第2話 長野県へ

 黒見いわく。

「長野県草津町近くにある、大海おおうみ村という小さな村の古いお屋敷で、奇妙な仮面が見つかったみたい。地元の学者数名が鑑定しに行ったんだけど、どうも昨今民俗学界隈で話題になることも多い『禍魔の仮面』ではないかって言われてるみたいよ。正式な鑑定は着手までもうしばらくかかるみたいだけどね。つまり、未発見の貴重な文化遺産らしきものを生で見られるの。どう?」

「それ、本当なのか?」

 僕の声の迫力にびっくりしたのか、黒見は声を潜めた。

「そんなにすごいものなの?」

「ああ」

 僕は頷くと、もうそらんじられるくらい読み込んだ禍魔の仮面についての資料の話をした。

「日本に来た外国人の記録。一番古いものは……?」

「……さぁ? 鉄砲伝来のポルトガル人? いつぐらいだっけ。十六世紀?」

「正解。ただ、な……」

 僕は電話口で姿勢を正す。

「十三世紀に書かれた、『男衾三郎絵詞おぶすまさぶろうえことば』という絵巻物に金髪で鼻が高く頬が赤い山賊が描かれている。絵巻物だからどこまで信じていいかは分からないが、しかし鉄砲伝来より古い渡来人の痕跡自体はあると言える」

「じゃあそれが最古?」

 いいや、と僕は少し鼻息を荒くした。

「もっと古い渡来人の記憶。それがその『禍魔の仮面』なんじゃないかと言われている」

 僕は電話を肩と頬で挟みながら、資料が入った棚を開いて、ここ数日調べた禍魔面についてのものを引っ張り出した。頭の中の情報をクリアにしたかったからである。

「マースティッカというのは知ってるか?」

 黒見が「いいえ」と返してくる。

「インドのとある宗教用語で、『異端』を示す言葉だ。その昔、宗教的に異端だとされる者たちがこの名で呼ばれた。このマースティッカという一派は当時のインドの宗教界隈では鼻つまみ者だったらしく、様々な地を点々としながら、それでも息だけは絶やさず続いてきたようだ。そしてローマ帝国が栄えていたヨーロッパに流れ着いた」

「これ歴史の授業?」

 電話の向こうで黒見が笑う。

「OK、最後まで付き合う。小説のネタになるかもしれないし」

「悪いな。……で、このマースティッカはローマでキリスト教と出会う。一時的にキリスト教と融合しかけた時期もあったそうだが、しかしその後何らかの理由で訣別。キリスト教的にも異端と扱われるようになる」

「色んなところで仲間はずれにされてるんだ」

「そう。よほどおかしい考え方だったんだな。教典の一部も伝わっている」

「どんな?」

「『夢』に関する話だ」

「夢」

「ああ。夢見心地、睡眠によるある種のトランス状態を求める宗派だったらしい。眠りを促す薬なども扱っており、こうした薬の知識がどの宗教でも嫌われたようだ」

 ふうん、と黒見が相槌を打つ。

「問題のマースティッカの儀式には仮面が使われたそうだ。大きく分類して『覚醒』を意味する仮面、『昏睡』を意味する仮面、そして『夢中』を意味する仮面とがある。『覚醒』と『昏睡』の間に『夢中』があり、この『夢中』は半眠半覚状態を指す」

「寝てるんだか起きてるんだか分からない時間ってあるよね」

 黒見がつぶやく。悪い。この話にはもう少し付き合ってもらう。

「過去の考古宗教学的研究により、『覚醒』の仮面と『昏睡』の仮面は見つかっている。それぞれインドの西端、そしてイタリアの南端。しかし『夢中』の仮面は見つかっていない」

「はあ。で、その『夢中』の仮面が……」

「そう。さっき話題に上った『禍魔の仮面』なのではないかと目されている」

「ふうん」

「マースティッカの文献に残されている『夢中の仮面』の特徴は、『二つの角、涙を流す大きな一つ目、緩んだ口元』とある」

「一方信州に伝わる『禍魔の仮面』は?」

「諏訪大社から見つかったある文書に記載があった。『遠い海の彼方から来る、鬼のような面にて、眼はひとつ、笑みたる』」

「うーん、似てるっちゃ似てるし、海の彼方から来てるって言うし……」

 でもさ、と、黒見が口を挟んだ。

「インドの呪術に使われてたお面でしょ? どうやって日本に伝わったの?」

「分かっていない」

 なぁんだ、と黒見が嘆息する。

「だが」

 僕は断言する。頭の中にあったのは、『潮の亥』。そしてそこにあった記載。


 ―― むかし、それはそれは悪しきお面がありました――



「え? それで取材旅行ですか?」

 とある出版社で僕の担当をしてくれている与謝野よさの明子あきこくんが、コーヒーを淹れながらそう訊ねてきた。まったく。僕んちの台所なんだが……勝手知ったる僕んちの勝手といったところか。

「長野県に」

 ポットを片手に戻ってくる与謝野くん。

「十月だから、スキーの季節にはまだ早いですしねぇ」

「遊びに行くんじゃないんだぞ」

 僕は与謝野くんからコーヒーを受け取る。

「それと君は来なくていい」

「どうしてですかぁ」

 むくれる与謝野くんに、僕はほとんど独り言みたいな返事をした。

「何が起こるか分からないからな……」

 正直に話そう。

 僕は禍魔の仮面と関係を持つことに、何か妙な、暗い力を感じていた。それは名状し難い、心のしこりのようなものだったが、しかし僕以外の人間を巻き込まないよう、配慮をするのには、十分な緊張感を持っていた。だから僕は与謝野くんを巻き込まないことに決めた。

「来週月曜日の朝早く、軽井沢方面のバスに乗る。バスタ新宿から発つ予定だ」

「朝大丈夫ですかぁ?」

 与謝野くんが僕の冷蔵庫を開けて中からチーズケーキを取り出す。彼女が買ってきて彼女が冷蔵庫に置いたものとは言え、断りもなく冷蔵庫を開けられるのは何だかいい気分ではない。

「先生、このところ生活リズム乱れてるじゃないですか。朝、平気ですか?」

 確かに彼女の言う通りこのところ生活リズムは乱れていて、正直言うと朝きちんと起きられる自信はなかった。すると僕の表情から察したのだろう、与謝野くんがにっこり笑った。

「私、最近巷で流行りの目覚まし時計買ってきますね!」

「目覚まし時計に流行りも廃りもあるのか」

「あるんですよー。何でも、眠っている状態でも聞こえやすい音、というのがあるみたいで」

「ほう」

 初めて聞いた。

「しかも眠りを妨げるのにちょうどいい音楽っていうのもあるらしいんです。その目覚まし時計、特殊な音と特殊な演奏でぱっちり眠気を飛ばしてくれる快適アイテムらしいんです」

「どんなもんなんだ」

 こう見えても眠りにはうるさい。これまで不眠症にも過眠症にもなったことがある。

「サンプル音源あるかなー。探してみますね!」

 それから与謝野くんはスイスイとスマホを弄ると、やがてとある家電量販店のWebストアの画面を見せてきた。

「そんなにうるさくないんで、聴いてみてください」

 それからスマホから流れてきた音は……。

 何だかハープか何かを弾いているような音だった。そして曲調。三拍子か? 逆に眠ってしまいそうなふわふわした、足元が浮かぶような曲だったが、しかしこれが眠気覚ましにいいらしい。不思議なものだな、と思いながら画面を見る。その最新型の機能がついた目覚まし時計は、どういうわけかリアルな鯨の形をしていた。ふと、『潮の亥』を思い出す。

「気に入った」

 不思議な符号。これも取材旅行の幸先がいいことを示しているのなら。



 新宿には九時半に着いた。家を出たのは九時頃。そんなに早起きでもない……と思われるかもしれないが、こちとら前日徹夜である。フラフラしながらコンビニでサンドイッチとコーヒーを買い、バスを待った。予約していた高速バスは、九時四十分にバスタ新宿を発つ予定だった。

 座席に座ると強烈な眠気が襲ってきた。とりあえずサンドイッチだけでも食べよう……。眠気の方も死にそうだったが空腹の方も死にそうだった。クラクラする頭を持ち上げながらサンドイッチを食む。何とか食べ終えると、僕は座席に沈んで眠りについた。夢も見ないような深い深い眠りだった。


 気づくと窓の外の景色が変わっていた。緑の合間に眩い光。爽やかな……実に朝らしい……。

 時計を見る。

 十二時十分。

 もう、昼じゃないか……。

 そう思いながら身じろぎして再び座席の中に沈んでいった。僕の意識も、下へ、下へ……。

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