第3話 第3章
隆子は、その日も由美に教えてもらったバーに寄っていた。
由美に教えてもらった時は、毎日でも来てみたいと思っていたが、自分にそこまで時間がないということと、何よりも、
「洋子と鉢合わせしたくない」
という思いが強かったからだ。
洋子がこの店を気に入っているのは、隆子にも分かっていた。お互いに目的は違っていた。隆子は、マスターと話をするのが楽しみだということ、洋子の場合は、一人になれる場所をずっと探していたようだが、ちょうどこの店が洋子の希望にピッタリ嵌ったかのようで、もし隆子が、
「一人になりたい」
と感じたとすれば、洋子と同じ心境になっていたに違いない。それだけに隆子には洋子の気持ちもよく分かる。一人になりたい店に、姉妹とはいえ知人がいるのは嫌なのだ。
姉妹だからこそ、嫌なのかも知れない。隆子が洋子の気持ちを看破したように、相手に自分の気持ちを悟られることほど気持ち悪いことはない。一人になりたいという考え方の根拠は、自分の気持ちを悟られたくないということなのだが、いつも一緒にいる人にほど、悟られたくないと思うのは当然のことであった。
マスターとの話も面白い。隆子もデッサンをするのが好きだったので、どんな話が聞けるか楽しみだった。
デッサンを始めたきっかけを教えてくれた時など、これほどマスターが饒舌だとは思わなかった。
「元々、芸術とかには興味がなかったんだけど、当時付き合っていた女の子が美術館に誘ってくれたんですよ」
「それはいつ頃のことなんですか?」
「まだ、高校時代だったかな? やっと声を掛けることができた彼女で、それまではいつも遠くから見ていた感じだったんだけど、ちょうど彼女が、友達から美術館の招待券を貰ったということで、一緒に行く人を探していたんだけど、ちょうど目の前にいたのが、僕だったらしいんだ」
「じゃあ、まだ付き合っていたというわけでもなかったんですね」
「厳密に言えば、そうなんだけど、僕は誘われた瞬間から、付き合い始めたような気持ちになっていたんだ。都合がいいのかも知れないけど、後から思うと、声を掛けた瞬間から付き合っていたと思うのもおかしなことではないと思うんだ」
「それもそうですね。でも、ちょうど目の前にいて、相手が何かを言おうとしたのが分かったということなんですか?」
「ちょうど、視線が合って、僕の方も話しかけたいと思っていたし、彼女も誰か一緒に美術館に行く人を探していたということで、利害が一致したのかも知れないね」
「利害」という言葉には少し抵抗はあったが、マスターの話であれば、「利害」という言葉にさほど違和感はなかった。
マスターは続ける。
「それまで、僕は女性と話をしてみたいと思っても、なかなか話をする勇気が持てなかったんだ。それがなぜなのか、最初は分からなかったんだけど、話題性がなくて、話しかけたとしても、会話が続かないと思っていたのが、一番の原因だったんだ。どうしてそんな簡単なことが分からなかったのか、今でも不思議な気がする」
「私も同じようなことを考えたことがありました。話題性がないというよりも、お話が合うかどうか、気になってしまうんですよ。私の話にもしかすると、相手が怒り出すようなことになったら嫌じゃないですか」
「そんなことがあったんですか?」
「ええ、私が一生懸命に話をしていた時、相手の男性が怒り出したことがあって、それから、なかなか話しかける勇気が持てなくなりましたね」
それは、隆子が合コンで知り合った信二に対してのことだった。
隆子は、男性と知り合うことがなかったので、どうやって仲良くなればいいのか分からなかった。仲良くなるには会話しかないと思い、何でもいいから話をするしかないと思い、思っていることを、いろいろ口にした記憶があった。
その中の何が、信二の逆鱗に触れたのか分からないが、急に怒り出して、隆子は何が起こったのか分からずに茫然と立ちすくむしかなかった。
信二は数日後に謝ってくれたので、その時は許したが、信二が何に怒ったのか分からない限り、隆子は信二を許すことも、そして、自分の心をそれ以上開くことができなくなっていた。
そんな状態で、それ以上付き合っていくわけにはいかない、隆子から強い口調で言えるわけもなく、結局自然消滅のような形になったのだが、最後に信二と話をした時のことが気になっていた。
「俺は、君のことを好きになりかかっていたんだけど、どうして俺が好きになる女は皆同じなんだろう? まさか君までが同じだったなんて、やっぱり僕がそんなオンナを引き寄せてしまうんだろうか? そう思うと、このままずっと人を好きになることなんてできない気がしてくる」
前に付き合っていた女性がいて、その人と隆子を比較しているようだが、一体何が彼をそこまで追い詰めるのか、比較されて怒りがこみ上げてくるはずなのに、まるで隆子自身が悪いという思いが先に立ってしまって、複雑な気持ちになってしまった。
マスターにその話をすると、
「男というのは、確かにそういうものなのかも知れないね。好きになった人がいつも同じような感じだというのは、それだけ一途に自分の理想を追い求めているということでもあり、理想主義者というべきなんだろうね。女性には現実主義者が多くて、男性には理想主義者が多いって前聞いたことがあるけど、その話を思い出したよ」
「その話は私も聞いたことがあります。でも、一概には言えないだろうから、あまり真剣に考えないようにしようと思ったんですよ」
「隆子さんは、他人よりも自分を信じる方ですか?」
「どういうことですか?」
「僕は、まずは自分を信じるようにしているんです。自分が信用できないのに、人のことを信じることなどできるはずはないと思ってね」
「そういう意味なら、私も同じなのかも知れませんね。でも、実際にはそう簡単には思いこめないところがあります」
「どうして?」
「自分と相手の考え方があまりにも違っていたとして、自分を信じてしまうと、相手を信じることなどできないような気がするからですね。でも、基本は自分を信じるようにしているので、いかに意見が異なっている相手の気持ちになれるかというのが難しいところだと思っています」
「隆子さんも、いろいろ考えているんですね」
「そうですか?」
普段はあまり考えないようにしているが、人から言われると、意識して考えようとしているだけである。マスターから褒められるほどのことはない。
隆子には、会社の同僚に、元々ファッションデザイナーを目指していたが、途中で挫折したという人がいた。
「私ね。ファッションデザイナーになりたいと思ったのは中学二年生の頃からなの。それまでは何をやってもダメで、やっと褒められたのが、中学の美術で描いた洋服の絵だったの」
隆子は彼女の話を黙って聞いていた。
「私はいろいろなことに興味を持つ方で、興味を持てば、人に褒めてもらいたいって思うでしょう? でもなかなか褒めてもらえることはなかった。それはそうよね、褒めてもらおうというのは自分のエゴみたいなものなんですからね」
「そんなことはないと思うわ。だって、褒めてもらおうと思えば、それだけ一生懸命になれるでしょう?」
「それはそうなんだけど、一生懸命にやって一番になれるほどの努力をしたかと言えば、疑問もあるわ。でも確かに一生懸命に自分もできるんだって気になったのは確かね。それすら感じずに思春期を過ごすのって寂しいものね」
「私はそんな風に考えたことがないから、羨ましいわ」
「でも、あなたも人を好きになったことあるでしょう? その時、諦めさえしなければ、それなりに努力はしたと思うのよ。それは本人の無意識のうちであっても、それがその人の財産になるからね」
隆子は、先輩のことを思い出していた。確かに好きになった人には気に入られたい。その単純な思いが、その時の自分を支えていた。
「私も、いろいろやってみたと言っても、学校の勉強の中で自分にできるものっていう考えしかなかったんだけどね、でも、やっぱり成績は上がらなかったわ」
「どうしてなのか、自分で分かっていたの?」
「そうね。ハッキリとしていないけど、自分の中では、自分が納得できること以外は、信じられないという思いが強かったのは確かね。小学校の頃、最初算数が苦手だったんだけど、足し算や引き算から納得いかないと思っていたのだから、なかなか難しいわね、掛け算になって、何に対してもゼロを掛けると、ゼロになるという考えがどうしても分からなくて、かなり人より遅れたような気がする。でも、気が付けば数式に関しては結構自分でも公式めいたものを勝手に発見して、先生に報告しては喜んでいたわ。おかげで、算数だけは成績がよかった」
「何をやってもダメってわけじゃないじゃないですか」
同僚の話には矛盾が感じられる。
「そうじゃないのよ。私が求めているのは、公式を発見して、それを先生に発表し、褒めてもらうことじゃないの。確かに私は有頂天になった。まるで算数博士になったような気分がしてきたのよ」
何が言いたいのか、再度考えた。
「中学に入ると、数学になるでしょう?」
「ええ」
「数学になると、たくさんの公式を覚えさせられる。その中のいくつかは、私が小学生時代に発見したと言って。喜んでいたものなのよ。私が一所懸命になって発見したと思っていたことを、昔の学者はすでに発見していた。ただ、昔の人の方がもっと時間が掛かったかも知れないけどね。今の私たちは、それだけ恵まれていて、公式を発見するのには向いている時代なのかも知れないわ」
「……」
「それでね、もっと自分で納得がいかなかったのは、昔の人が一生懸命に発見したこと、そして私が時間は掛からなかったけど、私なりに一生懸命に発見したことを、数学の先生は、当たり前のように覚えさせようとするのよね。もちろん、暗記じゃないんだから、それを応用として、答えを導けるように指導する。それがまた、私には許せなかった」
「許せない?」
「ええ、公式がまるで最初からあったものをただ利用するだけというような意識に対して、私は憤りを感じたのよ。数学の歴史を教えるところから始めるのならいいんだけど、それじゃあ、本当に豊富にあるアイテムから応用させるだけの学問が数学なんだって思うと、算数の方がよほどよかったような気がする」
「どうして?」
「だって、算数なら、どんな解き方をしても、仮定が間違っていなくて、答えが合っていれば、それでいいでしょう。むしろ、仮定の方が大切なくらいですものね。でも、数学はそうじゃない。決められた公式に当て嵌めて、それで解かなければいけないような感じでしょう。頭を柔軟にするというのが目的ならそれでいいんだけど、そのあたりも、先生は何も教えてくれない。一度訪ねたことがあったのに、先生からは『お前たちは、何も気にせずに勉強していればいいんだ』という答えしか返ってこなかったのよ。それって、先生もよく分からないけど、仕事だから教えているとしか思えないものね」
「そう思うと、憤りも分かる気がするわ。でも、本当にそれだけなのかしらね?」
「私は、それだけだと思ったわ。でも、人によって感じ方が違うものよね」
「私は、そんなことまで考えたことはなかったわ。でも、そこまで考えたあなたがすごいと思うわよ。だって、誰も何の疑問も持たずに、先生のいいなりになって勉強していたんですものね。成績がよければいいけど、悪ければ最悪。その人は数学に向いていないというレッテルが貼られる」
「別に数学ができたからといって、将来どこまで役に立つかということは最初から疑問だったけど、でも、やるからには、何かの結果がほしいと思うものね」
「欲張りなのね?」
「欲張りと言われればそうかも知れないわ。でもね。欲が人を成長させるというのは、人生の基本のような気がするの」
彼女は、こういう話をするのが好きなのだろう。さらに話は続いた。
「国語を好きになりたくて、本もいっぱい読もうと思ったんだけど、こっちは算数よりもひどかったわ」
「どういうこと?」
「これは根本的な性格が影響していると思うんだけど、私はどちらかというと、気が短いところがあるの」
「どういうことなんですか?」
「結論を先に見ないと気が済まない性格というか、本を読んでいると、本当はセリフ以外の部分に、その場の描写だったり、雰囲気、そしてストーリーの根幹があるはずなのに、ついついセリフだけを拾い読みしてしまうのよ」
「それは、実は私にも言えます」
「どうしてだか分かる?」
「これも考えたことないわ」
彼女は微笑みながら、答えた。
「それはね、テレビなどの影響じゃないかって思うの。画像の流れが勝手に目に入ってきて、セリフは耳で聞く。同じ目で見る部分を文字で感じようとするだけの力が備わっていないからなのかも知れない。セリフだったら、耳で聞いていたことなので、目で見るのとは違うでしょう」
「そうね」
「あなたは、私の話を分かっていないと思うけど、でも、言われてみればと思うことはあるはずよ。私も最初は分からなかった。どうしてセリフにばかり目が行くのかってね。私は納得できないことは、信じない性格だったので、自分で理解できるまでは、本を読んでも集中できなかった。今でもその兆候はあると思うの」
「私も国語は苦手だった、テストも、すぐに設問に目が行って、それから例文を読むから、思い込みっていうのかしら、どうしても答えを導き出せなかった。国語のテストの回答は、ほとんど勘のようなものだったわ」
「私と一緒ね」
二人は目を合わせて笑った。
「学校の勉強を考えた時、私は、それが将来どのように役立つかって、すぐに考えてしまうんです。だから、あなたのいう、納得の行かないことは信じないという考えに似ているところがあるんじゃないかって思ってね。そう思うと、あなたと話をしていると、私も自分のことを顧みることができる気がするの」
「私が、ファッションデザイナーを目指すきっかけになった絵を描いた時、最初から洋服の絵を描こうなんて思っていたわけじゃないの。あれは美術の時間のことで、何を描いてもいいっていうフリーな題材だったんだけど、自分の好きにしていいっていうのが、実は一番難しいというのをあなたは分かる?」
「おぼろげには」
「その時、皆、校庭や、学校の裏庭に出かけて、桜の木だったり、風景を中心に描こうとするおよね。私もその時は、学校の裏庭で、桜の木をテーマに描こうと思ったの。でも、その時に一人の女性が、子供を遊ばせるのに、裏庭に来ていたのよね。その人は、シックな洋服を着ていたんだけど、とっても似合っていた気がしたの。日傘をクルクル回しながら、目の前で遊んでいる自分の子供を見ながら、座り込んでいたわ。風が吹いてきて、かぶっていた帽子が風に舞って、それを追いかけているのを見ると、急に自分の将来を感じたの」
「そんな風になりたいって?」
「それもあるけど、まるで自分の将来を見ているような気がしてね。もちろん、これからいろいろな分岐点があるだろうから、それが自分の望んでいる将来なのかはその時には分からなかった。でも『こんな人生もいいな』と感じたのも事実、それを教えてくれたのは、その時に吹いた風だったというのは、ちょっと格好良すぎるかしら?」
彼女は、お茶目に笑った。
「いいと思います。そんな風に人を見ることができるというのは、私は素敵なことだと思います」
「あなたは、まだそんな思いをしたことがないようね」
「ええ、もうこの年になって、そんな思いができるとも思えないですけどね」
「これは年齢ではないと思いますよ。私ははしかのようなもので、人は一生に一度は、この思いをするものだと思っています。もっとも、意識していて見れるものではないので、あとになってから思い出して、『このことだったんだ』と思えばそれでいいんじゃないかって思います」
彼女と話をしていると、感じるのは、
――由美に、どこか似ているところがあるわ――
と感じた。
由美のことをあまり気にしたことはなかった。
隆子はどちらかというと、意識してしまうのは、洋子の方だったからである。それは、どうしても感じてしまう洋子に対しての優位性であり、逆に由美から見れば、優位性という意味で言えば、洋子に対してよりも、完全に意識が隆子にあった。
隆子はそのことを意識していた。三人の意識が三すくみのようになっていることをである。
隆子が、そのことを意識したのは、同僚と話をしている時だった。
彼女の話は、決して楽しいものではないが、目からウロコが落ちるような、それまで意識していなかったことを理解させてくれたりするところと、それまでの自分の考えを一歩立ち止まって見つめることのできる環境を自分で作ることができるということが、自分を納得させる力になっていた。
あとからそんなことを感じられる同僚との話は、さらに続いた。
「洋服の絵を褒められたって、さっき言っていたけど、女の人を描いたんですよね?」
「ええ、そのつもりだった、でも、女性の表情は、描くことができなかったの。それはきっと自分が彼女の心境を理解できるはずはないと思っていたからで、今から思えば本当に冷たいくらいの無表情の絵を描いた気がするの。でも、先生は女性を見るわけではなく、洋服だけを見て、『素敵な絵だわ』と言ってくれたのね」
「よほど理解のある先生だったのね」
「そうね、それと、美しいものは美しいという基本的な考えが、先生の根幹にあったみたいなの。先生も以前は画家を目指していたらしく、本人は挫折したって言っていたんだけど、生徒のいいところを伸ばすことだけを考えて、先生をしているって言っていたわ」
その時の隆子には、考えられない発想だった。何事も自分に置き換えて考えるところがある隆子は、自分のいいところを発見もできないのに、人のいいところを見つめるなど、できるはずはないと思っていた。
「私も、自分を中心に考える人間だから、その先生のようにはとてもなれないわ」
「なろうなんて思わなければいいのよ。思うから重荷になってしまう。その人のいいところというのは、探して見つけるものじゃない。それにその人のいいところというのは、見る人によって違っていても、私はそれでもいいと思う。それが本当の自由な発想であって、同じ気持ちと言葉では表現しても、まったく同じなわけはないでしょう? そんなものなのよ」
隆子は先輩のことを思い出していた。
先輩は形の上では、隆子を捨てて、男に走った。隆子には許せない気持ちになったこともあったが、なぜかしょうがないと思う気にもなった。それは、
――私もいつ同じ気持ちになるかも知れない――
と、感じたが、その裏で、
――絶対に同じなんてありえない――
という二つの思いが渦巻いて、どう理解していいのか分からなかった。
しかし、考え方として、
――すべて同じであるなどありえない――
という同僚の話を聞くと、納得できることもある。それは、自分たち姉妹にも言えることで、考え方によっては、
――すべての疑問が一つに繋がっている――
と思えるからだ。
「自分中心というのが、悪いことだという発想をまずは捨てることからなのかも知れないわね」
と、同僚は話してくれたが、実は同じ話を以前にも聞いた気がしたが、それが先輩からだったことを思い出していた。
――先輩は、本当に私のことをしっかり見てくれていたんだ――
と、今さらながらに感じた。別れはしたものの、気持ちの中に存在している先輩は、隆子の中で、いつまでも色褪せることなどありえなかった。
先輩のことを思い出すと、同僚ともっと話をしていたい気がしてきた。まだ肝心なところも聞けていないからだ。
「絵というのは、目の前にあるものを忠実に描くことなんじゃないのよね」
その言葉を聞いた時、肝心なことが聞けた気がした。
そういえば、先輩を見ていて、
――先輩の本当の姿を、私は見ているのかしら?
と感じることがあった。逆に、
――先輩が見ている私は、本当の私なんだろうか?
と考えることもあった。
「私は、別に洋服の絵を描いているつもりはなかったって言ったけど、後から思うと、本当にそうだったのかって自分で言いきる自信がないのよ」
「元々、ファッションや洋服に興味はあったんですか?」
「それがそうでもないのよ。どちらかというと、おしゃれには興味のない方だったのよね」
「でも、自分に対してのおしゃれには興味がなくても、他の人をコーディネイトするのって、また別の心境なんでしょう?」
「そうですね。でも、本当は他の人も自分も、あまり比較できないと思っているはずなのに、どうして他人のファッションにこれほど興味が湧いたのか、不思議なところなんですよね」
「それはきっと、自分というものが一番分からないものだという認識があるからなのかも知れませんね、自分をよく分かっていれば、他人ととこかに境界線のようなものを勝手に作ってしまうでしょうからね」
「でも、洋服というのは、マネキンが着ていても綺麗に感じるんですよ。その時に思うのは、『この服に似合う人ってどんな人なんだろう?』ってことなんですよね。『この人にはどんな服が似合うんだろう?』って思う時は、その人のことを好きになっている時だって思うんだけど、まだ見ぬ、その洋服の似合う人というのは、一目惚れをしてしまうくらいに綺麗だと思いますね」
「私は、そこまで何かに夢中になったことがないので、よく分からないんですけど、洋服って、やっぱり着る人によって変わるものなんですか?」
「着る人によって変わるというよりも、着る人をイメージして作っているという感じですね。確かに着る人によって変わってくるように見えたとしても、そこにデザイナーの何らかの感情が含まれています。私は、その感情が芸術を司っているように思うんですよ」
その時の彼女の話を聞いていると、学校の勉強との違いを感じているように思えた。押しつけになってしまうのは、算数と数学の違いを思い起させる。隆子にとって、同僚の話は、先輩の話を思い出させるものでもあった。
先輩が、急に男性に走ったのは、隆子よりも、その男性のことを好きになったからだと思っていたが、今では先輩が、ただ隆子から逃げるために、男性に走ったのだと思うようになっていた。
走った相手が女性ではなく男性だったということは、最初に付き合った女性が隆子だったことが原因なのかも知れない。
隆子に対して、何か恐ろしいものを感じたのだ。
それが何かは、隆子自身には分からない。だが、同僚と話をしている中で、
「隆子さんには、男性を縛る、何かヘビのようなものを感じるわ。でも、、それは白いヘビで、美しさやしなやかさを感じる。あなたは、男性よりも女性にモテるのかも知れないわね」
と言われた。
ズバリ指摘されてビックリしたが、まさか、ヘビのイメージがあるなんて、今までに感じたこともなかった。
そういえば、小さい頃、誰かに聞かされた怖い話を思い出した。
「夜に口笛を吹いたら、ヘビが寄ってくるよ。身体に纏わりついたヘビは、相手を締め殺すまで離れない。だから、口笛は吹いちゃいけない」
小学生の低学年の頃に聞いた話だった。
――ヘビって、怖いんだ――
動物園で見たヘビに、気持ち悪さは感じたが、怖いものだという発想は、それまでになかった。お化けや幽霊の類とはまったく違った発想をそれまではヘビに持っていたが、夜とヘビという関係を想像すると、暗闇におぼろげに浮かんでいるその姿は、まさしく白いヘビだったのだ。
先輩が隆子を見て、心に響いたものは、白い美しさだったのかも知れない。先輩が元々女好きだったという証拠があったわけではない。先輩の口から聞いたわけでもなく、勝手な隆子の思い込みだっただけである。
「先輩は男に走ったわけではなく、好きになってしまったのが私だったから、相手が女性だったというだけのことだったんだわ。男に走ったわけではなく、先輩の中に、男女の区別なんてなかったのかも知れない」
そう思うと、先輩を惑わしたのは隆子であり、先輩に誘惑されたことで女性に目覚めたわけではなく、相手を惑わす力を持っていたのは、隆子の方だった。妖艶な雰囲気に感じたのも、自分が相手の妖艶さを引き出す魔性を、持っていたからだったに違いない。
隆子は、まだ自分の妖艶さには気付いていない。相手を惑わす力を、同僚は気付いたことで、却って隆子に近づいたのだ。
避けようとしても、逃げられないと思えば、自分から相手の懐に入り込むのも一つの手ではないかと思ったのだろう。
「この人は、まだ自分を最後まで分かっていない」
と、思ったからできたことではないだろうか。
隆子自身は、
――どこまで行っても、自分のことを分かるはずはない――
と思っている。
それは、自分自身と、自分を客観的に見ている目が、まるで平行線のように、交わることもなく、ただ適度な距離を保つことで成り立っている
「精神と、肉体の均衡」
と表しているのかも知れない。
それぞれに適度な距離を保っているのは、隆子だけではない。誰もが適度な距離を保って、自分を抑える立場を有する視線を持つ「もう一人の自分」が存在するのだ。
「もう一人の自分」の存在に、気付いている人は少ないかも知れない。自然にしていれば「もう一人の自分」は表に出てくることはない。自然に振る舞おうとして感じるのは、
――誰かに見られている――
という妄想である。それがもう一人の自分だということに気付くのは、妄想が終わった後のことになるに違いない。
もう一人の自分の視線を感じたことは確かにあった。しかし、その存在を確認することはできなかった。もう一人の自分は、今の自分と同じ姿をしていると思っているからで、人から指摘を受けたような、白いヘビのイメージではなかった。
子供の頃に聞かされたヘビのイメージは、「白装束の髪の長い女性」だったのだ。
その女性は、最初は一人だけだが、まるで夢遊病のように、何かに吸い寄せられるように歩いていると、まわりから同じようないで立ちの女性が集まってくる。
まるで夜中の集会でもあるかのように、岩場の奥には、一定区間に蝋燭が据え付けられている。
カルト集団の集会のように見えるが、それぞれ女性の表情は、洗脳された表情には思えない。皆考えがあって集まってきている。そこにカリスマを醸し出す人物は存在しない。それぞれ意志を持って、そこに存在しているのだ。
隆子もその中にいる。何を考えているのか、見ているだけでは分からないが、何かを求めて集まっているのは、間違いないようだ。
湿気を帯びたその場所は、壁も白く、濡れそぼっている。綺麗に削られたように光って見えるのは、それが鍾乳石である証拠だった。
――そういえば、冷たい場所だ――
どこかで見たことのあるものだと思っていたが、真っ暗な中に浮かび上がる光景は、子供の頃に行った温泉のそばにあった鍾乳洞のイメージだった。子供の頃の記憶なので、どこまで信憑性があるのか分からないが、鍾乳洞を歩いている時に感じた湿気と、そして生暖かいと思う中で、冷たさを感じるという矛盾とが、隆子の中に、記憶として留めることのできないイメージを植え付けていた。
――やはり、私はヘビのイメージなのかも知れないわ――
人から言われて初めて気づいたのだが、いずれは自分で気付いていたように思えてならない。
――ヘビって、怖いものというよりも、気持ち悪いイメージの方が強かったはずなのに――
という思いを抱いていると、もっとヘビのことを知りたいと思うようになってきた。特にヘビを単独で知りたいだけではなく、ヘビと関わりのある他の動物がどういうイメージで存在するのかということである。
ヘビのイメージを感じることができる小説を、隆子は最近読んだ。
その小説はミステリーで、四人の登場人物がいて、一人はまったく別世界の人間なのだが、他の三人は、それぞれに利害関係が絡み合っている。
お互いに力の均衡を保っていて、それぞれに睨みを利かせることで、それぞれに襲い掛かることはない。いわゆる、
「三すくみ」
というものだ。
言葉の意味は、もちろん分かっている。じゃんけんなどにも言えることで、
「グーはパーよりも強いが、チョキには弱い。チョキはパーには強いが、グーには弱い。パーは、グーには強いが、チョキには弱い」
要するに、それぞれに等間隔で存在していれば、、動いた方が負けになるのだ。
強い相手に対して、先制攻撃を仕掛けようものなら、横から狙っている自分よりも強い相手に襲い掛かられる。襲い掛かろうとしている相手も、一歩間違えると、今自分が狙っている相手に、横からつかれてしまう。
それは一定方向だけの力を感じているだけかも知れないが、実際には、自分に対して弱い相手も、自分に対して、防衛本能としての力を使っている。均衡というのは、防衛本能も一緒になることで、保たれているものなのかも知れない。
ヘビを意識すると、占いが気になるようになってきた。特に白ヘビは、頭の中に占いをイメージさせた。
古代エジプトの冠や装飾に、ヘビをモチーフしたものを見たこともあるし、壁画にも描かれていたのを思い出す。先輩もエジプトの歴史などに興味があると言っていた。幻想的なイメージや占星術など、エジプトを彷彿させるのだ。
最近読んだミステリーには四人の登場人物がいた。その中で三人が三すくみの関係にあるのだが、その三人は男性であった。そして、一人の女性を奪い合って、次々に殺人事件が起こるのだが、それもまさしく古代文明の中でありがちな展開を重ね合わせると、自分たち三姉妹をどうしても想像しないわけにはいかなかった。
三姉妹の中で一番苦手だと思っているのが、二女の洋子だった。
洋子は、隆子が高校時代に交通事故に遭ったことがあったが、その時に輸血をしてくれた。結構血液を採ったらしく、フラフラな状態になったと後から聞いた。隆子はその時、重体で病院に運ばれてきた。輸血に不自由はしなかったはずなのに、なぜ洋子が輸血をしたのか、今でも不思議だった。
その時、意識が朦朧とした中で、夢を見た記憶があった。
それは、洋子と由美が大喧嘩をして、洋子の方が出て行った夢である。
「洋子は、由美には弱いんだわ」
と、感じた。それは自分が洋子に対して感じる思いと似ていた。優位性を相手に奪われてしまい、睨まれれば身動きができなくなってしまうことだった。
隆子にとって洋子は、違った意味での「ゆかり先輩」だった。ゆかり先輩は隆子に何も求めようとはしない。ただ、一緒にいるだけで、隆子はゆかり先輩に対して、何をすればいいのかすぐに分かった。
逆に洋子は隆子に何も求めないところは一緒なのだが、隆子は何をしていいのか分からない。何かをしないといけないという思いは、自分の中で怯えを感じさせた。それは隆子にとって洋子が自分の妹であり、自分の範疇の人間だという意識があるからだ。本当であれば、もっと分かっていないといけない存在のはずなのに、分からないことで苛立ってしまう。それが、洋子が自分に対して優位性を感じることができる環境を作っているのかも知れない。
洋子は、隙がないように見えて、実は隙だらけのところがある。隙があるからと思って、迂闊に近づくと、噛みつかれてしまう。相手を油断させてその時とばかりに食らいつく。それこそ隆子が洋子を恐れる一番の理由なのだ。
だが、最近は少し違うイメージを持っている。
自分がヘビで、三姉妹が三すくみであるとすれば、洋子はナメクジだ。
ヘビがナメクジを恐れるのは、噛みつかれるからではない。しかも、洋子を見ていて、どうしても彼女をナメクジだとは思えないのだ。
ただ、優位性を感じるのは間違いないことだ。そして自分がヘビだというイメージも、すでに備わっている認識だった。睨みを利かせることで、カエルである由美を金縛りに遭わせることができる。しかし、自分が洋子から睨みつけられることはない。逆に隙を見せられることで、嵌りこんでしまえば、抜けられなくなるという恐怖心は抱いている。
――洋子は私の何を知っているというのだろうか?
まさか、先輩とのことを知られているとは思えない。洋子は隆子が知っている女性の中でも潔癖症な方だ。女性との関係など、許せるわけないはずなのに、その顔には、あからさまな露骨感はない。洋子は分かりやすい性格でもあるので、嫌悪感を感じれば露骨に嫌な顔をするはずである。
では、洋子は、由美の目から見て、どう見えているのだろう?
由美は、洋子に対して非常に強い立場にいる。まるで洋子の弱みを握っているかのようだ。
隆子には、洋子も由美も、あまり変わらない性格に見える。それなのに、洋子に対しては怯えと思えるほどの優位性が相手にあることを感じ、由美に対しては、まるで自分のいいなりになるかのように見えた。そう、由美に対しては、先輩に感じた思いすら思い起すことができる。
先輩と別れることになってすぐは、由美のことをまともに見ることができなかった。それは、由美に先輩を見ていたからだ。それまであれだけ優位性を感じていた相手をまともに見れなかったのだから、由美の方も、
――何かおかしい――
と感じていたかも知れない。
だが、長年の間に積み重なってきた優位性が解消されたり、ましてや逆転するなどということはありえない。そのことは由美が一番分かっているだろう。何よりも、隆子が洋子に対して感じていることで、お互いが相手に感じる「優位性」が三人の間に存在する三すくみとして均衡を保たせているのかも知れない。
由美が裕也を連れてきたことで、一番驚いているのは、洋子だった。
実は洋子も家に彼氏を連れてこようという計画があったからだ。
ただ、洋子と違った意味で隆子もビックリしていた。自分の優位性を感じさせる相手である由美が、あからさまに男を連れてきたのだ。いずれは自分のいいなりにでもしようとまでは考えていなかっただろうが、自分の手の中に置いて、ゆっくり温めて行こうと思っていた由美が、彼氏を連れてきたのだ。
自分の思っていることと、まったく裏腹な行動を取っていた妹に対して、自分が見ていた目があまりにも甘かったことを感じさせられた。
自分が先輩に対し、男役でも女役でもなれると思ってはいたが、優位性に関しては、相手が先輩であっても、自分にあると思っていたことの表れのように思えた。
――最初は、私の方が先輩に誘惑されたと思っていたのに――
それは、途中で、立場が逆転したことを示していた。
しかも、そのことを隆子は意識していなかった。先輩は意識していたとすれば、それを甘んじて受け入れていた証拠であり、もし分かっていなかったとすれば、男に走ったのは、そのことを先輩が隆子よりも先に感じた証拠であろう。
先輩が走った相手の男のことを、調べるつもりはなかったが、ちょっとだけ調べてみた。名前までは教えてくれなかったが、どうやら、女性を食い物にしている男のようだった。特にレズビアンの女性を相手にするのが得意で、元々ホストになりたかったくらいのルックスのよさと、さらには、実家が金持ちだと来ていることで、世間知らずの女は、結構引っかかったりするらしい。
――どうして、そんな男に引っかかったのかしら? 私なら、絶対に引っかかることはない――
という自信を隆子は持っていた。その根拠がどこからくるのか分からなかったが、先輩が男に引っかかったという事実が隆子に与えたダメージの大きさが、
――変な男には引っかからない――
という自信の根拠になったのだった。
変な男には引っかからないという思いがあるのに、短大に入ると信二に引っかかった。信二は純粋な男性に見えた。
しかし、少し話をしてみると、最初は自分のことよりも、相手を知りたいというイメージの話し方だったが、次第に、自分のことを知ってもらおうという思いが嵩じてなのか、以前先輩が走った男のイメージが頭に浮かんできた。
その男の顔と先輩の顔が目の前に浮かんできた。逆光の中で、恐ろしい形相を浮かべていて、その顔の原型をまるで、隆子には見せないようにしているかのようで、その時のことは、隆子が先輩に残した未練が見せた夢であることは明白だった。
「どうして、そんな男に走ったの? 目を覚ましてよ」
と、目の前にいる先輩に必死で訴えるが、先輩の顔も逆光でハッキリと見えない。
それは、まるで先輩とのそれまでのことが、すべて幻だったかのように思わせた。
――ゆかり先輩なんて、最初から自分の中にはいなかったんだ――
と思わせようとしている。それは先輩の意志ではなく、隆子自身の意志が働いてのことだった。
確かに隆子が今まで生きてきた中で、一番誰かに知られたくない事実である。ただ、それは恥かしいという意味ではなく、自分たちの世界を他の人に土足で上がられて、壊されたくないという思いがあるからだ。
逆にいうと、その思いは隆子が勝手に作った思いであり、先輩の思いを分かっているつもりでいるが、それは隆子の思い過ごしであり、先輩との間に気持ちの上での結界があることを意識していなかったのかも知れない。
先輩に対して感じた結界を、先輩と知り合う前から感じたことがあったように思える。どこまで行っても交わることのない平行線、その間に設けられているのが結界である。なぜ結界が存在するかというと、いつまで経っても交わらないということを、隆子が信じたくないという思いから、平行線を感じた瞬間に、敷かれた境界線だった。つまりは結界とは相手が設けたものではなく、自分自身で平行線を認めたくないという思いから作り上げたものだったのだ。
隆子は、三姉妹の長女であるという思いも強かった。三人の中に三すくみのような感情が渦巻いていることに気付いてはいなかったが、何かそれぞれに隆子が設けた結界が存在することは意識していた。その時は、結界と呼ぶほどの大げさなものではないことは分かっていたが、三姉妹の間にそれぞれ均衡を保つ緊張が存在することは分かっていた。そのことを知っている人がいるとすれば、洋子だろう。由美にはそこまで感じるだけの緊張感が存在しない、ただそれも隆子が見てそう感じるだけなので、説得力はなかった。
隆子は、由美が裕也を連れてくる数日前に、一人で出かけた。
それは、会社とは反対方向で、普段は乗らない電車に乗っていく場所だった。朝、三人とも一緒に出掛けたので、妹たちは隆子は仕事に出かけたと思ったに違いない。
都心部へ向かう電車ではなく、田舎に向かっていく電車なので、余裕で座っていくことができた。
その日は、前もって有給休暇を取っていたので、悪いことをしているわけではないのだが、どこかに後ろめたさを感じた。
――誰にも知られたくない――
という思いがあることから、隆子には後ろめたさが強かった。それは、誰にも知られたくないと思っていた先輩との関係と似ているが、それは先輩と最初に関係した時のことだった。途中からは、
――誰かに自分の思いを知ってもらいたい――
と思うようになっていた。
それは、自分一人で抱え込むには思いが大きすぎると思ったからで、自分の背徳感を他の人にも味あわせ、言い方は悪いが、他人にも自分の背徳感を知ってもらい、責任の一旦を担ってもらいたいという思いの「責任転嫁」に近いものがあった。人に自分の背徳感を責任転嫁しようとしている段階で、
「自分には罪深さがある」
ということを、まわりに宣伝しているようなものだった。
さらに隆子には、他人にはおろか、妹たちにも知られたくない事実があるのを、後ろめたさとしてずっと持っていた。その時出かけたのも、それまでにも何度もあったことで、今に始まったことではなかった。
ここに来るようになったのは、短大を卒業し、就職した頃だった。それまで、なかなか足を延ばす気分になれなかったのは、自分の中にある先輩との関係と、妹たちとの確執で、頭の中が混乱していたのもあったかも知れない。
「それも、やっぱり言い訳なのかも知れないわね」
電車に乗ってから、次第に車窓は田舎へと変化してくる。気が付けばのどかな田園風景になっていて、終点までの一時間とちょっと、隆子にとっては、最初は二時間にも三時間にも感じられた。
「時間の感覚なんて、本当に曖昧なものだわ」
車窓からのどかな田園風景を見ながら、独りごちた。
田舎暮らしは半年ほどしたことがあった。
隆子は小学生の頃まで、喘息で苦しんでいた時期があったが、その頃、療養と称し、学校を休むことも公認として、診療所のようなところに入ったことがあった。
まだセミの声が聞こえていたが、夏の終わりの入道雲が目立っていた頃で、体調も軽く壊しかけていた頃だったが、
「療養所なら、ちょうどいい」
と、母親が言っていた言葉を思い出したが、それは隆子の意見を一切聞こうともしない自分勝手な思い込みだったことに、まるで自分は親から捨てられるという危機感を感じたのを思い出した。
療養所と言っても、粗末な造りで、実際に入ってみると、夜中に不気味なうめき声が聞こえてみたり、静寂をぶち破るような奇声が暗闇をつくように飛び込んできた。そんな時に目の前に見えた閃光が、白い色だったのか、それとも青や緑のような暗い色だったのか、あまりの一瞬で覚えていない。
隆子は、療養所を出る頃には、半年前と明らかに性格が変わっていたことに気付かなかった。
もし、自分で気付くのであれば、最初から気付いていたはずだ。後になって分かったということは、それは人から指摘されたからだった。
それでも、最初は意識がなかった。
「あなたって、こんなに暗かったかしら?」
元々、療養所に入る前も、自分ではあまり明るい性格ではないと思っていたので、追い打ちを掛けるように、さらに暗いと言われて、俄かに信じられるものではない。自分で感じていた暗いと思っている性格も、自分では好きな性格ではなかった。それをさらに暗いと言われるのだから、
――何か私に恨みでもあるのかしら?
と、勘ぐってしまう。
しかし、実際には、隆子の中で暗いというイメージがあるだけに、次第に暗いという性格を自分で受け入れることが、自分に対しての慣れに繋がるということで、悩みを最小限にしようという楽な道を無意識に歩もうとしているのかも知れない。
療養所の生活は、今までの自分の暮らしとはまったく違ったものだったが、慣れてくると、戻っていく場所もさほど違いがある場所には思えなくなってきた。療養所に入る前と出てからとで性格が変わったように感じるのは、隆子の感じ方ひとつの違いが影響しているだけだった。
その時と同じように、隆子がこの路線の電車に乗って出かけるようになってから、隆子の性格はまわりから見れば変わったように見えるようだった。
隆子はまわりの見る目が変わったのだと思っていたが、その感覚が、まわりから見た思いとは違っているのに、実際は同じものなのだ。
隆子は車窓を見ながら、
「誰も知らないところに行くというのも、スリルを感じるわね」
と、思わず、ほくそ笑んだ。
本当はそんな気持ちに余裕などなかったはずなのに、今では思い出し笑いができるほどになっていたのは、ここにいる自分が本当の自分ではないかと思ったからだ。
いつもは、姉妹たちの長女として毅然とした態度を取らなければいけないと思い、自分を押し殺して来たところもあった。しかし、こうやって一人で出かける時は、本当の自分を出すことができる。それが嬉しいとも感じる隆子だった。
それでも後ろめたさは消えたわけではないので、いくら一人になったとしても、そこに求めている自由があるなどということは、到底考えていない。隆子は自分を偽っている時があるという自覚はあったが、それがいつのことなのか、深く考えたことはなかった。それは今も昔も変わっていない。
最初にこの電車に乗った時のことを思い出していた、
あの時も、電車の中はほとんど人が乗っておらず、途中のちょうど半分くらいの駅からは、一つの車両に二、三人といった乗客だけだった。
時刻表を見ると、なるほど、中間地点の駅までは電車の本数は、一時間に数本あるのだが、路線の終点まで行く電車は、一時間に一本あるかないかであった。しかも問題の駅で後ろの車両を切り離してから、二両編成くらいにして走る列車がほとんどなので、どれだけここからがローカル線という認識になるのか、その徹底ぶりが、田舎というイメージを増幅させていった。
途中で切り離してからの車窓は、それまでとは一変した。
のどかな田園風景は、一方の車窓からだけで、反対側の車窓からは、広い海が広がってくる。
日差しに煌めく海面が、直視できないほどの眩しさを車内に容赦なく入り込んでくる。眩しさを甘んじて受ける気持ちでブラインドを下ろそうとしない隆子は、元々、ブラインドを使う方ではなかった。
――どんなに眩しくても、外の景色が見える方がいい――
三つの恐怖症があることを隆子は認識している。高所恐怖症、暗所恐怖症、閉所恐怖症である。
極端ではないが、隆子はその三つをすべて自覚している。ブラインドを下ろさないのは、暗所と閉所の恐怖症によるものだ、
――表が見えないというのは、これほど怖いものはない――
という意識が強く、隆子は敢えて、眩しい海岸線の方に席を移動した。
閃光が乱舞するかのように目に飛び込んでくる。最初は意識が朦朧としてくるのを感じていたが、今では眩しさを感じることを悪いとは思わない。人がいないのをいいことに、
「この車両は私のもの」
という独占欲が湧いてくるのだった。
それは、これから向かう場所で、同じことを思いたいからで、電車の中にいる間から、自分の気持ちを高めるように意識している隆子だった。
電車の中はクーラーが利いているはずなのに、汗が少し滲んでくるのを感じた。海岸線からの閃光に暑さを感じるのか、それとも、これから向かう場所を思うと、自然と汗が出てくるのか、隆子はリラックスした気分が少しずつ消えていくのを感じた。
緊張感が心地よく盛り上がっては来ていた。リラックスが溶けてくるのと、緊張感が盛り上がってくる感覚は背中合わせだと思っていたが、微妙に違っている。
後から思い出した時に感じるのは、緊張感が盛り上がってくる感覚よりも、リラックスが溶けてくる感覚の方だった。その時に感じる強さは、緊張感が盛り上がってくる時の方が大きい。
もっとも、後から思い出すのは、二つあるうちのどちらかだというのに、その場では同じ瞬間に、二つのことを同時に感じることができるというのも、おかしな感じがしている。緊張感が盛り上がる感覚を味わっている時に、リラックスが溶けていくのを同時に感じることができるのだ。比較するには難しいのかも知れないが、リラックスが消えていくことに、若干の違和感を感じることで、先ほどからの汗が滲み出ることへの説明にもなるのではないかと思うのだった。
電車が終着駅に到着する頃には、眩しさにも慣れていて、最初に掻いた汗は、次第に引いてきているのを感じる。完全に引いたわけではない汗を感じながら電車を降りると、表は心地よい風に包まれているのを感じた。
電車の中ではあれだけ暑かったのに、表に出ると、少しひんやりとしている。歩きながら先ほどの汗が一度引いて、今度は新しく汗が出てくる。ひんやりとした表だったが、どこからともなく聞こえてくるセミの声を聞いているだけで、汗が滲んでくるのだった。汗を掻くことが心地いいと思うのは、普段とは違う環境にいるからなのか、それとも田舎の風景に、いつの間にかその場にいることに違和感がなくなり、子供の頃を思い出させるのか、隆子は療養所の思い出が悪いイメージしか残っていなかったはずなのに、ここに来ると、それもまんざらではなかったのように思い出すことができたのだ。
「そういえば、療養所で知り合った男の子がいたっけ」
その男の子は、不思議なことを口にする少年だった。
隆子よりも学年が小さかったはずなのだが、いくつだったのかは分からない。その少年が言う話をまともに信じてはいけないと、いつも感じていたのを思い出した。
しかし、なぜかいつも少年がそばにいた。
「私のそばに近づかないで」
などということを、自分の口から言えるはずもない隆子は、
「俺はいつも考えていることがあるんだ」
「何を?」
「誰も知らない間に俺はこの世から消えていて、俺のことを知っている人が誰もいなくなるんだ。俺の存在自体が最初からなかったことになる。それが本当は一番しっくりくることなんだろうけど、なぜかひとりだけ心の中に虚しさを残している女性がいるんだ」
「その女の子は、あなたのことを覚えているからじゃないの?」
「そうじゃないんだ。覚えていて虚しさを感じるというわけではないんだ」
「じゃあ、それがあなたのことだとは言えないんじゃないの?」
「いや、それは僕のことなんだ」
男の子はやけにこだわる。隆子も、ここで必要以上に突っ込む必要もないので、そのまま話を続けたが、
「でも、あなたのことを知っているのと、知らないのとでは、どっちが虚しさが強いのかしらね?」
「僕のことを知っていて、それで虚しさを覚える方が、数倍辛いことのように思うんだよ。僕は、その辛さが分かる気がするからね。でも、僕のことを意識することなく虚しさを感じているだけの時にどれほどの虚しさなのかは想像がつかない」
「想像はつかないくせに、どうして、数倍って言いきれるの?」
「それが自分でも不思議なところなんだけど、誰かが耳元で囁いた気がするんだ『数倍お前のことを知っている方が虚しい』ってね」
「それは、誰かではなくて、あなた自身がそう思っただけのことじゃないの?」
「そうかも知れない。そうじゃないかも知れない。そこが分からないから、僕はいろいろと考えようと思うのさ」
「いろいろ考えることは悪いことじゃないと思うけど、考えすぎるのもいけない気がするわ。リラックスすることで気持ちが心地よくなれればいいんじゃないかしら?」
「リラックスすれば、心地よくなれるのかな?」
「えっ?」
隆子は、その時に自分の口からリラックスと心地よさという言葉がよく出てきたと思った。そして、それについて、まさか彼が疑念を抱いてくるというのも、思ってもみないことだった。
彼と話をしないと心に決めていたのに、いつの間にか話に引き込まれていた。それが悪いことなのかどうなのか、ハッキリとは分からないが、隆子は自分の考えがここまでしっかりしていることに驚かされた。
――人の話にここまでよく対応できたなんて――
後から思い出すほど、子供の頃の自分が、すごい考えを持っていたのかも知れないと思うのだった。
隆子は彼の話をどうしても他人事として聞くことができなかった。
――きっと、いつになるか分からないけど、この話をふと思い出すことになるかも知れない――
と感じた。
最初から、この話をずっと覚えているなどということはないと思っていた。どんな心に残る話であっても、時間が経てば忘れてしまうという意識はあった。将来になってからきっと、その理由が分かる時が来るという確信めいたものがあったのだ。
その理由というのが、
――忘れてしまうのではなく、記憶の奥に封印される――
という考え方であって、その考えがあるから、忘れてしまわないようにしようと、執拗に感じないようにしていた。
ただ、この考え方も、少年の話に繋がるところがあった。
――忘れてしまわないようにしていても、忘れてしまえば、果たして、その時に虚しさが残るだろうか?
という考えが隆子の中にあったからだ。これは、自分がこの世から消えてしまっても、一人だけ自分のことで虚しさを感じる人がいると言っていたことと、重なる部分があるのではないだろうか、忘れてしまえば虚しさなど残らないと言えればいいのだが、本当にそうなのか、何か心の中に引っかかるものがあるのではないかと思った時、他の人とは違う考えが頭を過ぎる。
――こんなことを他の人に言ったら笑われる――
という思いが頭の中にあった時、自分が他の人と違うということに対して、どう感じるだろう?
恥かしいと考えるのか、それとも、画期的な考えのできる人だと自分で感じることができるのか、前者は自分を主観的に見る目であり、後者は客観的に見る目である。
隆子は、明らかに後者であった。しかし、それを他人には知られたくないという思いと、人との違いを他の人にも分かってほしいという思いも子供の頃にはあったが、最近は、
――どうせ、自分の考えは他人には受け入れられるものでもない――
と思うと、それが自分の個性であることに気が付いた。
他人に対して恥かしいなどと思う必要などサラサラない。自分は自分の考えを持っていればいいんだ。
「笑いたい奴には、笑わせておけばいいんだ」
そんな思いが頭の中でこだまする。それが思春期以降の隆子の考え方を基礎を作り上げて行ったに違いなかった。
隆子はいつもこの路線に乗った時に、そのことを思い出していると、あっという間に終点の駅に着いていた。しかも、駅に着いた時、何か自分の中でちょうど結論のようなものに行きついた気がするのだが、残念ながら、駅に降り立った瞬間、その結論を忘れてしまっている。
いや、隆子の考え方から言えば、忘れてしまっているわけではなく、自分の中にある記憶する場所に封印されているだけなのだ。
いつもは、電車の中で療養所のことを思い出すのだが、その日は、駅に降り立ってから、療養所のことを思い出した。電車の中で何かを考えていたのは確かなのだが、この日も、ホームに降り立った瞬間に忘れてしまった。
「また思い出すわ」
療養所のことも、今までは駅に降り立ってから考えていたことを忘れてしまうのだが、それは一時的なもので、歩いているうちに徐々に思い出してくる。それはまるでホームに降り立つ瞬間、何かがリセットされたことを意味していた。その瞬間、その場所から、今までの世界と違う世界が開けて、そこには他の誰も入ってこれない自分だけの世界が広がることを分かっていた。
終着駅と言っても、そこは寂れた場所だった。駅前にロータリーがあるが、タクシーが一台いるかいないかで、バス停はあっても、バスが止まっているところを見たこともない。
この街は、温泉と漁村が広がっているだけで、温泉でも出なければとっくに廃線になっていることだろう。とりあえず、いつもここに来ると一泊はするようにしている。姉妹たちもお姉さんが帰ってこないのは、出張とでも思っているようなので、変な勘繰りはないはずだ。
隆子は、漁村に向かった。そこは、寂れた家が立ち並んでいるが、その中の一角にある一つの家に立ち寄った。
「こんにちは」
声を掛けるが、すぐには返事は返ってこない。もう一度声を掛けると、
「どなたかな?」
と、奥から声が掛かる。
「隆子です。お邪魔します」
と言って靴を脱ぎ、玄関から入ったすぐ右側の部屋に入った。そこには、一人の老人が布団の中から身体を起こそうとしている。
「大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だよ。介護の人には今、買い物に行ってもらっているのでね」
そういえば、表にいつも止まっている白い軽の車がなかった。老人は続ける。
「いつもすまないね」
「いえ、私もここに来るのが最近は楽しみになってきましたから、いいんですよ」
と言って、微笑んだ。
「そう言ってくれると助かるよ。でも、隆子ちゃんがここに来るのが楽しみだって言ってくれるようになったことが、わしにとっては、大きな救いになっているよ」
「それじゃあ、墓前に挨拶だけさせていただきます」
そう言って、隆子は老人の寝ている部屋の奥にある今の霊前に手を合わせた。老人一人の暮らしにしては部屋がいくつかあって、ここに以前は家族と呼ばれていたものが存在していたのだと思うと、子供から大人までの一家団欒の食卓が目に浮かんできた。
――私には縁のないものだわ――
と、隆子は自分の中で何が憧れだったのか、分からなくなってきた。
確かに一家団欒の食事風景は、他人事として見れば羨ましく感じられる、しかし、その輪の中にいる自分を想像することができないのは、自分が望んでいることではないということを示している。実際に、自分の家族を考えた時、一家団欒などありえないとしか思えなかったからだ。
以前、この老人に考えを看破されたことがあった。
「隆子ちゃんは、羨ましいと思うことは、自分の経験から感じているものではなく、客観的に見るから感じられるものだったんだね」
と、言われて、
「いえ、そうじゃないです」
「ん? 当たらずとも遠からじだと思っていたが?」
「いえ、客観的に見るから羨ましく思うんじゃなくって、たぶん、他人事として見るから羨ましく見えるんだと思います」
と答えると、しばらく老人は考えていたようだが、急に笑い出した。
「なるほど、隆子ちゃんは、そういう分析を自分に対してするんだね。きっと隆子ちゃんはいろいろ分かっているんだろうね。分かっているから、その中に矛盾を感じてしまうことが多くなる。それを解決しようとすると、客観的な考えでは解決できないという結論になった。そこで、どうすればいいかと考えた時に、一歩踏み込んで、他人事だと思うようにしたんだろうね」
「そうかも知れません」
「でも、それって、誰もが考えることなのかも知れないよ」
「えっ?」
「皆、一応は考えるのさ。でも、客観的に考えることということよりも、他人事のように考える方が、後ろ向きに思うんだろうね。それを普通に考えているわけではなく、無意識に考えている。それも、気付かないほどの一瞬だよ。それを僕は『本能』だと思うようにしているんだよ」
「本能……」
隆子はしばらく考えていた」
「そう、本能。本能として思うのだから、きっと隆子ちゃんも同じことを考えているはずなんだ。ただ、そこから違うのは、隆子ちゃんがその考えを自分の中で許すことができない。だから、その先を考えるのさ」
老人の言葉に隆子は唸った。
「そんなこと、考えたこともなかったわ。私は、本能というものを意識することは多いんだけど、無意識という考えにまで至っていなかった」
「だから、隆子ちゃんはいろいろ分かっているのに、いつも悩んでいるんだよ。言い方は悪いけど、それが隆子ちゃんが肝心なところが分かっていないと僕が思っているところなんだ」
――そういえば、老人と知り合った最初の頃に、確かに肝心なことを分かっていないと言われたことがあったわ――
ということを思い出した。
隆子が自分の肝心なことを分かっていないから、悩みが多いということを、以前にも誰かに言われたことがあった。それが誰だったのか、すぐには思い出せなかったが、今では思い出すことができる。
――ゆかり先輩――
そう、ゆかり先輩は隆子の身も心も両方理解しているのだということを、隆子はずっと分かっていたはずだった。
隆子は、霊前に向かいながら、そこに眠っている人が、以前自分を助けてくれた人だということを思い出しながら、心の中で祈った。
「あの時はありがとうございました。私はもう少しで、間違いを犯すところでした」
隆子は崖の上をフラフラと歩いていたらしい。本人は覚えていないのだが、どうやら夢遊病のようなものではなかったのだろうかと思う。まわりの人からみれば、
「自殺をしようとしているんじゃないかって思って、ビックリしたわ」
そう言って、その時に危ないところを助けてくれたのが、ここのおばあちゃんだった。あれは、二年前のことだったが、おばあちゃんが助けてくれた時、あれだけしっかりしていた人が、あっという間にこの世からいなくなってしまうなんて、隆子には信じられなかった。
「でも、あれも苦しんで逝ったわけではないから、それが救いだったと思うよ」
と、おじいさんは話してくれた。最後はおじいさん一人に見取られて、この世を去ったということだが、
「わしは、とっくに覚悟はしておったからな。でも、わしより先に逝かれてしまうとは、正直思わなかったがな」
と、おじいさんは静かに笑った。
隆子は助けられてから、
「病院に行った方がいいんじゃない?」
という老夫婦の言葉に対して、
「いえ、大丈夫です。私がぼんやりしていたんですよ。立ちくらみだったかも知れません」
と、答えた。
実際に、隆子にはそれ以外に説明のしようがなかったからだ。
「じゃあ、ある程度よくなるまでここにいればいい。わしらはいつまで居てもらっても、構わんからね」
と言ってくれた時、初めて隆子の目から涙が零れた。人の親切の暖かさを、今まで忘れていたのか、それとも、本当に知らなかったのか、自分でもよく分かっていない。
実際に、人に甘えたくなったのは、後にも先にもその時だけだった。
――本当に、私は自殺しようとしたわけじゃないのかしら?
自殺という意識はまったくなかったのに、こんな風に優しくされると、今さら、
「あれは自殺しようとしたわけじゃないんですよ」
とは言いにくい。
「警察には、届けないでいてあげようね」
とまで言ってくれたので、なおさら自殺ではないなどと言えるはずもなかった。
隆子は三日もすれば落ち着いてきたが、まだ今までの生活に戻れる気がしなかった。それから、老夫婦に甘えるかのように、二週間近く、ここにいた。それがちょうど、躁鬱症の切り替わりの時期と同じ長さだったというのは、ただの偶然なのだろうか。
ここにいる間、嫌なことは全部忘れてしまおうと思った。忘れることができないことも分かった上で、忘れようとするのは無理がある、自分の中で、
「忘れるのではなく、記憶の奥に封印するんだ」
と言い聞かせてみると、意外と気分的には楽になれた気がした。
老夫婦の面倒を見ながら暮らしていると、このまま帰りたくない気がしてくる。その頃は、まだおばあちゃんも元気で、一緒に台所に立って、料理を作ったものだ。
今まで、誰からも教えてもらうことのなかった料理を、しかも田舎料理を教えてもらえるのは、本当に嬉しかった。懐かしい味を好む男性も少なくないと聞いている。料理ができるようになりたいと思って、今まで何度も本を買ってきては、本を見ながら作ってはみたが、思ったようにできるものではない。
――でも、今さら誰のために料理を作ろうと思うのだろう?
相手もいないのに、料理ができるようになったとしても、それは虚しいだけだ。そんな気持ちでいる間は、まだまだここを離れることができないような気がした。
隆子の荷物の中に、スケッチブックがあった。筆記用具の揃っていて、起きれるようになってから四日目くらいには、表に出て、デッサンをしてみた。
絵を描いてると、目の前の光景を描いているつもりなのに、どうも違った景色を見ているように思えてならなかった。
海岸は、入り江のようになった砂浜が広がっているが、その向こうに断崖が見えている。
「私は、どうしてあんなところにいたのかしら?」
おばあちゃんのために、おじいさんが崖の上にある薬草を時々取りに行っているということだが、ちょうどその時、隆子を見かけたという。
「普通、あんなところに人がいることってないですからね。いるとすれば、自殺志願者くらいしかいませんからね。でも、ここは自殺の名所として知られているわけでもないので、地元の人でもあまり行かないところに人がいるんだから、ビックリしますよ。しかも若い娘さんでしょう? 急いで止めないとって思って、気が付いたら、崖の上まで来ていましたよ」
と、おじいさんは、今さらのように話していた。
隆子は、この街に因縁があり、本当は来たくないと思っていた。それなのに来てしまうのは、何かに吸い寄せられているからなのか、それとも逃げられないという気持ちが逆に作用して、ここに来ないではいられない気分になってしまうかのどちらかではないだろうか。
デッサンをする時は、水平線にどうしても目が行ってしまう。色を使うわけではない鉛筆画によるデッサンなので、水平線の空と海の境目を描けるはずなどないのは分かっていたはずだ。
だが、どうしても描かずにはいられない気分になってくる。
「角度が悪いんだわ」
と感じたのを覚えている。
「そうだ、あの時に崖の上に向かったのは、デッサンをするつもりで上に上がって、自分でも被写体ばかりに目が行ってしまっていて、危険な感覚がマヒしてしまったことで、おじいさんに、危ない人がいるというイメージを植え付けてしまったんじゃないかな?」
と感じた。
しかし、あの場所で描くことは、最初から決まっていたように思えてならない。高いところは、本当なら怖いはずなのに、怖さを超越した感覚は、精神を凌駕しているのではないかと思うほどだった。
下から眺めているよりも、光の反射はまともに目に襲い掛かってくる。それでも、この場所を選んだのは、空と海との境目がハッキリしすぎるほどハッキリしているからだ。
「そういえば、まだ昼過ぎだというのに、水平線には夕日の影が見えたような気がしたわ」
オレンジ色の光が、水面を照らしている。空の向こう側は、赤みを一切帯びることのない黄色い光が燻っている。昼と夕方との狭間を、この崖の上からは見ることができるのだ。
見ることができても、それをデッサンとして描くことは難しい。描こうとすると、どこかにウソを含まなければいけない気がしてきた。
「絵というのは、目の前に見えている光景を忠実に描き出すことだけが、絵だとは言えない。芸術としての絵は、そこにウソが入ったとしても、描き手が想像している通りであるならば、それはそれで立派な芸術なんだ」
と、言っていた人がいたのを思い出していた。
話を聞いた時には、イメージが湧いてこなかったが、ここで水平線を眺めていると、デッサンであっても、ある程度描けるのではないかと思うようになってきた。描くことを生業としているのでなければ、妄想することが許されると思っていたが、生業としている人の方が、実は分かっているのかも知れないとも感じる。その日、どうしてここで絵を描こうと思ったのか思い出せないが、思い出す必要が果たしてあるのだろうかと思うと、何も考えずに、もう一度同じ場所で、絵を描いてみたいと思うのだった。
今度は、頭の中はしっかりしている。自殺しようとして、死に切れなかった人に、
「もう一度、死にたいと思いますか?」
という、非常識な質問を浴びせるテレビを見たことがあったが、
「死ぬ勇気なんて、何度も持てるものじゃないですよ」
と、答えたのを見たが、まさしくその通りだろう。一気に死ねなかった人は、二度目、三度目になると、次第に感覚がマヒしてくるのかも知れない。そんな中、恐怖心だけが封印されていたところから顔を出し、「死」を意識してしまうと、その時、最初の時にはなかった何かの選択を余儀なくされてしまうのではないかと思うことで、「死」というものが、どんどん遠ざかっていくことに気が付くようになる。
――一体、何の選択なんだろう?
最初には感じなかったことだ。二度目には、何か究極の選択のようなものだったように思う。
――そんな選択をしなければいけないのなら、死を選ぶなどありえない――
と感じるほどのことではないだろうか。
死んでからのことを考えるのが嫌になってくると、本当に死ぬ勇気などなくなってしまう。最初に死のうと思った時は、死んでからのことを考えるなど、そんな余裕はないと思っていたが、実際に自殺を考えると、死んでからのことを考えるようだ。
隆子も、一度死にたいと思ったことがあった。今から思えば、
――どうしてあの時だったのだろう?
と考えてしまう、
他にもっと辛いことがあったはずなのに、死にたいと思った時のことを思うと、どうしてそんな心境になったのか、自分でも分からない。
――死にたいと思うのにはタイミングや時期があるのだろうか?
睡魔が極限に達した時、普段はしないことをしてしまうものだが、隆子も一度頭がボーっとしてしまった時、普段なら絶対にしないようなことをしてしまった。しかし、してしまった瞬間、一気に我に返ってしまう。
「あっと思った瞬間、いきなり目が覚めたんですよ」
という言い方をすると、
「そうそう、私も同じような経験あるわ」
と、話が盛り上がる。
死にたいと思う時も、その時のように、いきなり我に返ってしまうものなのかも知れない。タイミングや時期で片づけてしまうには、あまりにも単純すぎる気がした。
死にたいと思っても死に切れるものではないのは、いきなり死にたいと思う時、死の瞬間を自分でイメージしてしまうのかも知れない。すぐに我に返ってしまって、恐ろしさだけが残ってしまうので覚えていないのだが、気が付けば死の恐怖が死を思いとどまらせていた。
実際にその時死んでしまっていれば、こんなことを考えられるはずもないというのも、不思議な感覚だった。
死を覚悟するのに、二回目以降になると、選択を迫られる。それは、死の世界をいやが上にも考えさせるもので、想像もできないのに、どう選択すればいいのか、無理難題を押し付けられることで、死を思い止まるというものであった。
デッサンをしていて、崖の上から見る空と海の境目を、隆子はまるで「天国と地獄」のように感じていた。どちらが天国でどちらが地獄なのか分からない。ひょっとすると、どちらにもなれるのかも知れない。そう思うと、選択肢の先にあるものが天国と地獄だと思っていたが、実際にはそうではないのかも知れない。
元々、自殺をした人間は、自分を殺すという意味で、地獄に落ちると言われているではないか。自殺志願者に、天国と地獄という選択肢はないはずだ。
生まれ変わることができるかどうかの選択肢であれば、分からなくもない。ただ、それも迷うようなことではない。生まれ変われるなら、それに越したことはないではないか。
だが、それも人間として生まれ変われればの話ではあるのだが、果たして人間にまた生まれてきて、幸運なのだろうか? 生まれ変わるということは、まったく違う人間として生まれ変わることである。生まれ変わった先で、今の記憶があるなどありえないことだろう。
「もし、あなたが生まれ変われるとすれば、もう一度人間に生まれ変わりたいですか?」
と聞かれれば、
「今の記憶はまったくなくて、まわりも自分を知らないところから始まるわけですよね?」
「もちろん、そうです」
と言われれば、
「じゃあ、人間に生まれてきたいです」
と答えることだろう。
自分が人間としてしか生きられないという意識があるからだ。死を目の前にして、生まれ変わることを意識するなどおかしなことだ。だが、死を選んだ人間の選択肢があるとすれば、もう一度人間に生まれ変わるしかないような気がする。それは、人間として一生を全うできなかったから、もう一度やり直すというよりも、人間でしか生きることのできない人間だということを証明しているにすぎないからだった。
――あの人たちも同じ気持ちになったのかしら?
あの人たち、隆子がこの街にやってきた本当の理由、何回ここに来ても、落ち着いた気分になることはできない。
本当は、すぐにでも行くべきなのだろうが、隆子はまず自分の気持ちを落ち着かせることと、その場所に行くには時間を見計らう必要があると思っていた。
日差しが西の空をオレンジ色に染めて、身体にダルさを伴ったまま、汗が纏わりつく洋服に、心地よい風を感じていたいと思う中、風がビッタリと止んでしまう時間、つまり夕凪の時間を隆子は待っていた。
どうしても夕凪の時間でないといけないというわけではないが、その時間というのが、一番魔物に出会う時間だというではないか、もしそれ以外の時間であれば、隆子はあの人たちに会うことはできない。そう思っていると、西日の力が弱まってくるのを感じ、風が吹いてこないことを確認すると、夕凪の時間が訪れたことを確信できたのだ。
その場所は、同じ入り江の崖の上とは反対方向にある。そこは、崖とは趣の違う小高い丘になっていて、誰でも簡単に上れるように、軽いつづら折れになっている。少し歩く距離は長いが、
「人に優しい道」
になっているのだ。
ゆっくりと歩いていくと、最初は見えてこない海も、山の傾斜が次第に緩やかになっていくと、海が見えてきてからは、つづら折れではなくなってくる。頂上目指して海を背に歩いていく形になるのだが、目的の場所は頂上まで行くことはない。丘の中腹に位置している場所までやってくると、目的の場所が見えてきた。
手には花を持っていて、花は朝、おじいさんに頂いたものだった。
手に花を持って出かける場所というと、そう、そこは墓地であった。霊園のような広い場所ではないが、小高い丘には段々となった墓石が一定区画に区切られていて、物言わぬ主は、永遠に海を見続けている。
静寂の中で、波打ち際の音が聞こえてくるようであった。中腹とはいえ、後ろを振り返れば、水平線はここからでも、十分に見ることができる。
「なんだ、ここからも見えるんじゃないの」
と思わないわけではなかったが、断崖から見る景色とは趣がまったく違っている。断崖絶壁から見る水平線は、空と海の境目を必死に探して、そこに何か違うものが見えるのではないかと思うほど、自分の中で切羽詰ったものすら感じる、
しかし、ここからの水平線は、何があっても、変わることのない普遍性を示している。
「何があっても、普通でいいんだ」
と思わせることは、癒しに繋がる。墓地が癒しを与えてくれるなど、今までには考えられないことだった。
墓地というと、夕方以降、近づくことはタブーな世界であり、そこから先は、人間の立ち入ることのできない時間と空間が広がっているものだと思っていたが、
――ひょっとして、夜の世界とも共存できるのかも知れない――
と感じるほどになっていた。お互いに尊重し合ってさえいれば、共存は十分に可能なのではないだろうか。
隆子は、墓地の入り口にある木桶に水を八分目ほど入れ、そこに持ってきた花を浸けた。柄杓を手に持ち、目的の墓石の前までいくと、その柄杓に水を入れ、墓石の上から優しく流してみた。
「カツン」
という乾いた音が響くと、思わず葬儀の後の火葬場で、骨だけになってしまったのを思い出し、
「そういえば、あの日は雨が降っていたわね」
と、あまり列席者もいない寂しい葬儀だったのを思い出した。
隆子は、木桶から半分花を取り出すと、さらにそれを半分に分けて、墓前に手向けた。そして、残りの束を、左の墓前にも飾ったのである。そして、同じように水を上から描けると、手を合わせてお参りした。
ここに眠っているのは、隆子が知っている一人だけではない。二人なのだ。それも並んで葬られている。それが報われない二人にとってのせめてもの救いになっているのかも知れない。
「どうして心中なんかしちゃったのよ」
隆子はどちらの墓に言うともなく呟いた。
「あなたがいなくなっても、私は恨んだりしたわけでもないし、あなたが幸せになってくれればそれでいいと思っていた。生きてさえくれていれば、私ももう少し違った人生を歩んでいるかも知れないわ」
隆子には、言いたいことがいっぱいあるようだ。
「でもね、あなたかちが知り合うことになるとは思わなかったけど、それも私が悪かったのかも知れないわ。あなたたちが死んでしまったので、それを確かめるすべがなくなってしまったおかげで、私はこの思いを抱え込んだまま生きていかないといけなくなっちゃった。どうしてくれるのよ」
隆子は、文句を言いながら、少し情けない表情をしているが、決して涙を流すような表情ではない。むしろ笑顔を隠そうとしているように思え、そんな隆子の顔を知っている人は、おそらくいないだろう。
墓前に手向けた花の横に墓石の主の名前が書いている。
右側の墓石にはゆかり先輩の名前が刻まれていて、左側の墓石に書かれている名前は、信二の名前だったのだ……。
( 続く )
隆子の三姉妹(前編) 森本 晃次 @kakku
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