拝啓 南極より愛を込めて

雪島鷹也

拝啓 南極より愛を込めて

「は? いまなんて言った?」


 注がれたばかりのシャンパンは、まだグラスの中できめ細やかな気泡を散りばめている。薄暗い店内の照明を受けて淡く黄色に輝く液体から立ち昇るしゅわしゅわという音が、胸のざわめきを掻き立てる。


「もう~ちゃんと聞いてって言ったのに」

 不満そうに頬を膨らます愛咲あさの表情は明るい。というよりも蕩けている。陽だまりのような彼女の笑顔はなによりも好きなのに、ちくりと胸が痛んだ。

 聞き間違いであって欲しい。

 あたしのそんなささやかな願いを――。


「わたしね、プロポーズされちゃった」


 真正面からぶん殴られた。

 室屋恵那むろやえな、二十九歳。

 この瞬間、あたしは世界が崩壊すればいいのにと本気で願った。


*****


 愛咲との付き合いは中学時代にまでさかのぼる。


 それまでの徒歩圏内の小学校から、電車通学に切り替えた中学校に知り合いはほとんどいなくて、ようやく中学でできた初めての友達が彼女だった。


 美味しいものを食べるのが好きなんだよね。


 それが彼女の口癖で、だからか彼女はクラスの中でもふくよかな体型をしていた。彼女と一緒にお昼を食べていると、彼女の幸せそうな笑顔をトッピングに、こちらの代わり映えしないお弁当ですら何割増しで美味しく感じられた。愛咲の笑顔には人を幸せにする力があるのだと本気で思っていた。


 よく話す友達。

 一番の親友。

 そして――。

 愛咲と過ごす時間に比例して、膨れ上がっていく感情に名前をどうつけたらいいのか分からなくなっていった。


 愛咲のうなじから香るミルクのような甘い香りに胸がどきりとした時、ああ、これはもう友情じゃないんだと悟った。


 あたしは愛咲のことが好きだった。


 高校生になって自分の気持ちに気付いた後も、あたしはそれを彼女に伝えることはしなかった。宝石箱の中に宝物を大事にしまうように、自分の気持ちを心の奥底にひっそりと隠して、彼女の傍にいる道を選んだ。


 当然のように同じ大学を受け、大学二年になる頃にはルームシェアを始めた。

 大好きな愛咲が朝から晩まで同じ空間にいる。

 それが恋人という関係じゃないとしても、あたしは幸せだった。

 ただ、奥手とはいえ愛咲が恋人を欲しい気持ちがあるのかどうかはどうしても気になってしまって、ご飯時に訊ねたことがあった。


「えー、恋人? ないない。だって恋愛って酸いも甘いもかみ分けてって言うでしょ。それに比べたら美味しいご飯なんて、酸いも甘いも辛いも全部揃ってるし。こっちの方が断然幸せでしょ~。甘さだって、このシュークリームほどの甘さは恋愛じゃ感じられないんじゃないかな」

「たしかに。鼻の上にクリームつけながら言われると説得あるわ」

「うそっ、それは言ってよ! 恥ずかしいから!」


 愛咲の花より団子の性格に、あたしは安心した。

 ただ、愛咲にその気がなくても、悪い虫はどこにでも湧く。

 大学に入ると下心満載で近寄ってくる男が後を絶たなかった。自慢じゃない、愚痴だ。

 要は愛咲が朗らかで優しいから組み伏せやすいと踏んでくる。溢れ出る発情を隠すこともできやしない下劣な人間を追い払うのは、あたしにとってのライフワークみたいなものだった。


 あたしの愛咲を汚させてなるものか。

 さながら番犬のように愛咲の隣でうーうー唸っていたおかげか、そういったクズの被害に遭うことは無かった。


 でも、本当のクズはあたしだったかもしれない。

 愛咲のナイトを気取ってるくせして、その原動力は彼女の傍にいたいという抑えきれない恋心から来ているのだから。 

 自分の感情だけはキレイなものだなんて滑稽だ。


*****


 小指の先ほどの罪悪感は、胃の底で消化されない小骨のように残った。咎を責められるように、ときおり胸がずうんと重く感じられた。


 それがきっかけではなかったけれど、会社は別々の道に進んだ。ここにきて初めて、あたしは彼女とは違う道を歩むことになる。

 とはいえ、互いの勤務地がさほど家から遠くなかったこともあり、ルームシェアは引き続き継続されることになった。


 社会人になって違う会社勤務になれば、今までのように愛咲とは触れ合えなくなる。そんな寂しさもあって、自らルームシェアを解消する勇気は無かった。愛咲の方から「ルームシェアを続けたいんだけど、ダメかな?」と言われた時は思わず風呂場で小躍りするくらいには嬉しかった。


 メーカーに勤務する愛咲は規則正しい時間で動いていたけれど、あたしはいわゆるブラック企業のエンジニアとして、命を削り取って時間を捻出するというデスマーチを日がな過ごすことも珍しくなかった。


 当然、平日はまともな会話もできず、繁忙期ともなると休日は朝帰りの後の睡眠で一日が過ぎていくので会話することもなかった。


 それでも、家の中のあらゆるところに愛咲の存在を感じることができたから頑張ることができた。彼女が用意しておいてくれた夜食を一人レンチンして食べると、優しさが腹の底から全身に染み渡るのを感じた。

 疲れが溜まっているあたしがそのままソファやベッドで寝ないようにと、お風呂にちょっといいバスソルトを溶かして誘い、人間を辞めないでいさせてくれた。


 そんな生活がずっと続くと思っていたし、何か愛咲に変化があれば気付けると、あたしは自惚れていた。

同じ屋根の下で暮らしているんだから。

 そんな考えに甘んじたあたしをぶん殴ってやりたい。


*****


「どどど、どうも初めまして、川田かわたです」

「室屋です」


 差し出された手を一瞥し、席に着いた。

 愛咲の前に座るのはいつものことなのに、その隣に見知らぬ男がいることが、このうえなく腹立たしかった。


ひろし君、そんな緊張しなくて平気だよ。恵那はわたしの一番の親友だから」


 残酷な罰ゲームだ。

 あたしが救われてきた陽だまりのような笑顔が、いまはその男にだけ向けられている。愛咲の隣の位置も、笑顔も、全てをこの男が奪いとった。

 あたしは親友という名のカテゴリーで一番に成り下がった。愛咲の一番じゃない。


 愛咲から婚約者を紹介したいと誘い出されてきたのもの、相手の男は正直拍子抜けするほど普通の男だった。ニコニコとしていて優しそうな雰囲気は感じる。だけどそれだけだ。


 緊張から額には玉のような汗をかいてるくせに、ハンカチ一つもっていなくて愛咲から借りる体たらく。紹介されるエピソードも、「お恥ずかしい話で」と枕詞をつけて始まることばかりの失敗談。


 イケメンでもなければエリートでもない。

 愛咲がそういう分かりやすい釣り書きに引っかからなかったことは嬉しい。さすがあたしの愛咲だと鼻を高くしたい。でも同時にすごく嫌な気持ちにもなる。

 だって、それはまるで愛咲がこの人の本当の良さに惹かれてしまった本気の恋なんだって気づいてしまうから。

 あたしにはこの人の良さは分からない。分かりたくもない。


 でも、そんなあたしの気持ちをよそに、その男の横で愛咲は目じりに涙を溜めてけらけらと幸せそうに笑っている。それが悔しくて、羨ましかった。


 意趣返しとばかりに、あたしだけが知る愛咲の可愛らしいエピソードを語っても、この男には何も響いて無さそうだった。愛咲のことを誰よりも理解しているのはあたしなんだと言っているのが、この男には何一つ伝わっていない。

 あたし一人だけが空回りしている。


「このお店、ワインのペアリングがとても美味しくて気に入ってるんです」

「そうそう。博君に教えてもらってね。ほら、恵那も美味しいって言って飲んでたワイン、ここで知ったんだ」


 そう言えば最近食卓にワインが並ぶことが増えていた。

 業務に忙殺されて思考を放棄していたことに気付く。なんでその変化に気付かなかったんだろう。愛咲はあの時、何か言いたそうにしていなかったっけ。


 大きなプロジェクトの大詰めで、ここ半年ほどはほとんど家でゆっくりすることはできなかった。

 ゆっくり話をしたいな、という愛咲の希望を叶えたのがつい先日。休みの日にフレンチを二人で食べに行って、その場でプロポーズの件を伝えられた。

 あの時、あたしがすぐに話を聞いていたら、まだ付き合い始めのばかりで、勢いそのままにプロポーズまで突っ切ることを阻止できたんだろうか。

そんなことを考えながら飲むフルボディの赤ワインはずいぶんと渋く感じた。


「恵那とはさ、こういうお店来なかったよね。ワインとか全然わかなかったし」

「ああ、うん」

「構える必要なんてないですよ。ほら、こういうお店にはきちんとソムリエさんがいるんで、知識がなくても楽しめるワインを勧めてくれますから。僕、新しいお店とか料理とか、そういうのにチャレンジするのが好きなんです」

「うん、だよね。博君が教えてくれてから、なんか世界がわーっと広がった感じ。ワインとかずっと気になってたんだけど、全然分からなくて敬遠してたんだよね。わたしたちってさ、ほら、イタリアンとか行っても、いつもハウスワインばかりだったもんね」


 指先が冷えるのを感じた。

 ワイングラスの脚に添えた指を離し、「ちょっとお手洗いに」と席を立った。

 愛咲の視界から逃れると同時に早足でトイレに駆け込み、鍵をかけた。


 ――恥ずかしい!


 顔から火が出るほどの恥辱に身悶えしてしまう。

 誰が愛咲を一番理解しているって?

 滑稽にもほどがある。


 愛咲はワインには興味がないと勝手に思って、彼女の好きなことだけを一緒にやって、それが彼女を理解していたということになるんだろうか。

 いうなれば、あたしは愛咲を鳥かごの中に閉じ込め寵愛していただけだ。


 でも、あの男は違う。


 愛咲を知らない世界へ手を繋いで誘い、愛咲の世界を広げた。

 あいつは完璧なイケメンエリートじゃない。単に人が良いだけの奴だ。でも、なぜだかあの男の横に座る愛咲があまりにもお似合い過ぎて、付け入るスキが見つからなかった。互いを補完する関係は、まるでバラバラだったパズルのピースがぴたりと嵌まるような一体感を感じさせた。


 二人を見ていると、自分が愛咲の人生にとって外野であることを突き付けられているようで、たまらなく辛く、悲しく、恥ずかしくて――消えてなくなりたかった。


*****


 矮小な自分を卑下するように、それ以降、あたしは愛咲の結婚話を避けて通った。


 ごめん、仕事が忙しいから。

 それを免罪符として、仕事が早く終わった日でも、わざわざ遅くまで無駄な残業をして過ごした。すごいな、室屋。やる気じゃないか。鈍感な上司からは有難いことに多くの仕事を振られた。これで家に帰らない理由ができた。


 外野のあたしがどう振舞おうと愛咲の結婚話に関係は無く、話はつつがなく進行した。

 日取りも決まり、招待状を準備する段階になると、愛咲は話から逃げ回るあたしをレストランへと連れ出し、こう告げた。


「友人代表スピーチなんだけど……恵那にお願いしていい?」


 きたか。

 愛咲がそういう話をしてくる予感はしていた。

 中学からの同級生で、大学から現在に至るまでずっと同居生活をしているんだ。あたし以上に愛咲の友人代表が適任な人選はない。

 分かっている。

 分かっていても、でも――。


「恵那が目立つこと好きじゃないのは知っているんだけど、でも――」

「ごめん!」


 申し訳なさそうに顔を歪める愛咲の言葉を遮り、あたしは続けた。


「実はさ、結婚式出られなさそうなんだよね」

「……え?」


 ぐにゃりと歪む顔を見ないよう、手元のグラスに視線を落としてまくしたてる。


「いやあ、実はさ、この間のプロジェクトが大成功でさ、それで報奨旅行っていうの? 会社のお金で海外に行くことになってさ。それがどこだと思う? なんと南極よ、南極。あたしさ、小さな頃からいつか南極いってペンギンとたわむれて、オーロラ見るのが夢だったんだ。凄い偶然だよね。その日程が愛咲の結婚式と被ってて。でもほら、二人の夢が同じタイミングで叶うなんて、凄いロマンチックじゃない?」


 顔は怖くて上げられなかった。

 喋っている傍から、テーブルの下の膝はがくがくと震えていた。

 友人代表スピーチだけは無理。

 あたしは絶対に笑って愛咲の結婚を祝えないから。

 畳みかけるように、そして――未練を断ち切るように――最期の言葉を告げた。


「ちょうどいいからさ。ルームシェアの解消の日取りも結婚式に合わせようよ。二人揃って違う未来に向けての出発みたいで良くない?」


 言った。

 言ってしまった。


「ごめん、会社からの電話だ。はいもしもし、ええ、はい。……ごめん、現場でトラブったみたいで今から会社行かないと。じゃ」


 愛咲が一言も発せない雰囲気を作り上げ、自分の言いたいことだけを一方的に宣言してその場から尻尾を巻いて逃げた。会計を手に取って席を立つ瞬間、視界の隅に映った愛咲の顔は、今にも泣きそうなほど歪んでいた。


 あたしは愛咲のそんな表情を初めて見た。

 あたしがそうさせたんだ。

 苦々しい感情はドロドロに溶けたチョコレートみたいに、喉にへばりついてビターな味わいをそのままにしばらく消えそうにはなかった。


*****


 物件の解約日はさすがに結婚式当日とはいかなかったものの、あたしは早々に別の物件を見つけ、家具や荷物を運び出していた。


 最後の夜は六畳の自室の真ん中で、偽装旅行の為に購入した寝袋にくるまって寝た。


 そして当日――。


 まだ陽も昇りきっていない朝焼けの空を寝ぼけ眼で見上げ、あたしはリュックを担いで家を出た。


 あの日以降はほとんど愛咲と会話もせず、顔を合わせても気まずいからと避けるようにして過ごしてきた。数年間の同居の終わりがこんな結末だなんて思いもしなかった。


 マンションを離れてからも、愛咲を起こさないようにと静かにかちゃりと回した鍵の音が、頭の片隅で何度も鳴っていた。自分の半身を奪われてしまったかのような喪失感を誤魔化すように、その音色にすがった。


 実際に南極に行けるような休暇を得られるはずもなく、とはいえ旅行にまるでいかないのもアレだからと、見栄で一泊二日の香港へのチケットを購入していた。


ただ、あたしの頭がまともならば、香港という場所は完全防備の冬山仕様のリュックで向かう場所ではない。空港の待機列では、同じ香港へと向かう同年代の薄着の女性たちが、いったい何事かとぎょっとした顔であたしを見返していた。


 暑くてたまらない厚手のジャンパーを脱ぎ去り、空港の片隅で携帯を手に取った。飛行機は昼過ぎの時間で、ご飯を食べたり、土産物屋を巡ってもまだまだ時間があった。どうせ連絡する相手もいないけれど、手持無沙汰が限界だった。


 そろそろ式は始まっただろうか。


 愛咲には電報を送ってある。面と向かっては祝う言葉を述べられなくても、文字に起こした文章だったらあたしは饒舌に嘘をつける。美辞秀麗に着飾った祝いの言葉が並べられた電報で誤魔化した。書き出しはこうだ「愛咲へ結婚おめでとう。南極にいる恵那より」


 ぼんやりと思いを馳せながら携帯をいじっていると、一通のメッセージを受信した。相手は大学時代の友人だ。確か彼女も結婚式のリストには載っていたはずで――。


 警戒心なく開いたメールには本文は何もなく、ただ一枚の写真が添えられていた。

 真っ白なウェディングドレスに身を包んだ愛咲。


 思わず息を止めてしまうほど、キレイだった。


 でも、同級生の横で笑う愛咲の目は赤く充血しているように見えた。

 ずっとずっと、彼女の一番近くでその笑顔を見てきたから分かる。北海道を危ない運転で巡って食べ回った時も、大阪で食い倒れを実践した時も、福岡で鍋めぐりをしたときも――。あの時の方がもっと彼女の笑顔は輝いていた。

 だから、人生の晴れの日である今日、愛咲が一番輝けていないのはあたしが原因だ。


 これがあたしがしたかったのことなのか。


 彼女の門出を、自らの矮小な羞恥心やプライドで砂をかけて、それでのうのうとこれからの人生を歩むつもりなのか。

 一枚の写真はそうあたしに問いかけてきているような気がした。

 あたしの願いは――。

 搭乗開始のアナウンスをBGMに、あたしは空港を駆けだしていた。


*****


 会場となったホテルのスタッフの顔色が明確に変わったのは、登山家然とした奴がチェックインをするわけでもなく、ドレスや礼服に着飾った結婚式会場へと進路を切ったあたりからだった。

 すわ討ち入りかとばかりに周囲が騒然とし始める。


 お客様、お客様!


 丁寧に、けれども何とかして制止しなければと使命感に駆られた声を背後に聞きつつ、あたしは早足を止めなかった。背中のリュックサックが重い。折り畳み式のピッケルがぶらんぶらんとリュックの横で揺れている。


 式場はすぐに見つかった。

 重厚そうな扉は閉まっていて中の様子は伺えない。

 それまで歩むことだけを考え動かしていた足が初めて止まる。

 あたしは、ここにきて何をしたいんだろう。


「お客様、困ります。こちらは披露宴会場でして、ご招待された方以外は――」


 後ろから追い付いてきた職員があたしの腕を掴む。

 そうだ。

 無理やり中に入ったところで、あたしが愛咲にしたひどい仕打ちは消えやしない。それならば、あたしという存在をこれを機会に彼女の人生から消してもらった方がいいんじゃないか。憎まれ役になることで彼女が救われるならそれもアリかもしれない――。

 ただ閉じてある扉を前にしただけで、すっかりと熱くのぼせ上っていた頭が冷える。

 お前はお呼びじゃないんだよと言われている気がした。

 と、扉の奥から司会者の朗々とした声が響く。


「歓談中ですが、それではここで電報のご紹介です。ご友人の室屋恵那さんから。愛咲へ結婚おめでとう――」

「だめ、それはっ!」


 誤魔化しに満ちた言葉で、嘘の上塗りをするのは嫌だ。

 あれを聞いて愛咲が納得するとでも思ったか。あたしのバカ。

 制止を乱暴に振りほどき扉を押し開けた。


 参列者たちの視線は高砂の主役に向けられていて乱入者に気付く様子はない。唯一、電報を手にしている司会者だけがちらりと視線をあたしに送り、「え?」と固まった。


 まだ電報の内容は読み上げられていない。

 あたしは一直線に司会者の元へ歩み寄ると、その手から電報を奪い取ってその場でびりびりと破り割いた。

 それまで談笑に沸いていた会場がしんと静まり返るのを肌で感じた。


「……恵那」


 愛咲の声が耳に届く。でも、その顔を見ることが出来ない。


「すみません、この電報間違えで……その、失礼しました!」


 俯きながら逃げるようにその場を後にしようと一歩踏み出し、ふと目の前の空席が目に付いた。こじんまりとした四十人ほどが入る会場で、見知った愛咲のお母さんたちが座るテーブルに、一席だけが空席だった。


 そこに注目したのには理由があった。

 料理やお酒が運ばれている他の席と違って、その席はまだ折り紙のように細工されたナフキンがキレイに置かれたままだったからだ。披露宴は既に半分も過ぎている。親族が座る席で誰か欠席だろうか。


 ほんの数秒の出来事。

 あたしはじっと席に置かれた小さなネームプレートを見つけ、その場に崩れ落ちた。

 逃げる為の推進力が失われ、膝ががくんと折れる。


 愛咲の親族が座る席にある唯一の空席。それは――あたしの席だった。

 室屋恵那様。

 主のいないネームプレートは寂しそうに取り残されていた。

 友達としてじゃなくて、家族として。

 出席しないと伝えたのに、それでも席が用意されている。

 そこに確かな愛咲の意思を感じ取って、あたしは込み上げる感情を抑えることができなくなってしまった。胸を埋め尽くす想いは口を開いていないと苦しくて、開けたそばから嗚咽が漏れた。


「ごめん、ごめん、ごめんなさい」


 えうえうと声にならない声を上げ、滂沱の涙が頬を伝った。

 愛の形は一つじゃない。

 愛咲と恋人になるという道は断たれた。いや、そもそも最初からそんな道は彼女の前に用意されていなかった。でも、彼女はあたしのことを恋人じゃなくて、家族という形で受け入れてくれていた。

 なぜそれに満足できなかったんだろう。

 それだって素敵な愛じゃないか。

 どれほどの愛を、幸せを、彼女はあたしにくれたのだろう。


「……恵那」


 背中に温かな愛咲の体温を感じた。

 涙でぼやけた視界のまま、ゆっくりと声の方を振り返る。

 目と鼻の先に愛しい愛咲の顔があった。丁寧に仕上げられたせっかくのメイクの目元が崩れちゃっている。目じりから流れ落ちた一筋の涙の跡が残されていた。


「愛咲ぁ」

 溜まらずあたしは彼女を抱き寄せ、彼女の耳元でわんわんと泣いた。

「ごめん、ごめん。本当にごめん」

「わたしのほうこそごめん」

「愛咲があやまることなんかじゃないよ。ぜんぶぜんぶ、あたしが悪いの」

「ううん。違う。一人で浮かれて、ずっと一緒にいた恵那の気持ちを置き去りにしちゃってた。もっと最初からきちんと恵那と話せばよかった。きっと呆れられちゃって、それで恵那に捨てられちゃったんだと思った」

「そんな! あたしが愛咲を捨てるわけないじゃん!」

 びっくりして体を引き離すと、愛咲は真面目な顔で眉根を下げて言った。

「恵那がいなくなっちゃった部屋、すごく寂しかった。今までどれだけ恵那が傍にいて、わたしのことを見ていてくれたのか、支えてくれていたのかを今になってすごく実感したの。バカだよね。遅すぎる」

「違う。支えてもらってたのはあたしの方だよ。愛咲はその笑顔で、あたしのことを幸せにしてくれていたんだよ。だからどんなに仕事が大変でも乗り越えてこられた。……結婚するって聞いて、愛咲のことが取られちゃうって思って、それでどうしていいのか分からなくてこんな子供じみた真似して拗ねてた。でも、ここにきて分かったんだ。愛咲は今までも、これからも変わらずに愛情を向けてくれているんだって」


 至近距離でじっと愛咲の顔を見る。

 ああ、本当にキレイ。

 この笑顔が一番に向けられる相手はあたしじゃないけれど、愛咲の愛がなくなるわけじゃない。おめでとうというのは口惜しい。やっぱり愛咲の一番が誰かに奪われちゃうのは悔しい。それは本音だ。

 でも、これは心から言える。「ねえ、愛咲」

 涙をぐいと拭いて、あたしは笑って言った。


「ありがとう。出会ってくれて。あたしの人生は愛咲に出会ってからずっと幸せだったよ。できればずっとこのままだったらいいのになって思ってたのが本音だけどね」

 照れて頬が熱くなる。

「ひどいことしちゃったけど……これからも愛咲の傍にいていいのかな?」

愛咲はびっくりしたように目をくりりと大きく見開くと、あたしが大好きな陽だまりのような笑顔を浮かべて言った。

「わたしも幸せだったよ。これからも、ずっとずっとよろしくね。ありがとう、恵那」


 静まり返っていた会場に拍手が沸き起こる。

 視界の隅で、ちょっと困ったように、置き去りにされるもう一人の主役の姿が目に入った。

 見せつけるようにあたしはぎゅっと愛咲の体をもう一度抱き寄せた。ミルクの香りが鼻先をくすぐる。

 これくらいの意地悪は許して欲しい。

 ね、いいでしょ?


*****


 後日談ではあるが、一人暮らしをスタートさせ燃え尽き症候群に陥ったあたしは、なにをとち狂ったのか、あの時勢い任せに宣言してしまった南極旅行に取りつかれてしまった。


 来る日も来る日もペンギンとオーロラの夢を見ることになった結果、結婚式から一年の時を経て、嘘を真にする為にこうして南極の地に降り立った。


 ブラック企業は辞めてやった。

 これはあたしの人生の新たなる門出を祝う旅だ。


 見つけたペンギンの群れを大はしゃぎでカメラに収めつつ、あたしは愛咲へのメッセージをしたためる。

 書き出しはこうだ。

「拝啓、南極より愛を込めて」           

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