第2話 道化師
一度は勉強に挫折しかけた蓮だったが、寸でのところで何とか踏みとどまった。中学二年生の時、同じクラスになった吉木祐樹という男の子と仲良くなったことで、我に返ることができたのだ。
祐樹は自分が思っていることを口に出すのが苦手なタイプの男の子で、普通であれば、
「あんなに煮え切らない男の子なんて、好きになる女子がいるのかしら?」
と思われることであろう。
だが、だからと言って、優柔不断というわけではない。行動には徹頭徹尾したものがあるのだが、それが表に出てこないだけだった。そのことを見抜いている人が少ないことで、彼が勘違いされやすいタイプの男の子であるということになるだろう。
中学に入ってすぐの頃は、彼はそんな自分を卑下していた。人からどう見られているかということを絶えず気にしていて、先生からも、
「もう少し、まわりを気にしないといけない」
と言われていた。
彼がまわりを気にしすぎていることが、彼の煮え切らない性格を作り出しているのだから、本当であれば、
「そんなに肩肘張らなくても、気楽にしていればいい」
というアドバイスが一番いいはずなのに、先生は逆のことを言ってしまったので、却って彼は委縮してしまっていた。
煮え切らない性格に見えていた彼だったが、一度タガが外れると、話題の中心になれるだけの素質が彼にはあった。
元々本を読むのが好きなので、教養は持っていた。人がどんな話に興味を持つかということも分かっていて、腹を割って話をしてみれば、話題は彼の口からいくらでも出てくるというものだった。
彼をそんな風にしたのは、蓮の存在が大きかった。
祐樹が中学に入学してきて最初に気になった人が蓮だった。
入学当時はまだ気さくな性格で、天真爛漫さが表に出ていた。まわりの目を気にすることもなく、自分から人に歩み寄っていく。馴れ馴れしく見える人もいただろうが、気さくな性格で歩み寄ってきた相手を避けるようなマネをする人はいなかった。
蓮がまわりを避けるようになったのは、まわりが悪いわけではなく、自分の中に原因があった。それまで信じて疑わなかったものに疑問を感じるようになると、それが自分に要因があっても、まわりからの要因に見えてしまい、まわりに気を遣うくせがついていたのだ。
そのため、まわりは何とも思っていないのに、自分が白い目で見られているような、一種の被害妄想的な発想になっていた。
その頃から蓮は何事かに疑問を持つようになると、そこから先はネガティブにしか考えられなくなり、せっかくの天真爛漫な性格が鳴りを潜めてしまう。
唯一の長所と言ってもいい天真爛漫さが鳴りを潜めてしまうと、まわりは去っていく。蓮の存在は急速にまわりから影のように見えていても気にならない存在になってしまい、その他大勢の中の一人になり下がってしまっていた。
それは蓮にとって屈辱的なことだった。まるで自分の存在を否定されたような気がしていて、何も見えない時期がしばらく続いた。
だが、そんな時見えたのが祐樹だった。自分と同じ高さの人がそばにいると思ったその時の蓮の気持ちとしては、
「こんなに安心するものなんだ」
というものだった。
祐樹を見ていると、彼も自分の方を見ている。その視線に熱いものを感じると、その時初めて蓮は、
「恥かしい」
と感じたのだ。
まわりの冷たい視線に委縮していた気分とは違ったものだった。相手の視線を、
「痛い」
と感じていたが、祐樹の視線は痛さに加えて、熱さもあった。
その熱さは痛さに比例したものではなく、暖かさに近いものだった。安心感があったのは、その暖かさによるものなのだろう。
蓮も祐樹も、お互いに仲良くなることになるのだが、それにはそれぞれにきっかけが必要だった。
きっかけの種類は同じものなのだが、それぞれに感じるもので、相手との相互関係によるものではない。そのきっかけというのが、
「開き直り」
だったのだ。
どっちが先に開き直ったのかというと、祐樹が先だったようだ。
祐樹は結構早い段階で開き直ることができた。それは自分が蓮を意識し始めたのが彼女よりも先であるということを自覚したからだった。
蓮を見ていると祐樹には癒しを感じさせる何かを感じていた。それに祐樹は一人だったこともそのことに気付くことを誘発したのかも知れない。蓮の場合は一人だと思っていたが、絶えず近くには睦月がいて、蓮の気付かないことでも教えてくれたりしたものだ。
蓮が開き直ったのは睦月から祐樹の存在を指摘されたからだ。
「吉木君の視線。いつも蓮を向いているよね」
と言ってきた。
蓮にも分かっていたことであったが、自分に自信を失いかけていた蓮にとって、その視線を否定も肯定もできる自信はなかった。だが、他の人に言われると素直に聞いてしまう。相手が睦月だったからだというわけではない。もし他の人から指摘されたとしても、蓮には衝撃だったに違いない。
睦月は祐樹の存在を、
「指摘」
したのだ。
忠告したわけでも、茶化したわけでもない。そこにいる人の存在を肯定してみせた。否定も肯定もできない蓮には衝撃的だったと言ってもいい。
蓮は人から言われたことをすぐに鵜呑みにするタイプではなかった。きっと、すぐに疑って掛かる性格よりも前から、持って生まれた性格の一つだったのではないかと思っていた。
だから人から言われたことをほとんど信用しない性格だったので、今までにいろいろな意味で損をしてきたであろうし、これからも損をしていくのだろうと思っていた。蓮は自分の性格を分かっていたのだ。
分かっていてもどうしようもないことというのは得てして自分のこととなると、結構たくさんあるというものだ。
「自分のことだからこそどうにもならないというものだわ」
とも考えていて、それが時として自分の考えを袋小路に迷い込ませる原因となったりする。
では、二人のうち、どっちが先に相手を異性として感じ始めたのかというと、蓮の方だった。
「思春期の頃までは、男子よりも女子の方が大人に近い」
という話を聞いたことがあった。
要するに、
「ませている」
と言えるのだろうが、欲求に関しては、男子の方が内に籠める方なのかも知れない。
蓮は同じ年頃の男の子を気持ち悪いと思っていた。
顔にはニキビや吹出物が浮かんでいて、貌も真っ赤で、いかにも
「異性への興味をあからさまに見せている」
という雰囲気がありありだった。
だが、祐樹の顔にはニキビも吹出物もない。色も白くて、
「まるで女の子のようだわ」
と感じさせられた。
それも、性格から見えてくる雰囲気なのか、他の女の子よりも女の子らしいとでも言えばいいのか、一度見つめてしまうと、そこから目を放すのが難しくなるほど、集中してしまうのだった。
祐樹を見ていて、
「あんな男の子もいるのに、私が女の子だなんて恥かしいくらいだわ」
と思うほど、祐樹に対して感じた美しさは大したものだった。
蓮がそこまで感じるようになっていたにも関わらず、二人は会話をすることがなかった。それはきっと祐樹の第一印象で、蓮としては、
「あんなに煮え切らない人」
というのがあったことで会話をどうすればいいのか迷ったことと、祐樹の方では、
「自分にないものをすべて持っている人だ」
という憧れに近いものを感じたことで、眩しくて近寄れないというイメージがあったからに違いなかった。
蓮が祐樹のことを気になり始めてから、祐樹から告白を受けるまで、それほど時間が掛かったわけではなかった。蓮の中で、
「そろそろかも知れない」
という意識があったのも事実で、蓮の方としても、彼以外に付き合う男性を想像することができなかった。
ただ気になったのは、もし彼から告白を受けたとして、自分のどこを気に入ってくれているのかということだった。それほど自分に自信を持っているわけではない蓮は、他の男性を意識できないわけとして、
「私が男性からモテるわけはない」
という思いがあったからだ。
モテるにはそれなりに理由があるはずだが、自分がもし男だったとしたら、蓮という女子のどこを好きになるのかと考えた時、思いつくところがどこにもなかった。
蓮も男子のいいところを見つけることができなかった。だから、自分が男子を好きになるはずはないと思っているのであって、そんな蓮が初めて意識した相手が祐樹だった。
祐樹から、
「もしよかったら、僕とお付き合いしてくれませんか?」
というベタなセリフを聞いた時、ベタではあったが、蓮の気持ちはときめいた。
「ええ、いいですよ。私も誰かとお付き合いするとすれば、あなたしか考えられなかったのよ」
と、正直に答えた。
その答えに対して、祐樹は異常なほどビックリして、
「えっ、そうなんですか? それは嬉しいです」
感動してくれたのは嬉しかったが、喜び方が想像していたのと違ったのは、蓮にとっては意外だった。
付き合い始めてみると、思っていた以上に二人の相性はいいようだった。お互いに考えていることがうまくかみ合っているようで、会話が弾むのはそのせいだろうと思った。
付き合い始めてから変わったのは蓮の方だった。祐樹の方は以前までと変わったところはなかったが、蓮は見るからに変わっていた。その一番大きな傾向として、疑って掛かる性格が、人の話を鵜呑みにする性格に変わって行った。
最初は、大好きな祐樹だけに感じていることだと思ったが、次第に他の人の言っていることもどんどん妥当に思えてきて、疑うという気持ちが薄れてきていることに自分でも気付くようになっていった。
そのことを最初に看破したのは睦月だった。
睦月は蓮が祐樹と付き合い出したことを、最初から知っていたわけではない。蓮が自分から言ったわけではなかったからだ。
睦月は蓮のことなら大体のことは分かると以前からずっと思ってきたので、まさか祐樹と付き合っていることに気付いた時には、すでに少しの時間が経っていたということを知ると、本当に意外な気がした。
「どうして分からなかったんだろう?」
分かってしまうと、蓮の行動パターンが手に取るように分かってきて、つまりは、蓮のことを以前はもっと分かっていたはずなのに、いつの間にか分からなくなってしまっていて、それがまた元に戻ったことで、今は手に取るように分かってきたということを自覚するようになったのだろう。
「蓮がこれほど性格的にブレのある女性だったとは思ってもいなかった」
と睦月は感じたが、蓮のことをよく分かっていると思っていた自分を思いあがっていたとは思っていない。
確かに蓮のことをよく分かっていた時期が存在していたことは事実なのだ。それでも分からない時期があったということは、それだけ蓮の性格が神出鬼没のような性格であると言えるのではないだろうか。
睦月は、「五分前の女」の話を思い出した。
「蓮が二重人格だという意識は私にはまったくなかった。それなのに、ここまで性格にブレがあるのは、もう一人の自分がどこかに存在しているからなんじゃないだろうか?」
と感じた。
しかも蓮が祐樹と知り合ってからの性格というのを遡って思い出してみると、定期的にカーブを描いているようだった。そのカーブというのは、ある程度まで行くと、また戻ってくるというカーブであり、まるで心電図や、バイオリズムのカーブを見ているような感じだった。
蓮はその意識がなかった。睦月も必要以上に蓮にそのことを話す気はしていなかったし、
もし余計なことを言おうものなら、
「きっと怒りをあらわにするに違いない」
と思うようになっていた。
睦月が感じたのは、蓮が子供のようにわがままになっている姿を想像できたからだった。今までの蓮からは想像することすらできなかったわがままな性格。彼女の中にある一途なものは、何に対しても、ブレない強さだと思っていたのが、まるでウソのように感じられた。
「一体、蓮に何があったというのだろう?」
蓮が、勉強熱心で、中学受験までして自分の実力に挑戦したことは、睦月から見ていても尊敬できる蓮の一面だと思っていた。
しかも、蓮の中でブレない性格があったからこそ、中学で挫折を味わいながらも、堕ちるところまで落ちていかなかった理由だと思っていた。
だがそれはまわりから見ていてのことであって、蓮本人とすれば、
「落ちるところまで落ちてしまった」
と思っているようだった。
普通なら、
「これ以上、堕ちることはない」
というポジティブな考えになるか、
「落ちるところまで落ちたんだから、もう這い上がることはできない」
というネガティブを感じるかの違いだが、その違いの根拠は、開き直りにあるのだと睦月は思っていた。
蓮は開き直ることで、これ以上落ちることはないと感じているのだろう。ただ、そのために生みの苦しみを味わう必要があり、それが精神的なブレとして、表に出てきているのだと思っていた。
そんな蓮は、次第にブレがなくなってきたが、その行きついた先は、睦月にとって、
「まさか」
と感じるところであった。
それが、わがままな性格であり、睦月の想像をはるかに超えていた。
ただ、蓮のわがままさを感じたその時は、まだ蓮が祐樹と付き合っているという事実を知らなかった。後から思い返すと、知っていたように思えていたので、睦月の記憶も蓮に掛かると曖昧になってしまうようで、蓮という女子の隠れた力の一つに、
「相手の意識を曖昧にさせる」
というものがあるのかも知れない。
そのことを自覚してからの睦月は、その時の蓮が、
「まるで保護色を使っているかのようだ」
と思っていた。
保護色というと、動物が自分を狙っている自分よりも強い動物から自分の身を守るための方法であり、弱肉強食の世界の中で生き残る一つのすべであることを示していた。
それは本能であり、無意識の元にしか存在しえないものだと睦月は感じていたので、相手を曖昧にさせる感覚が蓮にはあると知った時、わがままな性格の蓮も、自分の中で無意識だったのかも知れないと思うようになっていた。
蓮が誰に対しても聞かせてくれた話を鵜呑みにするのは、わがままな性格を前面に出している時だけであったが、そんな時の蓮は、明らかに自分に自信のない素振りを見せていた。
それは、相手が男性であれば、相手に蓮という女性が従順であるということを自覚させるものであった。
中には悪気はないのだが、相手が鵜のみにしてはいけないようなことを口走る人もいた。ウソではないのだが、余計な気を遣わせてしまうような言い方をする人であったり、余計な心配を抱かせる人であったりしても、蓮は信じてしまうのだった。
それを蓮は他の人にも話したくて仕方のない時があった。それは我慢できないものに発展するもので、無意識というよりも口が勝手に動くと言った方がいいだろう。
だが、蓮は言いたいことを言っているつもりでいるが、相手にはそのことがほとんど伝わっていない。なぜなら、その時の蓮の言葉は曖昧なもので、相手を煙に巻くというイメージがピッタリかも知れない。
蓮の、
「相手の意識を曖昧にさせる」
という行動は、無意識ではあるが、根拠のあることだった。
「無意識とはいえ、何かの行動をするということは、そこには何らかの意味や根拠が存在しているものなんじゃないかしら」
と、睦月が蓮に話をしたことがあった。
睦月は、
「あなたのことよ」
と心の中で呟いていたが、蓮にはまったく伝わっていなかった。
蓮と祐樹が親密になるまでには、それほど時間が掛かったわけではなかった。最初こそ、お互いに何を話していいのか分からずに、ぎこちなかったが、話が音楽に及ぶと、お互いに饒舌になっていった。
蓮と祐樹では、実は好きな音楽のジャンルが同じというわけではなかった。蓮が好きなのはクラシックで、祐樹はジャズだった。しかし、今風のロックやポップスなどと言った曲を好きではないという点においては共通していた。お互い自分の好きな音楽のジャンルのいいところを宣伝していると饒舌になってきて、相手を思う気持ちが薄れているかのように思えたが、実際には相手も興味を持ってくれて、それが会話に拍車を掛けたのだった。
「私は小学生の頃に音楽の授業で聞いたクラシックが単純に興味をそそるものだったので、そのままクラシックを好きになったのよ」
と蓮が言うと、
「僕は兄がジャズが好きでいつも聞いていたんだけど、僕もその影響で聞くようになったんだ。兄は中学に入るとサックスを吹くようになって、本格的にジャズの勉強を始めたんだ」
「今でもやってるの?」
「うん、高校に入ると友達とジャズバンドを組んで、デモテープを作成したりして、いろいろな会社に送ったりしているようなんだ」
「それはなかなか本格的なんじゃないかしら?」
と蓮がいうと、
「でも、なかなかものになるわけではないので、見ている方が気を遣うというか、複雑な心境だね」
「というと?」
「僕はずっと兄の背中を追いかけるようにジャズを好きになったんだけど、兄の顔をまともに正面から見ることができなくなったんだ。やっぱり気を遣っているからなのか、兄の前に回りこむこともできない気がしているんだ」
と、祐樹はいった。
「お兄さんは迷ったり悩んだりしているのかしら?」
「そうだな。悩んではいるようだけど、迷っているようには見えないかな? もし亜寄っているとすれば、後ろにいる僕の方を気にして見ようとするんだろうけど、そんな様子はまったく感じないんだ」
「一途というのかしら。私は羨ましい気がするわね」
「僕もそうなんだ。悩むことはあるかも知れないけど、迷うことなく何かに没頭するということは今までの僕にはなかったので、兄を見ていると、やっぱり自分は兄には追いつけないんだって感じてしまうよね」
という祐樹の話を聞いて、蓮はまたしても「五分前の女」の話を思い出した。
祐樹が見ているという兄というのは、その小説に出てくる五分前の自分のような気がしてくる。
じっと背中ばかりを見ていて、前に回りこむことができない。ただ、五分前の女は小説の上ではその存在すら、自覚することができない。すべては人から聞かされた話を事実として自分で受け入れられるかどうかというだけのことだった。
しかし、小説の中では、自覚できないにも関わらず、文体としては断定的な書き方をしている。
「いや、断定的に見えるのは錯覚であって、そう思わせるような文章が、作家のテクニックを感じさせるものではないか」
と感じていた。
小説の中では、五分前の女を見てしまうと、その話が完結を前に終わってしまうというニュアンスをずっと秘めた書き方になっていた。そのため、主人公には見えなくても、読み手には想像できるような文章が求められているように思えた。
実際に蓮も主人公の立場に立って、五分前の女を想像してみた。
「もし、前に回りこんでその女の顔を見てしまうと、どうなってしまうのだろう?」
小説の上では終わりになるようなのだが、蓮の想像上では、終わりになるわけではなかった。
「のっぺらぼうのような気がする」
蓮にはのっぺらぼうというのがどういうものなのかは分かっているつもりではいたが、顔がないということはどういうことなのか、想像できなかった。
「輪郭だけがあって、目も鼻も口も何もない。ただ顔面にそれと分かるような窪みや膨らみがあるだけなんじゃないかしら」
という発想は、想像できるだけの材料ではなかった。
以前ホラー映画で、のっぺらぼうが出てきたことがあったが、それはイメージそのものではあった。だが、それを自分から想像することができたのかというと、
「できるはずがない」
と答えることだろう。
蓮にとってののっぺらぼうと小説の五分前の女、そして祐樹にとっての前を歩み続ける兄の存在とでは、どこが同じでどこがどう違うのか、蓮は考えていた。
蓮は祐樹が兄との話をする時、あらぬ方向を見つめていることに気付いていた。どこを見ているのか分からないが、その先に見えるものが何なのか、祐樹には分かっている気がした。
しかし、それは蓮と話をしている時だけなのではないかと思った。蓮も祐樹と話をしている時、普段は感じることのないものを感じることができている予感があった。それがなんであるのか自覚はできないが、祐樹も同じなのではないかと思った。そう思うと、蓮の中に祐樹の存在が自分にとって避けて通ることのできない存在であることを確証できる気がしていた。
「僕はクラシックを聴いていると怖くなることがあるんだ」
「怖い?」
「ああ、、オカルトやホラーのようなイメージが湧いてしまうんだ。だけど、ジャズを聴いているとそんなことはなくて、いつも楽しい雰囲気になるんだよ」
「それはあるかも知れないわね。でもそれって映画やドラマの音楽に、ホラーなどではクラシックが使われたりするけど、ジャズは陽気な話にしか使われることがないでしょう? それと同じなんじゃないかって私は思うのよ」
と蓮が言った。
「それはそうかも知れないけど、じゃあ、どうしてクラシックって、あんなに恐怖心を煽るんだろうね」
「私は偏見だって思うわ。でも考えられるとすれば、使わている楽器の種類なんじゃないかって思うわ」
「ジャズもクラシックも同じような楽器は結構あるんじゃないかな? やっぱり演奏の仕方で感じ方が違うんじゃないかって思うよ」
「私のこれは私見なんだけど、ジャズとクラシックって、元々同じだったんじゃないかって思うの。発展した国の違いはあるかも知れないんだけど、言語が国によって違ったとしても、元々同一民族だったら、同じところから派生したとも考えられなくもない。それと同じなんじゃないかな?」
という蓮の意見に対して、
「確かにそれは言えると思うけど、僕にはやっぱり元が同じだったという発想がどうにも納得がいかない気がするんだ」
「何十年か前に、ジャズやクラシックのような音楽を融和したジャンルが、ロックとして流行した時期があったと思うんだけど、あなたはその音楽をどう思っているの?」
「プログレッシブロックのことかい?」
「ええ、そう」
「僕は、プログレは好きだよ。今でも好きだ。プログレって、ジャズからの派生だったり、クラシックからの派生がほとんどだって思うんだけど、僕は普段はジャズが好きなくせに、プログレになると、クラシックからの派生型が好きなんだ。ジャズの派生型はむしろ邪道のように思えるんだ」
「それは自分の好きなジャズというジャンルを、他との融合という形で犯してほしくないという感覚があるからなんじゃない? その気持ち分かる気がするわ。でも、どこかで犯してほしくはないと思いながらも認めざるを得ないと考えているんじゃないかしら?」
と蓮がいうと、今度は祐樹が思い出したように言った。
「そういえば、ジャズとクラシック、どっちが先に生まれたのかな?」
「それはクラシックじゃないのかしら?」
「どうしてそう言いきれる? 確かにクラシックの歴史の方が現代に残っている音楽としては古いんでしょうけど、ジャズの先祖のような音楽も昔から存在していたとは言えないのかな? クラシックはジャズの先祖を後ろから見ていて、自分独自に発展した形だったとすれば、元々ジャズの祖先からクラシックと、王道ジャズの二つに枝分かれしたとも考えられないかな?」
「それは斬新な考え方ね」
と、蓮は思わず頷いた。
「でも、この考え方を最初に言い出したのは、実は兄だったんだ。この説を聞いて、僕は兄の前に回りこめなくなってしまったんじゃないかって思うようになったんだよ」
その話を聞いて、蓮はまた五分前の女の話を思い出した。
――五分前の女の発想も、ひょっとすると彼のお兄さんの発想に近いものがあったのかも知れないわね――
と感じた。
「ニワトリが先か、タマゴが先かという発想を聞いたことがありました?」
と、彼は言い出した。
「ええ」
もちろん聞いたことがある。
この話を最初に聞いたのは、小学生の頃だった。相手は確か近所のおじさんだったと思うのだが、そのおじさんは博学だった。
しかし、そのおじさんにはよからぬ噂が付きまとってもいた。
「あの人、いつも遠くから鋭い目でこっちを見ているのよ。気持ち悪いったらありゃしない」
という話や、
「この間は、ごみ箱を漁っていたって話を聞いたことがあったわ。気持ち悪いわね」
という話もあった。
ゴミ箱を漁っていた理由として、蓮は最初、
「乞食のようなマネをしているんだわ」
とまるで残飯漁りをしているだけだと思っていたが、よくその話を聞いてみると少し様子が違っているようだった。
「ゴミをゴミ箱から出して、何かを探しているようだったのよ。人のプライバシーを侵害しているようで、それが気持ち悪かったのよ」
というと、別のおばさんが、
「あら、嫌だ。どうして警察に通報しなかったのよ」
というと、
「したわよ。でも警察では現行犯でないと逮捕できないと言われて、とりあえず、警備を強化してもらうことにはしたんだけど、どこまで信用していいものなのかしらね」
と言っていた。
警察が何かが起こってからでは動かないことは小学生の蓮でも分かっていた。最近増えてきた子供への犯罪に対して、世間の注目が高まっているわりには、警察は動いてくれない。だから学校側も道徳やホームルームの時間などで、
「警察は何かが起こらないと動いてくれないということは覚えておいた方がいいわ。だから自分の身は自分で守らなければいけない。なるべく集団で行動したり、保護者の人に協力してもらったりして、一人にならないようにすることが大切です」
という教育を受けていたのだ。
小学生に対して、
「自分の身は自分で守らなければいけない」
というのは酷なことではあるが、これくらい言っておかないと、子供は真に受けてくれない。
それを学校側も分かっているようで、完全に警察を信用していないようだった。
そんな頃にゴミを漁るおじさんの話を聞いたので、少し怖いと思っていたが、一度蓮が一人で歩いている時、おじさんが近くを一人で通りかかった時があった。
咄嗟に危険を感じた蓮だったが、幸いにも近くに隠れられるところがあったので、身を隠した。相手は蓮に気付いているのか、その場に立ち止まった。
シーンと静まり返ったその場所で、蓮は緊迫した空気に包まれて、呼吸もまともにできない状況に追い込まれた。
――どうしよう――
その場から出ていきたい衝動に駆られながらも、足が動かない状況に、隠れ続けなければいけないのは、蓮にとって初めての恐怖体験であった。
そのうちにもう一つ靴音が聞こえて、その音が近づいてくるのを感じると、蓮は根拠があるわけではないが、
――助かった――
と感じた。
その靴音が最大になったかと思うと、音がそこで止まったみたいだ。大きくなったら次は通りすぎるために小さくなるものだと思っていた蓮には意外だった。
考えてみれば、そこで立ち止まるということをまったく想定していなかったということである。その男が立ち止まったその場所には、気持ち悪いと評判のおじさんが立ちすくんでいるはずだった。
「お久しぶりです」
この声は比較的若い男性の声で、透き通っているように聞こえた。
「おお、元気だったか?」
これは完全なダミ声、おじさんであることに間違いはない。
「お父さんの方から僕に会いたいなんてどうした風の吹き回しですか? しかもこんな人目を避けたようなところで」
と最初こそ透き通ったような声だと思ったが、今度の声は陰気な感じがして、声を押し殺しているように感じた。
「いやね。お金がなくなってきたので、お前に頼りたいと思ってな」
とお金の無心のようだった。
しかし、その声は人にモノをお願いする態度ではないように思えた。たとえ相手が息子であっても、親子の間に礼儀は必要だと思ったからだ。
「しょうがないな。今度だけですよ」
と言って、男はおじさんにお金を渡しているようだった。
「いやいや、俺はこれからもお前を頼りにするつもりだよ。お前は最後まで私に追いつくことも追い越すこともできないんだ。だから、俺の背中だけを見ることになる」
「だから私に頼るというわけですか?」
男の顔は見えないが、その嘆声からは、溜息にも似た、
「やれやれ」
という感じが伺えた。
「あなたは何を根拠にそんなことを言うんですか?」
と言いたげだったが、そこまでは言わなかった。
すると、おじさんはその気配を察したのか、
「ニワトリが先か、タマゴが先かという言葉があるのを知っているか?」
「ええ、もちろん知っていますよ」
「どういう意味だか分かるか?」
「ニワトリはタマゴが成長したものなので、タマゴが先に思えるが、タマゴを生むのはニワトリの仕事。ここにはどちらが先かという点で、明らかに矛盾した考えがある。そんな矛盾を生命の循環になぞらえたたとえ話だと思っていますが?」
というと、
「その通りさ。だからこそ、それは逆説でもあるんだ。どちらが先かを論じる前に、どちらが最後かということを論じているのと同じなのさ。タマゴとニワトリを別々のものだという考えを持ってしまうから、どっちが先かなどという論議になる。つまりはどちらも同じものだと考えると、そこに矛盾は発生しない」
「どういうことですか?」
「つまりは親子というものは、絶対に相手を追い越すことはできない。親子である以上、別々の人間だという概念を持ってしまうのだが、本当は同じ人間であればどうなんだって発想なのさ」
それが、そのおじさんの結論だった。
息子の方はその話を聞いて、黙りこくってしまった。しかもしばらくそのおじさんの気配は感じていたが、途中から息子の方の気配を感じなくなった。
足音が聞こえてこないということはその場から立ち去ったわけでもないのに、どうしたというのか、蓮は実に不思議な感覚を持ち、しばらくその場にいつくした。
少しするとおじさんが、今度は今来た道を戻って行くのを感じた。
蓮は、
――振り返られたらどうしよう?
という恐怖を感じながらも、おじさんの姿を垣間見ないと気が済まなくなって行った。
その場から少し身を乗り出しておじさんの背中を見ると、そのおじさんは一人だけで、息子の姿を見ることはできなかった。
――やばい――
蓮は、おじさんがこちらを振り返るのを感じ、咄嗟に顔を隠した。
一瞬だけおじさんの顔を見ることができたが、その顔は蓮の知っているおじさんの顔ではなかった。もっと若い、
――そう、息子の顔ってあんな感じなんじゃないか?
と感じる顔だった。
その顔が不気味に歪んだのを見たが、その表情を見た時から、その時に見た息子と思しき男性の顔を完全に忘れてしまった。つまり蓮は息子と思えるその男性の顔をまったく想像もできなくなっていたのだ。
その日はそのまま何事もなく終わったのだが、
――何だったんだ?
という思いを残して、おじさんはそれからしばらくしていなくなっていた。
結局蓮はあの日からおじさんを目撃していない。しかも、おじさんの顔もすぐに忘れてしまった。そんなおじさんがいたのもかすれてくるくらいに意識からも遠のいて行った。だが、あの時におじさんの話した「ニワトリが先か、タマゴが先か」という話だけは鮮明に覚えていたのだった。
蓮が催眠術に興味を持ったのは、まったくの偶然だった。あれは、学校の帰りのこと。たまたま立ち寄ったショッピングセンターのイベントで、マジックショーのようなものをやっていた。
蓮は興味があったわけでも何でもなかったが、エスカレーターを降りてくる時に、その光景を見た。エスカレーターを降りてすぐのところにジュースの自販機があるのを知っていたので、そこでジュースを買って、休憩スペースで飲もうと思っただけだった。
休憩スペースは比較的空いていた。その日は平日だったので、夕方近くと言っても、それなりの人しかいなかった。買い物に勤しむ主婦は、買い物を済ませるとそそくさと帰っていく。帰ってから夕飯の支度が待っているのだから、それも当然のことだった。
マジックショーを横目にショッピングカートに買い物袋をいくつも載せた主婦が、足早に歩きながら、それでもショーが気になるのか、横目でチラッと見ながら通りすぎていくのが印象的だった。
――私も十年後にはあんな感じなのかな?
と考えたが、十年後に結婚しているという保証もないし、それほど結婚に執着していない自分にふと気付かされた。
まだ中学生の蓮に結婚をイメージすることは難しかった。結婚というとテレビドラマでの印象しかなく、いかにも幸せそうなイメージを抱くが、それはあくまでも結婚を儀式と考えるからで、結婚後の生活を考えると、これもドラマの影響か、ロクなことがないような印象しかなかった。
ドラマというと、どうしても売れるものが優先される。幸せな結婚をして、そのまま幸せな生活がずっと続くと言うのでは、あまりにもインパクトに欠ける。結婚が幸せであっても、その後の人生に、夫婦どちらかの不倫であったり、仕事に行き詰ることで家庭に影響が出たりして、順風満帆でない方がインパクトがあるというものだ。
そんなことを考えながらエスカレーターを降りてくると、急に疲れが出たのか、少し立ちくらみを覚えた。ジュースを買ってから、休憩スペースに腰を下ろし、自然と目は目の前のマジックショーに向いていた。
しかし、別に興味があるわけではない。ただ見ているというだけだ。頭の中で何かを考えていたのだろうが、自分でも何を考えているのか分からない。普段も無意識に何かを見ている時はあるのだが、そんな時に何を考えていたのかは自分でも意識していたはずだった。
しかし今回は何を考えていたのか覚えていない。
――自分が主婦になった時のことをさっき考えていたのは覚えているんだけど、そのことを継続的に考えていたようにも思うけど、違うような気もする――
と思っている。
ただ、何かを考えていたのは間違いない。覚えていないだけだった。中学生なのに、そんなに簡単に忘れてしまうというのは若年性痴呆症にでもなったかのようで、あまり気持ちのいいものではないが、考えてみれば、それだけ考えている次元が違っていると思うと、忘れるというのもありではないかという思いも心の底にあった。
考えてみれば、子供の頃の方がその傾向が大きかったと思う。その頃は、
「子供だからしょうがかい」
という思いがあった。
何がしょうがないというのかというと、漠然としたものだった。
「子供だから何をしてもしょうがない」
という大まかな考えでしかなかった。
何をしてもしょうがないというのは、何をしても許されるという言葉の裏返しであり、何をしても許されるというのは子供を見ている大人の側の考え方であることは、子供の自分には分からなかった。
自分が大人に近づいていくうちに少しずつ分かってくるものであって、大人でなく子供でもない中途半端な自分に憤りのようなものを感じていたのだろう。それが焦りだったのかどうかは、大人になれば分かると思っていたが、その分時間も経っていて、しかも成長することで、分かっていたものが分からなくなってしまう可能性も秘めていた。
ただ、大人になれば、その可能性を言い訳にしてしまうことになるのではないかと、その時の蓮は考えていた。大人になれば言い訳が増えてくるのは自分の親や、学校の先生、さらにはドラマに出てくる登場人物を見ていれば分かる。特にドラマなどでは、言い訳が巧みであることで、ストーリーに変化をもたらすことも往々にしてあるというものだった。
「大人になるということは、言い訳を巧みに使い分けられるようになることなのだろうか?」
とも思ったが、最近では少し違う考えを持つようになった。
「大人の言い訳は子供の言い訳よりもタチが悪いのではないだろうか? ただ、その言い訳を分かっていて了承してしまうのも、大人の世界ということになるのではないだろうか?」
と考えるようになった。
最近ではテレビを見ていてもドラマだけではなく、ニュースも見るようになった。
その理由は、別に教養を付けたいというのが直接の原因ではない。確かに教養を身につけたいという思いもあったが、それよりももっと直接的に、
「見ていて面白い」
というものがあった。
何が面白いのか、最初はよく分からなかったが、突き詰めてみると、政治家などで世間を騒がせている人がいると、その記者会見でも言い訳であったり、その言い訳に対してコメンテーターの人の解説であったりが面白かった。
人によっては、徹底攻撃をする人もいれば、一応の擁護をする解説者もいた。
「徹底攻撃はする方とすれば簡単なのかも知れないけど、擁護する方は、結構考えながら擁護しているように思う」
と見えていたが、考えていることとすれば、よくよく考えると、結局はその人も自分の身を守るためであったり、世間の徹底攻撃への面白みから目を背けることで、自分への注目を集めようとする意識の表れにも見えて、そのミエミエの態度が忖度という言葉をさらに悪いものに聞こえさせる効果をもたらしていた。
蓮はその時何を考えていたのか少しの間思い出そうと試みたが、結局思い出すことはできないと判断すると、椅子に座ってからどれくらいの時間が経ったのかということに興味が移った。
自分の感覚では五分程度のものくらいではなかったかと思っていたが、時計を見てみると二十分近くは経っていた。エスカレーターから降りてくる時、無意識だったが時計を見た。蓮は時計に目を移すのが癖になっていて、気が付けば時計を見ていることが多かったのだ。
だが、その時何時何分だったのかということを納得した上で、その時間を忘れてしまうことも往々にしてあった。それは定期的に時計を見る癖が付いていたので、どの時に自分が意識している時間を表示していたのか、思い出そうとすると意識の高揚を招いてしまい、我に返ってしまうのだった。
意識の高揚とは、普段無意識に感じていることを、急に意識してしまったり、思い出そうと意識的に考えたりすることで、自分が我に返ってしまい、一時的な記憶喪失になってしまう状態を言った。
これが医学的に証明されていることなのかどうか、蓮には分からなかった。だが、この意識を人に相談したことはあった。その相手は睦月だったのだが、睦月にも同じような感覚があったようで、
「私も同じことを考えていたんだけど、誰かに相談するつもりはなかったのよ」
「どうして?」
「今さら人に聞いても恥かしいという思いがあったんだけど、その思いの裏返しに、『私だけではなく、誰もが感じていることではないか』と思うことで、それを人にあらたまって聞くということは愚の骨頂に思えたのよね」
と言った。
思わず頷いた蓮だったが、蓮にも同じような思いがあったからだ。しかし、この思いを抱いていたというのは、睦月から言われて初めて分かった気がした。分かってはいたのかも知れないが、それを言葉にうまくできない気がしていた。自分の中だけでも言葉にできないということは、漠然とした思いはあっても、そのモヤモヤが決して晴れることはないのだと思っていたのだった。
蓮は目の前で繰り広げられているマジックを、どのように見ていたのだろう?
普段であれば、
――あれはどういうトリックなんだろう?
とそのタネを解こうという思いで見ていたのではないだろうか?
だとすればその時も同じようにタネを見ながら解けるように努力をしていたのかも知れない。そう思う方が自分の中でもしっくりくるのだ。
だが、この思いは何なのだろう?
どこかザワザワした思いが頭の中を巡る。
「ネタを解こうとしていたわけではないだろう」
と自分に問いかける何かを感じた。
そう思いながら見ていると、ピエロに扮して顔が分からないマジシャンが絶えず自分を見ているように思えてきた。
――これがザワザワした気持ちの正体なのかしら?
と蓮は思ったが、その思いに間違いはなかった。その男の顔から、いつの間にか目を逸らすことができなくなっていたのだ。
「そこのお嬢さん。申し訳ないがお手伝いいただけるかな?」
魔術師は道化師の扮そうから、誰かに声を掛けていた。
その声は、表情が分からないからなのか、本当に目の前の道化師が発した声に思えないほど、どこから聞こえてくるものなのか、すぐには分からなかった。
「えっ?」
と、蓮がハッとしていると、どうやらそれは自分に対しての声のようだった。
どうしてそう感じたのかというと、まわりの視線が一瞬で自分に向いたからである。普段から注目されることに慣れていない蓮は、初めてと言っていいほど自分に向けられた注目に敏感になっていたのだ。
学校では比較的目立つタイプだと思っていたが、実際には自分にまわりの視線が一気に向くということを意識したことはなかった。
――あれは気のせいだったのかしら?
と思うほど、今回の視線は痛いほどだった。
蓮がビックリしたのは、自分のことを道化師が、
「お嬢さん」
と呼んだことだ。
今まではずっと自分のことをまだ子供だと思っていたので、お嬢さんなどと呼ばれたことはもちろん、意識したこともなかった。そういう意味で道化師の言葉に、最初は誰のことを言っているのか分からずに、戸惑いと躊躇があったのだ。
「お手伝いと言っても、何かをしていただこうとは思っておりません。怖いことでもないのでこちらにおいでください」
と道化師に手招きされて、蓮は次第に恐怖が薄れていくのを感じた。
今までの蓮であれば、道化師のような得体の知れないと思える人を相手にすることはなく、向こうから相手にされることもなく、まったく別世界の人間だという意識を持っていたに違いない。
それなのに、どうして恐怖が薄れて行ったのか分からない。何しろ表情が分からない相手なのだから、得体の知れない人物とはまさにこのことだった。
まわりの人たちは一斉にこちらを向いて、拍手している。それは心からの拍手でないことは分かっていた。
――どうせ自分に白羽の矢が当たらなかったことを喜んでいるんだわ。私が選ばれたことにホッとしているくせに――
と、苦々しい気持ちになっていた。
だが、その視線があったからこそ、恐怖が和らいだのではないかと蓮は感じていた。人の視線が時として自分にとっていい方に変化をもたらすのかも知れないと、その時初めて気が付いたのだった。
蓮は仮説の演台の上から、腰を低くして手を差し伸べる道化師に見入れらるように、演題の上に上がった。
「この勇気あるお嬢さんに拍手」
と言って、道化師は蓮に前を向かせ、手を握って、その手を大きく広げて観衆にアピールをした。
蓮もつられて手を大きく広げ、観衆に向かってアピールしていたが、気持ち的には他人事だった。
他人事ではあったが、やはり声援を浴びるというのは嬉しいもので、今まで浴びたことのないスポットライトを浴びたことで、さっきまでの恐怖が何だったのかと思うほどに落ち着いていたようだった。
「お嬢さん、こちらに横になってください」
と言われて、道化師の向こう側を見ると、いつの間にかそこには仮説ベッドが置かれていた。
仮説ベッドと言っても、病院の診察室にあるような真っ白で何もついていないベッドで、せめて転倒防止の金具があればそれらしいのだろうが、それもなかった。
おかげでベッドに容易に横になることができたのはよかったのだが、まさか諸ピングセンターの休憩スペースであおむけになるなど、考えたこともなかった。
――思ったより、天井って高いんだわ――
このショッピングセンターの休憩スペースは、他のショッピングセンターよりも天井が高かった。三階部分くらいまでが吹き抜けになっていて、相当高いことを今さらながらに感じさせられた。
それなのに、明かりは十分だった。天井からの明かりがまるで太陽のように降り注いでいる感覚に、高さの感覚がマヒしているようで、思わず自分の身体が宙に浮いているかのように感じられた。
「大丈夫ですか? お嬢さん。心配はいりません」
と、やたら道化師は蓮の心情を気にしているようだった。
言われてみると、緊張からか、身体が硬直しているように感じられた。
「あっ、はい。大丈夫です」
とやっとそう答えたが、その声は震えていた。
天井を見つめたその目を、こちらを覗き込んでいる道化師の顔に向けると、急に暗く感じられた。それまでの明るさがウソのように影の部分が次第に増えてくるようだった。
「大丈夫ですからね」
という道化師の声が次第に遠くに感じられるようになり、まるで水の中に沈んだまま聞いているかのようだった。
「あれ? 私何か宙に浮いているみたいだわ」
と言ったのかどうか、自分では言葉にしているという確信はあったが、道化師はまったく反応を示さない。
「大丈夫ですからね」
という言葉を何度も口にしている。
何度目かのその言葉を最後に蓮は意識を失ってしまったが、その時蓮は、
――大丈夫ですからという言葉、本当に何度も浴びせられたのかしら?
と感じていた。
同じ言葉をずっと自分の中で反芻しているかのように思えて、意識が薄れていく中でまるで目の前に糸に吊るされた五円玉が揺れているのを感じるのだった。
それが催眠術であることは分かっていた。
「あなたはだんだん眠くなる。三秒後にはあなたは熟睡してしまいますよ。三、二、一……」
自分の意志ではなく、他人の力によって睡魔に襲われるなど、考えたこともない。
睡眠薬も飲んだこともなく、手術の経験もないので、麻酔による睡眠も経験したことがない。だが、この感覚は初めてではない気がしたのはどうしてなのか? 気が付けば眠りに就いていたようだ。
それからどれくらいの時間が経ったのかまったく分からない。気が付けば、
「この勇気あるお嬢さんに拍手」
と言って、道化師が観衆に向かって扇動すると、観客も何の疑いもなく、喝采と浴びせていた。
その喝采の相手が道化師に向けられているものなのか、それとも自分に向けられているものなのか、すぐには分からなかった。
蓮の頭はまだスッキリとはしていなかったが、観客が自分に対して喝采を浴びせてくれていると思うと、次第に笑顔になってくるのを感じた。目覚めてすぐなので、その表情は硬かったのかも知れないが、その時にできる限りの笑顔で答えられたのだと蓮は感じていた。
その拍手が鳴りやまないように感じられた。一分、そして二分と、時間は刻々と過ぎていった。
――どうして皆拍手をやめないの?
と思っていると、自分の頭だけが次第に睡魔を離れ、元の自分に戻って行くのを感じていた。
考えてみれば、今までの蓮であれば、まわりから注目を浴びることは嬉しい以外の何物でもなかったはずである。
人の話を鵜呑みにして、なるべくポジティブに考えるようにしていた蓮だったはずなのに、この日は余計なことばかりが頭を巡る。
きっと、今までの自分であれば想像がついたような展開が、この日はまったく想像もつかないような出来事の連発で、戸惑っているからなのだろう。
蓮は時計を見てみた。さっき意識して時間を感じた時から、すでに三十分は経っていた。時間を意識してからこの演台に上がるまでを考えると、どう考えても五分も経っていなかったはずだ。それが演台の上で意識が戻った時には三十分を過ぎていた。意識を失った二十五分近くの間、何が行われていたというのだろう?
蓮はまた不思議な感覚に見舞われた。さっきまで観客席を漠然と感じていただけだったが、その観客席の一番最前列から、痛いほどの視線を感じたからであった。
――何、この視線は――
と思ったが、すぐには見ることができなかった。
そこにはさっきまで感じなかった恐怖があり、その恐怖は最初に感じたものが戻ってきたのだと思わせるものだった。
眠気からなのか、視力がかなり低下しているようだった。いや、視力が低下しているというよりも、焦点を合わせることができないだけで、目が慣れてくると見えるようになることが分かっているので、それほど怖いという意識はなかった。目が合ってくると、やっと観衆の最前列を見ることができたのだが、その瞬間、蓮は凍り付いたかのような恐怖を感じた。
「あれは私ではないか」
何が怖いと言って、もう一人の自分を感じた時ほどの恐怖はないということを、この時初めて感じたのだった。
またしても「五分前の女」の話を思い出した。
思い出してはみたが、何となく違和感を感じ、最初はその違和感がどこから来るのか分からなかったが、考えているうちに分かってきた。
「そうだ、五分前の女は、五分後の自分からは見ることができないんだった」
と感じたことだった。
五分前の女の存在をどうして知ったのかということは忘れてしまったが、五分前の女を意識するようになると、その女への恐怖は最高潮に達し、自分が何者なのかすら分からないようなパニックに陥っていた。
その時に感じた恐怖は、
「自分は知らないのに、相手にすべてを知られているような気がする」
というものだった。
だが、考えるうちに、その考えに矛盾があることに気付いていた。
五分後の自分が五分前の自分のことをすべて知っているというのであれば、それは当然のことなんおだが、逆に五分前の自分が五分後の自分を知っているという理屈は成り立たない。五分後の自分はすでに五分前を通り過ぎているのだから、五分前の自分を思い出してみれば分かることなのだ。それを分からないという方がおかしなものであった。
だが、主人公の恐怖心はそんな当たり前のことを超越した意識が恐怖という形で明らかになってしまっていた。
冷静に考えれば分かることで、恐怖でも何でもない。五分後の自分の方が五分前の自分よりも立場的には有利であるはずなのに、どうして恐怖に駆られなければならないのか、その矛盾が恐怖を呼んでいると言っても過言ではないだろう。
だが、ショッピングセンターで見た自分、そこで思い出したのが「五分前の女」という話、信じられないと思いながらも、ここで繰り広げられているのはマジックショー。
――これも何かの奇術では?
と考えたのも無理もないことで、思い浮かんだのが催眠術というものだった。
催眠術というと、舞台の上に上がって、一人の人をターゲットにして掛けるものではないかと思っていたが、掛けた相手が道化師に扮している人だとすると、相手に表情や視線を感じさせないことで、相手に意識させることなく術を掛けることができる。
ただ、そこに何の意味があるというのだろう?
これはショーなのだから、誰にも知られずに術を掛けたとしても、称賛を浴びることもなければ、ショーとしての魅力もない。意味がないように感じられた。
道化師の表情を見ることはできなかったが、目の前に現れたもう一人の自分の姿を見ることで、今まで何でも鵜呑みにしてきた自分が目の前に立っているように思えた。
――あれが本当の私?
蓮はそう思った。
――ということは、今本当の私を見ているこの私の視線は、普段他の人が私を見ている視線と同じだと思えばいいのかしら?
と感じた。
目の前に立ち尽くしている自分を思い図ろうとしてみたが、その様子から何を考えているかなどを想像することはできなかった。まったくの無表情、喜怒哀楽が欠如しているように見えて、その先に感じるものは恐怖でしかなかった。
「恐怖ってどこから来るものなのか?」
という話を睦月としたことがあったのを思い出した。
「幽霊やお化けのたぐいは誰もが恐怖を感じるものとして考えられているけど、実際に怖いものって、自分の中にあるものなのかも知れないわね」
と睦月が言っていた。
「どういうこと?」
「誰にだって自分の信念というものがあると思うの。これは信じられる、信じられないってね。蓮にだってあるだろうし、私にだってある。それが信じられなくなると恐怖って自分の中から湧きおこるものなんじゃないかって思うの」
「それは信じるという行為が自分を中心に考えられるからだってことになるの?」
「そういうことね。人のことを信用するのだって、自分が信じられるから、自分の目を信じるわけでしょう? 突き詰めればすべては自分から始まっているということなの。その自分が信じられなくなると、それこそ目の前が真っ暗になって、一歩も動けなくなるのを想像すると、それがそのまま恐怖に結びつくというものよ」
と睦月は言っていた。
「確かに目の前に今まで見えていたものが急に見えなくなるというのは恐ろしいことよね。前に進もうにも後ろに下がろうにも、見えていないのだから怖くて動けないものよね」
と蓮がいうと、
「そうでしょう? 今まで見えていた光景が残像として残っていたとしても、それを果たして信用できるかということよね。見えているからこそ信用できるのであって、見えなくなってしまえば、そこから先は本当に信用できるものなのか疑心暗鬼に陥ってしまう。見えないことへの恐怖が、自分を信用できないという恐怖に変わってくる瞬間でもあるんだと思うわ」
と睦月が言った。
「それは後悔したくないという思いから来ているのかしらね?」
「後悔? 確かにそうかも知れないわね。信用できないものを信用して行動して、それが取り返しのつかないことになってしまうと、後悔してもしきれないというものなのかも知れないわね」
睦月の発想も分からなくはなかったが、何とも釈然としない気持ちが蓮の中に残った。
強情なところのある睦月は、人と変わった発想をすることに快感を覚えているのかも知れない。相手に恐怖心を与えるのも、そんな快感を貪りたいという一心なのかも知れないが、睦月には他にも何か考えがあるようで、それを思い図ってみたが、中学生の蓮の発想では難しかった。
――睦月も同じ中学生なのに――
とは思ったが、一緒にいて自分よりも先に進んでいる睦月には追いつけない気がしていた。
――これも「五分前の女」の発想なのかも知れないわ――
と感じたが、そう考えてみると、蓮が何かの発想をする時、対比できる話として「五分前の女」の話に陶酔しているのかも知れない。
蓮は普段から何でも鵜呑みにしてしまう自分のことをあまり好きな性格ではないと思っていた。だが、だからと言って、その性格を変えようとは思わなかった。下手に変えてしまって、ずっと疑心暗鬼で過ごすのも自分を苦しめるだけだと思っていたからだった。
――自分の首を絞めるようなマネはしたくないわ――
と思っていた。
目の前にいる蓮が何でも鵜呑みにしてしまう性格であることに気付くと、自分はすべてを懐疑的に見てしまう性格ではないかと思っていた。そう感じていると以前「五分前の女」の話について考えていたことが脳裏をよぎった。
――そうだ。あの時に感じたのは、五分前の女も五分前の女も同一人物であり、どちからが表に出ている時はどちらかが架空であるというような発想を持ったんだった――
この発想は、蓮の頭の中に絶えずあったような気がする。
忘れていたとしても、すぐにでも思い出せる位置にあって、何かの時に容易な引き出しとして持ち出せるような仕掛けを持っているような気がした。
蓮が無表情であればあるほど、石ころのような存在であればあるほど、本当の自分が表に出ているように思えてならなかった。
もしそんな自分を呼び起こすことができる魔法があるとすれば、それを催眠術という形で表に出せるのではないかと思った。
――では、その催眠術を掛けているのは誰なの?
と考えると、絶えず自分の近くにいて、その存在が架空であるような人ではないかと思えてきた。
そうなると、やはり「五分前の女」であり、もう一人の自分、いや、本当の自分なのかも知れないと思った。
その時蓮は、間違いなく催眠術に掛かっていた。
蓮が目の前に自分を発見してからどれくらいの時間が掛かったのか、気が付けば自分が演台の上にいて、まわりから喝采を浴びていた。道化師は自分の斜め前に立っていて、観客に手を振ってパフォーマンスを演じていた。
その時、決してこちらを見ようとはしない。見たとしても表情は分からないのだから同じなのだろうが、最初と違って、顔をこちらに向けようとはしなかった。
観客に向かって手と頭を下げてお礼をしている。拍手喝さいを浴びる道化師を見て、
――その喝采は私にじゃないの?
と妬みにも似た感情もあったが、本音としては、
――何事もなく終わってよかった――
というものだった。
その時、自分を見つけた恐怖は、すでに沈静化されていたのだった。蓮がその時道化師から受けた催眠は、一体どういうものだったというのだろうか?
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