やはり女として生きたい

春風秋雄

誰もいないと思って入った温泉

なんで、こんなところに泊まることになったのだろう?

街灯もまばらで、暗い夜道をせわしなくハンドルを操作しながら俺は情けない気分になっていた。

ネットの宿泊サイトで出張先の街中のホテルを探したが、どこも満室で、ビジネスホテルはおろか、カプセルホテルすら空いてなかった。この地には年に何回か出張でくるが、いつ来てもネット検索すれば当日でもどこかのホテルに泊まれた。3日前に出張が決まって、ホテル予約をしなくてもどこか空いているだろうと、高を括っていたが、何かの会合でもやっているのか、どこも空いてない。仕方なく、街中から車で1時間弱離れた、さびれた温泉地の旅館に電話をし、やっと泊まるところを確保した。幸い明日のアポイントは午後からだったので、移動時間はかかっても朝はゆっくりできる。遅い時間に連絡したにもかかわらず、夕飯を用意してくれるということだったので、到着は9時ごろになるが良いかと念をおして用意してもらった。

旅館は歴史を感じる外観で、それほど大きくはなく、30代前半と思われる女将が迎えてくれた。こんなさびれた街に似合わない綺麗な女性だった。

「遅い時間に無理を言って申し訳ないです。どこのホテルも空いてなくて、やっとここを見つけたのです」

「それはそれは大変でしたね。今日は何かの学会の集まりらしくて、街中のホテルや旅館は一杯らしいです。さすがにこんなところまで足を伸ばす方はいないようで、うちはお客様を含めて3組様だけですので、ごゆっくりお寛ぎください」

他の客は、老夫婦が一組と、子供連れの家族が一組とのことだ。いずれも、この先を少し行ったところにある葡萄園にブドウ狩りに行くのが目的らしい。

仲居さんは通いらしく、すでに帰ってしまったようで、食事は食堂の片隅で頂いた。見た目はそれほど豪華ではないが、ひとつひとつの料理に手が込んでいて、とても美味しかった。


俺の名前は中垣悠人(なかがき ゆうと)。全国展開をする進学塾のフランチャイズ開拓の営業をしている。会社は塾の運営ノウハウを提供し、資金を持っている人にフランチャイズとして塾経営をしてもらう営業だ。俺はすでにこの県下で3人のオーナーを口説き落とし、3店舗の塾を展開していた。そして、4人目のオーナーを営業している最中だ。

毎日のように全国を飛び回っているので、彼女をつくる暇もなく、36歳だというのにまだ独身だった。


食事のあと、今日の打ち合わせの結果レポートや明日の資料を作っていたら、いつのまにか12時を回っていた。明日はゆっくりできるとはいえ、そろそろ風呂に入って寝ようと、浴衣に着替え大浴場へ向かった。女湯はすでに電気が消され、男湯だけはまだ入れるようだった。脱衣場の籠に衣類を入れ、タオルだけ持って浴室の扉を開けた。湯煙の中、隅の方にお湯につかっている人影が見えた。宿泊客は他に老夫婦と家族連れがいると言っていたが、こんな時間に俺以外に入る人がいるとは思っていなかった。かけ湯をしてお湯につかって、そちらを見ると、男性ではなく、女性だった。

「あれ?男湯と書いてあったと思ったので入ってしまいました。ここ女湯でしたか。すぐ出ます」

俺はそう言って立ち上がろうとすると、

「大丈夫ですよ。私がもう入る人はいないだろうと思って男湯に入ってしまったのです。私はもう出ますので、ごゆっくりなさって下さい」

女将の声だった。

「あ、そうだったんですか。私が遅い時間に入ったのが悪かったんですね。女湯ではなかったので安心しました」

「いいえ、ここは何時に入って頂いても構わないのですよ。女湯のお湯を落としてしまったものですから、男湯に入ってしまった私が悪かったんです。お仕事をなさっていたのですか?」

「ええ、今日の打ち合わせの報告と、明日の準備をしていました」

「東京から来られたのですよね?こちらにはよく来られるのですか?」

「そうですね。この2年くらいは年に3~4回は来ています」

「こんな遠くにお泊りになったら、明日の仕事に支障がでるのではないですか?」

「まあ、こればっかりは仕方ないですよ。幸い今回の出張は時間的に余裕があるので、温泉と美味しい料理を楽しませてもらいます」

「いつまで滞在される予定なのですか?」

「一応ここには2泊予約させて頂きましたが、3泊の予定です。3泊目は街中のホテルが空いていればそっちに移ろうと思っています。どうしても空いてないようなら、3泊目もここに泊めて頂きたいのですが」

「うちは全然かまいませんよ。他のお客様は明日までの宿泊で、明後日はまったく予約が入っていませんから」

「では、その時はお願いします」

「では、私はそろそろ出ますので、お目汚しでしょうから、少しの間そちらを向いて頂けますか」

「お目汚しなんて、とんでもないです。こんな綺麗な方の裸なんか見たら、興奮して明日は仕事になりませんから、見ないように向こうを向いています」

「まあ、お上手ですね」

女将は笑いながら立ち上がり湯船を出て行った。俺は女将を見ないよう外を見ていたが、窓ガラスに女将のスタイルの良い後姿が映っており、ドキリとした。


翌日は、クライアントに既に運営しているフランチャイジーの塾を見学させたあと、ひとりで他のフランチャイジーのところへ回り、塾運営が順調であるか確認したので、また旅館に戻るのが遅くなった。遅くなることを伝えていなかったが、女将はすぐに食事の準備をしてくれた。再び食堂での食事となったが、今日は女将がそばについて給仕をしてくれた。

「結局どこのホテルも空いてなかったので、明日も泊めて頂きたいのですが、大丈夫ですか?」

「ありがとうございます。大丈夫ですよ。うちは大歓迎です」

「ここの料理は本当に美味しいですね。板前さんは、ご主人ですか?」

「いいえ、雇いの板前です。以前は義父が板場に立っていましたが、2年前に引退して今の板前さんに来てもらいました」

「じゃあ、ご主人は帳場の方ですか?」

「主人は6年前に他界しました」

「そうなんですか。女将さんは他家からお嫁さんとして来られたのですよね?ご主人がいないのに、この旅館を切り盛りされているのですか?」

「そうですね。前の女将が病で仕事がきつくなったと言って、慌てて私を迎えたようです。2年くらい、前の女将について仕事を教えてもらっていたのですが、いよいよ女将が床に臥せってからは、私が一人で切り盛りしてきました」

「お子さんはいらっしゃるのですか?」

「子供ができる前に主人が他界したものですから、跡取りもいない状態です」

「そうすると、この旅館の将来が心配ですね」

「義父は私が再婚して、ここを続けていくことを望んでいますが、こんなさびれた旅館に来てくれる人もなかなかいませんし、私自身の年を考えると、もう子供を作ることも難しくなってきますので、私が動けなくなったら、暖簾をおろすしかないかなと思っています」

「今の板前さんは、そういう対象ではないのですか?」

「残念ながら、板さんは結婚されているのです」

「そうですか。失礼ですが、女将さんは、いまおいくつなんですか?」

「32歳です。今でも子供を産むのは難しい年齢になってきているのに、再婚なんて、いつになることやら」

「今は高齢出産でも、ちゃんと元気に産んでいる人はいくらでもいますので、望みを捨てる必要はないですよ」

「ありがとうございます。お客様にこんな話をしてしまって、申し訳ないですね。中垣さんの人柄なのでしょうね。ついつい何でも話してしまいそうです」


昨日と同じように、仕事をしていたら風呂に入る時間が遅くなってしまった。また女将が風呂に入っていないかと、かすかに期待したが、今日は誰も入っていなかった。

身体を洗い、お湯につかっていると、脱衣場に人の気配がした。扉がそろっと開いて女将が声をかけてきた。

「入っていらっしゃるのは、中垣さんですか?」

「そうです。もうお湯を落としますか?」

「それは大丈夫です。もしご迷惑でなければ、今日もご一緒させて頂いてもよろしいでしょうか?」

「どうぞ、どうぞ。私は向こうを向いていますから」

俺は窓に映る、女将の姿を見て、何かを期待せずにはいられなかった。女将は、かけ湯をしてから俺から離れたところに体を沈めた。

「長いこと女将をやっていますが、お客さんと一緒に風呂に入るのは中垣さんが初めてです。前の女将からは絶対あってはならないことと言われていたのですが、昨日は偶然だったとしても、今日は中垣さんが入っていらっしゃると知っていながら入ってしまいました」

「私としては嬉しいですけどね」

「もう少し中垣さんとお話がしたくなっちゃたんです」

「普段は、たわいない話をする相手はいないんですか?」

「いないですね。義父は義母の介護で別宅に住んでいますし、友達と言える人もいないですから、一日のうち会話するのは従業員だけで、仕事の話ばかりです。だから、さっきみたいな話をする相手は誰もいなかったんです」

「お休みの日とかはどこかへ出かけたりしないんですか?」

「この仕事をしていると、休みなんてないですよ。予約が入ってない日でも、なんやかんやで忙しいですから」

「たまには思い切って休んで、どこかへ旅行でもいかれたらいいのに。よその旅館を見てみるのも勉強になりますよ」

「できることなら、そうしてみたいですね。東京へも行ってみたいです。私、まだ東京へ行ったことがないんですよ。東京はどういうところですか?」

俺は、東京の話をしてあげた。そして、女将に問われるまま、仕事の内容や、まだ独身だということも、ついつい話してしまった。

長話をして、俺はのぼせそうになってきた。

「女将さん、のぼせそうになってきたので、私はそろそろ出ます」

「ごめんなさいね。私の話に付き合わせて。じゃあ、私は向こうを向いていますから」

俺は湯船から出て、出口へ向かった。すると、女将が俺を呼び止めた。

「中垣さん」

「はい」

俺は返事をして思わず振り向いた。女将は窓を見ながら言った。

「窓ガラスに映ってるんですね」

俺は何も言えなかった。

「これなら、わざわざ向こうを向いてもらっても意味なかったですね」

「まあ、気持ちの問題です」

俺は咄嗟にそう言った。すると女将は笑いながら

「そうですね。気持ちの問題ですね。でも直接見るより、こうやって映っているのを見る方が、情緒があっていいですね」

「何とも言えないエロスがあります」

「中垣さん、前を隠さないと、見えちゃいますよ」

「大丈夫です。さっき女将さんのも見させて頂きましたから」

俺はそう言って風呂場を出て行った。


営業はうまくいった。4人目のオーナーから良い返事を頂いた。次回契約書を交わすことを約束し、その時は運営担当を連れてきて、細かい打ち合わせをすることになった。

昨日より早めに旅館に戻ったら、食事は部屋に用意してくれた。

「お仕事の首尾は上々だったようですね?」

ビールをコップに注いでくれながら女将が言った。

「わかりますか?」

「お顔を見ていればわかります」

「クライアントが契約の意向を示してくれました」

「それは良かったですね。そうすると、またこちらに来られる機会が増えますね」

「ええ、ただ、次回来るときは他のスタッフも一緒に来ますから、こんなに呑気に美味しい料理を食べて、温泉につかると言うわけにはいきませんけどね」

「それはそうでしょう。今回はたまたま街中のホテルがいっぱいだったので、ここにお泊り頂いただけですから」

「私一人なら次回もここに泊まりたいですけどね」

「当館を気に入って頂けましたか?」

「料理が美味しいのも魅力ですが、何より女将さんの魅力が大きいです」

女将はふっと俺を見て一瞬黙り込んだが、またビールを注ぎながら言った。

「東京の方はお口が上手ですね」

「本心ですよ」

女将は、それ以上そのことには触れず、話題を変えた。


昨日よりはるかに早い時間に風呂に入った。窓ガラスのことがバレたので、女将は入って来ないだろうと思ったからだ。今日の宿泊客は俺だけだと言っていたので、女湯は最初から電気が消えていた。

湯船につかっていると、脱衣場に人の気配がした。女将は、昨日のように声をかけて了解をとることもなく、いきなり浴室に入ってきた。かけ湯をして立ち上がると、こちらに近づいてきた。そして俺からそれほど離れていないところに体を沈めた。

俺は唐突に聞いた。

「ご主人が亡くなられたときに、ここを出ようとは思わなかったのですか?」

「ここを出ても、私の行くところはありませんでしたから。実家は兄の家族が住んでいて、私が帰っても邪魔者扱いされるだけですし」

「行く当てがあれば、今でもここを出ることを考えますか?」

「どうでしょう。その場になってみないとわかりませんね。義父と義母の生活のこともありますし、従業員の方々の生活もあります。それらを犠牲にして自分の幸せをつかもうとする勇気があるのかと言われると自信ないですね」

「まったくの第三者である私から見ると、嫁いだ先とは言え、血の繋がりのない人たちのために、女将さんが犠牲になっているような気がするんですよね」

「第三者から見ると、そう映るんでしょうね。でも私は女将という仕事が好きですし、誇りももっています。とてもやりがいのある仕事なんです」

「そうですか。すると、やっぱり再婚という道がベストなんですかね」

「再婚という方法がベストかもしれませんが、他にベターな方法があります」

「ベストではないけど、ベターな方法ですか?」

「ええ。決して褒められた方法ではないですが」

「どういう方法ですか?」

女将は俺の顔を見ながら、静かに言った。

「再婚せずに、子供だけ作るという方法です」

俺は意表を突かれて、何も言えなかった。

「今日は中垣さん以外にお客様はいらっしゃいません。従業員もすでに全員帰って誰もおりません。今、この旅館の中には中垣さんと私だけです。後ほど、お部屋にお伺い致します。ご迷惑だと思われるのでしたら、部屋を開けずに、そのままお休みください」

女将はそれだけ言うと、向こうを向いてとも言わず立ち上がって、風呂場を出て行った。俺は何が何だかわからないまま、立ち上がった女将の姿を見る余裕すらなかった。


風呂からあがり、1時間ほど経った頃、呼び鈴ではなく、部屋のドアを静かにノックする音がした。俺はドアを開けた。

俺は部屋の中に戻り、布団の上に胡坐をかいた。女将は、布団の横に座った。俺は女将の顔を見ながら言った。

「私は、今日が最後で、もうこの旅館には来ないかもしれないのですよ。それでも良いのですか?」

「もちろん承知の上です。もし再婚という道を選ぶなら、どんな人と結婚するかわかりません。この旅館に来てくれると言う奇特な人は、そうそういるわけではないですから、もしそういう人がいれば、こちらが選んでいる余裕はありません。そうなると、好きでもない人と、もっと言えば嫌いなタイプの人であったとしても、その人に抱かれて、子供を作るということになります。女将という仕事は好きですが、そのために女としての気持ちを犠牲にするのは耐えられなくて、ずっと迷っていたのです。でも中垣さんに出会って、この人にだったら抱かれたい。この人との子供だったら大切に育てられると思ったのです。決して褒められた方法ではないですが、この方法が私の女としての生き方としてベストな方法だと思ったのです。決して中垣さんにご迷惑をおかけすることはありませんので、よろしくお願いします」

「だけど、たった1回で子供ができるとは限りませんよ。出来ない確率の方が高いですよ」

「わかっています。その時は、今日の日を私の女としての最後の思い出にして、明日以降は女を捨てて女将に徹するつもりです」

そこまでの覚悟を聞いて俺も決心した。

「女将さん、名前を教えてもらえますか?今日だけは名前で呼ばせてください」

それを聞いて女将さんは目を潤ませながら答えた。

「真由美です」


あれから2か月が過ぎたが、真由美さんに子供が出来たかどうか聞いていない。宿帳には俺の携帯の番号を記入していたし、俺は俺で、連絡しようと思えば旅館に電話すれば真由美さんと話すことはできた。しかし、真由美さんから連絡はなかったし、俺からも連絡をしなかった。

2か月ぶりに通る道は、前より走りやすく感じた。前回は社用車だったが、今回は自分の車だということもあるかもしれない。今回は電話予約ではなく、ネットで予約した。でも真由美さんは俺だとすぐに気づいただろう。

旅館の駐車場には結構な数の車が駐車していた。平日にもかかわらず、にぎわっているようだ。これだけの宿泊客がいては、女将は忙しいだろう。来る日を間違えたかと少し後悔した。


玄関を入ると、仲居さんが対応してくれた。女将は他のお客さんの対応に追われているのだろう。仲居さんは俺のことを覚えていてくれた。

「今日は混んでいて申し訳ないです」

「旅館が混んでいるということは良いことではないですか」

「つきましては、お部屋は本館ではなく、離れの部屋になりますのでご了承下さい」

「離れなんかあったのですか?」

「ええ、めったに使わないのですが、今日みたいに混みあった時にご利用頂いています。まだ新しいので、部屋自体は綺麗なのですが、大浴場までちょっと遠くなってしまいますので、ご迷惑をおかけします。その代わり、部屋には小さいですが露天風呂がついていますので、よろしければご利用下さい」

通された部屋は本当に綺麗だった。露店風呂も小さいが風情があっていい。俺はかなり気に入ってしまった。

料理は部屋に運ばれてきたが、仲居さんが給仕をしてくれて、女将はいまだ顔を出さない。ひょっとして俺に会いたくなくて避けているのだろうか。

食事をして、しばらくすると、仲居さんが布団を敷いてくれた。俺は大浴場まで行くか、露天風呂にはいるか迷っていた。そうこうするうちに、女将が現れた。

「中垣様、ご挨拶が遅れて申し訳ありません。ようこそおいで下さいました」

「久しぶりです」

「今日も出張ですか?」

「いや、今日はプライベートで来ました」

女将は驚いた顔で俺を見た。

「その様子だと、子供は出来なかったようですね?」

「ええ、残念ですが」

女将は申し訳なさそうに言った。

「実は、仕事を辞めたのです」

「お辞めになったのですか?」

女将は驚いて聞き直した。

「今住んでいるマンションも引き払う予定です。つきましては、ここで私を雇ってもらえないでしょうか?」

女将はジッと俺の顔を見て考えていたが、ようやく口を開いた。

「当旅館では、現在従業員の募集は致しておりません。残念ですが、中垣様をうちでお雇いすることは出来かねます」

俺は、予想外な回答が返ってきたので落胆した。せっかく仕事を辞めてきたのに、俺の独りよがりだったのかと思っていたら、女将が言葉を続けた。

「しかしながら、現在、女将の亭主は募集しております。それでよければ検討させて頂きますが」

「是非、是非ともお願い致します」

「ただし、女将の亭主となると、採用試験がございますが、よろしいですか?」

「採用試験?そんなのがあるのですか?いいですよ。その試験受けます」

「わかりました。それでは準備がありますので、11時になったら、再度お伺いしますので、それまでお待ちください」

女将はそう言って部屋を出て行った。

採用試験って、何をするのだろう?外国人客が来たときのために、英会話とか試されるのだろうか?


11時になり、再び部屋を訪れた女将は、着物を着換え、浴衣に羽織の軽装になっていた。

「それでは、採用試験を始めさせて頂きます」

女将はそう言ったかと思うと、いきなり俺に抱きついてきた。

「ちょっと、ちょっと、一体何を?」

「決まってるじゃない。亭主としての採用試験と言えば、子作りができるかどうかでしょ?」

「そんなの2か月前に試したじゃない」

「そんな昔のことは忘れた」


汗だくになった二人は、露天風呂に一緒に入った。

「本当に後悔しない?」

「もう会社辞めてきたんだから、後戻りはできないよ」

「ここで雇ってくれって言ってくれた時、うれしかった」

「雇えないと言われたときは肝を冷やしたけどね」

「うれしすぎて、どう答えていいのかわからなかったの」

「この部屋いいね。混んでいてこの部屋になったって聞いたけど、ラッキーだったな」

「予約欄にあなたの名前を見た時から、この部屋って決めてたの」

「そうなの?」

「ここなら他のお客さんに気を使わなくても一緒に風呂に入れるでしょ?それに、多少大きな声出しても、他の部屋からは聞こえないし」

「真由美さんの声大きいもんな」

真由美さんは膨れっ面をして俺をにらんだ。

「あと、言っておかなければならないことがあるの」

「なに?」

「あれから、月のものがないの」

「え?さっきは出来なかったって言ってたじゃない」

「あなたに気をつかわせたくなかったの。それにまだ出来たかどうかわからないし」

俺は、喜びが心の底から湧いてきた。あのとき、この旅館に泊まって本当に良かったと思った。

俺は、真由美さんの肩を引き寄せ、まだ命を授かっているかどうか、定かでないお腹を優しく撫でた。

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