禍魔の仮面

飯田太朗

前編

第1話 僕、飯田太朗の悩み

 ――禍魔まがつまの仮面。

 それは信州、長野県の方の古い文献に残っている。

 仁和四年、西暦八八八年に起きた大災害の記録に初めて登場する。

 当初は「禍魔面」の記載だったが、第二次大戦中に地理学者市川健夫いちかわたけおの学友、入来田いりきだ兼行かねゆきによって「禍魔の仮面」と名付けられる。飯縄山で見つかった未詳の宗教的建造物の中から「禍魔面」と特定可能な面が見つかり、その異様な、日本史に見ないような非常に禍々しい様相に「仮面」の言葉が用いられた。

 ――恐ろしい仮面だった。

 入来田の記録にはそうある。

 ――邪悪だった。悪夢のように。

 そう、ある。

 僕がその禍魔の仮面について調べていたのは、単純に仕事を動機にしたものだった。

『幸田一路は認めない』。僕の作品だ。フィールドワークを得意とする学者、幸田一路が各地で出会う民俗学的謎や古い因習などにまつわる事件に巻き込まれていくミステリー。

 その執筆にあたって、やはり民俗学的な知識が必要になってくるのだが、国内の様々な学者に当たって親しくなってくると、大抵この仮面の話をし始めるのだった……いわく。


 ――民俗学におけるミレニアム問題ですよ。

 ――ついこの間も軽井沢の旧邸宅で文献が見つかったらしいです。

 ――資料の類も大抵古物商が抑えてて、なかなか手に入らないんだよな……。


 各地の民俗学者が血眼になって探している。それが、禍魔の仮面――。



「飯田先生」

 知人に骨董商がいる。

 秋海しゅうかい堂という。ご主人の名前は知らないが、懇意にしている。

「これなんか、飯田先生のお眼鏡にかなうんじゃないかと、置いておいたんですがね」

 そう、秋海堂のご主人が取り出したのは一冊の和綴の書物だった。表題に何と書いてあるのか、一目で判別できずにいたが、秋海堂のご主人が一言、「『潮の亥』と読みます」と教えてくれた。しおのいのしし、か。

「信州の骨董商から流れてきた書物なんですがね。ちょっとよく知らないような昔話がたくさん載ってる本なんですよ。小説家をしている先生ならご興味があるかと思いましてね」

「よく知らないような話?」

「ええ。どうも童話か何かなのかな。巻頭には『童語わらべがたりを集めた』という趣旨のことが書かれてありましてね。表題作含め色々、物語が載っています」

「その『しおいのしし』というのはどういう話なんだい?」

 秋海堂のご主人が品のいい笑みを浮かべた。僕が興味を持ったことを敏感に感じとったのだろう。

魚京うおぎょうと呼ばれる商い人が、魚に呪いをかけられて、川を下り海へと流れる。広い海でやがて巨大な魚となった魚京を、人々を『くじら』と呼ぶようになった、という話です。魚京の家紋が亥に因んだもので、海の亥、潮の亥だから『潮の亥』という話になったのだとか」

「信州と言ったら長野の方だろう。海はないはずだが……いや、信濃町の方なら海は近いのか?」

「ご推察の通り」

 秋海堂の主人は笑顔を絶やさなかった。

「信濃町の老夫婦が営む骨董屋に伝手がありましてね。店を畳むのでいくつか買ってくれないかと言われてこの本を買いました。信州、特に地元信濃町に伝わる話をまとめた書物なのだとか。例外はあるそうですが……」

「なるほど」

 僕が秋海堂のご主人を気に入っている理由の一つに、「買え」と明確に言ってこないところがある。決定的な表現を避けて奥ゆかしさを感じさせる、ある種小説的な何かを感じたからかも、しれない。

「例外、とは?」

 僕は秋海堂のご主人が口にした気になる点を訊ねる。ご主人は穏やかに話し始める。

「海だけでなく山の方、それもかなり奥地の話もあるというだけとのことですがね……」

 ご主人は手袋をはめると、パラリと数ページ、『潮の亥』をめくった。

「最初の方に出てくる、『吾嬬面わがつまめん』という話が、少し独特でしてねえ」

「吾嬬面」

 この時僕の頭にこの単語が引っかかったのは、少なからず禍魔面まがつまめんのことが頭にあったからだろう。折しもこの前日、民俗学者伊達崎だてざき晴喜はるよし教授の研究室にお邪魔する機会があり、そこで聞いていたのだ……禍魔の仮面の話を。


 ――夢を固める仮面、だそうです。


 伊達崎教授の言葉である。


 ――固める、は「叶える」のニュアンスがあるように思われています。


 夢を叶えるお面。

 この引っ掛かりが、秋海堂での出会いに繋がった。

「この『潮の亥』に載っている吾嬬面は、遥か昔に大陸から伝わった宝物だとあります。神事に使われる強大な面だったようですが、そのあまりの邪悪さに時の諏訪大社の神主が、念入りに封じ込めた、のだそうです」

 そしてそう、この時僕は出会った。

 禍魔面の伝説に。

「以来その吾妻面は『禍魔面』と名前を変え、信州の奥地、あづま村に隠されたのだとか」

「諏訪大社と言えば長野県に本宮がある由緒ある神社だな」

 国内にある最も古い神社のひとつとされている。

「それが封じたとなるなら、よほどの……」

「ええ。よほどの」

「悪だな」

「ええ」

 僕は興味を持った。

 もちろん、この吾嬬面についてもそうだが、載せられた信州の様々な伝承、それらが、いずれ『幸田一路は認めない』に役立つと考え、そして財布を出した。僕は告げた。

「買おう」



『潮の亥』を買ってから二ヶ月ほど経った頃だったと思う。僕は自分なりにこの『潮の亥』、そしてそこから繋がる吾嬬面、禍魔の仮面に至るまでの軌跡を調べてまわっていた。

 電話はそんなある日、秋も深まってきた頃にかかってきた。

 長野県にいる作家の仲間、黒見くろみ淳平じゅんぺいが僕に連絡をくれたのだ。彼女は、男性名を使っていたが女性の作家だった。酒で焼けたというハスキーな声がセクシーな。

「民俗学の話を書いてたよね?」

 記憶の中の彼女はアシメショートの似合うちょっとボーイッシュな感じの女性だ。年齢は僕より五つ下だったが、どういうわけかお互い砕けた口調で接している。

「ネタでもくれるのか」

 僕が高校の先輩からもらったウォーターマンのボールペンを眺めていると、黒見は電話の向こうで「ふふ」と笑ってから、告げてきた。

「お面の話。興味ある?」

 お面。

 その一言で、思い当たる。

「禍魔の仮面か?」

 僕が食い気味に応えたから、少しびっくりしたのだろう。電話の向こうの黒見は小さく笑った。

「知ってたか」

 じゃあ、ネタとしてはイマイチだね。

 彼女がそんなことをつぶやいたので、僕はすぐさま否定した。

「いや、興味がある。教えてくれ」

 頭の中には『潮の亥』があった。それに書かれていた吾嬬面の記載。大略すると以下である。


 むかし、それはそれは悪しきお面がありました。

 吾嬬面と呼ばれるそれは遠い異国からやってきたお面でした。

 お面はある日、神様に呪いをかけて世界を終わらせようとしました。

 理由はありませんでした。ほんのいたずらのつもりだったのです。

 しかしその時、湖の方から一人の鬼神がやってきて、お面を壊し、封印しました。

 以来、この地には平和が訪れました。鬼神はいつの間にか姿を消しましたが、疲れた鬼神が伏して寝たのが、横倉山の始まりだとされています。


 伝承なんかによくある結末だ。救世の神様が寝たり涙を流したりした場所が山、川になる。

 この話もそんなところだろう。湖からやってきた鬼神が、吾嬬面を征伐して休んだところが山になる。

 ただ、気になるのがこれは、「吾嬬面の伝説」なのだ。「鬼神の伝説」ではない。何なら吾嬬面は名前まで出てきているのに鬼神の方は「鬼神」としか言われていない。何故これが吾嬬面の伝説なのか。鬼神とは何なのか。

 結局、この『潮の亥』から探る吾嬬面については、分からないことだらけなのである。

 ただ、これらの逸話が「吾嬬面」の項目にあることは、そして何らかの方法で「吾嬬面」について後世に伝えようとしているのは確かだった。僕はこの伝説について何らかの解釈をしようと考えていたところ、先の黒見からの連絡というわけだ。

「いや、大した話じゃないんだけどね……」

 黒見は小さな声でポツポツ告げた。そのせいで、僕はスマホをほとんど頬にめり込ませるような形で聴いた。

「見つかったんだ」

「え?」やはり聴き取りにくい。

 しかし黒見は静かに繰り返した。

「見つかったんだ。その禍魔の仮面とかいう、奇妙な仮面が」

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