第24話 三人目と四日目

「私、出版業界に行きたいんだ」

 同じ学部の友人、柳橋やなはし公美子くみこがそう笑った。大学に入っても周りに流されることなく黒髪を通した彼女は、リクルートスーツがよく似合った。

「その服装でセミナー行くとか本当に飯田くんらしい」

 僕のグレーのベレー帽にピンクのポンチョという姿を見て柳橋くんが笑う。僕は構わず返す。

「そもそも僕は働きたくない」

 本心だった。労働は好きじゃない。

「それはみんな同じだよ」

 くすくす笑う柳橋くんを見て、僕は自分の手首を意識した。かつての傷。深月さんとの傷。柳橋くんといるとその傷がうずくのはどうしてだろう。もしかしたら、笑い方が似ているから、だろうか。

 だが、僕と柳橋くんとはそういう関係になることはなかった。僕の方がまだ深月先輩との心中未遂から立ち直っていなかったこともあり、意識的に人と、特に女性との間に壁を作るようにしていたのだ。その点柳橋は不思議だった。研究室が一緒なわけでも、同じサークルにいるわけでもないのに、同じ学部というだけで僕と旧知の仲かのような関係を築けている。さすがに僕はイケメンという部類からは程遠いので、僕と柳橋の間に嫉妬する人間はいなかっただろうが、それでも僕と柳橋の関係をそういうものだと見る人も多かったはずだ……まぁ、僕は柳橋について訊かれるたびに全て否定していたが。

 会場に入るとさすが、どいつもこいつも真っ黒だった。カラーリングされているのは僕だけ。僕は髪こそ染めていなかったが服装は派手寄りだっただろう。

 とは言え僕だって、ちょっとお洒落な奴が隣にいれば霞む程度の見た目だったはずだったが、就活会場にお洒落をしてくる奴なんているわけがない。そういうわけで僕は一人、派手に目立っていた。

 肘掛に小さな筆記用机がついているタイプの椅子に腰かける。他の人たちは皆一様にペンとメモを持っていたが、僕は手ぶらで、机に頬杖をついていた。このスタイルで一番前の席を押さえていたのだから滑稽だろう。大学の授業と同じで、一番前の席は誰もとりたがらない。必然後から来た奴がその貧乏くじを引くことになる。僕と柳橋は別段前の席に座ることに抵抗を覚えていなかったので、前の席に座った。やがてセミナーの講師らしき人が入ってくると、まず僕を見た。

「やる気がないなら帰れ」

 開口一番。丁寧な出迎えである。

「やる気があるので残る」

 帰れと言われたら残りたくなるのが僕である。

 すると講師はふん、と鼻で笑うと手にしていた資料を壇の上に置いて両手をすり合わせた。蝿みたいだなと僕は思った。

「よし。では早速始めるか。新年早々就活セミナーに参加している諸君。いい姿勢だ。君たちならきっと理想の未来をつかめると信じている」

 嘘つけ。僕は当時から大人の使う常套句が嫌いだった。まぁ、今は使う側なのだが。

「さて、これから就職活動を始めるに当たり、考えなければならないことが山ほどある。だがその山ほどある課題の中にも、優先順位というのは確かに存在する。老子はこう言った。『彼を知り己を知らば百戦殆うからず』」

「老子じゃなくて孔子だ間抜け」

 僕の独り言は講師にもしっかり届いたようだった。わざとらしい咳払いが聞こえる。

「君たちにはまず自己分析を行ってもらう」

 彼を知り……と話を始めたのにいきなり自分から探るのか。

「しっかりとした自己分析をし、その上でやりたい仕事を見つけることができれば、まず大きな一歩を進めることができるんじゃないかと思う」

 ぼやけた言い方しやがって。

「今からグループワークをする。近くにいる人たちと四、五人のグループを作って」

 ざわめきが広がる。こういうのは除け者が出る。悪目立ちする僕は敬遠されるだろう。僕に巻き込まれて柳橋くんも迷惑を被るかもしれない。僕は最悪柳橋くんが除け者にされるのなら帰ろうと思った。が、彼女はすぐさま「飯田くんやろう」と来た。まったく能天気な奴め。

 その柳橋は、まぁ美人の部類だった。彼女に釣られて男が二人来た。これで四人。まぁ、最低ラインは成立した。

「これから『ジョハリの窓』というワークをやってもらう」

 ジョハリの窓。聞いてすぐに分かった。これでも心理学専攻だ。この程度の知識わけない。

 ジョハリの窓とはジョセフ・ルフトとハリー・インガムという心理学者二人が提唱した自己分析のためのツールだ。ジョセフとハリーの頭をとって「ジョハリ」。安直なネーミングだがキャッチーではある。

 まず「勝気だ」「真面目だ」「社交的」「発想力がある」「話し上手」などなど、人の特性を表す言葉を羅列する。

 次にその羅列した言葉を分類する。一つ、自分に合う言葉。例えば僕なら「勝気だ」「生意気だ」などといった言葉が当たるだろう。二つ、相手に合う言葉。例えば柳橋くんに対し「社交的だ」「話し上手」など。他の二人に対しても同様に、「真面目だ」とか「優しい」などなど。

 すると手元には「自己評価」と「他者評価」それぞれの特性が集まることになる。これらを四分割する。

 まず自分も他人も評価している、すなわちみんなが……。



 ――大丈夫ですか。

 声が、聞こえる。

 ――大丈夫ですか。

 呼びかけられている。

 ――起きられますか。

 誰だ……杏樹さん? 

 ――起きられますか。

 いや、声が……低い? 


 目が、開く。

 弾かれたように起き上がった。周りを見る。辺り一面草野原。風が草葉を撫でていく。見覚えがないところだ。

「どこ……だ……」

 ようやく声を出すが、肺が弱くなっていて震える声になってしまった。咳払いをし、横隔膜に喝を入れる。再び辺りを見渡す。

 だだっ広い草原だった。いや、振り返ると僕の後ろには断崖絶壁があった。僕はちょうど、その崖のせり出たところ、三角形に尖った場所の根元の辺りに寝転がっていた。日は出ているのに、暗い。僕は振り返ったまま視線を持ち上げる。

 ボロボロになった……傾いた砦が聳えていた。日差しを……陽光を遮っている。今が何時なのかはわからないが、まるで曇り空の下にいるような、柔らかくて白い空気の中に僕はいた。空は晴れて……いる? 薄い雲がかかっているのだろうか。赤い空が薄っすら滲んでいた。ということは夕方か? 

 ふと気づき、周囲を見渡す。

 さっき僕に呼び掛けている存在がいなかったか? 

 そうだ。僕は意識を失っていたところを、誰かに呼びかけられて起きたはずだ。

 誰だ。誰がいた。周囲に目線を走らせる。だがいない。誰も、いない。

 起き上がる。体に着いた土を払い、立ち上がって腰に手を当てたところで気づいた。この砦、それほど高くない。せいぜい二階建てだろう。だが崖の上に立っていることもあり、見晴らしは相当良さそうだった。

 これは何だ……? もしかして「東の砦」ってやつか? 何だ? どうしてこんな、急に? と、そこで思い出す。

 ――僕が消えれば見えてくるものもある。

 さっき南の学校で「未知の友達」が言っていた言葉だ。未知の友達が消えれば見えてくるもの。それが、もしかして、この砦……? 

 あるいはこう考えることもできる。

 四つの内二つ回った状態。

 その状態で残り一つが消えれば、必然残一個が決まる。

 北の屋敷、西の門と行ったところで南の学校が素早く終われば、必然東の砦に行きつくことになる。

 そういう、意味だったのか?

 ゆっくり近づく。人影に気づいたのはその時だった。

 それを見て僕は驚いた……驚いてしまった。

 砦の入り口。レンガの壁に穴がぽっかり開いているだけのその簡素な造りの中に、学ランを着た人物が一人、立っていた。そいつは笑った。

「待っていたよ」

 そいつは……僕を待ち、僕を歓迎したそいつは……間違いなく僕だった。若かりし頃の、いや、まさに高校時代の僕だった。その僕は笑った。

「キミならきっとここに来てくれると思っていた」

 そして僕はようやく悟った。こいつは……今目の前にいるこの少年は……。

 僕はすぐさま時計を見た。ハート屋の時計。〈四日目の夕方〉そうある。だがそのすぐ近くにある文字盤の、数字は……。

 二十三、とある。

 そしてこの時になってようやく僕は……愚鈍な僕は、やっと、何かが見えてきた気がした。その何かは、今目の前にいる少年が体現していた。僕は彼を見た。

「栞は……」

 僕の声に、少年はやはり笑った。僕は問い続けた。

「栞は、どこにある」

「ここだよ」

 と、少年は自身の背後を示した。僕は導かれるようにしてそちらへ向かった。少年の背後。砦の中には机が一脚置いてあった。その上に、あった。

 僕の、栞。

 名刺サイズのカード。白いカード。何の変哲もなさそうに見えるが、実は……。

「これがどこに挟まっていたか、キミならわかるよね」

 少年に訊かれ、僕は答える。

「ああ。わかる」

 三百七十二ページだ。僕が栞を挟んでいたのは。

 ページ数を覚えているなら栞の意味がない。おっしゃる通りだろう。だがこのページに栞があることに意味があった。だって栞には……白いカードには、こうあったのだから。


〈飯田くんへ。この言葉を、あなたに送ります。四行目から始まるセリフです〉


『My Little Mare ~私の小さな夢魔~』の三百七十二ページ目には、こうある。


〈『夢は消える……だが心には残る。そうして心に残ったそれが、今度はまた、夢になる』〉


「深月先輩の選んでくれた言葉だね」

 少年の僕がそうつぶやいた。僕は応じた。

「ああ。先輩の……僕はこれを読んで小説家になりたいと思った」

 小説家が書くのは夢物語だ。そして夢はいつか消える。本を閉じればわかりやすく消えるし、頭の中にあったとしてもそれも風化する。だが……心には残る。そして残ったそのかげが、また、夢に、物語に、なる。

 すると少年が続けた。

「ねぇ、キミが見たのはどんな夢? 夢だからもう、現実には、ならないのかな」

「現実にされているんだよな」

 僕の問いに、また少年は笑った。

 と、背後に気配があった。それは足音だった。息遣いだった。肺活量が多くて、多分だが男性だった。

 そしてそいつが何者なのか、さすがにもうわかっていた。

 僕は少年を庇う形で背後に押しやった。すると少年がつぶやいた。

「大丈夫。あの人には見えないから」

 その言葉を聞いて、僕は笑った。

 そりゃそうか。この子は「誰にも見えない友達」だ。

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