第18話 バット

 部屋に戻る。ベッドの方には行かず、浴室の洗面台を目指した。理由はないが、このところの乱れた生活、そしてこの村に来てからの度々の失神のせいで、きっとひどい顔をしているだろうから、ひとつ我が顔面の劣悪さについて把握しておくか、という気になっただけのことである。

 丸い鏡を、壁に打たれた釘にぶら下げているだけの、簡素な造り。

 洗面台もどちらかと言うと桶に近いような形。

 浴室自体も薄暗い。その中に。

 ぼんやりと浮かぶ、青ざめた僕の顔。

 こんな顔、してたっけな。

 そんなことをふと思う。

 どちらかというと僕は九州系、目鼻立ちがしっかりしていて濃い目の顔なのだが、今目の前にあるのは、丸い輪郭、色白だがほんのり染まった頬、垂れ目で鼻もこぶりな、女の子の……。

 鏡の中の口が動く。

 ――目を覚まして。

 先輩の、顔だった。


 ばちんと引っ叩かれたような衝撃で目を覚ます。何だ。何があった。ああ、そうだ、僕は鏡を見ていて、それで……。

 濡れた犬のように頭を振る。幻覚か。いよいよやばいかもな。やはり事故の衝撃でどこか頭を……。

 シェイクされた視界をそのままにベッドの方に行くと、驚くべきものを見つけた。バットだ。バットがベッドの足元に立てかけてあった。

〈必要な時が来るでしょう〉

 持ち手のところにそんなメモが添えられている。僕はそのメモを手に周囲を見渡した。誰か入ってきたのか? この部屋に? 

 まぁまず、杏樹さんは入れる。彼女がこの部屋にこれを置いた可能性は高い。メモの字もどことなく女性的。だが字だけからは判断できないだろうな。僕は考える。バット。金属バットだ。野球部が練習で使うような。そういえば金属バットで試合に出られるのは高校生までなんだっけか? 野球には詳しくないがそんな話をチラッとどこかで……。


 ――ああ、新條しんじょうくん。


 思い、出す。

 校舎の裏。薄暗い影で、振っている。

 風を割く音。荒い息。

 二人の息遣い。だがそれを邪魔された……。


 ――元気そうだね。

 ――深月も……いや、常陰つねかげもな。


「誰ですか?」

 思わず、そう口走っていた。誰もいない部屋の中で。バットを片手に、「誰ですか」。


 ――うーん、えっと、元彼? 


 心臓が凍ったのを、覚えている。



 あの日はそうだ。二度目のキスをしようとしていた。

 初めてのキスは先輩の教室でした。学校の、空いた教室で黙々と勉強する先輩の横で、僕も勉強したんだ。おかげで成績はどんどんよくなったし、先輩との距離も近くなった。先輩は最終下校時刻ギリギリまで学校で勉強して、そして帰り際に塾の自習室で遅くまで勉強をして帰る、という受験サイクルを送っていた。僕が人生で初のキスをしたのは、そんなサイクルもある程度固まってきた八月の……ちょうど、「そろそろ会うのを控えようか」という話をするのより前のことだったと思う。

 特に定期試験や小テストといった目標もなく勉強していた僕は、本当に集中力がなかった。五分おきくらいに先輩をチラチラ見ていたと思う。真摯な顔でノートに向き合う先輩は神々しささえ感じさせた。その目、その指。僕はノートになりたかった。ペンになりたかった。こういうと変態みたいだが、まぁあのくらいの男子なんてのはみんな変態みたいなもんだ。恋と性欲がごちゃ混ぜになった心は隙あらば先輩を視界に入れようとした。それくらい、好きだった。

「この、『(x+y)(x-y)=x²-y²を正方形二つを用いて証明しなさい』っていう問題なんですけど……」

 数学の問題。わからなくて先輩に訊きに行く。先輩はどれどれ、と僕のノートを見てくれた。その時垂れる先輩の髪。ふわっとするいい香り。ふっくらとした胸元と、真剣なまなざしとに目が行く。愛しくなる。

「解説だと『一辺がxの正方形とそれより小さな一辺がyの正方形を使って証明する……』ってあるんですが、この解説図解がなくてピンと来なくて」

「描いてみよっか」

「はい」

 先輩がすっすっとペンを走らせる。そうしてできた、重なった正方形を見て、何故か、我慢ができなくなった。

「こうして見ればわかるかな。一辺がxの正方形の中にそれより小さい一辺がyの正方形を置……」

 顔を近づけてからキスまではほぼ一息でした。事後、僕は俯いて、すぐ「ごめんなさい。急に」と謝った。先輩が「ううん」とつぶやいた。だから僕は、顎に手をやりすぐさま追撃した。初キスは、そんな感じ。

 二度目のキスは……厳密に回数だけを数えると三度目のキスは、放課後の校舎裏でした……しようとした。勉強の息抜きということで校舎の周りをぶらぶら散歩して、会話も少なくなってお互いを見つめ合ったタイミングで、僕は壁際に先輩を追いやった。それから先輩の顔のすぐ隣に手を置いて、逃げられなくして、息を止めて……というところで、ぶぉんという音が聞こえた。

 それは曲がり角の向こうからしていた。偶然にも、僕と先輩はその曲がり角の少し手前で致そうとしていたため、角の向こうから聞こえる音には少し敏感になっていた。先輩が僕の腕から離れる。すごく悔しい気持ちになる。それでも追いかけた先の先輩は、角を曲がり切らずその場で硬直していた。何だろう、と僕もその先を見る。伸びかけた坊主頭が見えた。

 男だった。男子だった。バットを振っていた。

 その男子はすぐ僕たちの方に気づくと、手にしたバットをたらんと垂らして、それからこちらに向き直った。深月先輩が声を出す。

「ああ、新條くん」

 僕の心が凍りつく。

「元気そうだね」

 坊主頭の顔が曇った。

「深月も……いや、常陰もな」

 じゃあ、と深月先輩が引き返す。僕もその後についていく。少し離れてから、訊ねる。誰ですか、今の。

「うーん、えっと、元彼?」

 恥ずかしそうに笑う先輩。そうか。僕にとっては初めてのキスだったが、先輩からしたら、もしかしたら……。

 口元を拭いたくなる。実際手の甲を口元まで持っていっていたと思う。だが、耐える。そんな態度、先輩に見せられない。

「帰ろっか」

 そうつぶやいて、僕の前を歩き出した先輩の背中を、見る。

 ぶぉん。

 背後から、聞こえてくる。

 金属バットが空を切る音。



 現実に、戻ってくる。

 バットを見つめる。あの頃の思い出が蘇る。あの時先輩を戸惑わせた元彼くんは、やっぱりこんなバットを振っていた。

 必要になるから。いったい何に、必要になるって言うんだ。

 わからない。わからないが、ハートの時計を見る。〈三日目の昼〉そう、表記が変わっていた。まずい。もう昼だ。僕は慌てて動き出す。ふと、さっきまで握っていたバットを見る。

 いるか……いるのか? でも、必要な時にって……。

 まぁ、もしかしたら演奏師に襲われるかもしれないし。

 僕はこのバットを持っていくことにした。片手で持ってたらりとぶら下げ、部屋から出る。廊下を歩きながら、思った。

 僕が今しているこのバットの持ち方、何となくあの新條って人のに……。


 鎌延屋を出てすぐ、僕は村の中央を目指した。あのフクロウの噴水がある広場である。

 あそこは確か東西南北に道が伸びていた。あそこからならどの方角を目指せばいいかわかりやすいはず。そう思って、噴水の広場に向かうとそこには三人、人がいた。ひげをたっぷり蓄えた、いかにも意地悪そうな……男が二人。双子みたいに瓜二つ。そしてその足元に這いつくばっているのは、栗色の髪がかわいらしい女性だった。ほとんど裸みたいな、ぼろ雑巾みたいな服を着ている。と、男たちがいきなり女に鞭を振るった。黒い一撃が柔肌を裂く。

「ひいっ」悲鳴が上がる。

「そんなんじゃ客の前に立てねぇぞっ」

「もっとしっかりしやがれっ」

「ひっ」

 女性が縮こまる。何だこれ。穏やかじゃないな。

「おらしっかりしろっ! まずは逆立ちして三回回って……」

「おいおいおいおいおいおいおい」

 僕は男二人と女の間に割って入る。こんなところ見過ごせるか。

「何やってるんだ。二人がかりで」

 いきなりバットを持った謎の男が割り込んできたからだろうか、二人のひげオヤジは急におとなしくなった。眉が下がり、口が歪み、いかにも怯えている表情になる。「何だその顔? 怯えているのは女の子の……」

 そう、僕が声を荒げると、男の内の片割れが口を開いた。

「お願いします。やらせてください。やらせてください」

 すぐにもう片方も続く。

「お願いですぅ。俺も鞭を振るわないと怒られちまうんですぅ」

 はぁ? 何を言ってるんだこいつら。

「ダメなんです。万呂菜まろなさまを叩かないと、俺たち、怒られちまうんです」

「万呂菜さま、万呂菜さま、どうかどうか、お許しを、お許しを」

「いきなり何だ君たちは。さっきまであんなに威勢よくこの子をいじめていたのに何で……」

 と、言いかけた僕の背中に、何かがずしっと乗ってきた。僕は驚いて振り向こうとしたが、ダメだった。声がした。

「あたしの邪魔、しないでくれる?」

 背中に当たる柔らかい感触。女か。女なのか。

 ……さっきの女か? 

「あたし、打たれたいの。鞭で」

 慌てて僕は身を振るい、背後の気配を振り落とした。数歩後退りし、振り返る。そこにはまるで猫みたいに背中を丸め、這いつくばり、臨戦態勢に入った女がいた。ぼろ雑巾を身にまとい、怪しげな笑みを浮かべている……。

「お前も打ちたい? あたしのこと」

 何だこいつ……。

「打たれたいの。鞭で。こっぴどく。この馬鹿たちは打つ係なの。ひどい言葉を投げかけながら私を打つ係なの。邪魔しないで。邪魔したら許さない」

 女のあまりの迫力に、僕は完全に気圧されてしまった。じりじりと後退る。それから、フェードアウトするように、ゆっくりとその場を去った。後ろに続く道が、西へと続くことを信じながら。

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