第3話 事故

 大海おおうみ村に行くには一度軽井沢に立ち寄る必要がある。

 中軽井沢から出ているローカルの長距離バスに乗って北上し、草津町に向かう途中にあるのが大海村だそうだ。何でも聞くところによると、この界隈は高原野菜で有名らしく、キャベツの名産地らしい。与謝野くんにひと玉買って帰るか……などと寝ぼけた頭で考えていたところで、バスは中軽井沢に着いた。運転手さんに手渡されたトランクを担いで、傷心旅行の金田一耕助よろしく一人とぼとぼ歩いていくと、駅の北口にあるタクシー乗り場の傍に、小さな、何だか頼りない薄水色のシャトルバスが一台、ぽつんと停まっていた。ドアが開いていたので、僕はトランク片手に覗き込むと、運転席で欠伸をしていた運転手に訊ねた。

「草津町の方へ行くかい?」

「このバスですか?」

 そりゃあな。まぁ、あるいは君が行くんでも構わないが……。

 運転手は答える。

「ええ、行きますよ。ハルニレテラスを通って、北軽井沢を抜けてずっと、北へ、北へ……」

 どこか夢見心地な調子の運転手だった。言葉の尻がぼやけてる。見たところ中年だが、この人は中年の危機にありがちなギラつきに襲われることなく穏やかに過ごせているようだ。

「大海村に向かいたいんだが」

 僕は訊ねる。

「大海村へ?」

 聞き返しながら、運転手は怪訝そうな顔をした。

「学者先生かい?」

「まぁ、先生とは呼ばれるな」

 嘘はついてない。

「はぁ。大海村ですかい。何でもあの村、ついこの間ものすごいもんが見つかって大騒ぎだって聞いてますね。先生もそれにご用が?」

「そんなところかな」

「大海村なら、嬬恋つまごい村に着く手前ですよ」

 嬬恋。妻に恋。いい名前だな。

「あの辺りには他にも小さな村がいくつかあるんで、間違えないようにしてください」

「バスを降りてから歩くかい?」

「ええ、どの村に行くにも車じゃ入りにくい小さな道を通るんでね」

 徒歩で回る必要があるのか。バイクでも借りればよかったか。しかしまぁ、今更四の五の言っても仕方がない。

「何か、目印になるものはあるかな」

「どの村も多分、入り口に『ここは何々村です』っていう看板出してると思いますよ。あれがないとこの辺の人ですらどこを歩いてるか分かりませんからね。ほら、最近の便利な……スマホの地図? あれでもなかなか行きにくいところで。何せ山奥だから電波がない」

「紙の地図なら持っているよ」

 僕はトランクの中に意識を向ける。ここへ来る前に、複数の出版社から、それも何種類かの地図を買い揃えておいた。

 と、遠い空に季節外れの入道雲が浮かんでいた。僕がそれを見ていると、運転手も目をやり、一言ぽつっと、つぶやいた。

「ありゃあ、鬼雲かぁ……子鬼が出なけりゃいいけどなぁ」

 子鬼。

 その言葉を聞いて、僕の中の何かが、ぶるりと震えた。


 電波があるうちに、と、僕はスマホを使って先程の運転手のつぶやきを調べることにした。鬼雲、子鬼。

「鬼雲」という言い回しは、少なくとも気象用語には存在しなかった。ではこの言葉は何を指しているのか。少し手間取ったが調べることはできた。何せ僕の『幸田一路は認めない』は民俗学が主たる分野だ。こういう地元の伝承や、言い回し、表現、古典などは把握しておくと作品に活かしやすい。

 運転席の向こう、山の方に目をやる。大きな入道雲の下にどろどろとした黒い雲が沈んでいる。まるで巨大な雲のお化けの影のように、山のあたりにドロっと黒雲が溜まっている。

 そんな天気のことを、信州の一部、限定的な地域では「鬼雲」と呼んでいるらしい。何でも「鬼が動き出したから出る雲」らしい。

 鬼と雲は結びつかんでもない。風神雷神は鬼のような姿で雲に乗ってやってくる。雲という存在と鬼という存在はさほどかけ離れてはいないのだろう。子供向けの本でも鬼は雲に乗って太鼓を鳴らしてやってくる。では先程の運転手が口にした「子鬼が出なけりゃいいが」とは。何故「鬼」ではなく「子鬼」なのか? 

 さらに調べて分かったことは、何でも北軽井沢の辺りでは、古い伝承に「子連れ鬼」というものが伝わっているらしく、この鬼は読んで字の如く「子供の面倒を見る鬼」らしい。

 鬼雲が立つ、すなわちその「子連れ鬼」が動く時。人間で言う親が動く時、というのは大抵子供が何かをやらかした時、というわけで、鬼雲が立ち込めると鬼が動き出す=子供の鬼、すなわち子鬼が何かをしでかした、ということらしい。

 いたずらがバレた子供が逃げ出すように……鬼の子も、親の元から逃げて人里へ来る、らしい。

 ――子鬼が出なけりゃいいが。

 子鬼もやはり、人の子と同じようにいたずらをするのだろうか。

 そんなことを思いながら、僕はバスに揺られた。乗客は僕の他に二人。どうも夫婦か……カップルらしい。



 睡眠不足は仕事に響く。

 なので僕は極力、生活リズムは乱さないよう心がけていたのだが、この度書いた長編小説の主人公が深夜の徘徊、そして真夜中の公園で太極拳の練習をすることを趣味としている人物だったので、僕も同じことをしてみることにしたのだ。太極拳の心得はあったので、僕は毎晩真夜中の町を歩き回り、人気ひとけのない公園でゆっくり体を動かすことを日課としていた。何度か職務質問もされた。だがこれも作品に活きる「経験」だ。買ってでもするべきことだ。

 昼夜逆転した生活はキツかったが、しかし原稿は今朝、正確には夜とも朝ともつかない四時三十八分に与謝野くんに送りつけたから、今頃は彼女の元で下読みやら何やらがされていることだろう。もう夜更かしをする必要はなくなったが……しかし、眠い。

 バスに揺られウトウトしていた。いつの間にか運転手がラジオをつけていたのだろう。車内放送でしょうもない雑談が流れていた。何でもこのところ怪談短歌というのが脚光を浴びているらしく、全国各地で多様な歌会が開かれて……。

〈臨時ニュースをお伝えします〉

 ふと気づけば、ラジオの雑談は終わっていて、おそらく地元ラジオのニュース番組と思しきキャスターが、滔々とニュースを読み上げていた。最初はどうせ大したことない話だろう……と思っていたが、違った。

〈大海村で発見された、歴史的価値のあるとある仮面について、臨時ニュースです。問題の仮面はつい先程、宗教史的に非常に価値のある『禍魔の仮面』であることが判明しました。しかし村役場の職員が会見を開こうとしたところ、何も……かによっ……仮面が……〉

 雑音が入る。くそっ、いいところなのに! 

「何者かによって仮面が」どうなったんだ? まぁ、こういう言い方をする時っていうのは大抵がよくないことが起こったということなのだが、それにしても「仮面を紛失した」か、それとも「何者かが体調不良を訴えた」かで意味合いが違う! 前者の可能性が高いが……後者ならまだ許せる! 体調を崩したxくんには悪いが、しかしそうであってくれ……! 

「ああ、こりゃあ……」

 と、唐突に運転手が笑った。中年男性独特の、何だか粘着質な、笑い。口の中で唾液が粘つくような。ラジオを聴いて笑っているよう、だった。

「子鬼だな。うん。子鬼だ」

「子鬼……」

 そこで僕は、思い出す。


 ―― しかしその時、湖の方から一人の鬼神がやってきて――


 と、いきなりそれは訪れた。

 車体が大きく揺れた。僕たちの体も当然、大きくバウンドした。運転手が「うわっ!」と叫んだ。一瞬でまずい事態であることを悟る。だが、しかし、その時には、既に……。

 強い衝撃。

 ひしゃげる鉄。

 タイヤの音。

 意識が途切れる瞬く間。

 僕は幻を見ていた。それは走馬灯でも、神様でもなく、不気味な鬼のお面をかぶった、子供の姿だった……。

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