第2話 好きになればいい
左手を自分の唇に持って行く。甲でいくら拭っても、奇妙な、初めての感触が残る。
騒ぎ立てる純子に、クラスのみんなもざわめく。
「どうかしたの?」
「相羽君が涼原さんに……キスした」
「ええ?」
わあっと、一斉にはやし立て始めるクラスメート達。
純子は身体を震わせる。キスされただけでも動揺しているところへ、周りから騒がれ、混乱している様子がありありと窺えた。
「な、何で、こんな……」
対して、相羽はけろっとして応じる。
「――涼原さんが、あんまりかわいかったから」
「ば、ばかあっ!」
「誉めてるのに、怒らないでよ」
「じょ、冗談じゃないわ! か、か、勝手にキ、キ、キ、キスするなんて!」
言っている内に、顔が熱くなってきた。両手で頬を押さえる。ばらけた長い髪が、いくらか垂れかかってきた。
「……あーん、何てことしてくれたのよ、もう……」
純子はしゃくり上げ始めてしまった。床にへたり込み、両手の指先で目を押さえる。自分でも泣くのを止められない。
「泣ーかした、泣かした」
周りが別のことではやし立て出した。
さすがに相羽もどきりとした表情をなす。しゃがみ込んで、純子の視線に高さを合わせてきた。
「ど、どうしたの」
「触らないでっ」
伸びてきた相羽の手を、純子は素早く払いのけた。髪が覆いを作るかのように、激しく波打つ。
それからうまく回らない口で、彼女は必死にまくし立てた。
「わわわ私はねえ! ファ、ファーストキス、す、好きな人とするって決めてたのに! あ、あんたのせいで、こんな……あんたなんかと」
言葉の端々に「えぐっ、えぐっ」と、しゃくり上げる声が混じってしまう。
「……何だ、そんなこと」
安堵する様子の相羽。まるで悪いと感じていないようだ。
純子はますます腹が立ってきた。
「何がおかしいのよ!」
「問題ない。君が僕を好きになればいい」
「な……」
顔から手を下ろし、呆気に取られて、相手を見返す。
「そうなれば、君は好きな人とファーストキスをしたことになる」
また笑う相羽を、純子は怒鳴りつけた。
「ば、ばか言わないでよ! 誰があんたなんか!」
「そう言わないで、考えてみてくれない?」
「ばか!」
言葉と同時に、手が出ていた。
ばちんと音がした。
相羽がどんな顔をしていたのか、確認する余裕はない。
「顔も見たくないっ!」
純子は泣き声のまま叫ぶと、自分の席に走った。みんなが見ているのは分かっていたが、ランドセルを掴むと、一目散に教室を飛び出した。
走って走って走って。
家に帰りつくなり、純子は二階の自分の部屋へ駆け込んだ。ランドセルを放り出し、ベッドに身体ごと倒れ込む。
「ばか。ばか。何てことするのよ……ばかぁ」
腕枕に顔を押し付ける。こらえきれない涙の分だけ、腕が濡れた。
「純子?」
母親の声と、戸を叩くノックの音が重なる。
「帰ったんなら、ちゃんと言いなさい」
「入って来ないでっ」
戸が開けられる気配を察し、純子は短く叫んだ。
しかし、母親の内に芽生えた不安は、さらに増したようだ。
「どうしたの? 泣いてるじゃない」
「……」
うつぶせのままの純子の肩に、感触が。
「どうしたのよ? 帰って来るなり、部屋に駆け込んで……。学校で何かあったの?」
「何でもない」
「何でもないことないでしょう。あなたが泣くって、よっぽど」
「何でもないったら! 何も聞かないでっ」
「……そう。そう言うなら、今はいいわ。元気が出たら、下りてらっしゃい。おやつ、用意してあげるから」
母親が出て行く音を、顔を上げることなく純子は聞いた。
(キスされたなんて……言えるはずない)
時間がどんどん経つ。が、純子にその感覚はなかった。キスされたという事実が、頭の中をぐるぐる回っている。
(どうして……したのよ。からかってる。嫌がらせなんだ。ふざけてあんなことするなんて、最低っ)
同じことを長時間、考え続けてしまう。同じことで、何度も涙がこぼれた。
いつの間にか、陽が傾いていた。
「純子」
母親の声が再びした。いつもより穏やかさが増している。
でも、返事する元気は、純子にはまだない。
「寝ているの?」
ドア越しの声。さっきみたいに、勝手に入ってくる様子はない。
純子はベッドの上で身体を起こし、答えた。
「ううん、起きてる」
しわがれたような声になっていた。すぐに、せき払い。
「大丈夫? お友達が来ているんだけど」
「え、誰? 郁江ちゃん?」
扉を挟んで聞き返す。
「男の子よ」
「……
先生が話を聞き、委員長の彼を様子見にやらせたのかもしれない。
だが、母親の返事は違った。
「初めて見る子で、相羽君。知ってる?」
「嫌っ。帰って!」
「やっぱり、何かあったのね。その子、謝りたいって」
「嫌よ! 会いたくないのっ。帰ってって言って!」
「とてもすまなさそうな顔して、外で待っているわ」
「いいから!」
純子はベッドから降り立つと、扉まで駆け寄り、勢いよく引き開けた。
母親が、びっくりしたように見下ろしてくる。
「いいから……帰ってもらって」
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