第4話 吾嬬村

 どれくらい、時間が経ったのだろう。

 ひどい頭痛で目が覚めた。「うう……」と唸る。頭の辺りが濡れている。「う……」一体何が……。

 顔を上げた。

 鬱蒼と茂った木があった。視界は霧で霞んでいる。頭上は枝、枝、葉、葉。どこかから、何かの鳴き声。それを聞いてようやく、自分の立場を悟る。

 事故ったか……。乗ってたバスが事故にあったんだ。振り返る。気づけば僕は落ち葉の上に倒れ込んでいた。朦朧とした意識でどうにか壊れた車体から這い出たのか、それとも放り出されたのか。僕の十メートルほど後ろにはひしゃげたシャトルバスが転がっていた。窓ガラスは割れて飛び散り、タイヤは歪み空転している、哀れな鉄の塊……。

 起き上がる。立ち上がる。

 幸い怪我はないようだ。頭のあたりの濡れた感触は……と、手で触れて確認する。血はついてない。おそらくだがこの霧の中寝転んでいたから結露したのだろう。あるいは雨でも降ったか。身体全体が濡れそぼっていた。僕は頭を振って水気を払うとバスを見つめた。中を確認する。

 この有様じゃ、同乗していた人たちも助からないか……むしろ僕がラッキーだった……と思って中を覗き込んだが、誰もいなかった。運転手も、一緒に乗っていた夫婦だかカップルだかも。転落した時に投げ出されたか? と思い辺りを見渡す。深い霧のせいで何も見えない。「おおい」と声を出してみる。

 返事はない。

 再び「おおい」と叫ぶ。

 やはり返事はない。

 僕と同様意識を失くしているのか。そう思い、バスの周りを歩いてみた。人が倒れている痕跡は見当たらない。いや、それどころか、車がどうやって転んでここまで来たかも分からなかった。それだけ荒れ放題の山肌だった。

 斜面であることから、ここが山のどこかなのは分かる。

 スマホを取り出す。運良く傷ひとつないが、しかし電波は届かない。助けも呼べない。

 ……トランクが必要だ。荷物の中に何かこの場で使えるものがあるかもしれない。

 僕は自分のトランクを探しにバスの中に入った。ガソリンのにおいはしなかったから一旦安全だと判断した。

 ぐちゃぐちゃになった車内から、僕のトランクを見つけ出す。中身を開いて確認したが、幸い、商売道具のパソコンは無事だ。他には着替えが数着、洗面道具、ノートに執筆参考書籍が少々、これは使えそうだ……救急ポーチがひとつ。まぁ、頭痛薬に酔い止め、絆創膏くらいしかないが……。

 とりあえずないよりマシな救急ポーチと商売道具のパソコンケースを持って、ふらふらと辺りを歩く。「誰か!」そう、叫ぶ。だが声は霧に吸われていく。

 自分としては、ほんの十数メートル、離れただけのつもりだったのだが……。

 気づけば、シャトルバスを見失っていた。来た道を戻るだけなのにいくら戻ってもバスの残骸に辿り着かない。そうこうしている内に霧はどんどん濃くなり、本当に一メートル先さえ分からなくなる。雲の中を歩いているよう、というか、本当に白い目隠しをされて歩いているのと大差ない。

 一歩進むと霧の中から木がすっと姿を現すのだが、そんなのは何の手がかりにもなりやしない。むしろぶつからないよう気をつけなければならない。僕は立ち往生してしまった。どうする……どうする? このまま霧が晴れるのを待つか? それが一番安全か? 

 あれこれ悩んでいると、不意に頭痛に襲われた。やはり事故でどこか痛めたか。無理して動くんじゃなかった。くそ、くそ……。アイスクリーム頭痛くらいの疼痛はやがて堪え難い激痛に変わってきた。歯を食いしばって拳を眉間に当てる。しかし声にならない唸り声が漏れた頃になってふっと、体が軽くなった。意識を失ったのは、多分その時だ。



「あの……あの……」

 揺すられていることに気づいたのは、どれほど時間が経った頃だろうか。

 ぼやける視界の中、目をぱちぱちさせると、朧げながらに周りを見渡せるようになった。ふと声のした方を見ると、ショートカットの女の人が、じっとこちらを覗き込んでいた。

「あ……」と、掠れた声が出る。女の人は心配そうに僕を見ていた。

「大丈夫ですか」

 静かな声。鼓膜をくすぐる。

「大丈夫ですか」

「あ、ああ……」

 体を起こす。背中が地面に根を張っていて、それを引き剥がすような気分になった。

「ああ……」

 腹から息が漏れるように、声が出る。

「ああ」

 辺りを見渡す。

「ここは……?」

 すかさず女性が口を挟んだ。

吾嬬あがつま村です」

「あがつま……?」

「ええ。長野県の」

 何だか頭の中の何かに引っ掛かる村の名前だ。いや、それよりも……。

「ぼ、僕は山の中に倒れていたんじゃ……」

 僕の中の一番新しい記憶は、霧の山中、あまりの頭痛に倒れ込んだ、その時で止まっている。だが今、周りを見てみると……。

 山の麓、らしい。正面には鬱蒼と茂った森。その先には立派な山があった。僕がいるのは、そんな山と人里の境界線。どうやら、畑の傍らしい。

 キャベツ。一面にそれがあった。と、思い出す。この辺りは高原野菜の産地なんだっけ。

「吾嬬村……」

 僕が村名を口にすると、僕の傍にいた女性が、すっと、遠い向こうを指差した。キャベツ畑の柵の向こう。小さな、駐在所のような建物、そしてバス停の向こう。

 大きな塔があった。じっと目を凝らす。塔の側面には大きな時計があった。ただの時計じゃない。時刻の他に、太陽と月の関係性か? 他にも星座と思しき生き物を示す盤もある。かなり複雑な……そして精巧な時計塔だった。僕はしばしそれを見つめた。

「あの、どうして……」

 僕の傍にいた女性が話しかけてくる。

「どうして、こんなところで……」

 倒れているのか、と訊きたいのだろう。

「バスが事故に遭って……」

 僕は事情を説明する。

「乗っていたバスが事故に遭って山中に放り出されたんです。記憶はそこまでしか……」

「はぁ、バスが事故に」

 ……思っていたリアクションと違う。

「バスが事故ですかぁ」

 妙に反応が薄いな。信じてもらえてないのか? まぁ、この人に信じてもらえなくても別に困らないのだが、一応警察には行かないとな。

「駐在所はあそこですか」

 僕はとりあえず目についたそれらしき建物を示す。すると女性が答えた。

「ええ、あそこです」

 僕はよろよろと立ち上がった。

「どうもありがとう。僕は一度警察に……」

 と、動こうとしたが駄目だった。僕はすぐにふらついて、膝に力が入らないまま倒れ込んでしまった。慌てて、女性が飛んでくる。

「まだ動いたら駄目です。頭を打ってるかもしれない」

 しかし今のところ頭痛はない。体がうまく動かないことを除けば、特に大きな問題はない。

 まぁ、しかし、運動能力に問題が出ているということはまずいな。もしかしたら自分で気づいていないだけで重傷なのかもしれない。

 僕は大人しくその場に座り込んだ。女性が僕の肩に手を添える。

「お医者様を呼んできます。ここでじっとしていられますか?」

 まるで悪ガキに説教しているみたいだな。僕は自分の無力さを噛み締めながらため息をつく。それから「はい」と静かに答えた。女性は立ち上がった。

「お医者様を呼んできます」

 と、足早に立ち去ろうとする。しかし数歩進んだところで女性は振り返った。それから、膝を折り、挨拶してくる。

「私は杏樹あんじゅと申します……」

「杏樹さん」

 僕が名前をリピートすると、彼女は安心したような顔になって、「いってまいります」と駆け出した。彼女が去った後、僕は空を眺めた。どこまでも青い、吸い込まれていくような空だった。

 ふと、彼方を見やる。

 青白い月。高原にいるからだろうか。

 いつもの月より、大きく感じた。

 青の中に浮かぶ白銀のそれは、もう少しで満月になりそうだった。

 昼間だが、綺麗な月だった。

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