第2話 第2章

 あれは今から六年前のことだった。

 隆子がまだ短大の一年生の頃、友達の誘いで合コンに参加したのだが、元々合コンに参加することなどそれまでにはなく。合コンというものを、

――自分とは違う世界に住んでいる人たちが行くものだ――

 という考えがあった。

「ごめん、隆子。どうしても人数が足りないのよ」

 と、言われて仕方がなく参加した。

「隆子は、飲んだり食べたりしていればいいからね」

 と言われて、お酒は苦手ではない隆子は、

「それじゃあ」

 と言って参加した。無下に断って、友達関係にヒビが入るのも面倒な気がしたからだ。

 当時の隆子は、今のようにしっかりしているわけではなく、ただ物静かな女の子だというイメージしかなかった。合コンに参加するまでは分からなかったが、隆子のような女性が一人はいないと、盛り上がらないようだ。そういう意味では格好の合コンのつまみだったのだ。

 予定は二時間ということだったが、

「きっと長く感じるだろうな」

 という予想通り、最初の一時間は、まるで時間が止まったような気がするくらいだった。まわりに気を遣わないでいい分、気は楽だったが、それでも手持ち無沙汰は拭い去ることはできず、食べたり飲んだりするのも、時間的には限界がある。

 家を出てきてまだ数か月しか経っておらず、帰っても一人の冷たい部屋が待っているだけなので、たまには変化を付けるのも悪くないと思った気持ちが甘かったのだと考えていた。

 その頃まで自分の部屋に誰も来たことはなかった。友達を呼ぶ気にもなれないし、一人でちょうどいい広さのところに友達が来たらどれだけ狭く感じるだろうということも考えたことがあったが、

――意外と狭く感じることもないかも知れないわ――

 その頃の隆子は、自分の考えはすべて曖昧で、考えたことを必ず一度は疑ってみるようにしていた。部屋を狭く感じるかも知れないと思うと、

――いや、別に変わらないんじゃないかしら?

 と考え直す。

 しかも、考え直した方が、信憑性があるような気がして、次第に第一印象を自分で信用できなくなっていた。

 そんな隆子なので、恋愛にしても、一目惚れなどありえないと思っていた。合コンに行って、ひょっとするとお気に入りの男性がいるかも知れないが、それはきっと錯覚なのだと思うに違いない。そういう意味では合コンに対する考え方が他の人たちとは一線を画していたことだろう。

 もっとも、集まった人たちの中に、第一印象でドキッとするような人は最初からいなかった。

――私がドキッとするような男性は、合コンになんか参加しないんだわ――

 と、後から思えば当たり前のようなことに行きつくまで、一時間ほど掛かった。

 掛かった一時間が、なかなか過ぎてくれない一時間だっただけに、思いつくまでに相当な時間が掛かったような気がしたのだが、一度何かに気が付くと、そこから先の時間は結構早かった。時間の感覚というのは、自分の感受性によって、かなりの部分を占めるのではないかと、その時に感じた。

 最初の一時間が経ったあたりが、隆子にとってのターニングポイントだった。

「思ったよりも呑みすぎたようだわ」

 と、ほろ酔い気分の中で催して来た尿意を当然のように受け止めた。

「ちょっと失礼します」

 と言って、席を立った隆子に対して、誰も振り向こうとはしない。皆それぞれターゲットを決めて会話を楽しんでいるのだ。一人飲んだり食べたりしている女性に誰が関心を持つというのか、それはそれでありがたい。

 元々、人数は合わせていたので、隆子が一人あぶれると、どこかが、男性二人と女性一人の会話になる。やはり三人と二人の輪では、三人の会話が一番盛り上がっているようで、

――三人なら、私も参加できるかも?

 と、思ったのは、上から見下ろしているからだった。

――上から見下ろすのも悪くはないわね――

 と、誰かに対して優位に立つということが快感になるのではないかと、その時初めて感じたような気がした。

 トイレから戻ってくると、さっきの三人の会話は終わっていた。自分の席についた隆子にさっきの三人のうちの一人の男性が、すかさず隆子におしぼりを渡してくれた。さりげない優しさが、その時の隆子には心地よかった。

――やっぱり酔っているんだわ――

 心地よさは、爽やかな風となって頬を揺らした。

 爽やかというのは、自分の肌と限りなく近い温度のもので、風となって当たっているにも関わらず、痛さはまったく感じない。くすぐったさを感じるが、肌の刺激を誘発するものではない。

 そんなさりげなさを肌が感じると、爽やかだという感覚に陥るのだと、隆子は感じたのだった。

 彼の笑顔には、なぜか爽やかさを感じなかった。かといって計算高い雰囲気もない。さりげなさは確かに心地良いのだが、爽やかさではない。今までの隆子は心地よさが爽やかさに繋がっているものだと思っていた。その考えが違っていることを、その時に思い知らされた。

――爽やかさほどの暖かさを感じないんだわ――

 人から感じる爽やかさは、その人が相手に合わせようとする作為的なものを感じるが、ただの心地よさであれば、そこに作為は感じられない。自然な姿勢や考えは隆子にとって願ったり叶ったりであり、それが彼への第一印象となったのだ。

 もちろん、一目惚れなどしたわけではない。自然なさりげなさが隆子の心を擽っただけだ。

 彼の顔に笑顔がないのは、愛想笑いを浮かべているわけではないだけに却って、彼のことを知りたいと思うようになった。

 ただの好奇心であるが、好奇心から何事も生まれるのだということを、その頃の隆子には分かっていた。

 高校時代には、何をしたいのか分からなかったことで、大学進学する気にはならなかった。そのまま就職してもよかったのだが、勉強が嫌いではない隆子は、後二年間くらい勉強しようと思ったのも無理もないことで、短大に進学したのは、後から思っても悪いことではなかった。

 合コンで、勉強の話をするというのは、無粋であることくらいは隆子にも分かっていたが、

「どのような勉強をされているんですか?」

 と聞いてきた彼に対しては自然と答えることができた。もう少しで熱く語ってしまいそうになるのを抑える瞬間を感じるほどだったことは、ひょっとすると、自分の中で本当は人と話したいという思いが燻っていたのかも知れない。その瞬間、先ほど感じた優位性のようなものが頭を掠めたことを隆子は気付いていた。

「保育の勉強をしています。でもまだまだ実践ができるほどではないので、これからなんですよ」

 隆子は、いずれは保育園に就職するつもりでいたようだが、ちょうど短大を卒業した時、募集の保育園が少なく、希望の保育園に就職することができなかった。しかし、保険会社の事務の募集があったので、就職できないことはなかった。高校時代に簿記の勉強はしていたので、事務員でも十分に力を発揮することができたのだ。

 それでもその時はまだ保育の仕事を目指して勉強していた時期だったので、暗い雰囲気ではあったが、彼が隆子を気に入った気持ちも分からなくはなかった。

 隆子は一目惚れをするタイプではなかったが、相手から気に入られると、すぐにその気になることがあった。

 当時の隆子は、毎日の生活に関して不安よりも希望の方が若干強かったおかげで、自分では意識していない中で、自分に自信を持っている部分があった。恋愛に関してはまったくのウブだったが、自分に自信を持っている分、合コンで暗い雰囲気を醸し出していたとしても、見る人が見れば、結構好感度がアップしていたに違いない。

 彼は、名前を信二と言った。苗字が何だったかは覚えていないが、隆子にとっても彼が好印象だったことに違いはない。心地よさも手伝ってか、お互いに最初から名前の方で呼び合っていた。隆子が彼の苗字を覚えていないのは、そのせいかも知れない。

「僕は、今日の合コン、ほとんど人数合わせなんですよ」

「あら、そうなの? 私もなんですよ。おかげで、時間がなかなか経ってくれないと思って、飲んだり食べたりしていましたわ」

 と正直に答えると、

「そうなんですね。僕はあまり呑めないので、食べる方ばかりだったんですが、それでも限界があって、時間を持て余していました。お話ができて光栄ですよ」

 まさしく好青年だった。

 その日の合コンの相手は、社会人だった。

 もし、大学生が相手だったら、最初に好印象の人が見つからなければ、最後まで一人でいたに違いない。途中で話しかけられたとしても、無視を決め込んでいたような気がするからだ。

 彼が大学生だったら、最初に意識をしていたわけではないので、最後まで意識をすることはなかっただろう、もし、相手が話しかけてきたとしても、やはり無視していたに違いない。自分が短大生なので、相手が社会人である場合に相手に気持ちを委ねることになる。しかし、相手が大学生なら、どうしても、

「頼りないところがある」

 という目で見てしまう。一度相手を頼りないと見てしまうと、相手を慕う気持ちにはなれない。特にほろ酔い気分になっている時に、感じるのは、

「委ねたい」

 という気持ちであり、相手に対しての優位性ではないからだ。

 隆子は、この当時、自分が男性に委ねたいという気持ちが強いことを分かっていた。誰かに対しての優位性を感じたいとは思っていなかった。優位性というのを意識したのは、洋子が自分の部屋に転がり込んできてしばらくしてからであり、しかも相手からの自分に対して感じた最初の優位性が、妹の洋子であったことは、隆子には最初信じられないことだった。

――洋子の彼が山で亡くなった――

 この事実が、隆子がそれまでに意識した男性から比べて、逆立ちしても敵わないと感じたからで、自分と相手との経験の差、それを埋めることができないと思うと、隆子は相手が自分に対して優位性を持ったということを感じてしまう。

 隆子が最初に優位性を感じてしまうと、相手もすぐに感じるようで、きっと自分の中で身構えてしまうところがあるのだろう。そのことを最初に教えてくれたのが、信二だったのかも知れないと、隆子は感じていた。

 隆子は、信二に委ねたいという気持ちが芽生えたことを知ったのは、合コンが終わってからだった。一応、アドレスだけは教えておいたので、二、三日中に、連絡があるだろうと隆子は思っていた。

 あって当然だと思うのは、合コン経験が少ないのも一つの理由だが、相手から声を掛けてきたのだから、自分の考え通りに事は進むという考えが隆子の中にあったのも事実だった。


 隆子が信二に出会った頃、洋子はまだ高校生だった。志望の大学は隆子が住んでいる街にあるので、一度隆子の部屋に泊まって、キャンパス訪問でもしようと考えていた。

「お姉ちゃん、悪いんだけど、二泊くらいさせてくれる?」

 と洋子は隆子にねだってみた。

 当時の洋子は隆子に対して自分に優位性があることを感じてはいなかったが、隆子の方は、洋子を意識してしまい、断ることができなかった。

「いいわよ、二泊だけよね?」

「ええ、二泊もさせてくれれば十分」

 これが隆子にとって、精一杯の相手の優位性に対しての粘りだった。

 隆子が洋子を見るのは、自分が都会に出てきてから初めてだったから、半年ほど経ってからのことだっただろうか。

 洋子は、姉妹の中で一番頭がいいと思っていたので、浪人することなど、最初から考えていなかったようだ。頭がいいというのは、自他ともに認めるもので、高校の担任も、

「この成績なら、合格の可能性は高いわね」

 と、言われていた。

 プレッシャーに弱いというわけでもなく、試験当日に体調を壊さないように、日ごろから体調には気を付けている。

 ただ、洋子は思い込みの激しいところがあった。信じ込みやすいというべきなのか、自己暗示にかかることが多かった。

 試験当日も、

「私は絶対に合格する」

 という気合いの元、試験に臨んだ。いつもと同じ気持ちで臨むことができた入学試験、どこに落ち度があったというのか、発表を見に行く時も、合格を疑う気持ちは、これっぽっちもなかったのだ。

 その時の自信が、洋子にとってピークだったかも知れない。

 それまで何事にも自信を持ってぶつかれば、失敗することを考える必要はなかった。その時までが自分の中で自信という二文字を意識することもなく、自然な形となって、目的が完遂されることになっていた。

 入学発表のボードを見上げた時のことは、今でも覚えている。

 最初から合格を信じて疑わなかったなど、今から思えば信じられない。不合格だということを最初から分かっていたかのように思えた。

「たった一つの事実が、確信していたことと正反対だった時、ここまでその日の状況をまったく違った感覚として記憶されてしまうなんて」

 と、思い知らされた。

 その日以来、自分が平凡な人物に変わっていくのを感じた。それまで自然だと思っていたことを確信だとして思い込んでいた自分が、おこがましく思えてきた。

 だが、それでも思った通りの人生を歩んでこれたのは、運が良かっただけではないように思えた。やはり実力があったのは事実だった。

 隆子は、自信にあふれかえった洋子を見ていると、怖いところがあった。だが、本当に洋子に優位性を感じさせられるようになったのは、洋子が二浪の果てに自分の部屋に転がり込んできた時だった。

 洋子がどんな男性と付き合っていたのか分からないが、それを知るすべは、もうなくなってしまった。すでにこの世にいない人への気持ちを、洋子はどのように自分の中で切り替えていったというのだろう?

「自分の知らない部分を妹は持っている。そして、それを知るすべは、もうどこにもないのだ」

 という気持ちが、次第に洋子から優位性を感じさせらえることになったのだ。

 洋子が隆子の部屋に二泊したその時、洋子のことはあらかた分かったような気がした隆子だったが、どこか、どうしても分からないところがあるのを何となく感じていた。それが今では感じることのできない、洋子との間に横たわる「交わることのない平行線」だった。

 それはまるで、

「絶対に近づくことも離れることもない年齢」

 と同じようなものだった。

 それは感覚的な年齢よりもはるかに距離があるものに感じられた。自分が歩んだ時間。そして、これから歩むであろう妹の時間、それが妹の方に距離があるように感じられたからだ。

 その思いがいつしか洋子が自分に対して優位性を持っているのではないかという思いに繋がっていったのだろうか? そう簡単に分かるものではない。その時に洋子に感じたことは、

――この娘は、一つのことに集中すると、まわりが見えなくなるタイプなんじゃないかしら?

 というものだった。

 入学試験も合格に向けて、集中していたはずである。ただ、一つ気になるのが、人には向き不向きがあるということだが、洋子は一発勝負には向いていないのではないかという考えが頭を擡げたことだ。

 高校時代の洋子と、浪人してからの洋子は明らかに変わった。それまでは世間知らずではあったが、人と協調しようという意識はあった気がする。しかし、浪人してからというのは、人を寄せ付けない雰囲気があった。それは姉の隆子に対してもそうだった。

 隆子は余計に身構えてしまった。

――ここまで変わるなんて――

 目つきも、高校時代までとは違っていた。誰にでも同じなのかと思っていたが、相手によって少しずつ違う。隆子を見る視線は、その中でもきつい部類に入るものだ。近寄りがたい雰囲気をまわりに振りまいて、いかにも孤独を絵に描いたように見える。

 他の人から見れば、きっと、

「他の人にもきつい表情をするけど、私には特別なんだわ。私が何かあの人に悪いことでもしたのかしら?」

 と感じさせるに十分な表情になっていたことだろう。

 一番人から嫌われるタイプなのだろうが、それは最初から分かっていることで、隆子はそれを、動物の持つ「防衛本能」のように感じていた。

 身体を硬くしたり、保護色で相手から見えなくすることで、外敵から身を守ろうとする動物は、自分で意識することなく本能で動いているに違いない。洋子も自分の中に、外敵から身を守るための術が身についているのかも知れない。

 洋子が自信家だというのは、幼い頃から見てきた隆子が一番知っていた。自信にとなった結果が子供の頃にはついてきたので、さらに自信過剰になっても不思議はない。

 その頃は、別に防衛本能を感じることはなかった。

 ただ、洋子には姉にも母にも話していない過去があった。

 あれは、洋子が小学五年生の頃のことだっただろうか。

 女性は男性に比べて、思春期前後の成長は著しい。すでにその頃になると、洋子の身長はクラスでも一番高い部類で、胸の発育も目に見えていた。

 しかし、体型はくびれが目立つような大人の体型にはなっていなかった。いわゆる「幼児体型」なのだが、そんな少女を好きな男は、世の中には結構いるようだ。

 すでに生理が始まっていて、洋子の身体と精神が一緒に変化を遂げた一番最初というのは、生理が始まったその頃だったのかも知れない。

 そんな洋子は、その頃から友達とは一線を画していた。まわりが自分を見る目が変わったことを感じたからだ。

――私が好きで変わったわけじゃないのに――

 と、理不尽な気持ちになっていたが、それはまだ成長を遂げることのできない他の人から見た「妬み」以外の何ものでもないように思えてならなかった。

 男の子の視線よりも、女の子の視線の方に鋭さを感じた。男の子は、どちらかというと、チラリと見るだけで、意識はしていても、そこに感情を込めることはなかった。しかし、女の子の場合は、明らかに感情が含まれている。それが妬みであることは分かっていたが、視線を感じるだけで、苛めを受けているわけではないので、必要以上に意識しないようにしていた。意識するだけ、損なのは自分だからである。

 同じ年齢の友達が、皆自分よりも劣っているという思いに駆られたのは、妬みの視線があったからだ。妬まれるということは、それだけ自分が人よりも優れている証拠だという論理を簡単に解釈する。自分に都合のいい解釈をしても、それが自然な解釈なので、疑う余地もない。それが洋子を増長させた。

 増長は孤独を正当化させる。

――私は、あなたたちとは違うのよ――

 まるで女王様気分だった。

 そんな時、年上のおじさんが現れて、自分を女王様扱いしてくれれば、まだ小学生の女の子、増長が相手への優位性となって現れたとしても無理もない。相手がどんな気持ちで近づいてきたかなど、考えるまでもなく、自分を女王様のように扱ってくれるこの男性の存在は、それからの自分を変えてくれる存在になると確信した。

 洋子は、安易に自分に対して確信するところがあった。まわりを疑うことはあっても、自分を疑うことはなかった。自分に自信があるのは悪いことではない。ある程度実力も伴っているからだ。しかし、人を疑うことを前提として、自分を疑うことをしないのだから、本当の自信に裏付けられたものであるかは、疑わしいものだった。

 そのために、おじさんから誘われた時も、一瞬戸惑いはあったが、おじさんが自分を見る目に輝きを感じたことで、迷いは消えた。本当は淫蕩な目の輝きだったはずなのだが、まだ少女だった洋子にそんなことは分からない。

――このおじさんは私に興味があって、私を引き立ててくれる――

 と感じたのだ。

 二人きりになると、おじさんは言葉巧みだった。洋子のことを褒めちぎる。ただ、それも普通の会話に基づいた褒め言葉であって、身体ばかりを褒めるわけではない。

 キチンと話を聞いてくれる大人の人に出会ったのは初めてだった。

 大人の人というと、親や近所の人、親戚や学校の先生。どの人たちも酔うことは微妙な距離である。

 大人の人とは、相手から話しかけてくれることがないと会話をしない。それは洋子に限ったことではなく、洋子の友達も同じだろう。

「大人の話に子供が口を出すものじゃない」

 それは、もっと小さな頃、まだ小学校三年生くらいの頃だったのだが、親戚のおばあさんが亡くなったということで、通夜に連れて行かれたことがあった。隆子はちょうど体調を崩し寝込んでいたので、祖母に隆子の看病を任せて、母親は洋子を通夜に連れていった。

 姉でもいれば、少しは違ったのだろうが、その時の洋子は、人見知りすることもなく、通夜の席ではあったが、人がたくさん集まっているのが嬉しかった。少しでも話をしたいと思って、近くにいたおじさんやおばさんに話しかけたが、それは相手の会話を妨げる結果になってしまった。子供心にそんなことは分からなかったが、母から、

「ちょっと、こっちに」

 と言われて、廊下に出て、そこで母に言われたことが、

「大人の話に子供が口を出すものじゃない」

 ということだった。

「分かったわ」

 と、一言答えたが、その時に洋子がどんな表情になったのか、母親は洋子を睨み返した。

 その時洋子は、ゾッとしたのを覚えている。

――大人の会話に口を出しちゃいけないんだ――

 洋子はそう思い、自分が改めて子供であり、大人との絶対的な距離を自覚した。

 大人の人から声を掛けられなければ、こちらから意識しないようにするようになったのはその頃からだった。

 だが、逆に言えば、声を掛けられれば、ついていくという危険性もはらんでいた。小学五年生の時の洋子はまさにその感情を一番感じていた時だった。

 どんな風に声を掛けられたのかはハッキリとは覚えていないが、疑う余地はまったくなかった。

 身体を触られた時、一瞬身を引いたのを見て、おじさんはニヤリと笑ったが、どうして笑ったのか分からない。洋子とすれば相手が触ろうとしたのを拒否したと思っている。本当なら、相手は怒り出すのではないだろうか。そう思うと、おじさんは少々のことでは怒ったりしない人だという意識を持った。

――大人の話に入ることを嫌った母親とはまったく違う。このおじさんは、私のことを分かってくれる唯一の大人の人なんだ――

 と、思うと、触られることも嫌ではないような気がしてきた。

 一度、身体がビクッと反応し、拒否の姿勢を見せたが、おじさんは拒否したとは思っていないようだ。しつように腕や首筋に触れてくる。

「どうしたのかしら?」

 洋子は、鳥肌が立つのを感じながら、思わず声を出した。

「どうしたんだい?」

 ニヤニヤ笑うおじさんは、本当は分かっているくせに、わざと聞いてきたのではないかと思わせた。

 今までの洋子なら、そこまで考えることはなかった。

――大人の人を遠い存在だなんて思わなくてもいいんだ――

 それは自分が、相手の気持ちを分かりかけていると感じたからだ。あれだけ遠い存在だったと思っていた大人の人の気持ちが分かるなんて、自分もまんざらではないと思うのも無理のないことだろう。

 洋子が自分に自信を持つようになったのは、その時が最初だったのかも知れない。

 この時持った自信は、その後、自分の心境にどんな変化があろうとも、しぼんでいくものではなかった。一度身についた自信が、何かあったくらいで揺らいでいたのであれば、それは本当の自信とは言えないという気持ちになった。間違ってはいない考え方だが、人によって持つ自信は違っている。その時の洋子には、自信の裏付けに、確信というものがあることを知っていた。ただそれが紙一重のところに存在していて、表裏一体であるというところまでその時に分かっていたかと言われれば、微妙だったのかも知れない。

 おじさんの指は巧みだった。

「このおじさん、上手だわ。気持ちいい」

 触られている時は、おじさんが慣れているという意識はなかった。

「私に対してだけなんだわ」

 後から思えば、そんなことあるはずないのに、そう思ったのは、自分の思い込みが大きかったからに違いない。

 そこに独占欲が存在していた。

 実は、同じ独占欲をおじさんも抱いていることに洋子は気付かなかった。

 おじさんの手が、時々止まった。ちょうどいいところで止まったのはどうしてなのか分からなかったが、その時に、おじさんが困ったような表情になったのを洋子は見逃さなかった。

 その時のおじさんに罪悪感があって、それが指を鈍らせたわけではない。おじさんの中にある独占欲と、洋子が感じた独占欲がぶつかったのだ。

「この娘は、今までの女の子とは違う」

 と感じた。

 その瞬間、洋子は急に恐怖に襲われた。

 それは、おじさんが他の女の子のことを思い出し、洋子と比較したからだ。

「おじさん?」

 洋子は無言の空間を切り裂くように、声を掛けた。

「えっ?」

 声を掛けられることをまったく予想していなかったのか、その時の驚きの表情は、それまでのおじさんの顔とはまったく違っていた。

 またしても、洋子は恐怖を感じた。今度は、おじさんと二人きりになっていることへの恐怖だ。

 それは逃げられないところに自ら足を突っ込んでしまったことへの恐怖で、さらに身体を触られて感じてしまったことへの自己嫌悪であった。

 自己嫌悪など、それまでの洋子は感じたことはなかった。不安に思ったり、自信を持てないこともあったが、それで自分を嫌いになったり、自分に対して疑問に感じたりすることがなかったからである。

 さっきまで自分が何を感じていたのか、思い出そうとした。その時に思ったのが、独占欲だった。

 自分が独占欲を持った瞬間、おじさんの顔が変わった。そして、初めて恐怖を感じたのだという流れをその時洋子は分かっていた。

 思ったよりも冷静だった。

 おじさんはそれ以上何もしてこなかった。胸を触られたわけでもなかったが、洋子にとっては、忘れることのできないことだろうと思ったが、

「思い出さないようにすればいいんだ」

 その時の洋子は、忘れることと、思い出さないようにすることが違っていることを分かっていた。時々その思いを忘れることもあったが、成長するにしたがって変わらない思いの一つになってきたことを自覚するようになっていった。

 おじさんとは、それ以来会うことはなかった。

――きっとおじさんが避けているんだわ――

 と思うようになったが、おじさんが他の街に引っ越して行ったことを聞いたのは、かなり後になってからのことだった。

 洋子の中では、トラウマではないと思っている。たまに思い出すことはあるが、それを「少女趣味の男性から悪戯された」

 という意識ではなくなっていた。

 初めて大人の男性を感じた瞬間であり、独占欲が恐怖を呼んだのだという意識くらいしか残っていない。断片的にしか覚えていないようにしようという意識を持ったことで、うまく記憶を封印できたのだと思っている。

 洋子の中にある防衛本能は、その時に培われたものだ。

 思ったよりも冷静だった洋子は、トラウマを感じるかわりに、防衛本能を身につけた。

 ひょっとすると、洋子の防衛本能は他の人から見れば、短所にしか映らないかも知れないが、それを洋子は長所だと思っている。長所だと思うことで、おじさんに感じた恐怖心を封印できると思ったからなのかも知れない。

 洋子は蹂躙されたわけではなかった。それに相手もその時だけで、それ以上、洋子を求めようとはしなかった。相手からすれば、洋子が想像していたような少女ではなかったのかも知れない。

 洋子はそのことをまず感じた。

――私って、人の想像を絶するような性格なのかしら?

 そう思うと、今まで接してきた相手と、同じように接することができなくなった。

 同じように接しているつもりでも、相手によって感じ方が違っている。

「洋子ちゃん、最近冷たくなったわ」

 あるいは、

「何か慎重さが加わったみたいだ」

 と、人によって違っている。

 特に男の子に対してと、女の子に対しての態度が変わったのは自分でもよく分かっている。女の子に対しては冷たく感じられるかも知れないが、男の子からは、よそよそしいと感じられるようになった。どちらにしても、あまりいいイメージではない。

 では姉妹に対してはどうだったであろうか?

 姉の隆子に対して、態度を変えた気がしなかった。姉に対して見方が変わったという感じがしなかったからだ。

 姉は思春期真っ只中で、日に日に大人になって行くのを感じていた。最初は意識していたが、話をするたびに大人になっているのを追いかけるのも疲れてくる。そんな相手を必死になって追いかけても、余計に疲れるだけだ。割り切ってしまえば、それ以上追いかけることもない。

 妹に対しては。今度は追いかけられる方だ。

 妹のしつこさは、その頃から感じていた。

 由美は、姉の隆子に比べれば、自分の方によく似ている。雰囲気もそうだが、考え方も似ているのではないかと思う。もっともそんなことを口にすれば、妹は怒り出すことだろう。もし自分が妹の立場でも、その時の洋子に似ていると言われると、その人に対して、苦虫を噛み潰したような何とも言えない嫌な顔をするに違いない。

 洋子が姉に対して、優位性を感じるようになったのは、まだ少し後のことだったが、その前兆を感じたことがあったとすれば、それはこの時だったように思う。

 姉に対して、どこかじれったさを感じていた。

 一度、女王様気分を味わい、しかも、大人の男性から悪戯されたという感情を持っている洋子は、その時初めて、姉の隆子も、自分を女王様のように思っているところがあると感じた。

 洋子が感じた女王様のイメージとは少し違い、隆子の感情はまだまだ妄想の域を出ていなかったが、それでも、洋子から見れば、

「甘い妄想」

 にしか見えないのだ。

 妄想は被害妄想に繋がっていた。

 女王様と言っても、それはまわりからちやほやされる女王様ではなく、どちらかというと、まわりから妬まれるだけの貧乏くじを引いた女王様である。まわりからの妬みが被害妄想を呼び、本当に女王様となってまわりを蹂躙している気持ちにでもならないと、感情が二つに分裂したままの中途半端な感受性を持って成長することになる。

 隆子が時々不安に駆られるようなことがあった時、必要以上に洋子を意識して、洋子の視線に自分への優位性を感じるようになったのは、一度本当に女王様気分を味わった視線を感じたからであろう。

 隆子と洋子、二人の間には、微妙な平衡感覚が存在していた。

 お互いに意識しながら、平衡感覚を崩さないようにしていた、どちらかが崩すようなことになると、姉妹としての二人の関係はそれまでとは違ってくるだろう。

 どこから崩れるかによっても違ってくる。

 その違いは崩れる場所によって、微妙に違ってくるのだろうが、最初に思春期に突入しているのは隆子の方であって、まずは近づくよりも先に、性格的には一度遠ざかっている。そして、今度は同じ道を妹の洋子が駆け抜ける。隆子にとっては気が付けば、後ろに洋子の気配を感じ、ビックリさせられた表情が目に浮かんでくるようだった。

 ただ、洋子は性格的には思春期の成長の影響をモロに受けた。しかし、肉体的にはさほど成長したわけではなかった。

 元々胸だけは発達していたが、体型はいつまで経っても幼児体型、一部のロリコンおじさんや、マニアには受けるだろうが、少し年上の人には、ダサい雰囲気さえ感じるほどだった。

 おじさんに悪戯された時から、身体の成長が止まってしまったような気がした。

 だがそれは誤解であって、微妙に成長していたのである。

 洋子は男性に対して晩生な性格に見られていたのも、身体の発育のスピードが遅かったからだった。

 だが、本当の理由を一番分かっていたのは隆子だった。

 隆子は、洋子の表情から、男性を見る目が覚めているのに気が付いていた。それは同い年の男の子を物足りなく感じている目でありながら、上から目線ではない。

 また上を見ているわけでもなく、男の子を異性として見ていないだけだった。

 隆子自身も、男性に対しての恋愛感情を持つことはなかった。そのことから、男性よりも女性を意識するようになっていることに気が付いたのは、高校時代、先輩から家に遊びに来るように言われた時だった。

 その時は特別な気持ちがあったわけでもなく、ただ誘われて、断る理由が見つからないというだけの理由だった。

 先輩の部屋を見て、自分との部屋の違いに驚かされた。

 それはまるで童話の世界に入りこんだようなメルヘンチックな部屋だったからである。

「これは」

 思わず目を見張った隆子を見て先輩は、

「さすがにちょっと刺激的かも知れないわね。でも、これが私の個性なのよ。あなたのような人には想像できないかも知れないけど、結構これでも気に入っているのよ」

 と言って怪しく笑った。

 確かに隆子の部屋はこの部屋から比べれば殺風景である。

 この部屋の壁は薄いピンクが基調になっていて、さらに、真っ赤なハートのステッカーが様々な大きさで、まるで桜の花びらのように、不規則に張り巡らされている。

――でも、この感覚が先輩にはスッキリくるのかも知れないわ――

 と思って、ハートのステッカーを一つ一つ目で追っていた。

 その仕草を見て先輩にも隆子の気持ちが分かったようで、

「この間隔や、ハートマークの大きさにも一つ一つ意味があるように思えてきたでしょう?」

 と聞かれると、

「え、ええ」

 と、目を見張って、まるで芸術作品を見るような目で、壁を見ていた。

「ふふふ、そんなことあるわけないでしょう。適当よ適当」

 と、言って大声で笑った。まるで茶化されたようで、気持ちのいいものではなかったが、これが先輩のコミュニケーションの取り方なのだだとすれば、何となく楽しい気がしてきた。

「あなたって可愛いわ」

 と言って、先輩が隆子の髪を優しく撫でた。

 一瞬、身構えてしまった隆子は、すぐに我に返ると、先輩に失礼なことをしたのではないかと思い、困った顔になった。

「困った表情もまたいいわ」

 と言われた瞬間、ゾッとした。

――すべて見抜かれている――

 早くこの場から立ち去りたい気分になっていた。

 だが、それと同時に、今感じているこの思いが初めてではないことに気が付いた。

――いつ、どこで感じたのかしら?

 と、思い出そうという意識が生まれた時、心ここにあらずの気持ちになっていた。

 それを見逃すことなく、先輩は隆子の身体を触り続けた。

 隆子はされるがままになったまま、頭だけは違うことを考えていたのである。

――いつなのか、どこなのか、一緒に考えないときっと思い出せないんだわ――

 本当なら、一つ一つ分けて考える方がいいのかも知れないが、過去のことを思い出す時は、必ず何かのキーワードが必要になってくる。そのキーワードを探すには、一方向だけからしか見ているだけでは、決して探すことはできないように思う。

 一緒に考えるということは、点を線で考えることであり、線を面で見て、さらに立体、そして時間軸をも網羅した発想になるということだ、次元を凌駕するくらいの気持ちにならないと、思い出せないこともあるかも知れないとまで思うほど意識を封印してしまうこともある。そこまで考えてみたが、結局思い出せなかったのだ。

 その間がどれくらいの時間だったのか分からない。我に返って今の状況に戻ろうとした時、自分が夢見心地になっていることに気付いた。

――いい臭いがする――

 この部屋に入った時にも感じたが、すぐに慣れてしまったからなのか、すぐに感覚が分からなくなっていた。その匂いを再度思い出すことで、自分の身体の中から醸し出された蜜のような香りが混じり合って、今度は異様な臭気を発していることに気付いた。

 この臭気は鼻をついた。悪臭ではないのだが、香水のきつい香りが湿気を彷彿させ、自分が潮風が苦手だったことを思い出させる。

 潮風が苦手なのは、湿気に混じった塩辛さと伴った、微妙に腐った香りを感じるからだ。海が好きな人には考えられないような発想なのだろうが、嫌いな人間には、悪臭以外の何物でもない。

 この部屋の湿気を帯びた香りには、ウンザリとしたものを感じたが、悪臭とまでは感じない。

――女同士で、しかもこんなメルヘンチックな部屋に二人きりなんて、まるで絵に描いたようだわ――

 シチュエーションがその人の心境に影響を与えるのだとすれば、演出がどれほど大切なものなのか分かる気がした。演出が意識的なものなのか、無意識なのかで違いもあるだろう。

 隆子は、先輩の気持ちを分かりかねていた。

――この人はレズなのかしら?

 ここまで「オンナ」を醸し出している人を、隆子は知らなかった。もし、先輩がレズだとすれば、今までに先輩の「毒牙の犠牲」になった人も少なくはないだろう。

――私は何人目なのかしら?

 今の先輩は、本能が自分の気持ちを凌駕しているように思えてならない。それが本能と言えるものなのか分からないが、少なくとも本人の意志なのか、それとも意志をも凌駕する本能なのかによって、隆子は態度を変えるべきなのかを考えていた。

 しかし、そんな考えはしょせん、「絵に描いた餅」にしか過ぎなかった。先輩の巧みなボディタッチは、微妙であり、思わず声を上げてしまったことで、隆子は自分が蜘蛛の巣にかかってしまったことを、今さらのように感じていた。

 身体が宙に浮くという感覚は、今までになかったわけではなかったが、それは夢見心地の中での自分だけの世界のことだった。誰かによってその快感を与えられるというのは、自分に新境地を与えてくれるに十分だった。

「こんなに気持ちいいなんて」

「そうよ、あなたが今まで知らなかっただけなの。私が教えてあげるわ」

 その声は悪魔の微笑みを孕んでいた。またしても、鼻をつく臭いを感じたかと思うと、今度は甘い香りではなく、酸味を帯びた匂いで、まさしく汗まみれの身体の匂いが、隆子の身体全体に覆いかぶさってきた。

「教えてあげる」

 という言葉に、隆子は抵抗感を感じた。それは高圧的であり、主導権を完全に握られてしまったことを意味していた。そして、

「私は逃げられないんだわ」

 と感じたことで、急に恐怖感が襲ってきた。

 しかし、もうどうすることもできない。恐怖心は、次第に快感に包み込まれてくる。

 実は、一番の恐ろしさは、恐怖心が快感に包み込まれ、感じなければいけないことを感じることができず、感覚がマヒしてしまうことだった。

「あなた、可愛いわ」

 と言われて、背中にゾッとするほどの汗を掻いた。

 だが、逃れることはできない。

――なぜなのかしら?

 身体が求めていることを、その期に及んでも分かっていなかった。いや、身体が求めているということを認めたくなかったのかも知れない。

 分かっていて認めたくないという感覚は、その時が初めてではなかった。以前にも感じたことがあると思っていたが、それを感じさせてくれたのが、洋子だったということを、隆子は忘れてしまっていた。

 思い出したくもないことだった。別に何かがあったわけではない。その時の洋子の雰囲気がいつもと違っていただけのことだった。

 それが、ちょうど洋子が小学五年生の頃で、隆子は知らなかったが、おじさんに悪戯された時のことだった。

 その時の洋子と似たような心境になっていることに隆子が感じると、あの時、洋子も何か身体が反応するような心境の変化を感じさせる体験をしたのだと感じたが、詳しく分かるはずもなく、急に洋子に親近感を感じたのも事実だった。

 親近感は感じたが、決して交わることのない平行線が存在していることも同時に感じていた。平行線に関しては、洋子に対してだけのことではない。由美に対してもそうだし、他の人に対しての大なり小なり、感じていた。

 じっと先輩の部屋の中にいると、大小さまざまなハートマークが実は同じ大きさであり、大きさが違うように見えていたのは、距離感の違いによるものではないかと思うようになっていた。

 遠近感の違いを感じていると、上下左右の感覚も鈍ってきて、身体を包む香水が、宙に浮く感覚を誘発していることを感じさせた。

――このまますべてを許してしまうのかしら?

 もう、どうでもいいというような感覚に陥った時、相手の指が鈍った。自分では開き直ったつもりになったことが相手の手を鈍らせたのかも知れない。

 目を見開いて、先輩は隆子を見つめる。見据えられて手がすくでしまったが、その眼を今度は見返すと、相手は目線を逸らそうとしない。

――この人、私を見ているんじゃないわ――

 隆子は、先輩の視線が、自分を見つめているように見せて、実は、視線は隆子のさらに奥を見つめているように思えてならなかった。

 どれくらいの時間が経ったのか、二人の間の時間は、止まっているかのように感じた。

 決して機を焦ることをしない先輩は、隆子の服を脱がせることも、自分から服を脱ぐこともしない。

「服を着たままの方が、より快感を得られるのよ」

 と、耳元で囁いた先輩は、決して肌を合わせようとしない。

「肌と肌との触れ合いは、あなたが本当に好きな男性ができた時でいいのよ」

 と、言っていた。

 隆子にしてみれば、

――ここまでされていて、そんな言葉を言われても――

 と、身体は物足りなさを感じているのを分かっていた。

 隆子にとっての甘い時間は、次第に薄れていき、正気に戻る時間が近づいていることは分かっていた。

 もし、その日だけで終わっていれば、消化不良に陥っていたかも知れない。

 それから二、三日してから、同じように先輩に部屋に来るように誘われた。

 もうその時は、声を掛けられた瞬間に、隆子の中で三日前の感覚がよみがえってきた。

 最後はどのようにして我に返ったのか、ハッキリと覚えていないが、我に返った自分の顔を鏡で見てみたいと思ったのを思い出した。

 洗面所を借りて、顔を洗ったが、顔を洗う前の自分の顔が真っ赤だったのにはビックリした。

 目は潤んでいて、

「私がこんな顔をするなんて」

 と、信じられない心境だった。

 鏡を見なくても、自分がその時にどんな表情をしているかということは、分かってきたつもりだった。元々いちいちそんなことを意識し続けるわけもなく、自分の顔というよりも、心境にしたがった表情をしているかどうかということだけが気になっていた。

 顔を洗うと、不思議なことに真っ赤だった顔から赤い色は払拭されていた。その時の心境をそのまま表現した表情が鏡に写し出されていたのだ。

――そうそう、これが今の私の顔なんだわ――

 と、感じた。

 隆子は、納得して洗面所をあとにすると、

「いつものあなたに戻ったわね。複雑な心境だわ」

 と、先輩がいうと、

「ええ、鏡を見て、顔を洗うと戻ったみたい」

 と、気軽に答えた。

 先輩とは学校でほとんど話をすることもなかったが、なぜ誘われたのか分からなかったが、誘われたことに違和感はなかった。

 実際に部屋に入ると、完全に先輩のいいなり状態だったが、

――私って、そんなに相手のいいなりになりやすいタイプなのかしら?

 と、まるで他人事のように自分のことを考えていた。

 二回目に先輩の部屋を訪れた時は、何もなかった。

 部屋の雰囲気にも慣れてきてはいたが、相変わらずの大小さまざまなハートマークには、遠近感を奪われてしまい、いきなり、気が遠くなりそうな気がした。それでも気が遠くならなかったのは、部屋に慣れてきていたからに他ならない。

――まるで自分の部屋に帰ってきた時の感覚のようだわ――

 と、二回目で慣れるような部屋ではないのに、どうしてこんなにも馴染んでいるのか、自分でも分からなかった。

 最初に来た時、甘い雰囲気に盲目になっていたが、若干ながら恐怖心を感じたのを思い出した。

――怖いものが新鮮に思えるなど、錯覚でもありえない――

 と思っていた隆子には信じられないことだった。

 小学生の頃、幽霊や妖怪の類は、話を聞くだけで気持ち悪く、そういう話をしたがる人を避けていた。だが、中学に入り、部活などで遅くなったときなど、真っ暗な中で家路を急がなければいけなくなった時、怖いと思いながらも、何とか帰った記憶がある。

 その時から数日は、記憶の中に鮮明に残っていたはずなのに、ある日を境に、そんな思いをしたことすら、記憶から消えてしまっていた。それをふとしたことで思い出すことがある。

 怖いことは数日間は記憶の中で鮮明に覚えているのに、急にある瞬間を境に、記憶から消えてしまうという意識だけが残っているのだ。

 それも、何かの瞬間に湧いてくるように思い出すのだ。

 思い出すというのもおかしいのかも知れない。以前に感じた思いだという意識はないのに、感じた時の意識が、

「思い出した」

 というのである。

 怖いことへの一連の意識は、一度感じたことを、忘れてしまうように、隆子の意識回路が働ているのかも知れない。

 それが隆子の中にある「防衛本能」なのだ。

 人は無意識に「防衛本能」を働かせるものなのかも知れない。

 それは隆子に限らず、洋子にもある。由美にも探せばきっと見つかるだろう。

 だが、人が持っている「防衛本能」を探ることは、他の人に対してはできないだろう。姉妹に対しては姉として理解してあげていないといけないと思っているが、他人であれば、土足で踏み入ってしまうことになるからだ。

 本当は姉妹であっても、どこまで踏み込んでいいのか、考えてからでないと踏み込めないと思っている。一歩間違えれば、相手に不信感を持たせてしまうことになりかねないからだ。

 隆子は、先輩と、一年くらい関係があっただろうか。

 その関係にピリオドが打たれたのは、先輩の方から一方的に別れを切り出して来たからだ。

「隆子ちゃん。私、好きな人ができちゃった」

 と、今までの先輩からは信じられないような言葉が聞かれた。さらにその時の態度は、今まで知っている先輩とは、まったく違っていた。甘えるような猫なで声は、いつも隆子に対してのもので、今にも身体を摺り寄せてくるような、いかにも猫をイメージさせた。

 しかし、その時の先輩は、同じネコでも、

「違う人が、もっとおいしいものをくれるっていうから、そっちに行くね。じゃあね。バイバイ」

 と言っているように見えた。

 先輩の発している猫なで声は、もはや隆子に対してのものではなく、好きになった相手へのものだった。

 先輩は、隆子と戯れている時、男役にも女役にもなれた。実際に主導権を握っているのは先輩で、隆子は先輩のいいなりになってはいたが、隆子にしかできないことの方が多く、実質的な主導権は隆子が握っていると思っていた。

 主役は隆子で、演出や監督は先輩が担当しているとでもいうべきであろうか、演出、監督が主役を変えるというのだから、それは仕方のないことなのかも知れないが、隆子も、

「はい、そうですか」

 と言って、簡単に引き下がれるものでもなかった。

「先輩、ゆかり先輩は私を捨てて、男に走るというんですか?」

 隆子はすがる気持ちで、先輩に詰め寄った。

 それまで、先輩のことを名前で呼ぶことはなかった。それはゆかり先輩が、

「名前で呼ぶのはやめて。あくまでもあなたと私は、先輩後輩の仲、そこからこういう関係になったことが私には快感なの」

 どこまでも、女王様を地で行きたいのだろうが、実際に絡んでいる時は、どちらにでもなれるという不思議な女性だった。

 それがゆかり先輩の妖艶なところで、最大の魅力だったはずだ。そんな先輩が男にうつつを抜かすなど、隆子には信じられないと同時に、許せないのだ。

 数日間は、悩んで苦しんで、それ以外のことは考えられなかった。

 しかし、ある時、ふっと我に返り、

「どうして、私は女になんか走ったのかしら?」

 と、それまで感じていた思いを打ち消した。

 それは、まるで中学生の頃に感じた、

「怖い」

 という思いへの感情にそっくりではないか。

 隆子は先輩への思いとは裏腹に、一度、自分の中で、感情を封じ込めようとしている作用が働いたのか、頭の中のリセットを試みたようだ。中学生の頃には理解できなかったが、先輩から別れを告げられた時に分かった。どうやら、これが隆子の中にある意識回路というもののようである。

 隆子も、一度リセットしてしまうと、先輩への思いはそこで切れてしまった。

 ゆかり先輩も、それでよかったと思ったのか、完全に相手の男にのめりこんでしまったようだ。

 隆子は、自分の意識回路のおかげだと思っていたが、単純にそれで終わりではなかったところが隆子の苦しいところでもあった。

 さらにそれから一か月が過ぎた頃、急に寂しさがこみ上げてきた。その思いは先輩に対してのものなのかは分からなかったが、無性に孤独感に苛まれた。それは二週間ほど続いたが、その後に思い出すと、辛さは孤独感だけではなかった。

 孤独感があまりにも強すぎたので、自分では孤独感だけだと思っていたが、実際にはそれだけではなかった。

 すべてが自分にとっての違和感に繋がり、何を考えようともそこには、疑念が発生してしまう。

 自分への自己否定。それが、この間に一気に襲ってきたのだ。いわゆる自己嫌悪の一種なのだろうが、気が付けば、まわりを誰も信用できなくなっていて、まわりを信用できないことまで、自分が悪いのだと思うようになっていた。

――私の悩みの原点は、自己否定にあるんだわ――

 と、思うようになっていた。

 今まで見えていた視界が、いつもよりも黄色がかって見えている。そんな時、隆子を自己嫌悪の世界に誘うのだ。

 隆子にとって、

――自分のことも分からないのに、他人のことなんか分かるはずもない――

 という考えは、意識の中の基本だと思っていた。しかし、まずは乗り越えなければいけないことが自己嫌悪だということを分かった上で、そこまで思っていたとは、到底思えない。

 隆子は、

「頭の中のリセット」

 を思い出していた。

 その時は、リセットすることですべてがうまくいったはずなのに、一か月足らずで、こんなにきつい状態に陥ってしまうというのが、納得いかなかった。

――私が悪いのかしら?

 隆子は、またしても、自分が悪いと最初に考えてしまう。しかも、そのことを意識していないのだ。

 自分が悪くないとすれば、悪いのはまわりの方だ。しかし、自分のことも分かっていないくせに、まわりを分かるはずもないという理屈から考えると、まずは自分を疑ってみるのも無理のないことだ。

 だが、それが本当は逃げに繋がっているということを、隆子は気付いていなかった。

 逃げに繋がるということがどういうことなのか、自分で分かっていないので、余計に泥沼に入り込んでしまうのだろう。

 だが、辛い思いは二週間もすれば、スッキリと忘れてしまった。

 後に訪れるのは、自信過剰という「副作用」だった。

 それまでの自己否定や自己嫌悪はどこへやら、隆子は自分に持っていた自信が復活してくる。

 その時、

――私は躁鬱症の気があったんだわ――

 と理解した。

 しかも、それが自分の中で最初から分かっていたように思えてくるから、不思議だった。

――なんてことない。自己嫌悪になんて陥る必要はなかったんだ――

 と、躁状態だからこそ感じることができるのだが、隆子は、これら一連の考えが、あくまでも自分一人だけで考えていることであり、言葉を変えれば、

「自分勝手な妄想」

 だと言われても仕方のないことだということを、どこまで分かっていたのだろうか。

 そのことをいつの間にか理解できて、考えなくても、自然とうまくまわっていけるようになれば、躁鬱症も克服できて、本当の意味で大人になれるのではないかと思うようになっていた。

 だが、躁鬱症だけは、そう簡単に治るものではない。治そうとするよりも、いかにうまく付き合って行くかを考えていく方が得策だと思うのだった。

 隆子は、少し落ち着いてくると、自分が楽な方へ行こうとしていることに気が付いた。それは躁鬱症の躁状態で、それも、鬱状態と同じくらいの長さだった。

 ただ、実際に、その時に感じていた長さは圧倒的に鬱状態の方が長かったはずなのに、後から思い出そうとすると、むしろ、躁状態の方が長かったような気がする。鬱状態の方が先に来ていたので、それで長かったのかも知れないが、

――嫌なことの方が、その時は長く感じられても、後から思い出すと、楽天的な時の方が長かったように感じるというのは、記憶装置が自分の願望の元に働いているからなのかも知れない――

 と感じていた。

 隆子は、一通りの躁鬱状態を、約一か月過ごすと、今度は、なぜか忘れてしまったはずの先輩のことを思い出してしまった。

――身体が覚えているからなのかしら?

 先輩への想いが再燃してしまった。

――もう一度、因りを戻したい――

 と感じるようになったが、その思いは日に日に強くなって行った。

 先輩が今どうしているのかを思うと居ても立ってもいられなくなり、ゆかり先輩のことで思い出すのは、

「違う人が、もっとおいしいものをくれるっていうから、そっちに行くね。じゃあね。バイバイ」

 というなぜか最後に感じた猫のような先輩だった。

 一番辛いシーンだけを思い出すというのは、どういうことなのだろう? それを思うと、先輩への自分の気持ちの本当のところがどういう状態になっているのか、少し疑問に思うところがあった。

 隆子は、先輩への気持ちを思い出していた。

 身体が先ではあったが、平行するかのように気持ちも高ぶっていった。その思いをいかに伝えるか、心と体のバランスを取るのが、最初は難しかった。それでも、先輩の導きがうまかったのか、次第に慣れてきたからなのか、うまく行くようになっていた。

 隆子は自分を導いてくれた先輩を尊敬するようになっていた。精神と身体のバランスを自分だけではなく、人にまでうまくコントロールできるように導けるというのは、先輩の仁徳なのだと思うようになったからである。

 先輩のことが気になっているのか、それとも、自分にオンナというものを教えてくれた先輩が、いきなり男に走ったことへの怒りなのか、それとも、男に走った理由を知りたいという思いからなのか。そのどれもであるのは間違いのないことだと思うのだが、そのうちのどれが一番大きな思いなのか、ハッキリと分からない。

 ハッキリ分からないからこそ、知りたいという思いが強いのだ。

 隆子は先輩に抱かれている時、たまに何を考えているのか分からないと思ったことがあった。

 その時、急に先輩の腕に力が入ったかと思うと、急に力を抜くのだ。

「痛い」

 という声を上げようとした瞬間には力が抜けているので、出かかった声が萎んでしまった、まるでその時の心境のようである。

 拍子抜けした感じもあるが、それ以上に、

――先輩は何を考えているのだろう?

 何かを考えているのは分かっているが、考えていることが自分のことなのか、それとも他の人のことなのか分からないところが、隆子には不安だった。

 自分は先輩に身も心の委ねているのに、委ねた相手が上の空では何を信用していいものか分からなくなる。その思いが不安となって積もってくると、自分以外の誰かのことを考えている以外に思いつくことはなかった。

 先輩にあっさりとさよならを言われて二か月が経ったある日、隆子は先輩の家の近くまで行ってみた。それまでは、先輩をなるべく避けるようにしていた。先輩は行動パターンを変える人ではなかったので、会わないようにしようとするのは簡単である、その日は、朝から胸の鼓動を抑えるのに必死だった。

 去って行った人を、二か月も経って追いかけるというのは、不思議な感覚である。

 相手が男性なら、ここまで意識はしないだろう。ただ未練がましいというだけで、背徳な気分になることはないからだ。相手が女性であるということで、人に見られたとしても、まさか恋愛感情からだなどと、誰も思わない。それなのに、隆子の中では、後ろめたさが大きく、恥かしさで顔が真っ赤になることだろう。

 先輩は、隆子と一緒にいる時でも、門限を破ったことはない。門限は確か午後八時ということだった、午後七時頃から待っていると、八時少し前に、聞き覚えのある声が聞こえてきたかと思うと、暗くなりかかった地面に、二本の長い影が揺れていた。

 相手の男性は、今までに見たことのない人で、大学生のような感じだった。先輩は制服を着ていたが、相手は私服だったからだ。

 男役も女役もこなす先輩だったが、そういえば最後の方は、女役の方が多かった。先輩がいつも立場を決めていたのだが、たまに隆子に決めさせようとするようになっていた。相手に決めさせようとしているにも関わらず、隆子が先輩に男役を選ぶと、あからさまに嫌な顔をするのだった、

――それなら、自分で決めればいいのに――

 と思ったが、口には出さなかった。

 自分では決められない何かがその時の先輩にはあるんだろうと、精神的な悩みのようなものを先輩が抱いているのではないかと思っていた。

 相手に選ばせることで、少しでも自分の責任を軽くしようという思いがあったのは確かで、

「隆子ちゃんが、選んでくれた方がいいの」

 と、言われると、逆らえない気分になる隆子は、甘えられると嫌とは言えない性格なのではないかと思った。

 しかし、それは先輩に対してだけで、逆に他の人から甘えられようものなら、嫌悪感を表に出していただろう。それが分かっているから、他の人は誰も隆子に甘えてくることはない。甘えられたくないにも関わらず、甘えられないと寂しい気分になるという、何とも都合のいいものだった。

 そんな都合のいい性格を最初に見抜いたのも先輩だった。他の人は怖がってか、分かっていても誰も何も言わない。しかし、先輩だけは、隆子に対して思ったことをズバズバ言ってのける。本当は自分のまわりにそんな人がいてほしいと思っていただけに、先輩が隆子に声を掛けてくれたことは、嬉しかった。

 もし、先輩に出会わなければ、どんな性格になっていただろう? 妹たちの性格など、分かることのなく、もっとわがままに過ごしていたかも知れない。男性への興味が深まって、失恋するたびに、ショックが大きくなり、失恋から自分が成長するための何かを感じ取ることができたかどうか、疑問である。

 しかし、隆子は明らかに遠回りしている。最初から男性を好きになるノーマルな性格であれば、躁鬱症にも、もっと早く気付いていたかも知れない。最初に好きになったであろう男性と知り合うことができなかったことが、どのような影響を自分に及ぼすというのだろうか?

 本当は隆子が気付くべきことを、最初に先輩が気付いてしまったのかも知れない。ただ、隆子は相手が先輩だったから女性に走ったのであって、相手が誰でもいいというわけではない。これを機会に男を見る目を養うようにしなければいけないのだろう。

 男の顔をその時隆子はハッキリと見た。だが、薄暗い中での街灯に照らされた顔は、明らかに普段見るであろう顔とは違っていた。

――もし、どこかですれ違ったとしても、分からないわ――

 それは、先輩に対しても同じだった。雰囲気だけを見ていると、

――どこが楽しそうなのだろう?

 と疑いたくなってくる。後ろの街灯が完全に逆光になっていて、表情が分かりずらい。しかし、その表情も目が慣れてくると分かってくる。表情が硬いのは、何も逆光だからというだけではない。実際にお互いに何かを考えていて、硬い表情になっているのだ。

――自分の世界に入りこんでいるみたいだわ――

 その雰囲気が、完全に隆子が知っている先輩ではなかった。

 相手によって、ここまで先輩は変わってしまうのかと思うと、あの時、さよならと言われて、何も諦める必要などなかったのではないかと感じた。

 しかし、その時の先輩の表情は、

――これなら別れて正解だったわ――

 と、思って無理のないものだった。

 その時、隣にいるのが隆子だったとしても、先輩は同じ顔をしていたかも知れない。もし、そうだとすれば、隆子はどんな表情をしていたのだろう? 先輩が想像もつかないような表情になったのを、相手の男のせいだとばかり考えがちだが、それは、どうしても先輩に対して贔屓目に見ているからなのかも知れない。

 その時に、先輩のあの顔を見てしまったことで、それまで自分が感じていた先輩のイメージが音を立てて崩れていった。

――これで私は先輩から解放された――

 と感じ、男に対しても、自分から近寄っていくことはないだろうと思うのだった。

 ただ、先輩と過ごした期間というのは、隆子にとって、決して無駄ではなかったと思っている。結果的に先輩の見たくない部分を見せつけられて、すべてが無駄だったように思われがちだが、その後の隆子にとって、その時に知ってしまったことが吉と出ることになるという予感を感じていた。

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