彼女の虚像に陶酔する

海沈生物

第1話

 蝶になった姉様を殺したい。蛹の頃の姉様は「善人」を絵に描いたような人物で、両親からのネグレクトへの恐怖で眠れない私にとても優しくしてくれた。震える指先に姉様の細い指を絡め、ギュッと握ってくれた。明日が来ることにどうしようもない恐怖を抱いて眠れない夜を過ごしていた私を、何も言わず抱きしめてくれた。


 けれど、蛹のガワを破り蝶となった姉様はどうだろう。震える指先に絡めてくれたその指先を、出会い系サイトで出会った知らない男性と絡めている。眠れない夜に抱きしめてくれたその身体を、大学のゼミの女性の先輩に抱きしめられている。


 男でも女でも、恋愛対象も恋愛も個人の好きにすればいいと思う。ただ、姉様が一人の殿方ではなく、様々な人に手を出してはすぐに別れていく姿が許せなかった。姉様の手で姉様という存在を酷く下賤な存在に貶められている事実が許せなかった。私の理想からかけ離れていく姉様を許すことができなかった。だから、私は堕ちていく姉様を殺すことにした。これ以上、姉様が……いや「蛹」だった頃のように純粋な姉様が、どんどんと堕ちていくのを阻止するために立ち上がった。


 姉様を殺すための包丁を隠し持つと、朝方の彼女が眠っているはずの深夜に彼女の部屋へ侵入する。幸いにも、姉様から信頼されている私は合鍵を忘れていた。なので侵入することだけは容易だった。

 部屋の中は机の上からベッドの下まで随分汚れていた。かつて実家に住んでいた頃、最低限のものしか部屋に置かなかった姉様とは大違いだった。私は「せめて掃除しなさいよ……」と言いながら、軽く床の掃除をしてあげる。


 爆睡している姉様をベッドの上にあげると、散らかったプリントを整え、キッチンの棚にあったゴミ袋にゴミを捨て、部屋を綺麗にした。中身の入っているペットボトルを見る度に「かつての姉様なら、こんなことは……っ!」と小さく舌打ちをした。コンビニで買ってきた空になったプラスチックの弁当にカビが生えているのを見る度に「かつての姉様じゃなくても、これは捨てなさいよ……」と呆れてため息をついた。


 掃除機をかけたらさすがに起きると思ったので、軽く濡れ雑巾と乾いた雑巾で床を掃除すると、改めてベッドの上の姉様を見る。綺麗になった部屋に佇む姉様は、少しだけかつての姉様に近付いたように見えた。そのことに殺意が少し揺らぎかけたが、「いや……」と首を横に振る。


 姉様は変わられたのだ。変わった姉様をただ見ることは私にとって辛いことであり、だから殺す必要があるのだ。私はまた両手で包丁を手にすると、グッと手に力を入れる。今度こそ姉様を殺す。殺して、布団を赤く染めて、それで。


 だが、そう思った時のことだ。突然家のドアが開き、外から「ただいまー」と顔の赤い男が入ってきた。男は金髪短髪酒カスという女殴ってそうなチャラ男の三拍子が揃った見た目をしていた。彼は私が包丁を持っていることに気づくと、思わず「わ、わぁ!」と声を出した。


「おま……おま……は、早まるな! こ、殺すのならそいつじゃなくて俺を殺せ!」


「は、はぁ……? 何が悲しくてあんたみたいな金髪短髪酒カスチャラ男を殺す必要があるんですか? 私が殺意を抱いているのは、この、姉様なんです! チャラさ以外に取り得のない男は勝手に死んでください!」


「初対面なのにその暴言は酷くない!? お酒は上司に付き合わされて無理矢理飲まされただけだし、金髪短髪はただの趣味だが!?」


「そ、そんな言い訳、誰にだって出来ます! そもそも、貴方みたいな人間が姉様をかどわかすせいで、姉様はこんなにも穢れてしまったのですよ! 分かっているのですか!」


 私は唇を食いしばると、彼に包丁を向ける。いいや、気が変わった。この場で彼を殺してしまおう。姉様を穢した存在を殺して、復讐してやろう。だが、彼は私の言葉に対して逆上することもなく、悲しむ顔をすることもなく、なぜか「うんうん」と頷いてきた。


「それは本当にそうだ。お前の姉は優しい上に顔が良いせいで、色んな男やら女から弄ばれ続けていた。俺もお前の姉からその話を聞いた時、そいつらに殺意が沸いた。こんなにも聖人君子に近い善人を穢した奴等なんぞ、生きている価値はない……とな。だから、殺した」


「は?」


「期せずして、お前と真逆のことをしていたわけだな。お前の姉を穢した者を本人から聞き出して、全員殺した。細かい殺害方法を聞くか? まず一人目の一日でお前の姉を振ったヤ〇チン野郎は、夜中に校舎裏に呼び出して、その下半身に付いた突起物を―――――」


「ストップ! ストップ! それ以上はいいです。貴方が姉様のために尽くしていたのは十二分に分かりましたから」


「……それじゃあ、その包丁をお前の姉に向けるのをやめてくれるか? もしも殺意が収まらないのなら、俺をこの場で殺しても別にいいから。だから、それをお前の姉に向けるのだけはやめてくれ。な?」


 私は迷う。姉様は変わってしまった。そして、それは多くの人間によって穢されたことが原因であった。その事実はもう変わることはない。だが、彼らは全員その報いを受けたのだ。それも、姉様を大切に思ってくれる、ただ一人の相手によって。


 これは私が望んでいた状況なのだ。姉様は穢されてしまったが、その末にこのような素晴らしい殿方と出会えたのだ。姉様は変化してしまったが、姉様にとって相応しい未来を掴み取ることができたのだ。であるのなら、この包丁の刃を向ける先は「どこ」なのか。私のこの収まらぬ感情が、殺意が、向けている刃先は「誰」なのか。



―――――それはもう、分かり切っていることだった。



 軽く、深呼吸をする。


「……姉様の彼氏様。どうか、姉様のことをよろしくお願いします」


「やっと分かってくれたか。それじゃあ、ひとまずその包丁をこっちに―――――」



―――――突いた。私は自分の心臓を突いた。



 肋骨が邪魔で中々心臓に辿り着くことができなかったが、何度も何度も何度も何度も何度もぐりぐりとしている内に心臓を貫くことができた。彼氏様が何やら応急処置をしているような声が聞こえたような気がした。ただ心臓からの激しい痛みと流血、痺れていく身体。自らの肉体が衰弱していくのを感じる度、私は自分が姉様を殺そうとした罪が赦されていくように感じた。


目の感覚が消えると、姉様を映す視界が暗闇に染まった。

鼻の感覚が消えると、姉様の部屋に漂う姉様の香りがしなくなった。

耳の感覚が消えると、姉様の寝息が聞こえなくなった。

身体の感覚が消えると、姉様の存在を空気越しに感じることができなくなった。


 あらゆる器官のあらゆる感覚が消えて、姉様の存在をもう認識することができなくなった。その瞬間、私の目の前に蛹だった頃の姉様が現れた。それは記憶の中の姉様であった。私の理想としていた姉様だった。それは夢の中にしかいない虚像だった。触れてしまえば、きっと私は「これは理想としていた姉様ではない」と思うのだろう。けれど、どうしてだろうか。その虚像がどうにも愛おしくて、悲しくて、辛くて、苦しくて、眩しくて。所詮は本物ではないというのに。今まで胸の内に貯め込んでいた感情を吐き出すようにして、ただただ真っ黒な涙を流していた。

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