第7話 昔の話

「子鬼はこの世界が生まれた時からいました……」

 そう、杏樹さんは語った。

 以下に僕が聞いた話を事細かにまとめる。



 創世とともにこの世界に生まれ落ちた子鬼は、とてもいたずらが好きでした。

 ある時は夜明けとともに村の鐘を鳴らしました。何人もの村人が叩き起こされました。

 ある時は夕べの丘で笛を鳴らしました。村人たちはその音につられて眠ってしまいました。

 ある時は昼の太陽を遮りました。畑の中の村人でさえ、うたた寝してしまい仕事になりませんでした。

 いたずらばかりする子鬼を、ある日夜のお月様がお叱りになられました。

 この時ばかりは村人も一緒になって子鬼を叱りましたが、しかし四人の友達が子鬼を庇いました。

 みんなが知る友達、秘密の友達、未知の友達、誰にも見えない友達。

 友達はお月様に、「子鬼はもう悪いことはしないから許してほしい」と告げました。

 お月様は「ここではないどこかへ行くなら許す」とおっしゃりました。

 子鬼は村を出ていく決心をしました。

 子鬼のことを知っている人は、いなくなりました。

 あの、四人の友達を除いて……。



 話を聞いて僕は思った。

 朝に鐘、夜に笛、そして昼間の太陽を遮る……。

 鐘と笛はまだ分かる。これは何かの例えではなく、本当にそうしたことだろう。朝の……夜明けの鐘は目覚まし、そして夜の笛は睡眠導入を意味しているに違いない。

 しかし昼間の太陽を遮る? これは超常的な現象だ。簡単に解釈するにしても日食。しかし日食なんて大それたことを童話の中の一個体ができるとは思えない。日食自体を神の行い、神の御業、あるいは神が隠れた結果という意味にとらえる向きは、世界各地の神話にもある。だが子鬼? この界隈で出会った子鬼の話はシャトルバスの中で調べた鬼雲に出てくる子鬼だ。でもそれ以外に子鬼の話って……? 覚えがない。なのにいきなり出てきて、太陽を隠すくらいの力を見せつけるだと? この子鬼は何かの比喩、あるいは神の化身なのか? 

「四人の友達……」

 子鬼の他にも気になる点はあった。僕は杏樹さんに訊ねた。

「演奏師も四人ですよね」

「ええ」杏樹さんは微笑んでいる。その表情からは何も読み取れない。喜んでいるようにも、悲しんでいるようにも、また戸惑っているようにも、不遜な態度にも見える。

 杏樹さんは続けた。

「子鬼……一彦が子鬼に憑いたんだ」

 子鬼に憑く? ここでの子鬼は憑依可能なものなのか? 憑依してくるのではなく? 

 子鬼とは何を指しているんだ? 

 分からない。分からないことが多い。そしてさっきから続く疼痛。痛い。頭の奥がじくじく痛い。

 一説によれば、鬼とは流れ着いた異国人だという。また、当時の権力に逆らった民だとも、あるいは日本神話に吸収された土着の神だとも言われている。

 彼女の言う「子鬼」が何を指しているのかが気になった。だから訊ねた。

「子鬼っていうのは何を指してるんですか? 架空の存在なのか、歴史上の存在なのか、あるいは石碑、記念碑的なものなのか……」

「時計塔に行ってみるといい」

 いきなり、一彦さんの喪失を告げに来たあの禿頭中年男性がつぶやいた。有無を言わさぬ、低い声。

「時計塔に行ってみるといい」

「時計塔……」

「村の真ん中だ。行ってみるといい」

 僕は杏樹さんの方を見つめた。彼女はつぶやいた。

「行ってください」

 それから続ける。

「子鬼がいたら、懲らしめてください」

「懲らしめる……?」

「ええ」

 杏樹さんは、今度はハッキリと笑った。

「いたずらばかりする子ですから」


 時計塔は、確かに村の中央にあった。鎌延屋から出て左に折れて、真っ直ぐに進んだ先にある三叉路。その真ん中に、大きな建物があった……教会の、ような美しさ。図書館の、ような荘厳さ。

 煉瓦造り。浅葱色の建物はその屋根の先端を天高く突き上げていた。よくよく見ると、その先は……確かに、注射器の針のように斜めに口が切られていた。その脇にいくつかのパイプがくっついている。あれで上空の風を捉え、鳴らすのか。

 ドアは開いていた。半開き。中には、入れる。

 照明がない。

 あるのは蝋燭だけ。

 チロチロくゆる薄明かり。

 どこをどう行っていいのか分からないはずだったが。

 僕の足は自然と歩き、進み、そして階段を見つけ、上り、駆けて、やがてそこにたどり着いた。

 時計塔、機関部……。

 僕の身長ほどもある歯車が大きな音を立てて回っている。歯と歯は鼓膜の奥を引き裂くような轟音を立てて噛み合い、そして規則正しいリズムで回転していた。そんなのが頭上にずっと、幾層も幾層も重なっている。この音は頭痛に響く。ずしり……ズキリ。ずしり……ズキリ。

 そして歯車と歯車の間に刻まれる僅かな隙間、その遥か向こうから、薄ら照らす一筋の明かりがあった。僕は目を細めてそれを見た。やがて僕はそれが、あの屋根の先端にあった注射器の針のような穴から差し込む陽光だといつことに気がついた。時計仕掛けの地獄の頭上から降る光は聖なる光のように見えた。僕は少し呆然とした。


 ヒヒヒ……


 声がしたのはその時だった。僕は辺りを見渡した。歯車の轟音響く暗闇の中。それは確かに、いた。

 漆黒の中に浮かぶ、ひとつの目玉。

 黄色い。しかし瞳孔は豆粒のように小さく、こちらを凝視しているように見える。僕はじっとそれを見た。暗黒の中、見つめ合う。歯車の音。歯車の音。


 ヒヒヒ……


 甲高い、子供の声。

「誰だ」

 僕は声を飛ばす。しかし目玉は応えない。

「誰だ」

 この時僕の頭の中には既に、ある仮説ができあがっていた。

 禍魔の仮面……。

〈二つの角、涙を流す大きな一つ目、緩んだ口元〉

〈遠い海の彼方から来る、鬼のような面にて、眼はひとつ、笑みたる〉

 一つ目。闇に浮かぶ一つ目。

 あれは、禍魔の仮面なのではないか。

 一つ目の、微笑みながら、泣いている。


 シテ……シテ……


 声が聞こえる。

 微かな、弱い、小さな、声。


 シテ……


「何だ」

 僕は声を飛ばす。

「何だ。何だって言うんだ」


 探シテ……


 声はそう、告げた。


 四人、探シテ……


 四人を探す? 

 演奏師のことか? 時計塔の。

 そう訊ねようとしたのだが、声は唐突にそれを否定した。


 四人、トモダチ……


「友達?」

 四人の友達……すぐに思い至った。

 月の叱責から子鬼を庇った、四人の友達。

 みんなが知る友達、秘密の友達、未知の友達、誰にも見えない友達。

 トモダチ。


 探シテ……


 その一言を最後に、フッと目玉が消え去った。風に吹かれた蝋燭の、炎が哀れに消えるように、黄色い瞳がかき消された。後には暗闇だけがあった。

「おい……」

 僕は声を上げた。

「おい……おい!」

 しかし声は時計塔の中に木霊するだけだった。あの小さな声も、目玉も、綺麗になくなっていた。

 完全な闇があった。


 頭痛は、治らなかった。

 ずっと痛い。アイスクリーム頭痛よりは程度は小さいが、しかし痛い。そして頭が重い。気圧で体調を崩した時のように、慢性的な倦怠感。

 途方もない疲労感だけを抱えて鎌延屋に帰ってくると、どういうわけか杏樹さんはおろか、宿の人間がいなかった。しかし食堂に行くと、どうも厨房らしいところから音は聞こえてくる。料理をしているのだろうか。

 僕の目の前にはカウンター席があった。その向こうには赤い壁が広がっていて、壁の真ん中から少し左に逸れた場所に開けっぱなしのドアがひとつ。音はその向こうからする。

「すみません」

 大きな声を出してみる。

「すみません」

 再び。

 二度目の呼びかけに、厨房の奥の音が止まった。それから何かが擦れる音がして、赤い壁のドアの向こうから男が姿を現した。

「はい……」

 ひどく太った男だった。ほとんどボールだ。よくこのサイズのものがあったな、というくらい大きなエプロンをしている。ブランケットみたいなエプロンだ。片手には大きな肉切り包丁。見た感じコックだろう。そうじゃなけりゃ殺人鬼。

「杏樹さんが……宿の人が見当たらなくて」

 僕がそう告げるとコックはつまらなそうに、肩をすくめた。洋画みたいな仕草だった。

「お嬢様なら買い出しですぜ」

 包丁を持つ手が所在なさげにふらふらする。それからあごで僕の方をしゃくって見せる。

「多分、あんたの……お客さんのためにご馳走を用意するんでさぁ。俺も今日は休みなのに、料理長から呼び出されて……」

「俺がどうしたって?」

 と、ドアの向こうからもう一人やってきた……目の前のコックに負けないくらい太ったのが。

「いや、その……」

 先にいた方のコックが目線を泳がせる。すると料理長が低い声で一括した。

「油売ってる暇があったら仕込みしろ!」

「いや、彼は僕が呼んだからここに来たんだ」

 僕はコックを庇う。

「杏樹さんの行方を知りたくてね。買い出しということなら仕方ない。部屋で待つよ」

「ああ……」

 と、いきなり料理長はでれでれと溶け出しそうな笑顔を顔に浮かべて揉み手を始めた。

「今日来たっていうお客さんですかい。吾嬬村は初めてで?」

「ええ」

 僕が頷くと料理長はまた笑った。

「そりゃあ、いい。肉が美味しい村ですよ。今夜の皿には期待してください」

「ああ……」

 僕は頷いた。

 彼の背後で肉切り包丁をしっかりと握り直す、コックの顔を見ながら。

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