第20話 ネタ切れ
「俺っちに化けるたぁ、いい度胸だ」
バットを手にした男が、足元に倒れる少年につばを吐きかける。少年は、といえば……頭蓋骨が埋没した、血だらけの、見るも無残な……。
「うわぁぁぁっ」
声を上げた。上げてしまった。何故か怖かった。とてもとても、怖かった。その場にへたり込む。すると穴の向こうから声が聞こえた。優しい、男の声だ。
「ああ、せんせぇ」
その声の主があの狐目の男だということは想像に難くない。
「先生、お怪我はありませんかい。子鬼めが俺っちに化けて悪さしよって……」
はぁ……はぁ……。
息が上がっている。苦しい。だがどうしようもない。ただ息を荒くするしかない。パニックだった。このままだとどうにかなってしまいそうだ! だが声は出なかった。僕は口をパクパクさせることしかできなかった。
が、やがて。
固い何かが砂利を踏む音が、穴の向こうから聞こえてきた。それはだんだんこちらに迫ってくる。あいつが……あの狐目の男が歯抜けレンガの梯子を上っているのだろうと想像するのは容易かった。そして、見えた。
あの男の頭。
ところどころ白髪の混じった、化粧用のブラシのように柔らかそうな毛並みの……。
「せんせぇ」
男が顔の上半分だけを覗かせながらつぶやく。目が、笑っている。
「せんせぇ。怖がらないでくだせぇよ」
僕は動けないでいた。動いたら、今動いたらすべてが終わってしまう。そんな気がしていた。微動だにできなかった。
男は顔の上半分を覗かせたまま、笑って続けた。
「俺っちは
「えん……そうし」
僕はようやく口を利く。男が笑う。
「今年も月の目が開かないように音楽を演奏するんでさぁ」
月の目。
〈三日目の夕方〉。ああ、ダメだ。そろそろ月が……。
けひひ。
男が……武原が笑う。
「時にせんせぇ」
僕はその沈んだような、妙に落ち着いた声に一瞬、気を持っていかれた。僕は男の顔半分を直視した。
「いいんですかぃ。このままだと大事なものを奪われますぜ」
「……大事な、もの?」
「作家の魂って言ったら何ですかね」
「作家の……魂……」
「それは、違いますかい」
ふと、男が目線を僕の手元に投げる。僕はそれにつられて自分の手を見る。そこにあったのは黒いノート。モレスキンのノート。
僕のアイディアをまとめてあるノート。
確かに、これを奪われたら作家としてやっていくのは難しいかもしれない。四十万円も、かけているわけだし。
「も、もう取り返したぞ」
僕は手にしたノートを小刻みに振って、アピールした。
「もう僕の手元にある。僕が……」
僕が、と言いかけてやめた。これは僕が取り返したものじゃない。
このノートは、さっき少年が僕にくれたもので、そしてその少年は、今この穴の下、武原の足下で……。
けひひ。
また、男が笑った。
「違いますぜ。そうだけれど違うんです」
「そうだけど違う?」
「それはいつもそこにあるんですかい。最初は違うんじゃありやせんか? 最初は、そう、先生の頭に……」
「僕の頭……」
と、言いかけた時だった。
「いったぁっ!」
電気ショックを喰らったような激痛が背筋を貫いた。それが激しい頭痛だと気づくのにコンマ数秒要した。痛いっ! 痛い痛い痛い痛い痛い!
「おやぁ、ちょっとしゃべり過ぎましたねぇ」
穴の縁から顔を半分だけ覗かせた男が、笑う。
「俺っちも怒られまさぁ」
けひひ。
男の顔が、沈んでいった。
まるで、そう、水平線に沈む夕日のように……。
そして、それを見届けてからだった。
痛みから解放され、苦しかった呼吸も軽くなり、強張っていた手足も、張り詰めていた意識の糸も何もかも、全てが途切れたのは。
*
「ネタがないんだー」
いつかの、ことだった。
「もうさ、私ダメなのかもしんない」
バーだった。どこのバーかはわからない。だがバーだった。壁には「Polaris」とある。だからバーPolarisなのだろう。どこのバーなのかは、知らないが。
隣にいたのは黒見淳平だった。男の名前を使う女作家。酒で焼けたというハスキーな声がセクシーな。黒いタイトな、しかも胸元が大きく開いたドレスに身を包んでいる。察するに、何かの授賞式の後だった。ふと我が身を見る。ダークブルーのスーツに身を包んでいる。やっぱり何かの、式の帰りか。
「プロット持っていっても、担当のタケカズちゃんの反応悪くてさ。小説家としてもう終わりなのかも」
「タケカズちゃんって
「そ。最近つれなくてさ」
黒見が……本名、
「君は僕より五つも若い。まだチャンスはいっぱいある」
僕もグラスを手にする。人差し指の先で、氷をくるりと回した。黒見がグラスを置く。
「年齢なんて関係ないよ」
艶のいい唇がそうつぶやく。僕も、頷く。
「まぁ、そうだな。良くも悪くも」
黒見の唇に一瞬、過ぎ去りし日のことを思い出して僕は、鼻の奥を湿らせた。伏せた目線の端で、黒見の長くて細い脚が組み替えられた。
「あと五年やってダメなら転職する」
「転職って何の仕事をするんだい」
僕が訊くと黒見が笑った。
「さぁ。でも何でもできる気がする。CAでも、風俗嬢でも、OLでも、女優でも」
「大きく出たな」
じゃ、こうして一緒に酒が飲めるのもあと数回といったところか。
僕がそうつぶやいて笑うと、黒見が「それどころか、これが最後かも」なんて続いて笑った。それから彼女は急に僕の方に向き直って、耳元にその艶のいい唇を寄せてきた。僕も耳を貸す。
「だからさ。最後に、抱いて?」
掠れた声が、セクシーだった。
ヒヒヒ……
声が聞こえた。僕は周囲を見渡す。
ヒヒヒ……
と、僕の背後に気配があった。振り返る。
そこはもう、バーでも何でもなかった。ただ白い、壁も床も何もかもが白い、そして机だけが異色な、あの部屋で……。
――目を覚まして。
僕の背後にいたのは、あの最愛の……。
――目を覚まして。
*
忘れていた呼吸を取り戻すように。
僕は飛び起きる。荒い息をする。肺の奥に新鮮な空気が入った。もんどりうった体を包んだのは、柔らかな感触だった。ベッドや布団の類じゃない。ぬくもりのある、なめらかな……。
「飯田先生」
目を覚ます。
僕の顔を、杏樹さんが覗き込んでいた。
ふと、気づく。
僕は杏樹さんに縋りついていた。
慌てて、体を離す。
「し、失礼……」
状況もわかってないのに失礼も何もあったもんじゃないとは思ったが、咄嗟に口から出たのがそれだった。杏樹さんは優しく微笑んだ。
「悪い夢を見ていたようですね」
夢。
夢、か。
「今、何時ですか?」
ホワイトアウトした頭を何とか働かせて出てきた問いが、それだった。杏樹さんは笑って答えた。
「下界の時計で言うと、夜の十二時です」
夜の、十二時。
「ぼ、僕はいつから……いつから寝ていたんだ」
「作原さんの診察を受けてすぐ、具合が悪いとおっしゃって」
杏樹さんは、まだ優しく微笑んでいた。
「すぐにお部屋に連れて帰って、そしたら気絶するみたいに」
作原さんに診察してもらって? 作原ってあの若い女性医師の作原か? 僕がこの村に来てすぐ頭を診てもらった……。
僕の記憶の中にある作原さんからの診察行為はかなり古いものだ。少なくとも三日前、そう、事故に遭った後、この村に辿り着いてすぐ……。
じゃ、じゃあ、何だ。今までのは全部、夢か。
心の奥底から空気が抜けるような息を一つ、つく。何だ、夢か。夢だったのか。嫌な夢を見た。仮面に殺人におまけに、深月先輩まで。懐かしい。だがこうしてみるとだんだん自分がおかしくなってくる。変な夢だった。変な夢だった。変な夢、変な夢だった。
……夢だった?
心の奥でそんな声が聞こえた気がした。ふと手を見る。そこにあったのは。
黒い、モレスキンのノートだった。
「これは?」
僕が震える声で訊ねると、杏樹さんが困ったような顔をした。
「ずっと握っていらっしゃいましたよ。西の門から帰ってきた時から、大事そうに、ずっと」
西の門。
僕は何かに導かれるようにして空いている方の手をポケットに入れた。そうして見つけたそれを、僕は取り出した。
ハート形の懐中時計。
中を開くと。
〈三日目の夜〉
数字は、二十一まであった。
*
杏樹さんは、僕が落ち着きを取り戻したことを確認すると、去っていった。
彼女がいなくなってから思う。
僕は前後不覚の状況の中で、彼女に何か無礼を働かなかっただろうか、と。
何せ直前まで見ていた夢が夢だ。黒見に「抱いて」と迫られる夢。そんな夢を見ながら杏樹さんに抱きついていたとあれば、よからぬことをしてしまったのではないかと心配もする。
黒見のは、夢だった。だが西の門でのことは夢じゃない。
その現実が辛かった。あんな意味分からないことが起こったのに、しかしそれが夢じゃないなんて。いや、むしろ夢であって然るべきはあっちの方だ。何だ、子供が目の前で大人に変身するだとか、子供をバットでぶん殴って殺す男だとかの方が現実で、同業の女性に「抱いて」と言われる方が夢だと? バカにされているような気分だ。
手にしていたモレスキンのノートを、見る。ラージサイズ。A5よりちょっと小さい。不思議なもので、このノートの中身はいずれも僕の頭から出力されたもののはずなのだが、見返すとまるで異星人が書いた通信文かのように見えるものなのだ。こんなことを思っていたんだ。なんて、壁画に古代人の生活を感じる考古学者のような気分にもなる。
パラパラパラパラページをめくり、適当なところで手を止めた。何でそこで止めたのかと訊かれると答えられない。ただそこで止まったのだ。そうした開いた白いページの真ん中。そこに文字列があった。僕はそれを読んだ。
〈ねぇ、キミは、何になるの? キミのなりたいものは、キミがなるべきものなのかな〉
最後に、こう残してあった。
〈秘密のトモダチ〉
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