第15話 一人目

 悲鳴を上げる子供。それに覆いかぶさるような黒い影。僕は叫ぶ。

「お前っ、何を……!」

 目の前にある事態。それが信じられず僕はまた叫ぶ。

「何してるんだ、お前!」

 僕の目の前。そして、子供の目の前。

 背丈の高い、頭を刈り込んだ、あの不気味な顔をした男……。

 一人目の演奏師、菅尚人が僕の持っていた裁ちバサミで子供を……みんなが知る友達を一突きしているところだった。僕は何とか起き上がると男を止めようと駆け寄った。

「何してるんだっ! お前人殺しだぞ!」

 ハサミは子供の柔らかい胸の真ん中に突き立っていた。男が手を離す。まるで不格好な枝みたいに生えたハサミの持ち手が、ふらふら揺れた。それは子供の体の揺れだった。そして、子供は揺れたまま、くらりと体勢を崩し、呆気なくバルコニーの手すりを超えた。小さな体はそのまま、哀れにも、落下していった。僕は咄嗟に手を伸ばしたが……間に合わなかった。直前まであんなに楽しそうに笑っていた子供は、遥か下の谷底に、石ころみたいに落ちていった。僕は振り返って菅の方を見た。勢いをそのままに胸倉につかみかかる。

「お前何やってるんだっ! 子供を、あんな子供を」

「子鬼ですぜ」

 しかし奴は悪びれない。

「子鬼は退治せにゃならんのです」

「さっきからお前、子鬼だのなんだの……」

 しかし、僕は菅の胸倉から手を下ろす。

「何なんだ、お前ら、さっきから、鬼だの月だの月の目だの、いったい何について言ってるんだ」

「全部そのままでさぁ」

 おかしい。こいつら、揃いも揃って頭がおかしい。

「とにかく助けなければ……」

 と、ポケットを漁って思い出す。そうだ、スマホは使えないんだ。くそっ、肝心な時に……。

 谷底にはどうやって行ったらいいかも分からない。

 それにそもそも、助けに行ったとして生きている保証はない。……いや、死んでいると見る方が妥当だろう。

「お前らいったい何なんだ……」

 僕は膝から崩れ落ちる。ミステリー作家が何だ。目の前で人が死んだらこんなに動揺しているじゃないか。

「さて、あたしはもう戻りましょうかね」

 何事もなかったかのように、菅が動き出す。僕はその足元を黙って見つめている。

「用は済みましたんでね。先生も、ここは冷えやす。お早い内にお戻りください。宿は……鎌延屋でありやしょうか。あそこのロールキャベツは絶品でさぁね」

 そんな、子供を殺した男とは思えない妙な気遣いを見せた後に。

 菅はすたすたと歩いてどこかへ消えてしまった。僕の背後でドアが開く音がした。重たくて油の切れたドアなのだろう。鼓膜を突き破るような鈍くて嫌な音がずっと、響いていた。



 何が起こったのか信じられないまま、北の屋敷を後にする。

 玄関を出ても信じられなかった。門をくぐっても信じられなかった。そのまま草原の道を進んでもまだ飲み込めなかったし、吾嬬村の門をくぐってもまだ、悪い夢でも見ていたような気分になっていた。

 ふらふらと細い道を通って鎌延屋に向かう。やがて到着すると、フロントにいた杏樹さんが微笑んでいた。

「やりましたね」

 何だか達成感でも味わわせるような言い方である。

「子供から、取り返しましたね」

 ペンのことを言っているのだろう。だが、それよりも大きなものを僕は失っていた。子供の命。未来ある、子供の命。

 そうだ、と僕は思い至る。

「塩野原さんは? 駐在さんの、警察の人間は?」

「……塩野原さん? 誰のことをおっしゃってるの?」

 僕は唖然とする。

「僕を助けた時に言っていたじゃないか! 駐在さんの塩野原さんにバス事故の捜査を依頼するって……」

「バス事故? 何のこと?」

 僕は口を開けたまま硬直する。しかし、杏樹さんは何も問題ない、というような顔で続ける。

「飯田先生やだ。私をからかって。万聖節にはまだ早いですよ」

 万聖節……何だっけか、ハロウィンか。いやいや、そんなふざけたことをいっている場合じゃなくてだな……。

「僕はバスの事故でこの村に辿り着いた。そうだろう? 君こそ何だ、僕のことをからかって……」

 と、言いかけて、気づく。

 杏樹さんの後ろ。フロントカウンターの真後ろに、それは貼ってあった。

 新聞の切り抜き記事。真ん中に、花束を持った僕がいる。嬉しそうに笑っている。片手を挙げてカメラに応えている。

〈長野県吾嬬村出身の作家、飯田太朗が高木たかぎ彬光あきみつ賞を受賞……〉

「お、おい。何だこれ。何だこれは」

 僕は壁の切り抜きを指して杏樹さんに詰め寄る。彼女は心底困ったような顔をした。

「何って、この間先生受賞されたじゃないですか。東京の方の偉い文学賞を。先生、一躍村の人気者に……」

 僕は口をパクパクさせた。何だ。何なんだこれは。何が起きているって言うんだ。

 おぼつかない足取りでフロントカウンターから離れる。ほとんど座り込みそうだった。意味が分からない。何が起きている? ちくり、と掌に何かが食い込んだ。目線を落とす。僕の手、僕の左手には、さっき取り返したボールペンがインクの線を引いて……。

「いたっ」

 声が出る。いきなり来た。彫刻刀で頭蓋骨を彫ったような痛みだ。

「あっ、いたぁっ」

 頭を抱える。思わずペンを取り落としてしまう。だが、駄目だ。このペンだけは肌身離さず……この、深月先輩の形見だけは絶対に失くしちゃいけない……。

 痛みは激しさを増す。痛さのあまり吐きたくなってきた。胸の奥、食道がひりひり震える。三半規管がやられたのか、急に自分の上下の向きがわからなくなった。何かが頬に触れる。それが床だと気づくのに時間はかからなかった。そして、すぐに、僕の意識は落ちていった。



「飯田くん。これ、受け取って」

 どこかで。

 先輩はずっと僕のことを飯田くん、と呼ぶ。名前で呼んでくれと言ったが聞かない。「飯田くんはずっと飯田くんだから」と笑う。その名前の距離感がちょっと寂しくもあり、だが人との距離を大事にする深月先輩らしくて僕は好きだった。僕は深月先輩に甘えた。

「先輩」

 抱きつく。

「好きです。先輩」

 すると先輩が僕の頭に手をやり応える。

「飯田くんは甘えん坊だねぇ」

 そうだ。僕は甘えん坊なんだ。

「私がいなくなったら、飯田くん寂しくて死んじゃうんじゃない?」

 そう、クスッと笑う先輩。冗談じゃなく、本当にそうなる気がする。

「私がいなくなっても大丈夫なように」

 先輩が、脇に置いていたカバンに手を入れる。僕は「そんなこと言わないで」と心の中で叫んでいたが、しかし黙っていた。先輩はカバンからを取り出した。

「飯田くん。これ、受け取って」

 それは箱だった。おもてに「WATER MAN」と記載がある。僕は先輩を見上げる。

「ちょっといいボールペンだよ。アルバイトして貯めたお金で買ったの。よかったら使って」

 そう、先輩に渡されたのは。

 手帳用。小さくて細い、だがしっかりとした重みもあるボールペンだった。

 僕はそれを手に取り、先輩の方を見つめた。

「大切にします。先輩だと思って」

 深月先輩はまた笑った。

「大袈裟だな」

 深月先輩の言葉が、蘇る。

「私がいなくなっても大丈夫なように」

 この半年後に先輩が、僕と一緒にこの世を離れようとするだなんて、この時はまだ想像してもいなかった。

 途端に何かが、僕の目に突き刺さる。

 大きくて、鋭い、ハサミ……。

 直後、先輩の声が耳元で聞こえた。

「目を覚まして」



 目を覚ました。

 夢、か。

 僕は辺りを見渡す。

 部屋。鎌延屋の僕の部屋だ。左手。ボールペンが握られている。さっき夢で見たボールペン。深月先輩の形見のボールペン。

 頭を振る。身体を起こすと、頭に溜まっていた血液が脳から腹に落ちていくのが分かった。はぁ、と息をつき、再び部屋の中を見渡す。夢、か。夢、だったか。

 深月先輩が出てくるんだから夢に決まってるか。

 僕は胸の内切なくなって立ち上がる。早く現実こっちに戻ってくることで、夢を見た悲哀を忘れようとした。と、そこで気づく。眠りに落ちる前……意識がなくなる前に見た、あの奇妙な光景のことを。

 僕の新聞。僕のことが書かれていた新聞。それがフロントに飾ってあった。まるで僕が、この村の出身であるかのように。

 ゆっくりと、部屋を出る。

 廊下は静かだった。信じられないくらいに。

 サーカス団の奴らの気配も感じない。

 従業員の気配も感じない。

 僕はゆっくり歩く。それから、階段を降り、フロントの方へと行く。

 カウンターを見る。誰もいない。杏樹さんがいない。

 おそるおそる、壁を見る。

 新聞紙はない。

 ほっと一息つく。

 何だ、夢か。夢にしてはいやに生々しかったが、ひとまず現実ではない。よかった。危なかった。

 と、考えて思い出す。

 子供が刺されたのは? あれも夢だったのか? 

 だが、ペンは僕の手にあった。あれは子供から……みんなが知ってる友達から手渡されたものだ。

 トモダチ。

 僕は子鬼の言葉を思い出す。


 四人、探シテ……


 四人の内一人は見つけた、という認識でいいのだろうか。いや、連れて帰ることができなかったから失敗か。だが何にせよ、分かったことはあった。

 僕から荷物を奪ったあの四人の子供たち。

 あいつらが子鬼の言う「トモダチ」だ。多分。

 残りの友達は、と頭を動かす。

 確か、秘密の友達、未知の友達、誰も知らない友達。

 やはり、何か思い当たるものがある。

 みんなが知ってる、秘密、未知、誰も知らない。

 何だこれ。この四分類、どこかで……。

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