第8話 あのときの舞台裏

 慌てて早口になる純子。と同時に、さっと教室中を見渡す。相羽の姿はもうなかった。

「あのね……ごめんなさい、涼原さん」

「……どうして、遠野さんが謝るの?」

「あのとき……涼原さんと相羽君、すれ違ったでしょう? 私の席のちょうど真横ぐらい」

「ええ。そうだった」

 思い出しながら答える純子。正確を期せば、彼女自身ではなく、相羽が遠野の席のすぐ横を通る形になったはず。

「あのとき、私も立とうとしていて……。私、プリント出したらそのまま帰ろうと思ってたから、手にランドセルも持っていて……それが相羽君を押しちゃったみたい……」

「……」

 相手の言わんとすることが飲み込めず、純子は黙っていた。

「だ、だから、相羽君があなたに……しちゃったのは、私がランドセルで彼の背中を押してしまって、それでバランス崩して……」

「……は。はは」

 ひきつるように笑い始める純子。

(な、なあんだ……。たまたま、ああなっただけなのね。それを真剣に悩んで――私、ばかみたい!)

 別の意味で顔が熱くなる。

「涼原さん? ごめんね……ずっと黙ってて」

「え? ううん、いいの」

 笑みを作って、純子は返した。すまなさそうな遠野を見ていられない。

「言ってくれたから、もういい。相羽君こそ分かってたはずなのに、何にも言わないなんて、ひどいわよね」

「……そうじゃないと思う」

 遠野の反論が意外で、純子は思わず、え?と聞き返した。

「相羽君、わざと何も言わずに……かばってくれたような気がする」

「ふ、ふうん……」

 続ける言葉がない。

(やっぱり遠野さんも、相羽の奴のこと、いいと思ってるみたいだ……)

 うつむいたまま、ほんのり頬を染めている遠野を見て、純子は何かしら感心していた。


 他の宿題はともかく、自由研究だけは自分独自の物でなければならないから、他人の分を写させてもらうわけにはいかない。

 だから、というわけでもないのだが、純子も自由研究だけは計画的にやると決めていた。実は、夏休みに入る前、これは行けると自負する題材を見つけていたのだ。

(やろうと思えば、三日でできるかな)

 朝早くから電車に揺られながら、スケジュールを考える純子。手元にはアニメキャラクターの絵が入った手帳とよくある使い捨てカメラ、それに巻き取り式のビニール製スケール。図鑑も持って来ようかどうしようか迷ったけれど、重たいのでやめた。

(今日中に全部を回って、調べるのに一日かかって、あとはまとめるのに一日。ま、そんなにすいすいできるはずないけど)

 終点の駅に、車両が緩やかに滑り込んだ。

 駅の南出口を抜けると、街の中心、一番のにぎわいを見せる通りに出る。

 袖のないワンピースを着ている純子に、電車の冷房は強すぎた。だから、外の空気に触れると一瞬は気持ちよさにとらわれる。しかしそれは錯覚で、次にはもう暑さをじわりと感じさせられた。

「っと」

 手帳の最初の方を開く。あらかじめ調べて把握しておいた『場所』が、HBの鉛筆で箇条書きされている。

(最初は……Tホテル。いきなり、緊張しちゃうなあ)

 グレーの制服をぴたりと着込んだドアボーイが、常に入口の前に背筋を伸ばして立っているのだ。近寄りにくい雰囲気がある。

(邪魔扱いされたらやだな)

 Tホテルへと歩きながら、純子の頭の中を弱気な考えが駆け巡る。

 ホテルの建物全体が視界に入った。やはり、ドアボーイのおにいさんがいる。恐そうには見えないが、冷たそうに見えてくる。

(きちんと言おうかしら?)

 低い塀の横で立ち止まり、迷う。幸い、出入りするお客さんの流れは極端に少ない。

 純子は意を決して、ホテルの敷地の内側へ踏み出した。設けられた歩道は緩やかなカーブを描き、建物の正面に続いている。

 見えるドアボーイの姿が大きくなった。

 重くなりかけた足取りを、無理に速め、彼の下へ走り寄った。

「あのっ」

 勇気を出して、話しかける。見上げた純子の視線に、ドアボーイが目を合わせてきた。

「何かな?」

 少しかすれているけど、優しげな口調。

「あ、あの、そこの壁の写真を撮りたいんですけど、いいですか?」

 純子は、ドアボーイが立つ位置とは反対側、建物の右手を、片腕をいっぱいに伸ばして示した。そこの壁の一部を撮りたいのだ。

 ドアボーイはさすがに怪訝な表情を浮かべる。それでも口調は相変わらず、優しく穏やか。

「どうしてだい、お嬢ちゃん?」

「えと、あそこに化石があるから」

「化石?」

 声のトーンが高くなる。

 純子は内心、驚いて、身体をびくっとさせてしまった。

 けれど、ドアボーイの彼は、別に怒ったわけではなく、信じられない話を聞いてびっくりしている。そういう感じのよう。

「こんなところに化石があるのかい?」

「うん。いえ、はい、あります。時折、この前の道路を通りがかって、塀越しに覗いて、気になっていたんです」

「ふうん。何のために、化石の写真を」

「夏休みの宿題で、自由研究の対象にしたくて」

「ああ、宿題かあ。なるほど」

 ドアボーイは、壁にちらりと視線をやった。

 が、タイミング悪く、新たなお客の到着である。すぐさま顔を作ると、車から降り立った二人の大人を、手際よく案内する。

 純子は離れて、見守っていた。

 しばらくして、彼が戻ってきた。だが、すぐに定位置に着こうとはせず、壁へと駆け寄る。そしてこれも忙しい足取りで、純子の前へ。

「確かに何かあるね。さっき、偉い人に聞いたんだけど、撮っていいって」

「本当ですか? ありがとうっ――ありがとうございます」

「いや。ただし、邪魔にならないようにということと、あんまり長い間はだめだからね。分かった?」

「はい」

 顔をほころばせて、頭を下げる純子。

 そして面を上げると、すぐさま壁の前に飛んで行った。

 場所を変えて三度、シャッターを切る。天気はよく、太陽の位置も悪くない。

(ここまで近付いて見たの、初めてだけど……。ウミユリかしら?)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る