ成立しないと思っていた。今回、根拠もないのに自信を持ったということは、知らず知らずのうちに根拠のようなものを感じていたからなのかも知れない。
祐樹は中学に入ってから時々、
――僕には予知能力のようなものがあるんじゃないか?
と感じるようになっていた。
睦月を意識し始めた時も、
――僕によく似た人と巡り合えるような気がする――
と感じていた。
しかもその時、ときめきのようなものを感じたことで、まさかとは思ったが、それが異性かも知れないと感じていた。
祐樹はそれまで女の子を好きになったことがなかった。意識したことがなかったと言った方がいいかも知れない。しかし、小学三年生の頃だっただろうか、今から思えば意識した女の子がいたような気がした。
その子は大人しい子で、いつも端っこの方にいるので、まわりから誰にも意識されることのない存在だった。だが、祐樹にはその子の存在が気になり始めると、どうにもおさまりがつかなくなってくるのを感じていた。
――何がそんなに気になるんだろう?
そう思っていた。
だが、彼女と気が付けば目が合っていた。目を背けても、彼女がこっちを見ている気がして、目だけを元に戻して、おそるおそる見てしまう自分がいた。
睦月を見ていて気になったのが、
「遠くを見る目」
だった。
黄昏ているように見えて、彼女は自分を通り越して、さらに向こうを見ている。その雰囲気から目が離せなくなってしまった。
きっと睦月も祐樹を見て、自分と同じものを感じたに違いない。だが、彼女の見ていたものは実は祐樹ではなく、さらに向こうにある何かだったのだ。そのことを意識していながら睦月の視線が自分に向けられていると思ったのは、予知能力を信じたかったからだったのだ。
だが、どちらの視線が正しかったのかと言えば、睦月の方だったのだろう。そのことに気付いた祐樹は、もう睦月を見ることができなくなっていた。その代わりに意識の中で急上昇してきたのが、いつも睦月のそばにいる蓮だった。
蓮は自分とはまったく違う女の子で、祐樹のことも眼中になかったに違いない。ただ、二人が同じだというのは、二人とも異性に対して免疫がなく、意識したことはあっても、そこから進展することはないと思っていたのだった。
特に蓮の場合は、まだ思春期というには早すぎるくらいで、精神的にはまだ子供だった。それだけに未知数のところがあり、見えないところに祐樹は興味を持ったのだろう。
祐樹にとって蓮は初めて好きになった女の子であり、蓮にとっても初めて好きになった男の子であった。純情恋愛を絵に描いたような二人は、危なっかしくもあったが、まわりからは意識されないほど純だったに違いない。
他に祐樹のことを、そして蓮のことを好きだった異性がいなかったことも二人には幸いだった。他に思っている人がいれば、そこから生まれる嫉妬によって、二人の関係は自分たちの望んでいる方向に、まともに進むことはなかっただろう。
また、祐樹が告白したタイミングも絶妙だった。
蓮が自分の成績で悩んでいて、これまでの自分を否定しそうになっていた頃、祐樹が告白してくれたことは蓮にとって、大いに救いになった。
「付き合うとすれば、あなたなんだって私は思っていた」
という蓮のセリフはその時の口から出まかせであった。
だが、少し経ってから思い返してみると、
――あの時のあの言葉、まんざらウソではなかったような気がするわ――
と感じた。
「ウソから出たマコト」
という言葉があるがまさしくその通りで、言葉に根拠がなかったはずなのに、思い返してみると、あの時、本当にそう感じたから口に出た言葉だったのだ。
そうでなければ、あんな言葉が口から出てくるはずもない。後から思い返してみると、
――あれは本当のことだったんだ――
という思いを感じたことが今までにもあったような気がする。
その時蓮が感じたのは、
「デジャブ」
という言葉だった。
デジャブというのは、初めて見たにも関わらず、
「以前にもどこかで」
と感じることだった。
デジャブがどうして起きるかというのは、まだ正確には解明されていないということであるが、
「過去に見たことや経験した似たようなことで自分の中のモヤモヤの辻褄を合わせるために感じることである」
という話を聞いたことがあった。
漠然とした話ではあるが、何となく分かるような気がした。それが予知能力とどう違うのかは分からなかったが、自分に予知能力はないという思いが蓮の中にある以上、デジャブが起きてもそれは必然だと思っていた。
そんな時、自分の身近に予知能力を感じている祐樹という男性が現れた。
彼は親友の睦月と友達だ。お互いに惹かれあっているのかも知れない。見ていてどこまでの関係なのか分からなかったが、自分が入りこむ余地はないと思っていた。
だが、二人の関係がどこかぎこちなく見えてきた。
睦月が彼を目の前にしている時、その視線は彼を通り越して、あらぬ方向を見ていることに気付いていた。
祐樹は正面からその意識を持っていたが、蓮は横から見ていてその意識を持っていたのだ。
気付いていないのは、当の本人である睦月だったのだが、そのことを祐樹も蓮も本人に伝えようとは思っていなかった。
祐樹が蓮に告白をしたのは、偶然であった。ただ、祐樹が告白をするとすれば、自分でも、
「あの時じゃなければ、ずっとできなかったかも知れないな」
自分から告白をしなくても、付き合うようになれたかも知れないが、その可能性は明らかに薄い。
それを思うと、祐樹が告白できたのは本当に偶然なのか、自分でもよく分かっていなかった。
しかも後から思うと、蓮が言った、
「あなたしかいない」
というあの言葉、最初から予感していたような気がした。
いや、
――あの言葉を返してくれる蓮だと思ったから、好きになったんだ――
と感じた。
祐樹という男の子は、自分が思い描いたシナリオを忠実に自分の人生として歩んでいるように思えた。逆に言えば、忠実にシナリオ通りに人生を歩めなくなると、どうなるか分からないと言えなくもなかった。
二人はそれぞれにお互い、細い吊り橋の上を、横風に煽られながら歩み寄っているかのように思えた。しかも、同じ時間でなければ会うことのできない細い吊り橋の上である。横風に揺られながら進んでいくのを冷静な目で見ているのは睦月であろうか。彼女が遠くを見ていたというのは、二人が出会うであろう吊り橋だったのかも知れない。
予知能力を本当に持っているかどうかは別にして、予知能力を意識している祐樹、そして予知能力はないと自分で断言はできるが、デジャブを意識することで、予知できる何かを感じることができると思っている蓮。
この二人が知り合ったのは、偶然かも知れないが、その間にアシストとして睦月という女性の存在が大きかったことは間違いないだろう。
二人が知り合う中で睦月がどのような影響を及ぼしたのかということを、蓮も祐樹もそれぞれに考えていたが、その考えはそれぞれで違っていた。
何しろ、肩や好きになった異性として意識した相手であるし、肩や親友としてずっと一緒にいた相手である。
二人の初めてのデートは中学生としては定番と言ってもいい遊園地だった。蓮は彼氏ができれば最初のデートは遊園地と決めていたのは、今まで家族と遊園地に出かけても楽しいと思ったことがなかったからだ。
蓮は家族に対して、あまりいい印象を持っていなかった。自分を育てるのはまるで、
「子供ができたから仕方がないので親としての責任を果たすだけ」
と思っていたからだ。
「親の心子知らず」
とはよく言ったものだが、蓮にしてみればその逆で、
「この心、親知らず」
だと思っていたのだ。
もちろん、それは自分が親になってみないと分からないことなのかも知れないが、蓮は親が自分に対して引け目を感じているのが何となく分かっていた。
その引け目がどこから来ているのか分からなかったが、引け目を感じているくせに高圧的な態度に出る親を、
――よく分からない人種だ――
と思っていたのだった。
蓮は一人っ子で、家には両親と一緒に祖母がいた。
祖父は蓮がまだ小さかった頃に亡くなったと聞いていて、貌もよく覚えていないほど、小さかった。
「おじいちゃんの記憶って私にはないのよ」
と睦月には話したことはあったが、自分の家族のことを話したのは睦月にだけで、あまり家庭のことを他人に話すのは好きではなかった。
他の家族のことを知りたいという思いはあった。しかし、
「知ってどうするって言うんだ?」
という思いも強く、下手に触れない方が自分にとって無難だと蓮は思っていた。
祖父が早く死んだことで、まだ老人というには早かった祖母が一気に衰えたという話はよく両親が話をしているので分かっていた。
その話というのは、思い出したくもないことで、その話をする時の両親は、決まって喧嘩をしていたからだ。
喧嘩の理由はその時々によって違っていた。
しかし、喧嘩の原因が何であれ、行きつく先は祖母の話題だった。
「どうして私があなたのお母さんの面倒を見なければいけないの?」
と母が父に食ってかかる。
「そりゃそうだろう。お父さんお母さんはこれまで俺たち家族に対していろいろしてくれたじゃないか。ここで恩返ししないでどうするんだ」
と父は少し困ったように言う。
「だってあなたは長男じゃないのよ。お母さんの面倒を見るというのならお兄さんのところが筋っていうものじゃないの?」
「それも分かっているけど、あっちには受験生の子供がいるんだ。気を遣わないといけない時期なんだから、しょうがないだろう」
と至極当然の話を両親は繰り広げていたが、それはお互いに言い訳でしかないことを蓮は知っていた。
しかも両親もそのことは分かっているのだろう。何度もこの話題になっては、喧嘩の幕引きになっていた。それを思い出すと急にトーンダウンして喧嘩は終息に向かう。この話題が出れば喧嘩が終息するということを分かっている蓮は複雑な思いを抱くのであった。
そんな家族なので、家族の間での優先順位はまず祖母になる。そして祖母の次の優先順位というと蓮になるのだ。
この優先順位は同じ家族環境の家庭であれば、どこも同じなのだろうと蓮は分かっていた。しかし、他の家庭も同じようにいさかいが絶えない家庭なのかどうかよく分からなかったが、全部が全部いさかいばかりを起こしている家庭ではないだろう。そう思うと、他の家庭のことを知りたいという思いもなくはなかった。
蓮はこんな時いつも、
――自己催眠を掛けることができればな――
と思っていた。
自己暗示と言ってもいいだろう。だが、暗示だけではすぐに覚めてしまうだろう。催眠であればなかなか覚めないものだという意識が強く、催眠術に興味がないと思っていた蓮は、いつかショッピングセンターで見た道化師のことを思い出すのだった。
――あの道化師だったら、私に催眠を掛けることくらいは簡単なことなんでしょうね――
と想像していると、あの時の道化師の顔がよみがえってきた。
蓮は人の顔を覚えるのが致命的に苦手だった。
一度しか会ったことのない人であれば、確実に次は覚えていない。極端に言えば一時間も経てばもう一度同じ人を見ても、その人がさっき会った人だという自信がないのだ。
それなのに、今回思い出した道化師の顔は覚えている。そもそも道化師なのだから、皆同じ顔に見えるものなのだろうが、同じ顔の化粧を施していても、間違えることはないと思うほどの自信であった。
もちろん、根拠のない自信である。本当に会えば急に自信がなくなるかも知れない。そう思っていたのだが、やはり最後は自信が戻っていた。
――一度失った自信を取り戻すということはできないことだ――
と蓮は感じていた。
自信というのは自分にとっての存在意義のようなものだと言う人がいたが、自分に自信のない人はその存在意義をどこに見出せばいいのかと考えたりしていた。
――しょせん、自信家の人が自分に自信のない部分を認めたくないという理由で自分に言い聞かせるつもりで語っているだけなんだわ――
と蓮は思うようになっていた。
そんな蓮は遊園地に来てから、
――あの道化師に会えるかも知れない――
という、これも根拠のない思いを抱いた。
確かに遊園地というと大道芸人や、奇術師がいるイメージだが、もしそこに奇術師がいたとしても、その時の道化師だとは限らないだろう。蓮が初デートの場所を遊園地に決めていたのは、中学生のデートの定番としての遊園地というよりも、
――あの時の道化師に会えるかも知れない――
という思いが強かったからに他ならない。
だが、それに気付いたのはデート当日に遊園地の改札ゲートをくぐったその時であり、その瞬間から、それまでいた世界とは隔絶された世界に入りこんだような気がしたのだ。
その思いはショッピングセンターで見かけた道化師に感じた思いとほぼ同じであった。あの時の道化師が蓮に与えた衝撃がどれほどのものだったのかは、本人である蓮にしか分からないが、もしもう一人知っている人がいるとすれば、それはその時にいた道化師その人であると、かなりの確率で思いこんでいたのだ。
その日の遊園地はそれほど人がいるわけではなかった。
その日、ちょうど中学校の創立記念日で平日ではあったが、自分たちの中学校だけが休みだった。その日を利用してやってきたのだが、想像していたよりもかなり人が少なかった。
「こんなに少ないとは思わなかったね」
と祐樹は言ったが、
「いいじゃない。遊びたい放題よ」
と、いつもの天真爛漫な笑顔で蓮は答えた。
この遊園地は、両親と一緒に来た遊園地だった。その時は、
――親が勝手に連れてきた――
と思っていた。
いつも祖母のことで蓮に気を遣わせていると思った親が、蓮に気を遣って連れてきてくれているのは分かっていた。その上で、
――一度あまり楽しくないのに気を遣うことはない――
という思いを込めて、
「別に遊園地に行かなくてもいいよ」
というと、癪に障ったのか、父親が、
「何を言うんだ。お前のために行くんじゃないか」
と言葉的にはきつくはなかったが、声に出して言われると、ヒステリックになっているのは一目瞭然だった。
それを聞いた時、衝撃を受けた蓮は、
――もう両親に逆らうことができなくなった――
と感じた。
それは何を言っても無駄という意識で、親が気を遣っているのを見るのが苦痛になるくらい蓮にはトラウマになってしまった。いくら両親が気を遣おうとも、二度と両親と一緒にいて楽しいなどと思うことがないということに蓮は気付いたのだ。
そんな遊園地を違う人と、しかも好きな人と一緒に来れるというのは新鮮な気がするとも思った。確かに改札ゲートを超えた瞬間、目の前に広がっている入り口前の広場が、
――こんなに広かっただなんて――
と思わせたのだ。
――やはり両親と一緒でなければそれでいいんだ――
と、祐樹のことは二の次に思ってしまったが、それも仕方のないことであった。
遊園地には、開場時間の最初から出かけた。開場時間は午前十時なので待ちあわせは少し早かったとも思ったが、お互いに気分が高ぶっていたのか、待ちあわせの十五分前には二人とも来ていたくらいだった。
開場してから昼くらいまでは、一通りのアトラクションを楽しんだ。さすが平日、朝の早い時間では客よりもスタッフの方が多いのではないかと思うほど、ガラガラに空いていた。
広い園内で好きなだけ何でもできるように思うのは楽しかった。これを開放感というのだろうが、蓮はこんな開放感を感じたのは久しぶりな気がした。
時間もいつもに比べると進むのがゆっくりな気がした。午前中いっぱい、アトラクションを楽しめると思っていたが、数か所のアトラクションを楽しんだにも関わらず、まだ十一時にもなっていなかった。
「時間が経つのがこんなにゆっくりだったなんて」
と呟くように言った祐樹を横目に見ながら、
「その通りね」
と、二人で同じことを考えたことに蓮は感動を覚えた。
「二人きりになれればどこでもいいと思っていただけだったけど、遊園地を選んだのは正解だったかも知れないね」
という祐樹の言葉に、ますますもっともだと思った蓮は、
「うん」
と言って頷いた。
時間が経つのがこんなに遅いと感じたことは今までにも何度もあったことだが、そのほとんどは嫌なことがあった時に感じたことであり、こんなに落ち着いた気分で楽しいと思っている時に感じられるものだと初めて知った。
――時間というのは、私が感じている思いと反対の意志を示すものなんだわ――
と思っていた時間に、初めて裏切られた気がした。
しかもその裏切りは蓮にとってありがたいことであり、
――裏切りって、悪いことだけではないのね――
と改めて思い知った気がしたのだ。
ここで言う、
――改めて――
というのは、以前にも同じような感覚に陥ったことがあったが、それがいつのことでどういう内容だったのか分からないが、そう感じたのだ。
――感情にデジャブがあるとすれば、まさしくこのことを言うのではないか――
と、蓮は感じた。
「今日、私お弁当作ってきたのよ」
と、蓮は祐樹に斬り出した。
「ありがとう、それは嬉しいよ」
と素直に喜んでくれ、蓮の方を向き返ると、
「そういえば、今日は少し大荷物だと思っていたんだよ」
と、蓮を見て、嬉しそうに微笑んだ。
――やっぱりこの人は勘が鋭いんだわ。きっと最初から分かっていたのかも知れないわね――
と感じた。
お昼ごはんには少し早いかと思ったが、待ちあわせが早かっただけに、お互いにお腹が空いているのは分かっていたのだ。
園内には芝生になっているところが何か所かあり、そこで休日ともなると、多くの家族連れがここでお弁当を食べるという光景が繰り広げられるのだと思うと、二人きりはさすがに寂しいように思えたが、逆に普段の混雑を考えると、これだけの広い場所を二人で占有できるというのは、役得のようで嬉しかった。
季節は冬から春に向けての時期だったので、まだ午前中は寒さが感じられたので、午前中の間は寒いかも知れないと思ったが、二人が腰かけた時間からポカポカ陽気になり、睡魔を誘うほどの気持ちよさがあった。
「天気がよくって、よかったわね」
と蓮がいうと、
「まさにその通りだね。遊園地はこういういい天気でなくっちゃね」
と祐樹も素直に喜んでいた。
食事の時間は、さっきまでの時間の進み方とは反対で、食事が終わった時にはまだ午前中だと思っていたが、実際に時計を見てみると、すでに午後に入っていて、一時前くらいになっていた。
「ああ、もうこんな時間なのね」
と蓮がいうと、
「でも、元々昼食が終わる時間って、これくらいの時間を最初想像していただろうから、ちょうどいいんじゃないかな?」
と祐樹が言った。
蓮はそれに黙って頷いたが、
――この人は私が思っていることを口に出して言ってくれる人だわ――
と感じた。
その感覚は決して嫌なものではなく、むしろ自分のことを何も言わずに分かってくれる相手だということで嬉しいくらいだった。
「あれは何だろう?」
昼食を終えて、少し眠気が襲ってきたのを感じていた蓮は、祐樹の差し出す指の方を見ていると、そこには回転木馬のアトラクションがあって、その前にある広場が特設会場のようになっているところがあるのだが、そこに数人の子供が群がっていて、その後ろに母親が控えているのが見えた。
「さっきまでは誰ともすれ違うことはなかったのに、あんなにも人がいたのね」
と蓮は言ったが、祐樹はその話を聞いて、少し不思議そうな表情をした。
不思議そうというよりも、少し訝しそうな表情になっていたが、蓮はそんな祐樹の橋上を意識していなかった。
「行ってみようか?」
という祐樹の言葉に、
「うん」
と蓮は答えたが、最初遊園地に来たことを正解だと言った祐樹の言葉に対して答えた時の、
「うん」
という態度とは、今回は明らかに違っていた。
最初は、共感したような言い方だったが、今回は自分自身が興味を持ち、祐樹に言われたから答えたのではなく、自分から答えたのだ。それも幾分かの興奮を伴ってのことである。
その場所は、思ったよりも離れていた。
芝生の公園が思ったよりも広かったというのもあるが歩いていて、
――行っても行っても、辿り着かない感覚――
そんな風に思えた。
まるで田舎の一本道を歩いていて、目的地が見えているのに、まったく近づく気配のない雰囲気に思えた。今まで田舎の一本道など歩いた経験はないはずなのに、この懐かしい感覚は、まさしくデジャブではないかと思ったが、
――今日はどうして、こんなにデジャブのことを感じるのかしら?
という思いも同時に持ったのだった。
足が重たい感覚もあった。
確かに食後ということもあり、ポカポカ陽気で気持ちよくなった後に襲ってきた睡魔と戦っていて、足取りの重たさに結びついているというのも、無理もないことのように思えたが、それにしてもなかなか辿り着けないという感覚とは若干違っているようだ。
まるで砂漠の中で、蜃気楼を見ているようにも感じたが、この時蓮は、
――おや?
と思い、何かに閃いたようだった。
――蜃気楼というのをよく聞くけど、それは砂漠の「逃げ水」と同じよね? それって、砂漠という足が取られる感覚と、下からこみ上げてくる猛烈な暑さのために意識が朦朧としてくることで見せる錯覚なのかも知れない――
と感じた。
下半身が自分の身体であって、自分の身体でないような感覚を持ったことが、逃げ水という錯覚に結びついているとすれば、
「錯覚というのは得てして、人間の感覚が一番の要因なんじゃないか」
と言えるのではないかと、蓮は感じた。
実際にその言葉を誰かが言っているのを聞いたような気がした。テレビで見たような気がするのだが、どんな番組で誰が言ったのかまでは覚えていなかった。
――これも一種のデジャブ?
デジャブというのが意識している自信のない感覚の辻褄を合わせるためにあるものだと考えれば、少しは納得がいくような気が、蓮にはしていた。
ゆっくり歩くその先に見えているものは、本当に蓮が想像しているものなのか自信はなかったが、少なくとも逃げ水のように、何もないものが目の前に見えているという思いはなかった。ここは砂漠ではないのだ。
――あの時の道化師?
まさかとは思ったが、やはりあの時、ショッピングセンターで見かけた道化師だった。
実際、あんな格好の道化師が、時代錯誤であるかのように、これみよがしに何人もいるというのは考えにくい。そう思うと、自分の運命の方が何かに憑りつかれているようで、ゾッとしてくるのだった。
だが、その道化師を見てゾッとするというよりも、懐かしさにホッとするのはどうしてであろうか? まるで父親にでもあったかのような気分になると、道化師に吸い込まれていくように思えた。
その道化師は顔に施された化粧から、どこを向いているのか分からなかったが、一瞬目が合ったかと思うと、
「お嬢さん、こちらへ」
と言って、蓮を演台に招いた。
躊躇していた蓮だったが、その背中を押してくれたのが祐樹だった。祐樹は蓮の背中を押しながら、
「せっかくなんだから、上がれば」
と言ってくれた。
その笑顔は素直に優しさに溢れているように思え、ここで演台に上がらないのは、却って不自然だった。蓮は自然に足が前を向いて、演台に上がった。
その演台は思ったよりも高くて、座っている人を完全に見下ろしていた。子供と親の数は最初に感じていたよりも結構多くて緊張もしたが、
「大丈夫ですよ。心配いりません」
という道化師が耳元で囁くのを、遠くで聞いているかのように感じた。
まるで他人事のように感じられていく。道化師の顔を想像するなど、もうどうでもいいことのように思えてくると、すでに催眠術に掛かっているのか、素直な自分が表に出てきているようだった。
――ということは、今まで感じていた自分は、素直ではなかったということなのかしら――
と感じた。
その感情は自分が冷静になっていることの証明でもあったが、それよりも自分を他人のように思う感覚が異様に感じられた。
「こちらのステキなお嬢さんに拍手」
と言って、道化師は蓮を客席に紹介した。
客席からは拍手が巻き起こる。まばらで会ったが、変に大盛況というのもいやらしさがある。適度な拍手が蓮を緊張から解き放ってくれているかのようだった。
「今からお嬢さんに催眠術をおかけします。お嬢さんは気を楽にして、これから起こることを自分なりに想像してみるのもいいかも知れませんね」
と道化師がいうと、観客から笑いが起こった。
その笑いが何を意味しているのか蓮には分からなかったが、
「三、二、一……」
最後のゼロという言葉は聞こえなかった。
たった三秒足らずで蓮は完全に催眠に入ってしまったのだ。
蓮はその間、小学生の頃に見たテレビ漫画で、タイムマシンの光景を思い出していた。それは以前美術の時間に見せられた、確かダリという画家が描いた作品だったと思うが、歪んだ海中時計が宙に浮いていて、それがいくつもトンネルの中に存在していたのだ。
針が動いているわけではなかったが、それぞれの時計はすべて時刻が違っていた。
――よく覚えていたものだわ――
と感じたのは、またしても冷静な気分になったからであろう。
蓮は不可思議な現象に迷い込むと、定期的に冷静な自分が表に出てくるようである。そのことを自覚したのはこの時が最初ではなかったが、確信したのがこの時だったのだ。
あれから、どれくらいの時間が経ったのか、
「ゼロ」
という道化師の言葉が聞こえてきた。
それは最初に一と言った言葉の続きではなく、どうやら催眠から覚めるための秒読みだったようだ。
「こちらのステキなお嬢さんに拍手」
この言葉はさっき聞いた言葉だったが、あの時とは少し違っているように感じられた。
すべてが終わってからの言葉だと思ったからだが、まったく記憶のない中で、蓮は自分の状態がどうなっているのか、不思議に思えてきた。
――どうしちゃったのかしら?
まだ催眠術が続いているように思えてならなかった。
「お嬢さん、この催眠はあなたが掛けたものなんです。そしてこれを解くことができるのは、あなたしかいません」
と、道化師が耳元で囁いた。
それはまるでまたこれから催眠を掛けられるかのような感覚で、遠くから聞こえていて、他人事のようにしか思えなかった。
だが、これは本当のことであり、それを思い知らされたのは、次の瞬間、道化師の顔が自分の知っている人に変わったのを感じたからだ。
「睦月」
そこにいるのは、自分の親友だと思っている睦月だった。
――でもどうして?
夢であっても、想像するとしても、相手が睦月というのはあまりにも突飛すぎて信じられない心境だった。
「さあ、蓮。あなたはこれからあなたの中の催眠に入っていくのよ。これまでのあなたと違って、私を意識することはないの。私は絶えずあなたの中にいるんですからね」
と道化師の格好をした睦月が蓮にそう語り掛けた。
「私、催眠術に掛かっているの?」
「ええ、そうよ。あなたは催眠術に掛かっているの。自覚あるでしょう?」
と言われて、実際に自覚はあった。
その時思い出したのは、さっき夢心地で見た歪んだ時計のトンネルだったが、
「私、さっきタイムトンネルをイメージしたのよ」
というと、
「それはきっと間違っていないわよ」
「私はどっちに行ったの? 過去? 未来?」
「あなたは、今をいつだって思っているの?」
「今は昭和六十年、西暦で言えば、一九八五年よね?」
というと、
「ふふふ、本当にそうなのかしらね? あなたはおいくつなの?」
「えっ? 私は十五歳の中学三年生よね」
「そうかしら?」
「違う時代だっていうの?」
「ええ、そうよ。今は二○一○年、平成二十二年なのよ」
「平成って何? それに今は二十一世紀だっていうの?」
「ええ、その通り。そしてあなたの年齢は四十歳。普通に結婚して、普通の家庭に収まって、子供と三人で暮らしているの」
「え、えええ?」
蓮の頭は混乱していた。
「私は、結婚はおろか、まだ中学生で、初めて男の子とのデートの最中だったはずなのに、どういうことなの?」
「あなたは、以前、ショッピングセンターで道化師を見ているでしょう?」
「ええ、見たわ。あの時の道化師と、さっきの遊園地の道化師とが同じ人に見えて仕方がなかったんだけどね」
「その通り、あの道化師は同じ人なの」
「どうしてあなたがそれを知っているの? あなたがあの時の道化師だっていうの?」
「それは違うわ。でもあなたがいう昭和六十年という時代に、あんなに大きなショッピングセンターが存在していたと思う? 今あの時のショッピングセンターの様子を思い出すことができるの?」
「うっ……」
睦月にそう言われて、蓮は絶句してしまった。
確かに思い返してみれば、あんなに大きなショッピングセンター、まるで夢を見ているような感覚だったけど、でも、確かにあった。そのことを不思議に思うこともなく記憶に格納されているということは、一体何を意味するというのだろう?
「ね、ショッピングセンターの記憶がおぼろげなんでしょう? どうしておぼろげなのか自分でも分からない。それをあなたはデジャブで片づけようと思っている。確かにデジャブという言葉で片づけるのは簡単なこと。他の人は皆同じような感覚を持ったとして、それをデジャブで片づける。だから、誰にもこのことを言えなくなってしまうのよね。あなたはそのことを無意識に分かっているから、本当はデジャブで片づけたくないと思っているはず。それはどうしてかというと、あなたが催眠術に掛かっているからなのよ」
「どういうこと?」
「解くことのできない催眠術ね」
「どうして?」
「それは掛けた人間にしか解けない暗号のようなものがあるからなのよ。そして掛けたのはあなた自身、そのことをあなたもウスウス分かっているはずよね」
と、睦月は蓮に迫るように問いかけた。
――どうしてここで睦月が出てくるのかしら?
確かに睦月は数少ない友達の一人で、いや、親友と呼べる相手は睦月しかいないと思っている。だから睦月のことを想像してもそれは無理もないことだが、なぜこの場面なのかが不思議だった。
「蓮は、私を見ていてどう思っている?」
という睦月に対して、
「どうって、あなたを見ていると、私は癒されることもあるんだけど、でも時々イラッとくることもあるのよ」
と、蓮は正直に答えた。
蓮は答えた後に、ハッと思い、
――どうして、バカ正直に答えなければいけないの?
と相手の気持ちを無視して答えてしまった自分を恥かしく思い、後悔していた。
「そう、あなたは本当に正直な人。だけど、その正直さが時には人を傷つけるということを、あなたは知らない。そして知らないまま大人になっていくことに不安を感じてはいるんだけど、どうしようもない自分に憤りを感じて、苛立っているんじゃないかって思うのよ」
と睦月は答えた。
「どうしてあなたは、そんなに私のことが分かるの?」
と蓮は聞いたが、この気持ちの裏には、
――気持ちが分かったとしても、それを口にする権利があなたのどこにあるというのよ――
と、相手の図々しさに腹が立ってきた。
蓮は自分の心の中にズケズケと土足で入ってくる人を許せない性格だった。それがたとえ親友であっても、自分のことを思いやってのことであっても、
――余計なことよ――
と反発してしまう。
元々素直な性格だと思っていた蓮が、人に対して反発する気持ちを次第に抱いてくるようになったのは、ちょうどその頃からだった。
そして、そのタイミングで付き合うようになった相手が祐樹だった。
祐樹は蓮と付き合い始めて、普段は蓮を暖かい目で見ているようだったが、たまに冷酷に思えるほどの冷たい目を向けることがあった。それは相手に戒めを求めるような視線で、向けられた方は、普通であれば、その視線を感じた時、顔が真っ赤になるほどの屈辱を味わうことになるだろう。そしてその屈辱に対していかに自分の気持ちが無力であるかということを思い知ることになるのだが、蓮も同じだった。
なるべく祐樹に、そんな冷たい目をさせないようにするにはどうすればいいのかを考えることが多かったが、蓮が祐樹を嫌いになることがないのは、こんな気持ちは恋愛にはつきもので、
――誰もが通らなければいけない道なんだわ――
と思っていたからだった。
恋愛というものをハッキリと理解していないにも関わらず、この感覚が分かるというのは、初めての恋愛の中に、
――前にも似たような感情を抱いたことがあった気がする――
というデジャブに似た感覚があったからに違いない。
「蓮は祐樹君が好きなの?」
と睦月が言った。
「そうね。好きなのかも知れないわね」
「好きなのかもって、自信がないということ?」
と睦月は少し、ムッとしたような口調になった。
「ええ」
一気に蓮の声のトーンが下がっていたが、それは誰が見ても一目瞭然の態度だった。
そんなあからさまな態度に睦月は、
「本当にあなたは分かりやすい人。そんなあなたが親になるなんて……」
と睦月がボソッと小声で言ったが、
「えっ?」
蓮はそれを聞いて、驚いたようなリアクションだったが、あまり大げさではなかった。
聞こえていなかったものを、なりゆきとその場の雰囲気だけで驚いて見せたのかも知れない。
――これがこの人の悪いところなんだわ――
と睦月は感じた。
だが、まだ思春期に入ったばかりの女の子にそれ以上のことを求めるのは酷な気がしたが、睦月は言った。
「将来、後悔することになるわよ」
「どういうこと?」
「大人の世界の事情は子供には分からないってこと。ゆっくりでもいいから、少しでも未来をよくしたいという意識を持ってくれると、いいと思うんだけどな」
と睦月は言った。
ここまで話してくると、さすがに蓮も何かおかしな感覚になってきた。
「なんだか、睦月。あなたは未来のことが分かっているみたいね。それにさっき今を二十五年後の未来だって言ったけど、私には信じられないわ」
「それは仕方のないことよね。でも、本当に信じられない? 未来になればなるほど文明は開けていくのよ。そう考えれば二十五年先には今はないタイムマシンがあったとしても不思議ではないでしょう? いえ、タイムマシンではなくても、人間の奥に潜在している能力を引き出す機械が開発されて、その人の中にタイムスリップができる能力があったとすれば、未来人が過去の人に出会うということも十分可能なのではないかって思わない?」
睦月の言っていることにも一理あった。
実際に蓮も睦月の思っているような発想を感じたことがあった。最近よく感じるデジャブも、自分の中にある、いまだ理解できていない未知の能力によるものだって思えば、理解できないこともないような気がしていた。
「あなたはどうして私の前に現れたの? 私の親友の睦月とは違う人なの?」
「私はあなたの親友の睦月でもあるわよ。ただし、それはあなたの意識の中だけの存在のね」
「どういうことなの? まるであなたは私の記憶の中だけで生きている人みたいな言い方ね」
「そうよ、あなたの意識を操作したの。でもこれは科学の力によってではなくて、催眠によるものなのよ」
「あなたが掛けたの?」
「いいえ違うわ。あなたが潜在意識の中で感じたものが映像として現れたのよ」
「じゃあ、私の中にある睦月の記憶というのは、全部虚空のものだっていうこと?」
「そうじゃないわ。あなたには確かに親友と言える友達がいた。でも、それはあなたの描いた虚空の存在ではなく、本当にいたのよ。それをあなたは自分に催眠を掛けることによって徐々に私とかぶらせてしまった。もちろん、私という人間のイメージは抱いていたわけではないから、人から植え付けられた部分もあるんだけどね」
「その私にイメージを植え付けた人というのはあなたなの?」
「いいえ、違うわ」
「じゃあ、誰なの?」
「それはあなたが出会った道化師の人よ。あの人はあなたとは何の関係もない人だったんだけど、あなたに催眠術を掛けることであなたの潜在意識が目覚めた。その潜在意識の中には予知能力があり、あなたが将来持つ子供のイメージを自分で作り上げたのよ」
「え、じゃあ、あなたは私の?」
「そう、娘なのよ。あなた、いいえ、お母さんが私を生んだ時、どんなに喜んでくれたかということを私は知っているわ。私にはタイムスリップできる力があって、その力で私が生まれた時を見てきたからね」
「そんなに喜んでいたの?」
「ええ、でも女性が母親になる時って、誰もが同じような気持ちになるものだって、私は思うの。でも次第に子供や家庭が億劫になってしまう人もいる。自分が弱いからだって思っている人が多いようだけど、私は違うと思うの」
「どういうこと?」
「それは自分で自分を抹殺しようと思うからよ。自分に自信が持てなくなって、逃げに走ってしまう。自分で自分を抹殺する気持ちになるのが一番楽なのかも知れないわね。人と関わりを少しでもなくしてしまえば、余計なことを考えないで済む。その思いが現実逃避に繋がり、夢も希望も放棄してしまう。人間なんて自分を捨ててしまえば、生きていくだけなら何とでもなるんじゃないかしら? しかも、ちゃんと家庭もあって仕事もあれば、仮面を被って生きていくことさえ厭わなければ、本当に何とでもなるって誰もが思っているから、今のような世の中になったのよ」
「今と言っている世界がどんな世の中なのか分からないけど、私はそんなに変わっていないような気がするわ」
「どうして?」
「あなたを見ていれば分かるもの。睦月という女の子と親友だった意識と今のあなたはまったく違わないと思うからよ」
「……」
娘は言葉に詰まった。
「あなたがこの世界にやってきたということは、今の私に何かあって、あなたの時代にそれが及んでしまうことが分かっているので、何としても阻止しないといけないという思いなのかしら?」
「SF小説などでよくあるパターンのお話よね。でもそれは少し違っているわ」
「どういうこと?」
「お母さんは、これから自己催眠を掛けることで、催眠術に陥るの。でもその催眠術は自分でないと解けないものなんだけど、その催眠というのが、あなたたちの考えている催眠とは少し違っているのよ」
「お母さんの催眠術には段階というものがあって、同じ時間を繰り返しているように感じるようなの」
「それってSF小説で読んだことがあるけど、リピートと呼ばれるものなのかしら?」
「ええ、そうね。一度通ってきた時代にもう一度赴くという作用。それをリピートと言ってもいいわ。でもリピートには意識してのリピートと、意識しないでリピートする人がいるの。お母さんは意識してのリピートなのよ」
「じゃあ、未来を知っていながら過去に戻るということは、危険なことがあったら避けることができるし、逆にいいことを知っているわけだから、何とでも未来を変えられるというわけね」
「そう、でもそれはポジティブにモノを考えることができる人だけができること。お母さんにはそんなポジティブ性が自分にあると思って?」
言われてみると、自分にはできっこないと思った。
「でしょう? リピートを意識してできる人にポジティブな人はいないの。本当に世の中ってうまくできているわよね」
「じゃあ、私は本当にネガティブにしか考えることができないということなのかしら?」
「そういうことね。だからリピートができる能力というのは、お母さんにとっては悪いことでしかないの。このまま行けばお母さんは自己催眠を掛けてしまう。一度掛けてしまうと自分でしか解くことができない。解くことができるのはポジティブな考え方の人でしかない。つまりは負のスパイラルというわけなの。悪循環がお母さんの中で自分を苦しめることになり、それが影響して私が生まれることになるのよ」
「え? じゃああなたは生まれてはいけない人なの?」
「そうじゃないの。本当は私はお母さんの親友の睦月さんなんだけど、このままお母さんが負のスパイラルに乗っ取られてこのまま成長すると、私が生まれてしまう。私は生まれ変わることになるんだけど、そうなると、お母さんの親友である睦月はこの世から消えてしまうことになる。それは世の中の矛盾に繋がってしまうので、そうなると、私の存在が宙に浮いてしまうことになる。生まれては来るんだけど、また同じようにあなたの親友の睦月としての運命からは逃れられない。つまりは今度は私が負のスパイラルを背負うことになってしまうの」
「ということは、あなたの運命を私が握っているということ?」
「ええ、そう。でもね、同じような事例は私たちだけに限ったことではないの。人にはたくさんの運命があって、それによってたくさんの可能性がある。それも無限という可能性ね。お母さんは、最近道化師を気にしているでしょう? 他の人には道化師は見えていないのよ。だから道化師が気になり始めると、その人は負のスパイラルを背負っていることになる。だから今回は私が道化師を演じたの。お母さんに一番近い人で、運命を担っている相手だからね」
娘の言っていることが分かるようで分からなかった。
「じゃあ、祐樹君はどういうことになるの?」
「祐樹君というのは、お母さんの将来の旦那様。つまりは私のお父さんになるのよ。このことは運命に変わりはないの。お母さんの運命はほとんどが間違った方向に進んでいるわけじゃないんだけど、ちょっと踏み外すと、お母さん以外の人の運命が変わってしまう。本当は相手にそのことを意識させずに未来の人が先祖の運命を変えるのは普通なんだけど、私の場合はお母さんの目の前に現れなければいけなかった。それはお母さんが自分の掛けた催眠を自分でしか解くことができない人だからね」
「そうなんだ」
「じゃあ、私は一体どうすればいいの?」
と聞くと、
「お母さんは何もしなくてもいいのよ。そのうちに催眠から解けて、催眠を掛けたことすら忘れてしまうはずだからね」
「じゃあ、今こうやってお話していることも忘れてしまうということ?」
「そういうことになるわね。でも、ひょっとするとお母さんは催眠を自分で掛けて、それを解くことができない人なので、記憶は残るかも知れないとも思っているのよ。もし記憶が残っていればお母さんと会うことができる。その場合は親友の睦月としてね」
その声が最後まで聞こえたのかどうか、少し自信がなかったが、次第に意識が遠のいていくのを感じた。
目の前にはさっき見た道化師がいる。
「睦月……」
蓮は声がかすれてくるのを感じ、意識を完全に失ってしまった……。
「蓮、大丈夫?」
気絶していたのか、目が覚めると目の前に睦月がいる。
「ああ、大丈夫よ」
「もう、しっかりしてよ。お父さん呼んでくるからね」
と言われて、腰を上げると、そこに小走りでやってきた一人のおじさんがいた。
「お母さん、大丈夫かい?」
と言われて、
「えっ?」
と答えたが、自分を心配そうに覗き込むそのおじさんの顔が、祐樹だったのだ。
「今って、何年なの?」
と睦月に聞くと、
「今は二○一○年、平成二十二年よ」
と言われ、愕然とした。
「昭和六十年……」
と言いかけたが、平成二十二年で間違いないと思うようになった。
「お母さん、記憶が戻ったのね? よかったわ」
と睦月が言った。
すぐには何のことだか分からなかったが、
「お母さん、自己催眠から解けたのよ」
と睦月が耳元で囁いた。
「私たちは親友だからね」
と言って微笑んだ睦月を見ながら、
――やっと時代を繰り返すリピートが終わったんだ――
と蓮は感じた。
――「負のスパイラル」、そんなものくそっ喰らえだわ――
と、女の子にあるまじき言葉で、自分を鼓舞したのだった……。
( 完 )
負のスパイラル 森本 晃次 @kakku
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます