第5話 月
杏樹さんが連れてきた医師は、彼女と同い年くらいの若い女性の医師だった。意外と言えば、意外だった。こういう人里離れた土地の医者は老年の男性だという思い込みが僕の中にあったのだろう。だから彼女に診てもらう時、僕は不覚にも少しドキドキした。
差し出された指を握ったり、綿棒で顔の両半分をちょんちょんされたり、鼻先と医師の指の間を人差し指で行き来する検査をさせられた後、「脳機能に問題はなさそうですね」と判断された。そういえばいつだか耳鳴りがひどくて耳鼻科に行った時もこんな検査をさせられた。
「事故に遭われた……?」
女性医師が訊いてくるので僕は頷いた。
「ええ、山の奥で……」
「どの山ですか?」
答えられない。言われてみれば四方に山。多分、僕が見つかったこの近くの山だと思うが……。
その推測を口にする。医師は黙った。それから告げた。
「
杏樹さんの方を見ている。彼女も頷いた。
「本当に事故なら捜索隊を出さないと。しかし私はいつもラジオを聴いていますが、行方不明のバスの知らせなんてなかったですがね……」
おかしい。草津町の方に向かうマイクロバスに乗ったはずだ。草津町か、乗り込んだ軽井沢かのどちらかが管理する乗り物だったはず。
「まぁしかし、こうしてあなたという遭難者はいるわけですし、塩野原さんもきちんと捜査してくださるでしょう。で、あなたの処遇ですが……」
医師が僕の顔を覗き込む。
「特に異常は見当たりませんが、正直なところ少し不安です。五日間ほどこの村に滞在していただけますか? その間に麓の大病院に連絡をつけるか、経過を観察して大丈夫かどうかを判断します」
幸いにも現在抱えている原稿の〆切は少し先、そもそも僕は大海村に少しの間滞在するつもりで来ているから五日間くらい何ということはなかった。僕が頷いて了承すると、近くにいた杏樹さんが「まぁ」と手を合わせた。それから告げる。
「五日後にはこの村でカーニバルが開かれます! よかったら遊んでいってください! それに……」
と、僕に向かって微笑む。かわいらしい笑顔だった。
「私の家は村唯一の宿屋をやってます!
鍋を片手に持ったカマキリって……まぁ、かまなべ、かまのべ、音が近いからな。けどそれ大丈夫なんだろうな。確かにどことも被らなさそうなデザインではあるのだろうが、センスというか、こう……。
「今はサーカス団の方々が来ていてほとんどの部屋は埋まっていますけど、ちょうど一部屋空いていますし!」
サーカス団。
「カーニバルで曲芸を披露するサーカス団です! 目玉は『歌う魚』ですよ!」
歌う魚? 名前からは何をするのかさっぱり想像がつかない芸だ。熊がボールを転がすとかなら分かる。ライオンに芸をやらせたり、ピエロがお手玉をするとかなら分かる。だが歌う魚? そしてそう、この時だった。
「……面白そうじゃあ、ないか」
僕の作家としての好奇心に、火がついたのは。
*
「カーニバルは年に一回三日間だけ行われます。でも日にちや曜日が決まっているわけではありません」
「というと? 十月ならいつでもいい?」
「いえ、場合によっては九月ですし、十一月のこともありますし、去年なんかは六月でした」
「随分とバラけるカーニバルなんですね」
「ええ。今でこそ世間様と同じカレンダーですが、その昔この村独自の暦を使っていて、その影響です。農作に根付いた暦ではなく、家畜のライフサイクルに関係した暦なので世の中の暦より大分ずれているんです」
鎌延屋にて。二階の一室に荷物を運び込んだ杏樹さんが笑う。僕のトランクは僕が倒れていた場所の近くの森の、本当に入り口のあたりに転がっていた。そのトランクは大破したバスの中に置いておいて、最低限の荷物だけを持って出た覚えがあるのだが、しかしパソコンも救急箱も全てトランクの中にあった。鍵も壊れておらず、傷もない。中身のパソコンも問題なく動いたし、本当にトランクだけぽんと置かれていったみたいだった。
何はともあれ、僕はそのトランクを杏樹さんに運んでもらった。本当は僕が持つべきだったが怪我人は無理をするなと医師の
僕が倒れていた場所は鎌延屋が所有する畑の一角だったらしい。
「毎朝畑で獲れたキャベツを使って料理を作ります。今朝はロールキャベツでした」
「朝から?」
「あら、意外といけるんですよ? 優しい味付けなんです」
なるほど。まぁ、スープ感覚で捉えればありなのかもしれない。
「カーニバルというのは?」
僕が訊ねると、杏樹さんはトランクを床に置いて振り返った。
「『月の目』が開かないように、子守唄を三日三晩奏で続ける祭りです」
「……『月の目』?」
「はい。ちょうど、見えると思います」
と、杏樹さんが窓の切り取った四角い空を見上げた。
「ほら、月」
彼女の目線の先。僕もさっき見上げた、昼間の青い月があった。
「月の目……」杏樹さんがつぶやく。僕は返す。
「月の目?」
「ええ、見えません?」
「月の、目?」
僕は目を凝らして月を見る。だが目はおろか目のような模様さえ見当たらない。
この辺りでは月の模様を目に見立てるのか……?
僕は考える。
民俗学的に面白い発見かもな。そう納得した僕はつぶやく。
「『月の目』が開かないように」
「ええ。子守唄を奏でるんです」
微笑む杏樹さんに僕は訊ねた。
「子守唄」
「ええ、こんな曲です」
と、杏樹さんはスカートのポケットから小さなオカリナを取り出した。日常の中に溶け込んだ非日常に僕が少し驚いていると、彼女は曲を演奏し始めた。
不思議な曲だった。
どこか聞き覚えのある曲だった。
僕が首を傾げていると、杏樹さんは一通り演奏を終えた。ぽかんとする僕に、いたずらっぽく笑う。
「今のが『月の子守唄』。カーニバルではこの唄をあの時計塔が奏でます」
「……時計塔が?」
「ええ。ほら、瓶の口に息を吹きかけるとぼうって鳴るでしょ? あれと同じ理屈で、時計塔の上空には大きな風が流れているんです。その気流に時計塔の先を伸ばして当てて、吹き込まれる風を利用して曲を演奏します」
「はぁ」
そんなことが可能だとは。
「カーニバルの続く間、村の男、『演奏師』が交代で時計塔の中のからくりを操作して、演奏をします。……演奏をすると言っても、無作為に吹き込まれる風をいい具合に捕まえるだけなのですが。ただ、この時気をつけなければならないことがあって……」
と、杏樹さんはまた演奏を始めた。
ワルツみたいな曲だった。思えばさっきの曲も三拍子か。しかし今の曲はさっきの「月の子守唄」に酷似しているとは言え、何かが違った。そして、そう、この唄を聴いた時、僕は……。
「痛っ」
眉間からこめかみにかけて響くような鋭い痛みに襲われた。目が、視界が、チカチカしてボヤける。すると杏樹さんがつぶやく。
「今のは『おはようの唄』。不吉な唄です」
「『おはようの唄』?」
とても不吉には思えない曲名だが……。
「ええ、カーニバルの期間、この曲を奏でてはいけません。そしてお気づきかもですが、この『おはようの唄』は先ほどの『月の子守唄』とよく似ています。本当に、息をひとつ吹き違えれば『月の子守唄』は『おはようの唄』になってしまうのです。ここで演奏師の腕が試されます」
杏樹さんが窓の外に目を向ける。
「上空の風向きが少しでも変わると『月の子守唄』はこの『おはようの唄』になってしまう。演奏師は風を読んで、常に時計塔の中の仕組みを動かしながら、安定的にこの『月の子守唄』を維持しなければなりません」
何だか気が遠くなりそうなほど難しい話だが……。
「『月の目』が開かないように『月の子守唄』を奏で続ける。それがこの吾嬬村のカーニバルなんです」
「その『月の目』が開くとどうなるんです」
僕は少し控えめになってきた疼痛を堪えながら訊ねた。杏樹さんはこちらを見た。
「この世が滅びます。世界の果てまで、一気に焼き尽くされる」
また大きく出たな。
「五日後、月は満月になります。それから『月の目』が見えなくなる、つまり月が欠け始めるまでの三日間、この世の安全のために子守唄を奏で続けないといけない」
「はぁ」
なかなか因果な村に辿り着いたものだ。
だが……だが、この時僕は、少なからず興奮していた。そう、興奮していたのだ! 今聞いた話はこれまで僕が取材してきたどんな因習にも似通った点がない。つまりこの村独自の文化だ! 長野県の山奥に隔離された村にのみ伝わる『月の目』伝説。面白い……面白いじゃないか!
「気に入った」
僕は口元を歪める。これは作家としての大仕事に繋がるに違いない。
「カーニバル、見届けようじゃないか」
気づけば頭痛はすっかりおさまっていた。僕は唇を舐めた。
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