第3話 殴れ

「……分かりました。明日、学校で会ったとき、どうにかなさいよ」

 母親はため息混じりに言うと、階段を急ぎ下りていく。玄関のドアが開く音がした。

「ごめんなさい。今、純子、眠ってて――」

 母親の台詞を最後まで聞かず、純子はまた部屋に閉じこもった。

 ベッドに座り込み、今度は、中央に熊のイラストが入った大きな枕を抱きしめる。

(何よ。謝りに来たって、許してあげないんだからっ。絶対、許さないんだからっ)

 腹立たしさが悲しさや恥ずかしさを初めて上回った。胸がむかむか。

(もう! ばかっ!)

 右手でげんこを作り、抱きしめていた枕に思いっ切り、叩き込む。

 ぼす。

 気の抜けたような音だが、手応えはある。少し気が晴れた。

 続けて両手でぼかすか。

「ばかっ、ばかっ、相羽のばかぁ」

 いつの間にか声に出していた。

 はあはあと息を荒くし、髪もぼさぼさに乱れてしまった。

 枕の熊の顔が歪んで、泣いてるみたいだ。

 気が付くと、窓の外は真っ暗。ほんのわずか、西の空が恐いほどに赤暗い。

(カーテン、引かなきゃ)

 純子は窓際により、カーテンに手をかけた。そのとき、目がふっと、家のすぐ前を通る道に行く。

「あれ……」

 最初、誰だか分からなかった。

 道には、電信柱にもたれかかるようにして、人影があった。割と背があるけれど、子供には違いない。

「――あ」

 純子は声を上げると同時に、カーテンを素早く引いた。

 暗くて分かりにくかったけれども、確かに相羽だった。

(あいつ……まだいた)

 窓のすぐ下、壁に背中からもたれ、腰を落とす。

(何よ。そんなに気になるんだったら、最初からしなきゃいいじゃないの! ばかみたい!)

 体育座りして、揃えた膝に腕を乗せ、さらに頭を左向きに。

(まだいるのかしら)

 気になってきた。でも、見ると何だか「負け」のような気がして、素直に見られない。

「宿題、しよっと」

 吹っ切るために声に出した。妙に声量が大きい。

 立ち上がるとき、肩がカーテンに触れた。


 夕餉になり呼ばれて下りて行くと、母親が慌てていた。

「いけない。刺身醤油、切らしていたんだわ」

「買ってくる」

 すぐに言った。母親がきょとんとしている。夕刊を読んでいた父親までもが、わざわざ顔を覗かせた。

「積極的にお使いに行こうなんて。おねだりしたい物でもあるのかい」

「違うってば」

 母親は何も言わず、財布から五百円玉を取り出すと、純子へ渡す。

「じゃ、お願い。気を付けるのよ」

「分かってるって。いつものでいいんでしょ?」

 純子は小走りに玄関まで向かい、靴を履くと、そろそろとドアを開けた。

(まさか、いないわよね)

 さっきから、相羽のことが思い出されてならない。

 玄関からでは問題の電信柱は見えない。純子は道まで出た。

 電信柱の影に、相羽の姿はなかった。

(ほら。やっぱりいない。心配することなかったわ。あんな奴、最初から心配してなかったけどさ)

 どことなくほっとしつつ、五百円玉を握る手に力を入れた純子。

「涼原さん?」

 ぎくり。

(嘘っ)

 両手を胸の前で交差させ、純子はゆっくりと、声のした方へ振り向いた。

 曲がり角の向こうから人影が覗く。

「よかった。やっと会えた」

 立ち尽くす純子へ、相羽は見る間に接近。まだ下校途中らしく、ランドセルを背負っている。

 外灯の下、表情が分かる。目を細め、不安から解き放たれたような晴れ晴れとした顔。

「な、何よっ。帰ってって言ったでしょ!」

「ごめん」

 一言。

 静かな間ができた。いや、遠くで車の走る音がしている。

「涼原さんが怒っているのは、分かってる。許してくれなんて言えない。けど、とにかく謝らせて」

「いくら謝られたって……」

「分かってる。こうしないと、気が済まない。帰れないんだ」

「……」

「ごめんなさい」

 相羽は深く頭を下げ、そのままの姿勢で続ける。

「勝手なことをして、悪かったと反省している。もう、取り返しつかないけど……君が許してくれるまで、反省し続ける」

 急に顔を上げる相羽。

 びくっとして、それからまじまじと見つめる純子。

(――ふ、ふんっ。いくら真剣な顔したって)

 灯りに浮かぶ相羽の表情は、本当に真剣そのものだ。

「殴れ」

「え?」

 内心、何も返事すまいと誓っていた純子だが、つい、聞き返してしまう。

「ぶってくれって言ったんだよ。少しは気が晴れるんじゃないかと思って……。さあ。学校では平手だったけど、げんこつでも何でもいい」

 顔を前に突き出す相羽。両眼は閉じられていた。

「――私、急いでるから」

 純子はきびすを返しつつ、言葉を投げた。

「気が済んだなら帰ってよ」

 逃げるように走る。当然、相羽がどんな顔になったのか、見ることはできない。

 三十メートルは離れて立ち止まり、振り返った。元の位置に立ったままの相羽が見えたが、表情はもはや確認できない。

「気を付けて帰りなさいよね! 事故にでも遭われたら気分悪いから!」

 早口に叫んで、純子はまた走り出す。

 相羽が何ごとか返事したが、はっきりとは聞き取れなかった。

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