第32話 蜘蛛
休日になっても、その男はやってきた。
冷蔵庫にあるお弁当や飲み物は、いつしかその男が占領するようになって、今だって、私が飲んでいた途中のお茶を男はグビグビと飲んでいる。
そんな男に、お母さんは注意しないどころか、むしろ歓迎しているように見えた。その男とはどういう関係なのか、これからこの家はどうなるのか、聞いてもお母さんは答えてくれない。しつこく問いたださなかったのは、答えを知るのが怖かったからだ。
鮮明な不安より、不明瞭な疑問の方が出来る傷は浅い。
それでも私が生きているのは、
私は今日も瑠莉ちゃんの家に泊まる予定だ。
カバンに着替えを詰める。歯ブラシは瑠莉ちゃんの家に置かせてもらっているので、最初の頃と比べたら荷物もだいぶ少なくなった。
「いってきます」
家を出る際に、人間の真似事をする。
ここは野犬の群れが集う、油まみれのゴミ捨て場だ。生まれるものは何もなく、ただ何かを失い、摩耗するだけの空間に、私の声がぽつんと響く。
雫が垂れる音は、豪雨にかき消されてしまった。
リビングから、地面に打ちつけるような笑い声が聞こえてくる。
家の外から見る、我が家の明かりは、まるで童話に出てくる悪党のアジトみたいだった。狼さん、泥棒……悪い妖精、魔女。影が形作るのは、そういう類いのものだった。
それでも、心が灰にならないのは行く場所と、会う人がいるからなのだろう。
電車に揺られながら二つほど先の駅で降りる。
改札口の向こうに、瑠莉ちゃんがいた。
こちらに気付いた瑠莉ちゃんが手を降る。
「今日は荷物少ないじゃん。大丈夫? 今夜は冷えるってニュースでもやってたよ」
十月を間近に控えた秋の空は、晴れたり曇ったりとせわしない。幸い今日は、快晴のようではあるが。
「瑠莉ちゃんの布団にお邪魔するから平気」
「ええー! この前私、
「いい。瑠莉ちゃんと寝たい」
「館羽がいいなら、いいんだけどさ」
瑠莉ちゃんの尖った唇が上を向く。
駅を出たすぐにある噴水が、イルミネーションを纏って光っていた。ここの噴水は、正午になると光る仕組みになっている。
瑠莉ちゃんは地元なだけあって見慣れているのかあまり関心はないようだった。私は噴水によって巻き上げられた水滴一つ一つの死に様を眺めた。
「手繋ぎたい」
地面の黒いシミは、何かが生きた証であり、飛んだ証拠でもある。地面から高いところにいた何かがあったから、弾けるように広がったのだ。
「はいはい」
瑠莉ちゃんはもう慣れたように、私の手を握ってくれた。
上ずった何かが、ストンと落ちていく。
「腕も組む」
「歩きにくいよ」
「じゃあ立ち止まって」
「家に着いてからね」
瑠莉ちゃんの諭すような声色に、自然と眉が下がるのを自覚した。
「依存していいって、瑠莉ちゃん言った」
「言ったけどさ」
「じゃあ止まって」
「これって依存?」
困った表情を浮かべながらも、瑠莉ちゃんが立ち止まる。
隣で揺れる瑠莉ちゃんの腕にしがみつくと、私は蔦に捕まるターザンのようにぶらぶらと揺れた。
「腕を組むって……こういうことじゃなくない?」
「じゃあどうやるの」
「こう、腕を交差させて」
瑠莉ちゃんがお手本を見せてくれる。その淀みない手順は、いったいどこで身につけたのだろう。邪推すると、眉間が痛くなった。
「あんまりぶらぶらすると、ヘアピンが取れちゃうよ」
私の前髪を外に逃がしているヘアピンに、瑠莉ちゃんが触れた。
瑠莉ちゃんと友達になった私は、あの日以降ずっとこのヘアピンを付けるようにしている。付けると私自身に何か作用があるわけではないのだが、これを付けていると、私を見る瑠莉ちゃんの顔つきが柔らかくなる。瑠莉ちゃんはこのヘアピンが、というより、私がこのルリタテハを頭に乗せているのを見るのが好きなのだろう。
「そういえばあそこの公園、土曜日になるとクレープの屋台が来るんだって。めちゃくちゃ美味しいんだって友達が言ってたんだけど、行ってみない?」
「クレープ……食べたことない」
「本当? じゃあ絶対行こ! バナナとか、いちごとかあるんだけど、何にしよっかなー」
瑠莉ちゃんの二の腕に預けた私の頭が縦に揺れる。
公園に着くと屋台は思いのほか混んでいて、十分ほど並んでようやく買うことができた。
「瑠莉ちゃんは何にするの?」
「うーん、悩むけど……バナナにしよ。チョコバナナ」
「じゃあ、私もそれ」
肝心なのは味ではなく共有だ。私と瑠莉ちゃんが同じものを食べ、同じ感情を抱く。その瞬間こそ、私たちが同じ線の上に立っていることの証明であり、寄生虫を宿した主の役目だ。
クレープを口に運んだ瑠莉ちゃんは、口元にチョコを付けながら「おいし~!」と笑顔になる。瑠莉ちゃんが笑っていると、頭の奥に棲み着いている寄生虫がむしゃむしゃと食事を始める。
「よかったね」
満腹になった寄生虫が排出した糞尿が、声となって私の口から飛び出す。
「よかったね、じゃなくて。館羽も食べなよ。美味しいよ」
「うん」
口にしても、私はそれを消化できない。美味しい、甘い、幸せ。胃の奥で感じるものを生きる糧に変換することができない。クレープを食べるという行為自体には、やはり意味がない。
「どう? 初クレープの感想は」
星々が輝く瑠莉ちゃんの瞳に浮かぶ光を途絶えさせたくない。その星空に浮かぶのは私という被写体で、小さな点が私と瑠莉ちゃんを繋ぐ。それを星座と呼ぶのなら、名前を付けられるまで点と線を繋げていきたい。
「瑠莉ちゃんのも食べたい」
「いや、味同じだよ?」
「瑠莉ちゃんのも食べたい」
じっと見つめると、瑠莉ちゃんは観念したようにクレープを差し出してきた。瑠莉ちゃんが口を付けたところに、唇を付ける。ほのかに瑠莉ちゃんの香りがした。これは、リップ? それとも、香水? 確かめるように、咀嚼する。
「美味しい」
私がそう言うと、瑠莉ちゃんは笑う。
細めた目と、口角のあがった口元。線で繋げると、また一つ、星座ができあがった。
「って、あれ!? ねぇ、館羽!」
クレープを食べ終わって、空いたベンチで一息ついているときだった。
瑠莉ちゃんがクレープの包装紙をくしゃっと丸めたかと思うと、立ち上がって向かいのベンチを指さしたのだ。
さっきまで人が座っていたのだが、いつのまにかどこかへ行ってしまったらしい。無人のベンチに何があるというのだろう。よく目を凝らしてみる。
すると、何やらハンカチのようなものがベンチの上に乗っていた。さっき座っていた人の忘れ物だろうか。
「あのハンカチがどうかしたの?」
「私もハンカチだと思ってたんだけど、あれ、違うよ」
向かいのベンチに駆け寄っていく瑠莉ちゃんの背中を追う。ベンチの近くまで来ると、瑠莉ちゃんは人差し指を唇に当てて、忍び足で進んでいく。
「館羽、館羽」
瑠莉ちゃんが子供みたいな笑顔で、私を手招いた。興奮を抑えられないという様子の瑠莉ちゃんに、近寄っていく。
「ほら、あれ」
瑠莉ちゃんの視線の先を追うと、そこには青いハンカチ。
……いや、ハンカチじゃない。あれは。
「ルリタテハだ」
前翅には青い帯模様が入っていて、胴体は限りなく黒に近い藍色をしている。吸い込まれそうな色彩の蝶は、優美に翅を広げ、ベンチに止まっている。
あれが、ルリタテハ……。
とても、綺麗な色をしている。人の手によって塗装されこの色になったのなら納得はできるが、これが自然界で生まれたのだと考えると、信じられない気持ちになる。
こんな奥行きのある青が、どういう仕組みで生まれるのだろう。
瑠璃色を全身に散りばめたルリタテハは、名前の通りまさしく宝石のようであった。
「こんなところにもいるんだ」
「一応、日本全土にはいるみたいだけど、かなり珍しいよ! 私も子供の頃に一回見たきりだったから……」
瑠璃ちゃんはルリタテハが逃げてしまわないように、だけど触れたい欲求を抑えきれないというような足取りで、近づいていく。
ルリタテハの翅が風に揺られて凪いでいる。触覚がぴょこっとこちらへ向いて、私たちを警戒しているように見えた。
無意識に、私は自分の頭を触っていた。
――何か買う?
この蝶のヘアピンを選んだあの日。お母さんは気付いていたのだろうか。
この蝶がルリタテハなのだと。
自分の娘の名前が入った蝶なのだと。
「あ」
瑠璃ちゃんが声をあげる。
同時に、指先にわさわさとくすぐったい感触が伝わってきた。
見ると、ルリタテハが私の人差し指に乗って翅を休めていた。
ルリタテハの翅を見て、私は驚いた。
さっきまでは瑠璃色だったのに、今見ると、枯れ葉のような茶色に変わっていたのだ。
「あれ、翅の色」
「ルリタテハは翅の裏面が茶色になってるんだよ。だから羽ばたくと、茶色と瑠璃色交互に変わるの」
翅を閉じている状態のルリタテハは、本当に細い枯れ葉にしか見えなかった。
こうやって、擬態して生き延びてきたのだろうか。
宝石と枯れ葉が同居しているなんて、不思議な生き物だ。
いったい、どちらが先だったのか、聞いてみたい。
あなたは生まれながらに宝石だった? それとも、最初は枯れ葉で、頑張って宝石になったの?
問いかけるように顔を近づける。
私はね、枯れ葉だよ。
整然と咲くことなんかできない、蕾の時点で間違った不純物。きっと種全体で見れば淘汰されるべき個体なんだろうけど。
でも、宝石になれるんだ。むしろ、どっちも持ってるなんてことが、あってもいいんだ。
私はきっと、普通の人間にはなれない。きっと歪な羽化を経て、どこかしらを欠損させた状態で社会に飛び出さなければならない。その無理な飛行はいずれ綻びを生み、自らその命を断つことだってあり得るかもしれない。
痛みが好きという特異をひた隠して、生きていく。人間に擬態しながら、私は溺れていく。
羽ばたけば瑠璃色。けれど、翅を閉じれば茶色。
そんな生き方でも、いいのなら。
私もあなたのように飛んでみたい。
「この子、きっとそのヘアピンを仲間だと思ったんだよ」
私の指先でじっとしているルリタテハを見て、瑠莉ちゃんが笑う。
「瑠莉ちゃんにも、あげる」
ルリタテハに憧れたのは、瑠莉ちゃんだ。
瑠莉ちゃんがこの瑠璃色を追い掛けてくれたから、私の目に風穴が空いた。
だから、私だけでなく、瑠莉ちゃんにも、その資格があるはずだ。
指先のルリタテハを、瑠莉ちゃんの頭に乗せてあげる。ルリタテハは、大人しく瑠莉ちゃんの髪に捕まると、翅をぺたんと寝かせた。
「わ」
瑠莉ちゃんが頭を触ろうとして、途中でやめる。
どうすればいいか分からないという様子で虚空を彷徨う両手が、なんだかおかしかった。
「おそろいだね」
「館羽……」
「瑠莉ちゃんの方が似合ってる」
ちょうど、私がヘアピンを留めている位置と同じ場所にルリタテハが止まっている。瑠莉ちゃんは照れたように笑って、虚空を彷徨っていた両手を口元まで持っていった。
「やばい、泣きそう」
「瑠莉ちゃんって、泣き虫だよね」
前から思ってたけど、と付け足すと、瑠莉ちゃんが頬に朱を乗せて「そんなことないし」と勢いのない反撃を繰り出してきた。ひょろひょろと投げたそれは放物線を描いて私の前にぽてっ、と落ちる。
「しょうがないじゃん……ずっと、なりたかったんだよ。瑠璃色に」
瑠莉ちゃんが足元に落ちた影をじっと見つめる。
「瑠莉ちゃんはずっと、光ってたよ」
なりたかった、と瑠莉ちゃんは言うが、それは魚が空を目指すのとはワケが違う。瑠莉ちゃんの願いや祈りは、手を伸ばせば届く距離にある。そして瑠莉ちゃんは、いつだって宝石のように輝きを帯びていた。
私が飛び降りたとき、いろんな人がお見舞いに来てくれた。
だけどその中で、瑠莉ちゃんだけが私の視界では特別に映っていた。知らず知らずのうちに瑠莉ちゃんを探していたのだ。瑠莉ちゃんはいつだって私のそばにいてくれて、道先が見えなくなったとき、私はいつもそこにある光を目指した。
そこには必ず瑠莉ちゃんがいて、瑠莉ちゃんの近くにくると足元が鮮明になる。
鋭利なナイフが、お腹に突き刺さる、そういう想像をすることは、正直今でもある。だが、もしそれが現実となったとき。あの日、通り魔にあのまま刺されていたとしたら。
きっと幸福だったはずだ。味わったことのない鮮烈な痛みに私は感電し、焼け焦げた皮膚を抱きながら焼死していただろう。
そうなるべきだと、前は思っていた。
だが、今はどうしてか、私の行き着く先を想像すると怖くなる。
死んでしまったら、もう、瑠莉ちゃんと会うことができなくなってしまう。瑠莉ちゃんから貰う温かい心地は、痛みとは違う道を示してくれる。
安心、するのだ。
朝日があれば、目映いそれがそばにいてくれるのなら、心置きなく、その翅を広げようと思える。生存率が十パーセントにも満たない羽化という過酷な試練にも、臆することなく挑もうって気になる。
「瑠莉ちゃん。あのとき、守ってくれてありがとう」
瑠莉ちゃんの手を握って、体温を伝える。
いつも瑠莉ちゃんがしてくれるように。
「館羽……笑ってる」
そんなつもりはなかった。
頬に手を当てるも、凹凸は見つからない。
だが、瑠莉ちゃんが言うなら、私は笑っているのだろう。
きっと瑠莉ちゃんは、私よりも私をよく知ってくれている。私が私を知るには、瑠莉ちゃんを見続けるしかないのだ。
私が追い求める痛み。それに代わる、温かい何か。
その正体はまだ分からないけれど。
お母さんがあの日、私に買ってくれたヘアピンと、いつも瑠莉ちゃんがくれる仄かな熱は、とてもよく似ている。
いつか、その正体が掴めたそのときは、もう一度勇気を出してみたい。
瑠莉ちゃんにも、そしてお母さんにも。
お礼とは、ちょっと違うだろうけれど。言うべき言葉がきっとあるはずで、願うことも必ずあるはずだ。
「あっ」
瑠莉ちゃんの頭から、ルリタテハが飛び立った。
名残惜しそうに見送る瑠莉ちゃんが、ばいばい、と小さく呟く。
「私たちも、行こっか」
「うん」
そう、行かなければならない。
私たちはこれから迎える羽化のために、翅を広げる準備をしないといけない。たとえ羽化不全が決定していようとも、いつかはこの殻を突き破って外の世界に出る必要がある。それが私たちに課せられた逃れることのできない試練なのだ。
本当はまだ、不安だ。
自分がきちんと形を保って成虫になれる気はしないし、その先で生きる時間はきっと地獄に等しいものだ。ストローのない状態で蜜を欲する消化器官がある限り、私の生き様は死ぬまで矛盾し続ける。
だが、瑠莉ちゃんがいるのなら。
牙を剥き出しにしたまま成虫になった私に、蜜を口移しで飲ませてくれるかもしれない。
それなら私は生きられる。
瑠莉ちゃんと一緒なら。
「手、離さないでね」
「離さないよ」
「瑠莉ちゃんに、依存してるんだから」
「分かってる」
瑠莉ちゃんが、私の頭に手を添えて、優しく撫でてくれた。
その摩擦は、頭上に太陽を生む。目映い光に目を細めると、熱が肌に浸透するように広がっていく。
「館羽は大丈夫だよ。私が守るから」
一陣の風が、私たちの間を吹き抜けていく。
その風がどこから生まれたのかは分からない。
だが、確かに今、私の世界には風穴が空いていた。
痛みを伴わないまま、私は今、生きている。
「――あ」
……そう、生きている。
生きているということは、いつか死ぬということだ。
「どうしたの、館羽」
「……あれ」
私の指先を、瑠莉ちゃんが追う。
公園の奥、木々が生い茂った場所に、ルリタテハがいた。
さっきのルリタテハだろう。
あんなに元気いっぱい飛び立ったルリタテハが、空で止まって、動かない。
「蜘蛛の巣……」
よく見ると、ルリタテハの翅には糸が絡みついていた。
もがけばもがくほど、その糸は絡まっていく。
「大変……瑠莉ちゃん、私、あのルリタテハを助けたい」
あのままではいずれ食べられてしまう。
あんな綺麗な宝石が無惨な死骸になることを想像したら、胸がギュッと苦しくなった。
「……ダメだよ」
しかし、そんな私の手を瑠莉ちゃんがガッシリと掴む。
「どうして? 可哀想だよ」
「でも、蜘蛛だって食べるものが必要でしょ? これは自然の命のやりとりだから、手を出しちゃダメ」
窘めるように私の手に添えられた瑠莉ちゃんの手。優しく触れ合う肌から伝わるのは、強烈なまでの深淵。まるで深部が見えない。冷たい風と、不自然なほどの轟音だけがビリビリと手の甲に響いてくる。
振りほどけない力では決してないはずなのに、私はその一歩すら踏み出すことはできなかった。
そうこうしている間にも、巣の主が糸に絡まったルリタテハに近づいていく。
「瑠莉ちゃん、ルリタテハが食べられちゃう」
蜘蛛はルリタテハの胴体に足を乗せると、ぐるぐると器用に巻いていった。あんなに綺麗だった翅がちぎれて、ひらひらと、目の前に落ちてくる。
「しょうがないことだよ」
瑠莉ちゃんが私の背中を撫でる。
すでに見る影もなくなった宝石は、蜘蛛の顎によって解体されていく。
それでも諦めないルリタテハは、残った力を振り絞って抵抗した。
頑張れ、頑張れ……!
私は祈るように両手を重ねた。
「それに」
瑠莉ちゃんの身体が、震えた気がした。
それはまるで、蛹が羽化する寸前の、動態のようだった。
「小さな命が必死にもがいてる姿って、すごく……可愛いよね」
そもそもの話ではあるが、蛹というのは幼虫が成虫になる前の状態のことだ。これは現存する全ての昆虫が辿る成長の過程ではない。
蛹になるのは蝶やカブトムシなとの一部の種だ。
卵から幼虫へ、幼虫から蛹へ、蛹から成虫へ。
そうやって姿形を変えながら成長していくことを『完全変態』と呼ぶ。
「私、芋虫とか、毛虫とか、あとはカタツムリとか好きなの。ただ前に進むのでも一生懸命でさ。そういう、誰にでもできるようなことを、必死にやる小さな命って、すごく尊いし、守りたくなるっていうのかな……そういう、可愛いがある気がして」
頬を紅潮させた瑠莉ちゃんが、力尽きたルリタテハを見ている。
双頭の蛇、単眼の鮫。……いや、それは奇形であって、進化の過程で得たものではない。
芋虫が蛹に、蛹が蝶に。姿形を変え、成長していく完全変態。
私はきっと、その類いに属する生き物なんだと思う。
だが、瑠莉ちゃんは、どうなのだろう。
ずっと瑠莉ちゃんと私は、同じなのだと思っていた。
しかし、もし、瑠莉ちゃんが完全変態を要さないのなら。
瑠莉ちゃんには幼虫の時期も、蛹の時期もなく。
それは、そう……蜘蛛のように。
生まれたときの姿のまま成虫になる『不完全変態』なのだとしたら。
「瑠莉ちゃ――あっ」
食い荒らされるルリタテハに手を伸ばそうとした。
だが、まだ麻痺の残る右足が上手く動いてくれなかった。
私はその場で膝を着いてしまった。
「大丈夫? 館羽」
頭上から垂れ落ちてきたのは、瑠莉ちゃんの手のひら。
「うん。ちょっとまだ、油断するとカクンってなっちゃう」
「そっか、怪我はしてない?」
「してない」
「よかった」
瑠莉ちゃんの手を掴む。
指が、糸のように絡みついてきた。
「離れちゃダメだよ、館羽」
「……うん」
瑠莉ちゃんの肩を借りながら立ち上がる。
糸でぐるぐる巻きにされたルリタテハは、完全に息絶えていた。
蜘蛛はどういうことか、食べている途中だったルリタテハを置いて、巣の端まで移動してしまっていた。
何をするわけでもなく、蜘蛛は死んだルリタテハをジッと観察している。
太ももを押さえながら歩こうとする私を見て、瑠莉ちゃんが笑った。
「館羽は……可愛いね」
ルリタテハに背を向けて、私たちは公園を後にした。
はたして、あの蜘蛛はルリタテハをどうしたかったのだろう。
あんなところに糸を張り巡らせて。
じっと息を殺して。
身を潜めて。
……一体、何を待っているのだろうか。
不可逆性加虐 野水はた @hata_hata
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