彼女はまるで彫刻の様で

川平 直

彼女はまるで彫刻の様で

 三三三×二四二mmの真っ白な四号キャンパスの前で葵はうーんとうなりながら自身の水筒に口を付けた。


 下書き用の鉛筆を手にしたままかれこれ三十分くらいこうしてにらめっこしているがいまだに目の前のキャンバスは真っ白のまま。


 いくら見つめたところで手を動かさなければ何も変わるわけないことはわかっているが、それでもこうしているうちに絵がふわ~と浮かび上がってこないだろうかとそんな都合の良いことを考えながらもう一度お茶を飲もうとするが水筒の中はすでに空っぽだった。


 葵は小さくため息をついて立ち上がり画材を片づけると、作品制作に取り組むほかの学生たちの間を縫うように油絵科の共用アトリエから外に出る。


 そよ風に首筋を撫でられて葵はぶるりと震えながら亀の子のように首を窄める、十月も半ばを過ぎて冬の気配も段々と大きくなりつつある。


 生徒の多くは進級や卒業制作の作業に取り掛かる時期で、学生としてはある意味今が一番忙しい時期かもしれない。


 だからいい加減、進級制作の下書きくらいは始めていないとまずいのだが、葵の作業は一向に進んでいなかった。


 ……きっとあの人はこんなことで悩まないんだろうな。


 そんなことを思うとまた小さなため息が漏れた。


「やっぱり私って凡人なんだな」


 自分を卑下したところで何の意味もない、そんなことはわかっているけれどそう思わずにはいられなかった。


 あの人と私は何もかもがあまりにも違いすぎるから。




 今日はもう授業もなかったのでまっすぐに寮へと戻ると、部屋の前に誰かが扉に寄りかかるようにして座り込んでいる。


 一瞬ギョッとする葵だったがすぐにそれが誰なのか分かって、今度は逆に力が抜けた。


「お帰り、葵」


 少し低い、秋風のような涼やかな声に名前を呼ばれて葵の胸が小さく跳ねる、そのことがすこしだけくやしい。


「いったい何をしてたのさぁ。危うく凍えて死ぬところだったじゃない」


 ちょっと怒ったようにそう言われるがこちらとしてはそんなことを言われる筋合いはない。


「何してたって絵を描きに行ってたの。レイこそ、鍵なら持ってるはずでしょう」


「今日は気分が乗らなくって。作業を早めに切り上げて帰ってきたら鍵がなくてさ、仕方がないから葵が帰ってくるの待ってたの」


 そういうことなら電話してくれればよかったじゃない、と言おうかと思ったがその言葉は口から出るころにはあきらめのため息へと変わっていた。


 どうせ鍵と一緒に携帯電話も部屋に忘れていったのだろう、このルームメイトが携帯電話を不携帯することは何も今回が初めてというわけじゃない。


 カギを開けるとレイは靴を乱雑に脱いで部屋へと上がっていった。


 哀れにも脱ぎ捨てられた靴を整えてから自分も部屋に入ると案の定レイの携帯はテーブルの足元に転がっている。


「携帯、床に置いてたら踏まれるよ」


 ともう何度行ったか分からない注意を口にしてみるけれど、当の本人は暖房の電源を入れながら「ごめん、ごめん」とあまり響いている気はしない、暖簾に腕押しとは多分こういうことを言う。


「じゃあ夕ご飯準備しちゃうから、その間にお風呂入っちゃってよ、お湯はもう入ってると思うから」


 はーい、とちょっとめんどくさそうに返事をしてお風呂場へ歩いていくレイを見送ると、ふと自分の言動がお母さんみたいだなと思えて葵はなんだか急に可笑しくなった。


 でもしょうがない、めんどくさがりのレイは言っておかないと二日くらい平気でお風呂に入らないこともあるのだ。


 まぁ言えば入るのでお風呂が嫌いというわけではないのだろうけど。


「葵、シャンプーの替えどこ?」


「それならいつもの開きに、ちょっと!」


 返事をしながら何気なくレイを見た瞬間、葵は慌てて目を逸らした。


 レイがワイシャツ一枚のあられもない姿でそこに立っていたからだ。


「裸で動き回らないでっていつも言ってるじゃん、もうっ」


「裸じゃないし、ほら上はちゃんと着てる」


「そうだけど、そういう事じゃなくて!」


 ふてくされたような表情をしたレイが濡れて張り付いた髪をうっとうしそうに耳に掛ける。


 シャワーを浴びて碌に体を拭かずに出てきたのか上気しほんのり薄紅色に染まった体からは水滴が滴り、濡れた白いワイシャツがレイ柔肌に張り付いてところどころ透けてしまっている。


 そんなレイの姿は下手な裸よりもずっと扇情的で葵は彼女の事をまともに見ることができなくなった。


「とにかく、そんな恰好で部屋の中を歩き回らないで!」


「そんなにお堅いこと言わないでよ、女の子同士なんだし」


 何気ない一言だった。実際レイはなんて事のない当たり前なことしか言ってない。


 でもそんな何気ない言葉が小さな棘になって葵の胸の奥をチクリと刺した。


 結局替えのシャンプーがどこにあるのかわからないとレイが言うので葵はあまりレイの裸体を見ないようにしながら、風呂場からすぐにある洗面台の開きからシャンプーを取り出しそれを渡した。


 レイは「ありがとう」と言って受け取り風呂場の中へと戻っていくが、その声は少し不満げだった。


 別にそんなに怒らなくったっていいじゃんかと言外に言われたような気がする、終始レイの事を見ないようにと顔を逸らしていたから不機嫌になったと勘違いされたのかもしれない。


 不機嫌になったわけじゃないのごめんね、と心の中で言い訳するがそれを口に出すことはできなかった。


 このまま喧嘩みたいになったらどうしようと心配したが、お風呂から上がってきたレイは用意した料理を見ておいしそーとけろっとした様子で葵は少しホッとした。




 適当なバラエティー番組を見ながら夕食を済ませ、葵が二人分の食器を片付けているとふいに後ろからのしかかられるような重みを感じた。


 細くて白い手が、目の前で交差しているのを見てレイから抱きしめられているのだということにようやく理解した瞬間、葵の体はガチリと固まった。


「……どうしたの急に」


 動揺を悟られまいとする、その声は自分でもわかってしまうほど勢いがない。


「んーん、なんとなく。いつもお世話してくれてありがとーって」


 声は上のほうから聞こえてきた。レイは葵より背が高く抱き着くと自然と上からしなだれかかるような体制になる。


 細くて長い黒髪がほほを撫でる、彼女の息遣いが耳元をなぶり、お風呂に入ったからだろうかほんのりと花の香りがする。


 レイが甘える猫みたいに自身の頬を葵の頬を押し付ける。人より体温が少し低い彼女の肌は葵からすると少しヒンヤリするように感じる。


 そんなことをされたら心臓が飛び出るんじゃないかと思えるくらいドキドキして、もう限界だった。


「あっ、わ、私そろそろお風呂入りたいんだけど」


 めいいっぱい平静を装ったつもりだったけれど、果たしてその声は震えずにいてくれただろうか。


「……そっか」


 レイが一言だけ言ってゆっくりと葵を捕まえていた手を解くと、葵は逃げるようにお風呂場へと向かい脱衣所にたどり着くなりその場でへたり込んでしまった。


 顔に血が上って頬が赤くなっているのが見なくても分かる。


 レイは時々ああいうことをする。


 抱き着いたり、寄りかかったり、手を握ったり、そんなスキンシップが好きみたいでふとした拍子に何気なくそういうことをしてくる。


 本人は軽いスキンシップのつもりなのだろう、でも葵からしたらそれは不意打ちでしかなくて、そんなことをされるたび動揺してしまう。


 どうしてこんなにも動揺してしまうのか、そのことを意識するたび葵の胸はキュウと切なく締まる。


 スキンシップに動揺してしまうのも、彼女の裸に必要以上に反応してしまうのも、要は葵がレイの事をそういう対象として意識してしまっているということなわけで。


 つまるところ、葵はレイの事をどうしようもないくらい。


「……好きなの」


 零れたつぶやきは儚く、今にも消えてしまいそうだった。




 入学式の少し前、実家から学生寮へ引っ越しをする日、葵の気分は憂鬱だった。


 親元から離れての生活への不安もあったがそれ以上に葵を憂鬱にさせるのはこれから一緒に生活することになるルームメイトの事だ。


 曰く、著名なフランス人彫刻家を祖父に持つとか。曰く、本人も学生ながら個展を開き業界から高い評価を受けているとか。曰く、彼女の作品にオークションで七桁以上の値が付いたとか。


 ちょっと調べただけで、そんなどこまでが本当なのか疑いたくなるような話ばかりが聞こえてくる。


 天才。


 安易な言葉だがそれしか言いようがないほどに彼女の経歴は華々しいものだった。


 そんな天上人と受験にひぃひぃ言いながら、一浪してようやく入学できたような自分が同じ部屋で生活するなんて月とすっぽんもいいところだ。


 たどり着いてしまった自室の前で、葵は一度大きく深呼吸をした。


 もう決まってしまったものは仕方がない、もうそこは切り替えよう。せっかく苦労して手に入れたキャンパスライフ、こんなところでくじけてたまるか。


 そうやって自分を鼓舞して葵は呼び鈴へと手を伸ばした。ピンポーンとおなじみの音が響くが中からの反応はない。


 自分用の鍵は預かっているので入ることは出来るのだが、ルームシェア相手が居ない間に上がり込んで荷ほどきをするというのはなんとも気まずい、せめて挨拶の一つくらいはしておきたいと、未練がましく二度、三度と呼び鈴を鳴らしていると。


 「はーい?」


 ようやく中から返事が返ってきて、玄関の扉から顔を出した人物は、葵が想像していた人物像とは違っていた。


 もっといかにもな威厳やオーラを感じさせる様な人物を想像していたのだが目の前にいるその人は、なんというべきか、一言で言えばひどく雑な印象だった。


 顔の半分くらいを隠してしまうほど長く伸びた黒髪はボサボサで、おしゃれやこだわりで伸ばしているというよりはただ切るのが面倒でそのままにしていだけっていう感じだった。


 格好もしわだらけのワイシャツ一枚、第二ボタンまで外れた胸元や太ももの付け根まであらわになっている足やらいろいろとあられもない。


 ただそんな身なりにもかかわらず彼女からは下品さや不潔さをあまり感じなかった。


 髪の隙間から除く顔は堀が深く目鼻立ちがくっきりしていて、肌は今まで太陽の光を浴びたことがないんじゃないかと思えるほど白い。


 祖父がフランス人だという話だったが彼女のどこか日本人離れした容姿はそれが事実だと納得させるものがある。


 特にそれを感じさせるのは彼女の瞳だ。


 色彩が薄く黄色がかった、透き通るようなアンバーアイはまるで本物の琥珀のように綺麗で思わずまじまじと見惚れてしまいそうになる。


 そんな綺麗な目を怪訝に細めて一言。


「……誰?」


 それが希代の女子彫刻家、レイとの出会い。


 ただその実態は葵が最初に想像していたものとはかけ離れたものだった。


 極度のめんどくさがりで気分屋、生活能力なんて皆無に等しく葵が来るまで食事はカロリーメイトと水だけで生活していたと聞かされた時はさすがに耳を疑った。


 そんなあんまりにもあんまりな生活を見かねて気が付けばあれやこれやと葵が世話を焼くようになった。


 毎日の食事はもちろん、掃除洗濯に至るまであらゆる家事を葵が受け持った。もともとまめな性格で家事全般も嫌いではなかったのでそれほど苦には感じなかった。


 そんな生活をしているうちに葵のレイに対する気後れはすっかりなくなり、レイも葵に懐くようになった。


 人間に対して懐くというのはなんだか違和感を感じるが、それが一番適切な表現なのだから仕方ない。


 なんだか大きい猫を飼ってるみたい、なんてその時は葵も思ったりしていたのだ。


 そんな彼女にこれほど心奪われてしまうなんて思ってもいなかった。




 個室アトリエは学生寮からすぐ近くの場所にあり、三階建てのその建物にいくつかある部屋の一つがレイのアトリエになっている。


 本来個室のアトリエは予約制なのだがレイは特例としてその中の一つを個人用のアトリエとして使う許可を大学からもらっている、それが許させれるだけの実績が彼女にはあるのだ。


 今日、葵がこの場所を訪ねたのはレイが忘れていったお弁当を届けるためだ。


 三階一番奥にあるレイのアトリエに向かい、軽くノックをしてからゆっくりと扉を開く。


 白い壁と床があるだけの簡素な部屋の中央、そこにレイの姿はあった。服装はワイシャツとタイト気味のジーンズ、いつもは無精に解かれている髪も今は頭の後ろで束ねられている。


 作品のバランスを確認しているのかおぼろげながら形を浮かび上がらせつつある石材を静かに見つめるその表情は真剣そのもので、よほど集中しているのかアトリエに入ってきた葵の存在にも気が付いていないようだった。


 しかしだからと言って彼女に声を掛けることは躊躇われた。


 作品に対する集中力がなせる業なのか、何人も彼女の邪魔をすることは許されない聖域のような雰囲気を彼女は身に纏っている。


 普段の物臭な態度からたまに忘れそうになるが、やはり彼女は正真正銘の天才なのだ。


「葵?」


 レイが葵の存在に気付く。聖域の主から存在を認められてようやく彼女へ声を掛ける許可が下りた。


「邪魔しちゃってごめんね。でもお弁当、忘れていったでしょう」


「あれ、そうだったかな? ごめん、ごめん」


「いつも忘れないでって言ってるじゃない、もう」


 いつもと変わらない会話、そのやり取りがどこか遠くて高い場所からレイが戻ってきてくれたように思えてホッとする。


 あまり長居して作業の邪魔をしたくないと、葵はお弁当を置いてアトリエを後にしようとするが。


「待って」


 呼び止められて振り返ると琥珀色の瞳が葵を見ていた。


「わたし、お腹空いちゃった」


「え? じゃあ、お弁当」


「でも今いいところだから、手を止めたくないんだ。だからさ」


 レイのしなやかな人差し指が、形のいい桜色の唇を指して。


「食べさせてよ」


 その一言の意味が一瞬理解できなくて、葵は思わずその場で固まってしまう。


「どうしたの? ほら、はーやーくぅーお腹すいたよ」


 子供みたいに駄々をこねるレイに葵は小さくうなずくことしかできなかった。


 言われるがまま部屋の隅に置いてあった椅子を彼女の横に持ってきて、葵はそこにちょこんと座るとテーブルなんてないので膝の上にお弁当を開く。


 落ち着け、落ち着くのよ私。ただご飯を食べさせてあげるだけ、何も変なことしようとしてるわけじゃないんだから、って変なことってなに!


「うーん、最初は卵焼きがいいかなー」


 人が軽くパニックになっているときに呑気に要求されて、このヤロウ! と思わないでもなかったが、言われた通り昨晩卵焼きを一口分、箸でつまみレイの口元へ持っていくと小さな口がパクリとそれを咥えこみゆっくりと租借していく。


「……うん、美味しい」


 微笑みながら呟かれたその一言で心の中に光がパァァと差したような温かい幸福感を感じた。眠い目をこすってお弁当を作ってよかったと思える。


 その一口目以降、レイ一言も喋らなくなった。


 黙々と槌とノミを使って石材の余分な部分を少しづつ削りとっていく。


 葵にはまだそれが何を形どったものなのかはわからなかったがレイの中ではすでにイメージが出来上がっているのだろう、時折手を止めてじっと見つめ、作品のバランスや進行具合を確認しているようだった。


 ただそんな中でも食事の事を忘れているわけではないらしく、葵が箸を口元までもっていくと視線は石材へと向けたままレイはそれをパクリと食べるのだ。


 その様子は傍から見ると少しシュールでちょっと面白い、なんだか動物の餌やりをしてるみたいだった。


 最初は緊張していた葵だったが続けていくうちに余裕が出てきた。


 髪をまとめているおかげで、作業に集中していつもより凛々しいレイの顔がよく見えるな、なんて事に気付けるくらいには。


 思い出すのは初めてレイのアトリエを見学しに来た時の事。


 あの時もいつもぐーたらなレイからは想像できなような作業に没頭する凛々しくも美しい彼女の姿に目を奪われた。


 鼻筋の通った顔つきも、陶器みたいに白い肌も、そして宝石のような琥珀色の瞳も、彼女を形作る全部がまるで作り物のように綺麗でつい見とれてしまう。


 そんな端正な彼女の姿と才能を感じるたびいつも同じ感想が葵の胸に浮かぶのだ。


 ああ、まるで綺麗な彫刻みたい。


 ミロのヴィーナスやサモトラケのニケの様に美しく人々を魅了する芸術品、葵にとってレイはそんな存在だった。


 でもだからこそ彼女は触れることは出来ない存在なのだ。


 ヴィーナス像もニケ像も美術館へ行けば誰でも見ることは出来る、でも決して触れることが許されることはない。


 たとえ触れられるほど近くに存在していたとしてもどれだけ恋焦がれようとも、ただの凡人が彼女に触れることは許されない。きっとレイも私の事を同じ部屋に住むお世話係くらいにしか思っていないだろう。


 レイと私は何もかもがあまりにも違いすぎるから。


「ねぇ」


 レイに声を掛けられて、落ち込んだ思考の中から現実に引き戻される、そこでようやくお弁当を運ぶ手が止まっていたことに気が付く。


「ああ、ごめんちょっとぼーっとしちゃって。えーとー、次は何が食べたい?」


「いや、そうじゃなくて」


 そう言うレイの声はちょっとふてくされているようだった。


「さっきからじ~とわたしのこと見て。なに? そんなにおもしろいことでも書いてある」


 その質問に葵の顔は恥ずかしさで熱くなった。まさかあなたに見惚れていましたなんて言えるわけがない。


「ごめん、別に深い意味とかないんだけど、ただ何となく、ほんと深い意味とかはないんだけど……嫌だったよね?」


「いや、別に嫌だったとかはないけど。ただ……」


そう言うとレイはフイッとそっぽを向いて。


「ちょっと、恥ずかしい」


 ぽつりと言ったその一言は心なしかいつもよりも弱々しいような気がした、よく見れば頬も一刷毛、紅くなっている。


 ひょっとして照れてる?


 そのことに気が付くとなんだか楽しい気分になった、だって今まで逆のことはいくらでもあったけれど葵がレイを照れさせることは一度だってなかったのだ、なんだかちょっと仕返しができたような気分だった。


「ねぇ、レイ」


「うん?」


 照れて顔を赤くしているレイはなんだかいつもよりも身近にいるような気がして、だからつい魔が差した。


 いま私が、あなたの事が好きだよと言ったらレイはどんな顔をするだろう、そんなことを考えてしまった。 


 触れることが許されない芸術品、でも触れるなと言われるとつい触れたくなってしまう。


 もし今、私が求めたら、あなたは受け入れてくれるだろうか?

 

 その美しく白い肌に葵はゆっくりと手を伸ばし指先が頬に触れると、レイの肌はやっぱり少しだけヒンヤリしていた。


「葵?」


 レイが不思議そうに、葵の名前を呼び琥珀色の瞳が揺れる。


 彼女に触れた指先を頬から口元へと滑らせるとレイがピクリと身を竦める気配がした。


「本当は、私ね……」


 やがて指先はゆっくりとレイの唇に触れる、そして。


「……ずっとこれが気になってたの」


 くっ付いてたご飯粒をひょいっとつまみ上げた。


「いつまでくっ付けてるのかって、もう気になって気になって」


 なるべくなんて事なかったように葵は言いながら、伸ばしていた手をそっと引っ込めた。


 やっぱりまだ、彼女へ触れる勇気は持てそうにない。


 でも、いつか勇気を出して芸術品である彼女に手を伸ばすことができる日は来るのだろうか?


 なんて、きっとそんな日は来ないし、手を伸ばすことができたとしてもきっとその手が届くことがないことはわかっているけれど。


「? どうしたのレイ」


「……べっつにー」


 むくれた様な顔してレイはまた石材へと視線を戻した。


 どうしよう、流石に少し調子に乗りすぎたかもしれない。なんてことを考えていたら、ふと、さっきレイの口元から摘まみとったご飯粒の存在を思い出した。


 少し悩んだあと、葵は指先についたそれを、レイには気づかれないようにそっと口入れた。


 なんてことないことのはずなのに、なんだかすごくイケナイことをしてるみたいでちょっとだけ胸がドキドキした。

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