第9話 ラッテ

 部屋の中で、スマホを取り出す。

 雰囲気は壊れるが仕方ない。禍魔の仮面に関する情報の多くはこの中にある。杏樹さんに反対されたからと言って図書館を諦める必要はないが、こう雨に降られちゃ今すぐ調べるのは難しそうだ。焦る話ではないが焦りたい気持ちだった。僕はあの子鬼について調べるには必然禍魔の仮面について調べなければならないと思っていた。

 ノートを脇に置いてスマホを開いた。すいすいと画面を指先で撫でる。

 しかし。

「あれ……?」

 信じられなかった。スマホの画面が真っ白になったのだ。唐突に。いきなりに。ホーム画面からテキストファイルを保存しているアプリに入ろうとした途端、画面がいきなりホワイトアウトしたのだ。

 慌てて画面を指で叩いたり、電源ボタンを弄ったりしてみる。だが反応はない。

「何だこれ……」

 まるでスマホまでもが僕の調べごとを拒んでいるみたいだった。僕はしばし唖然とした。こんな急に故障することってあるか? しかもこんなタイミングで? 

 何か超常的なものを感じずにはいられなかった。何か大きな存在が……とてつもない巨大な何かが、僕の行く末を阻んでいる気がした。

 スマホも使えない、図書館にも行けない。

 そうなると必然聞き込みという形になる。地元住民への聞き込み。いかにもフィールドワークという感じだ。

 ふふ。ふふ。

 笑みが漏れる。面白い。面白いじゃあないか。

 どこの誰が……どんな奴が僕の邪魔をしているのか知らない。どんな超常的な存在が僕の行手を阻んでいるのか知らない。だが邪魔できるものならしてみろ。やり切れるならやってみろ。作家をナメるなよ。作品への執着こそ作家の魂だ。一度ペンを取った作家は止められないんだ。

 僕はただの板と化したスマホを鞄の上に放ると、誰に訊ねるのがいいか、思案した。



 しかし、まぁ、結局のところ。

 僕には杏樹さんしかいないのだ。僕は彼女を通じてこの村を知った。他に頼れる存在といえば、医師の作原さん、そして作原さんとの会話で名前が出た駐在の塩野原さんだが、どちらも関係が薄い。

 いや、昨日会ったコックの二人という選択肢もあるにはあったが、彼らは何となくだが、自分が住んでいる地域の歴史についてあまり興味がなさそうに見えた。

 しかしまぁ、仕事もあるだろう。

 フロント業務がどれくらいのタイミングで一息つけるのか分からないが、一旦一時間程度待ってみることにした。本当は今すぐにでも、とは思っていたのだが、こういう時に耐えられてこその大人だ。僕は何もできない時間というのを楽しむことにした。一時間ばかり、空想をしたり短く昼寝をしたりして過ごすことにした。空想の世界で僕は、謎の館で起きた殺人事件の話や、薄暗いレンガの街で起きた不気味な事件の話の世界に飛んでいった。僕はミステリー作家だ。人殺しだの事件だの謎だの、考えるのが仕事だ。少しすると、ウトウトしてきた。もともと昼寝もプランに入れていたので、おとなしく目を閉じる。深く、沈んでいく。

 やがて目が覚めると、窓の外は暗く沈んでいた。夜だ。さっきまで昼だったのに、もう夜。そんなに寝たか? そう思いスマホを見たが駄目だった。こいつ今使えないのか……じゃあ時計は、と壁を見て思い出す。この村の時計はこの村の、しかもこの家の時計はこの家の人間にしか読めないんじゃないか。今が何時かも分からない。くそ。外に出て月の位置から……。

 なんて思っているといつの間にか外に出ていた。鎌延屋の外。仄かに灯る明かり……ガス灯か? 随分時代錯誤な……。

 揺れる火。揺れる影。

 月……。

 天を仰ぐ。そこには。

 標高が高いからだろうか。

 目の前に迫る、月。

 真上にある。いや、少し傾いている……? 

 星を探す。だがない。闇夜にただひとつ、浮かんでいるのは馬鹿でかい月。月。月。



 情報収集をしようと思ったら地元の酒場に行くといいなんて話を読んだのは何だったか。

 フィールドワークでは現地民の言葉は重要な位置を占める。言い伝え、所感、実際の現象。そうしたものを肌で感じている彼らの言葉には驚くほど新鮮な息吹がある。そういうものを収集して、まとめて、考察すると、不思議と見えてくるものがある。僕は幸田一路の世界でそんな驚きと出会いを表現していた。今こそその知識を活かす時だ。

 杏樹さんに訊くのが早いかと思ったが、街の散策も兼ねて歩くことにした。ガス灯の灯りの下、自分の影に驚きながら歩くと何だか悪夢の底を歩いているみたいで不思議な気持ちになった。暗かった。ただ暗かった。

 石畳の地面は冷たそうだった。実際寒い。凍える。そもそもの目的地が軽井沢の奥地だったので、上に着るためにマウンテンパーカーを一枚持ってきていたが正解だった。首を覆う襟の中に顎を沈め、呼気に暖かさを感じながら歩く。白い水蒸気がふわっと漂って消えた。

 街のいたるところに看板があった。家の軒先にぶら下がったそれを、じっと目を凝らして見る。暗闇の中判別しにくいそれをかろうじて読み取りながら、酒場を探した。肉屋、本屋、工具屋ときてついに見つける。バー「ラッテ」。牛乳という意味のイタリア語だ。どういう意図でつけられた名前か知らないが、何となく興味が湧いた。ステンドグラスが飾られたドアをゆっくり開けて、中を見る。薄暗い。照明は……と見て驚く。ここにも、ガス灯。

 まぁ、もともとバーと言えば薄暗いものだと相場が決まっているのでさして違和感はない。ガス灯も演出だと思えば味なもんだ。だが妙なものを感じずにはいられなかった。僕はゆっくり店の中に入った。

 ひりひり、する。

 それは視線に起因するものだった。でっぷり太った中年男性。逆にカミソリで削ったみたいに頰のこけた老人。ヒゲ男。女は一人もいない。ただそいつらは異分子である僕をただひたすらに、じっと、睨みつけていた。僕は息を潜めた。

「ビールを」

 バーカウンターの向こうのマスターさえ不審そうな目を僕に向けていた。ちょびヒゲの丸い男。両手でゴシゴシとグラスを磨いている。僕は振り返るとその場にいた客全員の方を見た。それから告げる。

「こちらの皆さんにも、一杯」

 その瞬間だった。

 市場に並んだじゃがいもみたいに険しい顔が、一面のお花畑のような笑顔に変わったのは。



「禍魔の仮面?」

 太っちょの男がビールの泡を唇に乗せながらつぶやく。僕は頷く。

「それと子鬼の関係について、何か知りませんか」

「仮面と子鬼」

 カミソリで削られた老人が頷く。

「子鬼は、知っとるがな」

 老人の言葉に僕は反応する。

「知ってるって、何を?」

 老人は唇についたビールの泡を舐めた。

「ひねくれもんでね」

 じろり、と老人は僕を見てくる。

「人が駄目だと言うとそれをしたがる」

 ふふ、と僕は内心笑った。子鬼について調べては駄目だと言われて調べ始める僕みたいだ。

「伝説によればこの世を作った鬼でね」

 老人はぼんやり床を眺めていた。

「月を起こそうとする」

「気になるのがふたつ」

 僕は指を二本立てた。

「ひとつは、子鬼のくせに世界を作るだの何だのと、えらい権限を持っていること。これはどの地方の伝承にも類を見ない」

「だろうな」

 じいさんが鼻で笑う。この時気づく。こいつ、高校生の頃の担任に似てる。あいつもカミソリで削ったみたいな頬をしていて、世界史の先生で、嫌味だけど面倒見のいい……。

「子鬼の話は海の向こうから伝わってきたらしいからな。この国の話とは異なる」

 なるほど。そこに落としどころをつけるとしようか。

 僕は続ける。

「ふたつ。『月が起きる』について。あんたらみんなその言葉を使うのか? 『月が起きる』って何のことを言ってる?」

「目があるだろ」

 太っちょが店の入り口を指す。

「今日は晴れてるから月が見えるはずだ」

「目ってなんだ」

「目は目さ」

 太っちょは笑った。

「まぁ、ここだけの話、月の模様が目に見えるって話だけどな。でも、毎日月を眺めてると本当に目が開くように見えるんだ」

「月の満ち欠けではなく?」

「月の表面が笑うのさ」

 太っちょがビールを一口飲んだ。その仕草を見て、昔うちに遊びに来た父方の伯父を思い出す。あの人も酒が好きだった。

「まぁ、こればかりは余所者は分かるまい」

 ヒゲ男が目を閉じて頷いた。僕が奢ったビールには口をつけていない。

「子鬼はいる。月は起きる。そうとしか言えない。そういうものなんだ」

 この時の「そうとしか言えない」という言葉に内心僕はおかしく思った。この言葉、僕の作品の幸田一路の決め台詞だ。思えばヒゲを取ると僕のイメージの中の幸田一路によく似ていた。きっとあいつも歳をとるとこんなおじさんになるだろう。

「あんた何でそんな話を聞きたがるんだね」

 マスターに訊かれる。僕は答える。

「子鬼に言われてね」

 と、場の空気が一気に尖るのを感じた。

「四人の友達を探してくれって」

「……帰ってくれるか」

 唐突な言葉だった。僕は訊ねる。

「どうして」

「帰ってくれるか」

 有無を言わさない言葉だった。僕は客に助けを求めた。

 だが、誰も何も言わなかった。気のせいか、手や肩を震わせ怒ってるような顔の人もいる。

 これ以上ここにいるのはまずいか。

 僕はそう判断して立ち去る。飲みかけのビールをカウンター席に残しながら。

 そうだ、結局。

「ラッテ」の由来は、訊けなかった。

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