第31話 瑠璃
太陽に熱せられた浅瀬のように温かい
沈んでいくような心地の中で、瑠莉ちゃんの輪郭を感じる。指先でその境界線をなぞると、うっすらと飛行機雲のような線が広がる。
抱擁というものの正体を掴みきれていない私は、手のやり場に困っていた。すると瑠莉ちゃんが、私の手首を手繰り寄せる。至近距離で目が合うと、どうして呼吸ができなくなるのだろう。
息を呑むことすらできない、写真を切り抜いたかのような一瞬を過ごす。瑠莉ちゃんは私に押し倒されてビックリしていたようだったが、次第に落ち着きを取り戻したのだろう。私の後頭部を抱き寄せると、耳元で囁いた。
「依存して、私に」
必要なものを欲するのと、欲求に抗えなくなるのは別物だ。私の生活に、きっと瑠莉ちゃんは必要不可欠というわけではない。瑠莉ちゃんがいなくなったからといって私は死ぬわけじゃないし、これは食事や睡眠とはワケが違う。
それなのに、欲してしまう。それが依存だ。
「私が窓から落ちたくなったら、瑠莉ちゃんは止めてくれる?」
「絶対止める。なんならキャッチするよ」
「車に轢かれそうになったら?」
「館羽のことを吹っ飛ばしてでも助ける」
「ナイフで刺し殺して欲しいって言ったら、瑠莉ちゃんはどうする?」
「そんなこと思えないくらい、抱きしめる」
背中と後頭部を、瑠莉ちゃんの手のひらが支えている。
瑠莉ちゃんのお腹と私のお腹が重なると、足音のような鼓動が伝わってくる。私のものが反響しているのか、それとも瑠莉ちゃんのドキドキが聞こえるのか。あるいは、両方か。
「じゃあ、私が、刺されそうになったら……今回みたいに庇ってくれる?」
「当たり前でしょ。絶対守るよ」
「瑠莉ちゃん、死んじゃうかもしれないよ」
「
――瑠莉ちゃんになら殺されてもいい
。
そう言った私の言葉が、跳弾して心臓を撃ち抜く。流れ出る血は熱く迸り、指先を伝って瑠莉ちゃんに落ちていった。
「瑠莉ちゃんがそんなに私を気に掛けてくれるのは、やっぱりこれのせいなの?」
私は自分の右目を指さした。
瑠莉ちゃんのしたことは消えない。過去の悪事も、根底に眠る醜い性格も、なかったことには決してならない。それでも瑠莉ちゃんが私のために尽くしてくれるのは、きっと罪悪感からくるものなのだと思う。
しかし、瑠莉ちゃんは首を横に振った。
「最初は、そうだった。贖罪のために、館羽に尽くそうって決めた。だけど、今は違うよ」
「そうなの?」
「うん。今は、館羽だから……こんなにも尽くしたいって思ってる」
「よくわからない。私だからっていうのは、瑠莉ちゃんの言う罪を償うためってことじゃないの?」
「違うよ」
抱き合っている今、互いの顔が見えない。耳元で聞こえる声色と息遣いから、そばにいる瑠莉ちゃんの表情を想像することしかできなかった。
「館羽だから、助けたいって思うんだよ」
「答えになってない」
「館羽以外の人には、こんなこと思わない。ナイフを持った凶悪犯の前になんて、怖くて絶対立ち塞がることなんかできない。でも、館羽のためなら、できるの」
それでも、顔を見たくて身体を離した。
抱擁というのは、熱を交換する行為なのであって、相手の感情を読み取るには長けていない
「あのね、館羽……ちょっとだけ、私の話を聞いてくれる?」
「いいけど」
「館羽と初めて会ったのは小学校一年生のとき。同じクラスで、館羽は一番前の席だったよね。私はその斜め後ろだった。館羽と最初はあんまり接点もなかったし、気にも留めてなかったんだ。でも、ある日から館羽、あのヘアピンを付けてくるようになった」
あのヘアピンというのは、私がお母さんに買ってもらった蝶のヘアピンのことだろう。
「あの蝶さ、ルリタテハでしょ」
「ルリタテハ?」
「そういう蝶がいるの。瑠璃色の、宝石みたいな蝶。小さい頃から自分の名前にも入ってる瑠璃色の物が好きだったんだけど、ルリタテハも瑠璃色をした綺麗な蝶なんだ。瑠璃っていうのは、ちょっと紫がかった、青色のことなんだけど。私もそんなキラキラしたものになりたかったし、憧れてた。でもね、私は性格も悪いし、キラキラ宝石お星様綺麗なお花……そんなキャラじゃないから、なれないって薄々わかってたの」
瑠莉ちゃんはおどけるように笑った。
「そんなとき館羽がルリタテハの蝶のヘアピンを付けてきたから、ビックリしたの。ルリタテハは私の好きな蝶で、そのヘアピンを、館羽が付けてるんだよ? そんなの、運命みたいじゃん」
子供が夢を語るように、瑠莉ちゃんの瞳には煌めきが宿っていた。
「それから館羽のことを目で追うようになったの。知れば知るほど、館羽は私と違ってすごく女の子っぽくてさ、純粋に、かわいいって思った。だから、仲良くなりたかったの。でも、私はその頃人見知りで、自分から話しかけるって中々出来なくて……そんなとき、館羽が声をかけてくれたんだ。館羽は私のテストの点数を褒めてくれて、他愛のない会話だったんだけど、私にとっては奇跡みたいな瞬間で……今でも思い出せるよ。嫌われないように、一生懸命言葉を選んで話してたこと」
そんなことがあっただろうか。記憶を探っても、該当する光景は見当たらない。
「心の底から嬉しかった。私の名前瑠莉っていうんだよ、そのヘアピンの蝶と同じ名前! なんて、決まり文句まで考えて、いつ言おうかドキドキしながら待ってたんだけど……あの、さっきも言ったけど、私、そんなに性格いいわけじゃないから、これから言うことにドン引きさせちゃうかもしれないけど、許してね」
瑠莉ちゃんの表情に影が落ちる。逃げる視線は床を転がって、天井まで這い上がって、一周回って私に辿り着く。潤んだその瞳に、私は頷いた。
「嫉妬……したの」
「嫉妬?」
「館羽、いろんな子とお話してたでしょ。館羽は愛想もいいから、なんていうか……すごく楽しそうに話してるように見えて。でも、絶対私の方が館羽のこと楽しませられる。だって私は瑠莉で、館羽は館羽なんだよ? こんな神様のいたずらみたいな出会いないじゃん。……って思ってるうちに、館羽が私以外の子と話してるの見てたら嫉妬して、イライラするようになって……それが、虐めなんていう行為に繋がったの」
「そうだったんだ」
「本当に、ごめんね。ただ、嫌いだったわけじゃないの。嫌いだから、館羽が悪いからとかじゃなくって。私が、弱くて、醜い人間だったから、あんなことになっただけ。だから、館羽は、何も悪くないの。もし、自分を責めたりすることがあるんだったら、それは間違いだからやめてほしい。どんな事情があっても、虐めた側が悪いんだから。虐められた方にも非があるなんて、そんなこと絶対にないんだよ」
今すぐ逃げたかっただろう。瑠莉ちゃんの目は磁石通しが弾き合うように揺れていた。
「それを、伝えたくって……」
「自分を責めたことはないよ。瑠莉ちゃんのことを責めたこともないけど」
「そこは、私を責めていいのに」
「だって、痛いことされるの好きだもん」
だが、もし私でなければ、私ではない、正常に羽化した成虫が風穴を開けられたのだとしたら、瑠莉ちゃんはどうなっていたのだろう。復讐でもされていただろうか。
瑠莉ちゃんが身体を起こした。
私は波に打たれるように上半身を起こし、瑠莉ちゃんと向き合う。正座を崩したような体勢のまま、互いに向き合う。
壁にかけられた時計の針が、私と瑠莉ちゃんの時間を埋めるように進んでいく。どれだけ、かかっただろう。私も、瑠莉ちゃんにずっと伝えられていなかった。
あれは虐めではなかった。私にとっては、あの時間こそが幸福であり、生きた証でもあった。
「あのね、館羽……!」
瑠莉ちゃんも同じなのだろう。
あのとき、言えなかったことがある。
あれは虐めではなかった。
ただお互いに、捻じ曲がった本質をひた隠して、何かを演じていた。不出来な舞台が残した残滓が、人間でいうところの虐めという定義に当てはまってしまった。それでも、他者が見たら、トイレの中で繰り返し行われていた暴虐の数々は虐めと捉えられても仕方がないだろう。
その常識やルール、規則に基づいた名付けに反発する気はないし、できるほど私は世界のレールに沿って育った命ではない。
だから、二人のときだけだ。
私と瑠莉ちゃん、二人の世界でのみ、このルールは適応される。
「ずっと、言えなかったの」
「うん」
「でも、今なら言える気がして……」
虐めではないのなら、過去を引きずる必要もない。罪状が作る壁によって隔たれることもない。
どの面下げて。
何様だ。
自分のしたことを忘れたのか。
投石のような罵詈雑言は、この世界では煙と化す。
「館羽」
「なに、瑠莉ちゃん」
本当なら、あの日、交わすべきだった言葉。
授業中、いつも後頭部に消しゴムのかすを投げつけられた。
振り向くと、瑠莉ちゃんとその取り巻きはお腹を抱えて悪鬼のごとく笑い転げた。
そんな瑠莉ちゃんが、弱々しく、儚く、怯えた顔で私に手を差し出す。
変貌する前の瑠莉ちゃんは。
ルリタテハに憧れた瑠莉ちゃんは、こういう人間だったのだろう。
教室の隅から、いつも私の頭で揺れる瑠璃色を追っていた女の子。
緊張か、不安か、瑠莉ちゃんの瞳から流れ出るそれは、光を吸い込んで、青く光った。
「私と……友達になってください……」
私の前で、差し出された手が大げさなくらい震えていた。
「いいよ」
その手は驚くほど冷たく、死体と見紛うほどだった。
「というか、もう友達なんだと思ってた」
瑠莉ちゃんが顔をあげる。
友達というには、少し歪かもしれない。
依存者と、提供者。
それは、手を繋いで夕焼けを駆け回るような爽やかさとはほど遠いのかもしれないが、熱された鉄が融合するように、固く結びつき、本能で繋がる。形がある目で見える関係ではないが、そこには絆と評するにはあまりにも烏滸がましい共存関係にある。
「館羽は、いいの」
「うん。私は、瑠莉ちゃんが欲しい」
脳に巣くう寄生虫が、はやく寄越せと言っている。
痛みに代わる食べ物が、すぐそこにある。
だけどそれは、痛みとは違って、瞬間的なものではない。
瑠莉ちゃんと一緒にいる。瑠莉ちゃんとお話する。瑠莉ちゃんの目を見る。瑠莉ちゃんの香りを嗅ぐ。瑠莉ちゃんのことを考える。瑠莉ちゃんに触れる。瑠莉ちゃんに、抱きしめてもらう。
断続的に続くそれは、もしかしたら痛みよりも劇薬かもしれない。
「絶対、守るからね」
隠す気もないのか、大粒の涙を袖で拭う瑠莉ちゃん。
「館羽が痛みに塗りつぶされないように、私が、館羽の心を埋めるから」
「勝てなかったら、ごめんね」
いつ、死骸が蘇るか分からない。
内臓までもを食い荒らされて、私はいつか自分を制御できなくなって、ハリガネムシに寄生されたカマキリみたいに、フラフラと窓から飛び降りるかもしれない。
依存というものはそういうものだ。制御できるならそれは依存ではなく欲求だ。
意識の外で執り行われる度を超えた摂取が、判断力を鈍らせ、倫理観を虫食いにしていく。
「大丈夫だよ、大丈夫」
いつかのように、瑠莉ちゃんが私の頭を撫でる。
「私たちは、ルリタテハだから」
存在するのだろう、その蝶を、私は見たことがない。
ふと、視界の端に映った青に目を惹かれる。
モノクロ調の部屋に置かれた勉強机には、異質な青色のマットが敷かれている。瑠莉ちゃんはいつもあそこでノートを広げて、目指していたのだろうか。
キラキラと輝く、瑠璃色を。
翌朝、支度をして帰る準備をしていたら、玄関で瑠莉ちゃんのお母さんと鉢合わせた。
挨拶をすると、瑠莉ちゃんのお母さんは昨日食べたロールキャベツの残りと、お昼に食べる焼きそばをお弁当箱に詰めて持たせてくれた。
今日は土曜日ということもあって、在宅だった瑠莉ちゃんのお父さんもリビングから顔を出してくれた。
先に外へ出た瑠莉ちゃんが私を呼んでいる。
お辞儀をして駆け出そうとすると、瑠莉ちゃんのお母さんに呼び止められた。
「恨んでる、よね」
瑠莉ちゃんのお母さんの目に宿るのは、瑠莉ちゃんと同じものだった。隣にいる瑠莉ちゃんのお父さんも、虚ろな目で私を見ていた。
この家族は、みんな優しくて良い人だ。
だけど、どこか壁があって、何をするにも、負い目のようなものが尾を引いている。
「ごめんなさい……
瑠莉ちゃんは、知っているのだろうか。
この家族は、この両親は。
瑠莉ちゃんが私の目にシャーペンを突き刺した日で、時が止まっているのだと。
別に、許す許さないの問題じゃない。私は本当に、あのときのことは気にしていない。
だけど、周りの人はそうじゃないのだ。
「瑠莉は……あんな子だけど、本当は良い子なの」
私の家に毎晩のようにやってきて、頭を下げた瑠莉ちゃんのお母さん。
――ごめんなさい……ごめんなさい……。
私のお母さんが「もういいです」と言うまで決して帰らなかった瑠莉ちゃんのお母さんを見ながら、どうしてそんなに謝るんだろうと、私は疑問だった。
だけど、今ようやく理解した。
あれは、私に謝っていたのではない。
瑠莉ちゃんのお母さんは、瑠莉ちゃんを守ろうとしていたのだ。
娘を守るのに、必死だったのだ。
「瑠莉ちゃんとは、今は仲の良い友達です」
その言葉は、私にとってはなんの意味もなかった。
だが、瑠莉ちゃんのお母さんには。
この、家族には。
「だから、気にしないでください」
たったこれだけで、充分なのだ。
私が笑うと、瑠莉ちゃんのお母さんは目尻を下げて笑い返してくれた。涙を我慢している瑠莉ちゃんの顔にそっくりだった。
「浅海さんの家の事情は、瑠莉から聞いたよ。困ったらいつでも、うちに来ていいんだからね」
「でも、悪いです」
「悪いことなんかない。私も、お父さんも、瑠莉だってそう。みんな、浅海さんの力になりたいの」
待ち受けていたのは、またしても、抱擁だった。
「もし、今いる家が居づらいと感じたら、苦しくなったら。すぐにここに逃げてきて」
私を救うことで、きっとこの人たちは救われるのだろう。
「……分かりました。また、お邪魔します」
瑠莉ちゃんによく似た背中を、抱き留める。
痛み以外に興味なんかなかった。全ての言動に含まれていたのは善意なんかではなく、寄生虫の餌を集めるための筋道を作る合理性だった。何もかもが見返りを求めていて、痛みに辿り着くことだけを目的に動き、言葉を発していた。
だけど、今はその合理性に欠けている。
瑠莉ちゃんのお母さんは、きっと私を痛めつけようなんて考えていない。痛めつけてくれる人間では決してない。
それなのに、こうやって気持ちに応えてしまうのは。
この人たちが救われて欲しいと、心から願ったからなのだろう。
瑠莉ちゃんをいつまでも待たせては悪いので、貰ったお弁当をカバンに詰めて、靴を履く。
玄関を出る際に、背後から声が聞こえた。
「いってらっしゃい。車に、気をつけてね」
その言葉の意味が、最初は分からなかった。
玄関の階段を降りて、瑠莉ちゃんと合流したあたりで、それが家族同士で交わすごく普通の挨拶だということに気付いた。
さすがにもういないかと思いながらも、振り返る。
瑠莉ちゃんの両親は、まだこちらに手を振ってくれていた。
「……いってきます」
異国の言葉であるかのように、自信の無い唇から声が漏れ出る。
あってるのかな、これでいいのかな。
いや、正解などないのだろう。
胸に広がる温かさが、ただ、報酬としてそこに残る。
これを毎日、繰り返していったら、降り積もったものはどんな形になるのだろう。
いずれ私も、そうなってみたいと願うのは、私がまだ……蛹だからなのだろうか。
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