隆子の三姉妹(前編)

森本 晃次

第1話 第1章

 その日はやたらとセミの声が耳をついた。前の日まで数日後に台風が接近するのではないかということで、雨はまだ降っていなかったが、風の強さから、その接近を意識しないわけにはいかない状況になっていた。

 しかし、何がどうなったのか、台風はいつの間にか天気図から消えていて、忽然と消滅していたのだ。

「どうしたのかしらね、台風」

 と、一番目覚めの悪い、自称「低血圧」の三女由美が、寝室から出てくるなり、リビングにいた姉二人に声を掛けた。

「そうね、熱帯低気圧に変わったのかしらね」

 と、由美の方を見ることもなく、視線はテレビを見ながら、次女の洋子が相槌を打った。

「何言っているのよ。そんなことはいいから、何あなたのその格好、早く洗面所で顔を洗っていらっしゃい」

「はーい」

 そう言って声を掛けたのが、長女の隆子で、由美はおどけたように言ったが、長女には頭が上がらないことは、誰が見ても分かっていた。

 パジャマ姿でリビングに現れた由美は、シャツをしっかりズボンに収めているか、それとも出すなら全部出せばいいものを、中途半端に出していて、しかも、髪はいかにも寝起きの状態、そんな髪を掻きながら眠そうにあくびをするのだから、姉でなくても、顔をしかめたくなるような状況だ。こんな姿を彼氏が見たら、

「百年の恋も冷めるだろう」

 と、言いたいに違いない。

 相変わらず次女の洋子はテレビに視線を向けているが、実は集中して見ているわけではない。テレビがついているから、視線を向けているだけだ。三姉妹の中で一番まわりを気にしていないのが次女の洋子だということが、これを見れば分かるというものだ。

 長女の隆子は、そんな妹たちの元締めをしなければならないことを、

「やれやれ」

 と思いながらも、それなりにしっかりこなしている。やはり根がしっかりしているからなのか、それとも環境が他の性格を生みだすことを許さなかったのか、おかげで、本人は意識することなく、まわりに気を遣うことができるようになっていた。一種の怪我の功名だと言えば隆子に悪いだろう。やはり、そこまでになりには、人の知らない隆子なりの気苦労があったのは事実だからである。

 洗面所に行けば、いつもであれば、五分もすれば戻ってくる由美が、その日は十分経っても戻ってこない。それだけしっかり「おめかし」しているのだろうか、なかなか戻ってこないことに気が付いたのは、意外にも次女の洋子だった。

「由美はまだ洗面所?」

 やはりテレビから目を離すこともなく、洋子は誰にともなく訊ねたが、もちろんそこには姉の隆子しかいないわけなので、必然的に相手は隆子であることには違いない。

「そうなんじゃないの」

 このことに関しては、隆子は別に気にしていない。あまり短いと気になるが、長い方はそれだけ女性としての身だしなみなので、それを気にする必要は一切ない。逆になぜそのことに関して普段は由美のことなど意識していないようにしている洋子が気にするのか、そちらの方が不思議だった。

 ただ、洋子が由美のことを意識しているのは、今に始まったことではない。次女の洋子と三女の由美は、お互いに意識し合っていないように見せながら、実はお互いを気にしていたのだ。

「お姉ちゃんは気付いていないんだろうな」

 と、妹は思い、

「由美になんか、分かるはずはないわ」

 と、次女は思っていた。

 そんな二人の雰囲気を長女の隆子が分からないわけではないが、姉妹同士で意識し合うのはある程度当然のことだと思っているので、別に気にもしていない。逆に、いつも一人だけ孤立しようという意識を感じる洋子が妹を意識しているというのは、却っていいことではないかと思うくらいだ。三女も末っ子ということで姉を意識する気持ちがあっても、それは当然のことではないだろうか。末っ子というとわがままに育つものだという意識があるだけに、独りよがりな考えを持っているよりも、姉妹同士で意識し合うことはお互い相手が知らないと思っていても、いい意味での刺激だと思っている。隆子としては、心の中でほくそ笑みたい気分になっていた。

 三人は、都会のマンションで三人暮らしをしている。

 隆子は短大の頃から一人暮らしをしていたが、しばらくして、大学進学のため、予備校通いをしていた洋子が転がり込んでくる形になった。実際にはもうその時には入試は終わっていて、大学進学は決まっていた。転がり込んできたのには理由があり、隆子は知らなかったが、その理由は、失恋だった。

 転がり込んできてしばらくして、理由を正直に話し、

「私、あのまま彼との思い出のあるあの部屋で暮らしていけない。かといって、一人で済むのも嫌なの」

 と、最初から一緒に住むことを願いに来たわけではないが、実は姉の隆子は、ちょうどその時、付き合っていた男性と別れを余儀なくされていた。それは洋子のような失恋ではなく、実際にその苦痛に押し潰されてしまうかも知れないと思うほどのもので、正直一人でいるのが辛かった。

 隆子が付き合っていた男性は、「山男」だった。隆子とは同期入社で、彼は大学の頃に登山部に所属し、休みのたびに登山に興じていたが、ある時、彼は帰ってこなかった。帰っては来たが、物言わぬ冷たい身体になって帰ってきたのである。

 山登りがこれほど危険なものだという意識は、隆子にはなかった。もし意識していたとしても、

――彼にはそんなことはない――

 と、思っていたに違いない。ただ、なぜか身体の関係には発展しなかった。

 長女ということもあり、どうしても自分が気丈でいなければいけないという意識が強いこともあって、隆子は彼が死んだ時も、涙一つ流さなかった。

 ただ、それは葬儀の時だけのことで、実際には、訃報を聞いたその日から、二日ほど、一人部屋に籠って、体調を崩しながら、思い切り泣いて、涙が出なくなったというのが本当のところだった。

「あれが彼女なのか?」

「ああ、そのようだ。涙も流さないなんて」

 彼の葬儀に列席した隆子を見て、そんな風に影で話していたのが、彼の弟たちだった。彼が三兄弟の長男であるということも、三姉妹の長女としての隆子からすれば、話の合うところだった。それは彼も同じだったようで、愚痴とまではいかないまでも、他の人には話せないことも、二人の間ではまるで無礼講のようだった。

 葬儀は隆子にとっては、針の筵だった。面と向かって何かを言われないまでも、視線の痛さは感じていた。

――これが終われば、彼とは本当にお別れなんだわ――

 複雑な気持ちの元、その後に襲ってきたのが、何とも言えない寂しさだったのだ。

 どちらかというと、一人や孤独には慣れているつもりだった。妹たちのことを考えるあまり、他の人との交流が疎かになることも今までには結構あった。

 高校時代など、隆子に告白する男性もいたが、

「ごめんなさい。お付き合いはできないわ」

「どうして?」

「どうしても」

 と、言って理由も言わずに断っていた。

 理由は妹たちのことを考えてだということは分かっていたが、それを相手が納得するように説明するなどできるはずもなかった。

 もしそれを理由として口にするなら、

「何だい、そんなこと。僕たち二人には関係ないじゃないか」

 と、言われるに決まっている。

 もし、自分が男でも、同じことを言ったに違いない。しかし、隆子はその言葉を耳にすることを嫌った。

「そんなこと」

 この言葉は隆子には許せない言葉だった。確かに二人の間には関係のないことだが、関係がないからと言って。

「そんなこと」

 と言われるのは。筋違いだ。

 隆子としては、

「何も知らないくせに」

 と言いたくなるだろう。それは自分の気持ちが、

「あなたよりも妹たち」

 ということを、ハッキリと口にすることを意味している。

 それは口が裂けても言いたくないことだった。そのために、理由も言わずに別れるしかない。

「何だい、あの女は、理由も言わずにせっかく勇気を出して告白してくれる相手を振るなんて、何様のつもりなんだ」

 と言われることだろう。

 それも分かっている。分かっているだけに、男というのが自分とは違う世界に住む人種だと思うのだ。

 その考えに、待ったを掛けたのが、山男の彼だったのだ。

 同じ三人兄弟の一番上、気持ちはお互いに口にしなくても分かると思っていた。実際に口にしなかったが、さりげない気の遣い方が自分に似ているのを感じると、隆子は自分が初めて男性を好きになったことを感じた。相変わらず他の男性には人種の違いを感じていたが、彼だけは違っているのだ。

「出会いって本当に運命なんだわ」

 と感じたのも無理のないことであり、その思いが熱い間に、まさか運命の悪戯によって、地獄を見せられるなど、思ってもみなかった。

 それ以来、隆子は出会いを信じなくなった。さらに運命ということすら考えないようになった。下手に考えれば、

「運命はこの私に微笑むことはない」

 と思った。

 彼がいなくなって、嫌というほど運命を憎んだのだ。それは自分の中での運命と決別を意味していた。

 だが、運命からは逃げられないという思いも隆子の中にはあった。逃げらないのに、それを分かっていて敢えて決別したのだ。もし、相手が襲ってくるなら、迎撃するしかない。運命は隆子にとって敵以外の何物でもなくなってしまったのだ。

 そんなところへ、次女の洋子が失恋したと言って相談に来た。

 最初は、

「そんなこと自分で解決しなさい」

 と、言ってやりたいのを妹なので、邪険にもできないと思って耐えていると、次第に隆子の中で心境が変化していった。

――妹を自分のようにしたくない――

 妹の失恋は、どう逆立ちしても自分の気持ちに適うわけはないと思っているが、隆子には妹たちの仲にはない感情移入の激しさがあった。それは、文字通りの

「相手の身になって考えることができる」

 というもので、その思いを隆子は、自分の長所だと思っていた。

 隆子は、自分の辛さを人に置き換えて考えるようになっていた。それが感情移入の激しさという性格を生みだしたのだ。

「人の身になって考えるって大切なことよ」

 これは自分たちの母親が、まだ隆子が小学生の頃に言った言葉だった。

 その頃はまだ優しい母に、物静かだが、貫禄のあった父という自慢すらできるのではないかと思うような両親に囲まれて、幸せだった。

 両親が別れるきっかけになったのが、父が単身赴任で二年ほど家を離れていた時のことだった。

 寂しさから、母が不倫をしていたことが分かったのだ。

 物静かな父が怒りに震え、母親に罵声を浴びせる。元々父に逆らうことのできなかった母には何も言うことはできなかった。

 父は離婚を切り出した。だが、母は納得しない。離婚だけは何とか阻止しようという努力をしたが、

「もう疲れたわ」

 と言って、母の気力をそいだのは、何と父がその時からさらに数年前、自分も不倫をしていた時期があったことが露呈したからだ。

 父としては、自分のことを棚に上げてのはずなのに、自分の不倫を隠したまま、母の不倫を理由に離婚することを、自分の中で得策だと思ったのだろう。

 だが、離婚について揉めているうちに、ふとしたきっかけから、父の昔の悪行が露呈した。

 父としては、自業自得だったのだろうが、結果としては離婚することができた。不倫はお互いだったので、慰謝料などありえるはずもなく、父としては。

――あわやくば――

 という狙いは崩れたが、何とか円満離婚できたのはよかったのかも知れない。

 だが、どう考えても円満離婚とは思えない。泥仕合の中での、ただの痛み分けになっただけではないか。子供の隆子にそこまでは分からなかったが、とりあえず離婚が成立し、母親の手で、自分たちが育てられることになったのだ。

 とにかく複雑な家庭環境であることに違いはなかった。

 隆子は隆子で、洋子は洋子でそれぞれに苦しんだことだろう。三女の由美はまだ小さかったこともあって、ほとんど覚えていないはずである。ただ、何となく息苦しさは感じていたのだろう。由美が抱えている悩みを、今は知らない姉二人だったが、このことがこれから三人の間にどのような渦を巻き起こすのか、まだ誰も知る由もなかったのだ。

 隆子と洋子がこの部屋で暮らし始めてそろそろ四年が経とうとしていた。隆子も洋子も、最初は、

――一年も一緒に過ごせばいいだろう――

 くらいにしか思っていなかったようだが、気が付けば、四年が経っていた。それはマンネリ化してしまったことで、そのまま惰性で暮らしているのかも知れない。少なくとも洋子はそうだった。

――ここは過ごしやすい――

 と思っている。

 隆子も、別に一人暮らしにこだわっているわけではない。彼氏がいるわけでもないし、この部屋に誰かを連れてくるわけでもない。それならむしろ洋子が出て行ったことで、姉として気に病むよりも、そばに置いておく方がどれほど気が楽かということである。お互いの利害関係が一致しての同居が成立していたのだ。

 そんな二人のところに母親から連絡があったのが、年が明けてすぐくらいだっただろうか。

「二人とも元気?」

「うん、元気だよ。お母さんも?」

「由美と二人、元気にしているわよ」

 と、電話口では元気そうだが、少し疲れているように聞こえたのは、母親の顔を思い浮かべながら声を聞いているからであろうか。電話での受け答えをしている隆子は、手に取るように分かっているつもりだった。

「それで、どうしたの? 急に電話してくるなんて」

 ここ三年近く電話をしてくることはなかった母だった。かといって、ずっと連絡を取り合っていないわけではなく、隆子と洋子は、一年に二、三度は家に帰っていたので、音信不通だったわけではない。

「実はね。今年、由美が高校を卒業したのね」

「もうそんな年なんだね」

 家にいたのは五年前のことだった。最初の一年一人暮らしをしていて、それから四年間洋子と一緒に暮らしているのだ。今年由美が高校を卒業するということは、ずっと由美のことを見続けていたっもは、まだ中学に上がった頃のことだったのだから。

 それを思うと、

「月日の流れって早いわね」

 と、思わず考えていたことをしみじみ電話口で話した。

「そうよね、あなたたちがいなくなって、もう五年だもんね」

 母親も感慨深げだった。少し沈黙の後、母が思い出したように話始めた。

「それでね。由美が就職したんだけど、それが、ちょうどあなたたちがいる街なのよ。相談なんだけど、由美もあなたたちのところに置いてもらえないかしら。私としては、由美の一人暮らしは考えられないの。もし、一人暮らしをするといえば、私はせっかくの就職を断るしかないっていうしかないのよ」

 母が隆子にも洋子にも一人暮らしを始めると言った時、最初は少し抵抗があったけど、ここまで言いきることはなかった。よほど由美の一人暮らしに不安があるのだろうか。

 隆子には、もう一つ見えていた。

 母親は、二人が一人暮らしをすると言った時、由美が自分のところに残った。しかし、今回は由美がいなくなると、自分が一人になってしまい、自分が一人暮らしになってしまう。

 たぶん、一人暮らしの経験が自分にないことを母親は今、自覚しているのだろう。姉二人の時にはそこまでなかった寂しさや孤独感がどれほどの重圧になるかを、今噛み締めているのだろう。そう思うと、由美を一人にすることに恐怖のようなものを感じているのではないかと思えた。

 要するに、由美自身の問題ではなく、母親が今まで気付かなかったことに気付いてしまったというべきだろう。

「ちょっと待って、洋子と相談してみる」

 と言って、洋子に話をしてみると、

「別にいいんじゃない」

 という返事が返ってきた。

 隆子は、その返事は分かっていたような気がする。家にいる頃から、洋子は由美に対してあまり意識していなかった。同居人の二人が三人になることへの抵抗はなさそうだ。

 何よりもこの部屋の主導権はあくまでも姉にあるということを分かっている。少々反対でも姉の頼みであれば、断ることは自分の中に選択肢としてはないのだった。

 由美が引っ越してきたのは、連絡があってから、二週間後だった。半年ぶりに会う妹だったが、二人とも、

「大人になったわね」

 というのが、最初の言葉だった。

 ただ、二人が大人になったという「大人」という言葉の意味は少し違っている。洋子が見た目では身体の成長を意味していて、胸の発達具合や腰の括れなどに目が行って、羨ましいくらいだった。

 隆子から見た大人のイメージは、化粧のうまさや、少し落ち着いたように見える雰囲気に感じたのだ。それでも、隆子と洋子の目には「大人の女性」として映ったことに違いないようだ。

 ただ、引っ越しの最中は、ほとんど会話がなかったので、実際にイメージしていたことが会話することによってどのように変わるか、少し興味があった。特に妹の洋子は、肉体的なところ以外には、さほど興味がなかったので、会話することによってどう感じるのか、自分でも楽しみにしていた。

 夕食は表に出かけた。最初からそのつもりで、隆子がセッティングしたのだが、最初に口を開いたのは、意外にも由美だった。

「お久しぶりです。お姉さん方」

 そう言って、礼儀正しく頭を下げた妹を見て、姉二人はいきなり出鼻をくじかれた。二人で目を合わせてアイコンタクトを取ったが、そこには、

――どうしたの? この娘は――

 と、言いたげであった。

 由美はしてやったりの表情になり、

「半年ぶりで、しかも、普段と違う場所で会うと、緊張しますね」

 と言いながら、どこに緊張などあるのだろうと言わんばかりの表情に、妹に主導権を握られてしまうことに、二人は焦りを覚えていた。

「この間の就職祝い、ありがとうございました」

 またしても礼儀正しいお礼だ。

 就職が決まったという話は母の他の手紙で知っていたので、家に帰ってお祝いをしてあげるわけにはいかないので、せめて何か記念品をと思って、腕時計をプレゼントした。妹への就職祝いとしては安くもなく高くもなく、無難なところだったに違いない。それを由美は喜んでくれて、自慢気に腕に嵌めている時計を見せてくれた。これには、さすがに悪い気がするはずはない。妹が喜んでくれたことを、素直に姉二人も嬉しく思うのだった。

 パスタを食べながら、二人は由美に田舎のことを聞いてみた。母親と二人暮らしも悪くないけど、やはり姉二人がいないのは寂しいと言っている。もしこれが社交辞令でないのであれば、由美の本音として、就職をこっちに決めたのは、姉二人がいるのが大きな理由だったのかも知れない。

「お母さん一人になっちゃうけど、向こうに職はなかったの?」

「ないわけではなかったんだけど、どうもしっくりこなくて、私は洋子姉さんがこっちに出てきた時から、私もいずれは都会暮らしがしてみたいと思っていたの。お姉さんたちが、四年も五年も都会にいて、馴染んでいるのを見ると、私にも都会暮らしができるんじゃないかって思ったの」

 由美の意見は、妹としてはもっともなことだった。ただ、どうしても姉二人は田舎に母親を残してきたという後ろめたさがある。それを思うと、手放しに喜べないところがあった。

「あんた、お母さんを一人にすることに何か思うところはなかったの?」

 と、核心に近いところを洋子が付いてきた。

――さっそく来たわね――

 と、隆子も由美にも分かっていることだった。人のことにあまり関心がないくせに、話をし始めると、オブラートに包むことなく、いきなり核心をついてくるのが洋子の性格だった。

 由美は最初から承知の上で、洋子から言われることを想像していたが、まさにドストライク、直球ど真ん中を通してきたのだ。

 洋子の言い方は、怒っているように聞こえるが、実際はそんなことはない。どちらかというと、焦れている時の言い方だ。それは相手に焦れているわけではなく、由美の性格からして分かっていることだったのだが、それでもどうして母親が一人にならないといけないのかという気持ちの中でのジレンマのようなものが、声を荒げる原因になっている。それは洋子の性格なのだからどうしようもないし、勝手知ったる仲なので分かっているのだが、相手が違えばどうなるかということを、洋子自身が自覚しているかどうか、分からないからだ。

 さらに洋子の中には、姉妹の中での自分の立場に少し焦りを感じていた。

 姉が社会人なのは、当然だとしても、妹までが社会人。いまだ女子大生ということで甘えているのが自分だけになってしまうことに焦りを感じたのだ。

 そこに持ってきて、大人の雰囲気を感じさせる妹に、かなりびっくりさせられた。これは洋子にとっては由々しきことであり、妹を無視できないという意識に駆られていた。

 だが、元々がまわりの環境に左右されないというのが洋子の回りから見た印象だ。その印象を崩したくはない。そう思われているなら、そう思わせておく方が楽だからだ。

 隆子はそこまで由美に対して思い入れはなかったが、洋子の中では由美に対して、少しでも違うところがあれば、敏感になっていた。それは直近の妹だからというだけではない思いが洋子の中にある真実であった。

「たまには、こうやって三姉妹が一緒になって食事を表でする日を作るのもいいわね」

 というのが、隆子の提案だった。

 由美は、その意見に賛成した。一番の新参者なので、まだまだいろいろ情報を姉たちから教えてもらう方が得策だと考えたからだ。

 この話には洋子は異存などなかった。むしろ願ったり叶ったりで、洋子にとって気になる存在である由美を、一人呼び出すことなく、自然に観察できる日ができるというのはありがたいことだったからである。

「今日は私がセッティングしたので、次の機会には洋子がセッティングする。そして、由美が都会に慣れてくるようになったら、由美にもお願いすることになるわね」

 と、姉らしくテキパキとあっという間に話の骨格を決めてしまった。

 隆子には由美が思ったよりも都会に馴染むのが早いことは分かっていた。昔から順応性が高いのが由美の長所だったからである。ただ、気になるのは、三姉妹の中で一番人見知りをするのも由美だったのだ。順応性があるにも関わらず、人見知りするというのは少し変な気がしたが、慣れてくるとそこからはm三姉妹の中で一番早い。一歩間違えると、

「後からきて、美味しいところをさらっていく」

 という性格に見られないこともないだろう。それを思うと、由美のような性格は得にも見えるが、一番危険性を孕んでいるように見えた。隆子にはそれが一番怖いことろであった。

 正直、姉二人は由美が育ってきたところは、中学時代までしか知らない。それから先をどのように成長してきたのかを知らない。そう思うと、一抹の不安があった。中学一年というと、まだ異性に興味を持ち始めた頃だ。

 今まで、年に何回か帰省はしていたが、由美に構うというよりも、母親を気にして帰って来ているようなものだったところが大きい。

 由美に対しては。帰ってくるたびに大人になって行っているのは意識していたが、それは当然のことであり、妹が相談してくるようなことでもなければ、こちらから敢えて話題を作ってまで会話を繋ぐつもりはなかった。子供の頃の由美は、あまり構われるのを嫌がっていたところがあるのを姉二人は自覚していたからだった。

 それでも、最後に帰った時に見た由美に比べて、都会に出てきた時の由美は、まったく違う雰囲気になっていた。大人を感じたのは、確かに田舎を背景に見た時と、都会に出てきたという意識を持った上で、都会を背景に見た妹は、まるで別人のようだった。

 それも、二人が二人とも違った方向から見て、

「大人の女」

 として意識して見たのだ。これ以上の真実はなく、疑う余地などどこにも存在しないに違いない。

 由美にとって姉二人の存在は、やはり他の人とはまったく違っていた。就職してから一月も経つと、だいぶ慣れてきたようだ、さすがに順応性の良さの賜物といえよう。

 人見知りも最初だけで、自分の中で、

「会社の中で人見知りなどしていられない」

 という危機感のようなものがあったのは事実で。由美が順応性に長けているのは、そんな、

――状況に応じて、適材の意識を持つことができる――

 ということではないだろうか。その意識があれば、人見知りもどうにかなりそうなのだが、それもいつの間にか解消されたかのようで、姉二人が気を止むことではなかったようだ。

 だが、取り越し苦労をしてしまうのは、隆子の性格であり、これは短所であろうが、長所でもある。どうしても、妹二人の長女となれば、いろいろなことを考えないといけない。自分がまとめていくという自覚が存在している証拠だろう。

 春が終わり、梅雨に掛かる頃になると、少し由美の態度が変わっていった。どこか寂しそうな表情をするようになり、一人でいるのが似合っているように見えてきた。

――五月病?

 本人にはまったくの意識がないようだが、姉二人は、同じ意見で一致していた。五月病には洋子は掛かったが、隆子は掛かっていない。掛かったことのある者とない者、それぞれで見え方が違っている。

「由美は何かイライラしているようだけど、私たちに不満でもあるのかしらね?」

 と、長女の隆子がいうと、

「イライラしているようにお姉ちゃんには見えるわけ? 私には寂しそうで暗く見えるんだけど?」

 と、洋子は反論した。

 同じ相手を見ていて意見が違うことは得てしてあるものだが、まさか同じ妹を見て意見が違って見えるというのは、二人の間に複雑な心境の変化を読んだ。その時に次女の洋子が考えたことが、

――私たちと由美は、血の繋がりがないのかも知れない――

 という思いだった。

 洋子は、あまり他人に同情したり、一緒に悲しんであげたりする女ではない、したたかなところがある女だった。ただ、それは母親の影響が大きかった。

 小さい頃、家の中でゴキブリがいるのを、母が見つけた。母は奇声を上げて最初は逃げ回ったが、途中から急に冷静になり、ゴキブリを叩き殺した。冷静になったのは開き直ったからだが、殺されるゴキブリを見て、

「可哀そうだわ」

 と、子供心にゴキブリに同情してしまった。

「何言ってるの、ゴキブリなんて一匹見たら、数匹はいるのよ、今のうちに退治しておかないと、大変なことになるのよ」

 と、ものすごい剣幕で洋子を責めた。

「生き物は大切にしないといけないのよ」

 と、学校で何度言われていたことだろう。

――大人のいうことは、人によって違う。何を信じていいか分からない――

 と、頭が混乱してしまった。そして混乱した中で一つだけ言えることは、

「お母さんは怒らせると怖い」

 という事実だった。

 怒られたことで、洋子は、

――私が悪いんだ――

 と、結論付け、それから動物の死に対しては、淡白になっていった。そこに一切の妥協を感じることはなく、相手が人間であっても同じことだった。祖父が死んだ時も、洋子は涙を流すことはなかった。

 ただ、冷たくなって物言わぬ身体になった時と、骨壺だけになった時には、虚しさを感じた。だが、その感情は虚しさであって悲しさではない。まわりで泣いている人たちを見ていて、何が悲しいのか分からなかった。その時から洋子の中では、

「人は、悲しくなくても涙を流せるんだ」

 という思いに駆られた。

 涙を流すことのなかった自分が冷徹だという意識はない。

「これが人間の素であり、涙を流す方が白々しいんだ」

 と自分に言い聞かせるのだった。

 姉の隆子を見ていると、姉も涙を流していない。ただ、何かを一生懸命に我慢していた。涙を流すことを我慢しているようだったが、そんな態度を見て他の人は、

「さすが長女ね、しっかりしているわ」

 と言っているが、洋子を見てどう思っているのか分からなかったが、視線だけで考えると、

――洋子のことは、何を考えているのか分からない女の子――

 というレッテルを貼られているように思えていた。

 それならそれでもよかった。この性格は自分で培ったものではない。母親によって植え付けられたものだ。そんな母親から生まれた娘なのだから、当然遺伝でもあるのだろうし、さらに環境面でも母親の影響を受けている。これほど鉄板なものはない。

――三姉妹の中で私が一番のしたたかさなのかも知れないわ――

 したたかな性格と、気丈な性格では見た目似ているように思えるが、種類が違う。気丈な性格である姉と、したたかな性格である洋子は、意外とうまくやれている。

――これも姉妹であるがゆえの歯車の噛み合わせなのかも知れない――

 と洋子は感じていた。

 洋子は、姉に対する視線と、妹に対する視線では明らかに違っていることに気が付いた。姉に対してはすぐ上を見れば、そこにいることを感じることができるが、妹に対しては、下を向いてもなかなか視線が到達するまでに時間が掛かっている。それを思うと、

――私たちと由美とは、本当に血が繋がっているのかしら?

 という疑念を抱いてしまったとしても、無理もないように思えた。同じことを姉の隆子が感じているかどうか、今の洋子にはそれが最大の関心事だったのだ。

 そう感じてしまうと、姉の隆子に対しても、今までと同じような態度ではいられなくなる。一番したたかな性格であると思っているわりには、洋子は正直なところがある。自分の気持ちを表に表さなければ気が済まないところがあり、自己主張の激しさが、遠回りではあるが、したたかな性格を強調して見せることに繋がっているようだ。

 姉の隆子は、そんな洋子の性格を半分くらい理解していた。

 したたかなところがあって、自己主張の激しさが協調されていることは分かっていたが、どうして自己主張が激しいのか分かっていなかった。

 人の死に対して涙を流さない性格も納得できるものではなかった。姉から見ると洋子に対しては、

――本当に血が繋がっているのかしら?

 と感じるほど、自分と性格が似ていないと感じていたが、さすがに洋子が由美に感じたほど強くは思っていない。頭を掠めた程度で、すぐに打ち消すことができた。

 由美が五月病に掛かった時、姉二人はそれぞれに心配していたが、そのことについて相談することはなかった。姉二人の意見が違っているので、きっと話をしても接点がないのは二人とも分かっていたからだ。どこまでも交わることのない平行線上での議論は、お互いに疲れるだけなのを知っていたからだ。そういう意味では二人は大人だったのかも知れない。

 由美の方も、姉二人に、自分の気持ちを相談する気にはなれなかった。何よりも自分が何を考えているのか、何がしたいのか、分かっていないからだ。分かっていないということは、何を考えているのか分からないために、何をしたいのかという発想自体が生まれてこないからだった。もし、そこまで発想できるようになれば、五月病の入り口は目の前に見えていることだろう。そこまでくれば、相談できるだけの発想も生まれるが、逆に相談するまでもないという気持ちにもなってくる。相手が一人なら、まだ相談する気にもなっただろうが、姉が二人いて、二人ともに相談することも考えられない。どちらかに相談してしまうと、姉二人の間で角が立つことにならないかという危惧を、由美なりに抱いていた。

 由美には考えすぎるところがある。

 それを自分では神経質な性格なのだと思っているが、まわりからはそう思われていない。気を遣って相談しないのも、水臭いと思われていることが多く、最初は気丈に見えても、

「あの人は、自分だけが特別なところにいるような勘違いしがちな性格なのかも知れないわ」

 と、言われていたことがあった。

 中学時代など、友達同士で一緒に帰っていて、それぞれにいろいろな意見を交わすことがあっても、由美だけは、まわりと協調するような意見を話したことがなかった。

 何か一つのテーマがあれば、それに対して、必ず何かしらの反対意見であったりが存在する。一人の人が意見を言えば、まわりは、その意見に反対するわけではなく、何とかその意見を盛り上げようという姿勢しか見えない。由美はそんなまわりの態度に嫌気がさしていた。

――皆自分の意見がないのかしら? あれで一人の人の意見だけが持てはやされて、反対意見もなく、無難に解決してしまう。それこそ片手落ちになってしまうわ――

 と、考えていた。

 しかも片手落ちになった考えは、得てして由美が日ごろ考えているものとはかけ離れていることが多い。由美が反対意見を述べるのは、由美にとっての「正論」でもあるのだ。ひょっとすると、由美と同じ意見の人もいるかも知れない。しかし、友達の輪の中では、最初の意見こそが一番で、後からの意見は逆立ちしても、敵わないものである。

 由美が友達の輪の中で浮いてくるようになったのは、姉二人が都会に出ていってからのことだった。由美は一人ぼっちになったという思いが強い。最初から一人っ子だったら、違っていたのだろうが、三女で末っ子の由美が一人になってしまうと、そこには本人の意識以上の寂しさが、意識の中で燻っているものである。

 まだ中学に上がったばかりの由美にとって、姉二人が次々に家を出て行ったことは、自分一人をおいて、

「逃げ出した」

 という感覚が強かった。

 何から逃げ出したのか、最初は分からなかったが、高校時代くらいになると、それが母親から逃げ出したのだということに気付いた。気付いてしまうと今まで見ていた母親とは違った見え方になってくる。ただ、どうして母親から姉二人は逃げ出す必要があったのかということについては、分かっていなかった。

 由美がいくら考えても分かるはずはない。姉二人は由美が考えているように、母親から逃げるために都会に出たわけではない。母親も都会に出て行く娘を心配こそしていたが、嫌な顔はしていない。どこにでもある、

「娘を都会に送り出す母親」

 以外の何物でもなかったのだ。

 六月になって、五月病も一段落、それまでの由美がまるで別人のようになっていた。しかも、四月にこちらにやってきた時とも違う、「新しい由美」がそこにはいたのである。

「今回は、私がセッティングしようかしら?」

「えっ、あんたが? 大丈夫なの?」

 と、さすがに隆子もビックリしていた。

 元気になったのはいいことなのだが、元々の由美に戻ったわけではなく違う性格になっていたことに、隆子は戸惑っていた。

 洋子は、そんな由美に対して戸惑いはなかった。

――血が繋がっていないのではないか?

 という疑念を持っていたので、それまでと違っていてもビックリはしない。むしろ、今の方が本当の由美なのではないかと思うくらいで、却って話しやすくなったのではないかと感じていた。

 隆子も戸惑ってはいるが、洋子と似た考えを持っていて、

――今までが猫を被っていたのかも知れないわ――

 無理もない。田舎から姉を訪ねてやってきて、居候のような生活だったからだ。その後掛かった五月病を克服したことで、それまで溜まっていた鬱憤まで一緒に払拭されたのであれば、今の由美の雰囲気には何ら疑問を感じることはないだろう。

 由美がセッティングした場所は、今までのパスタとは違い、バーのようなお店だった。こじんまりとしていて、単独客の多そうなところで、マスターが一人でやっているようなところだった。

「あんた、よくこんな気の利いた店知っていたわね。会社の人から教えてもらったの?」

 と、洋子が訪ねると、

「違うの、私がネットで探して来たのが最初だったの」

「何か、この店に思い入れでもあったの?」

 と、今度は隆子が口を挟んだ。

「私、高校時代、美術部にいたんだけど、デッサンのようなことをしていたのよね。今でもたまにするんだけど、お店紹介の中でバーを探していたら、このお店を見つけたの、簡単なデッサンだったんだけど、ブログに画像を載せていて、それでお話が合うんじゃないかって感じたので、思い切って来てみたのよ。それでここの常連になっちゃったの」

「それはいつ頃?」

 今度は、洋子が訪ねた。

「一月くらい前かしら?」

 一月前というと、まだ五月病だった頃ではないか。しかし、その頃から少しずつ由美に変化が訪れていたことを洋子は気付いていた。

 隆子はそこまで見えていなかったが、五月病が一過性のものであることは分かっていたので、そこまで心配はしていなかった。それでも、由美の五月病を抜けた時期から、さかのぼって考えてみると、転機があったとすれば、一か月くらい前だったのではないかということは、この店の話を聞かなくても分かっていた。

 洋子は、その場その場での判断力には姉よりもあることを自覚しているが。冷静さという面では、どうしても敵わないことは分かっていた。遡って分かるという能力は、隆子にこそ備わっていて、洋子にはそこまで見ることができなかった。それが二人の間での冷静さという意味での違いだった。

 バーに入って、最初に中を見渡したのは、隆子だった。その時に壁に掛けられている絵が鉛筆書きのデッサンであることにシックな感覚を覚えたが、それが店主の策によるものだということにはさすがに驚いた。

 尊敬に値すると言ってもいいだろう、最初から眼差しが違っていた。

 妹二人には、まったくその視線に気付く気配はなかった。特に洋子にとって姉の存在は、自分が考えている姉以外の何物でもないという凝り固まった感覚があった。洋子にとっての隆子は、

――恋愛に関してはウブであり、もし人を好きになったら、自分に分からないはずはない――

 という思いが強かった。

 冷静であることは、妹二人とも姉に対して感じていることであるが、こと恋愛に関しては、自分たちの方が上だと思っている。

 いや、上だと思いたい。

 他のことでは自分たちの方が劣っているいう自負があるだけに、頭が上がらないのは当然だが。何か一つでも姉が自分に適わないものがないと、「不公平」だという感覚でいたのだ。

「神は二物を与えない」

 というではないか。

 姉妹の間で、ここまで差を付けられているという意識があるのは不公平以外の何物でもない。だが、自分たちを守ってくれるために自分たちよりも優れていることは仕方がないと思っていた。それを不公平だと言ってしまえば、バチが当たるというものである。

 それでも、妹としても意地がある。すべてを姉に委ねるわけにはいかないという思いは持っていて当然で、隆子に対しての意地は、姉を安心させてあげられるものだとも感じていたのだ。

 由美がそこまでハッキリとした考えを持っているとは思えないが、洋子にはそこまでの考えがあった。それだけ由美は隆子を意識していて、それが姉としてだけではなく、女としても感じていることだということを、分かっていたのである。

 姉のことをいつも見ているせいもあってか、肝心なことを見逃してしまうところが洋子にはあった。

――絶対に大丈夫だ――

 と、自分で思ったことは、スルーしても大丈夫だという自負がある。そこに落とし穴があるなど、考えたこともない。

 生まれてからずっと姉を意識してきた妹としては、それも当然のことであり、本当に知りたいと思っていることを勘違いしたままここまで来たのは、ある意味、致命的だったに違いない。

「マスター、こちらが私の二人のお姉さんです」

 と言って、カウンターの一番左に座った由美が紹介した。

「これはこれは、由美ちゃんから伺っていましたが、まさしく美人姉妹ですね」

 というと、すかさず由美が、

「ちゃんと、美人三姉妹と言ってね」

 と言いながら、軽くウインクすると、

「はいはい、美人三姉妹ですね」

 と、やれやれという感じで、マスターは訂正した。

 どうやら、由美は完全に店に馴染んでいるようで、ここに連れてきたかったのは、自分にも馴染みの店ができたということを教えたかったことと、マスターが安心できる人であるということを二人に言いたかったからだろう。

 マスターは、会話しながらでも手を休めることはない。それを見て、

――さすがにプロだわね――

 と感じたのは、洋子だった。洋子は一つのことに集中すると、他のことが見えなくなる性格だった。

――そのしなやかな手から、あれだけの芸術作品が生まれるんだわ――

 と、感じたのは隆子だった。

 隆子は、まず相手のいいところから探そうとする。

――自分よりも必ず何か優れたものを持っているはず――

 というのが、初対面の人に対しての隆子の考え方だった。

 隆子にその感覚を植え付けたのは、母親だった。

 母親が元々そういう性格で、隆子にいつも、

「相手の短所ばかり探すんじゃなく、いいところを最初に探すようにしなさい」

 と言っていた。

 母親は隆子に対してほとんど何も言わなかったが、このことだけは徹底して話をしてくれた。

――間違っていないわ――

 隆子は、自分が納得の行くことでなければ、実行しないというのが彼女の性格というよりも、習性というべきであろうか。

 本当は、母親に言われるまでもない。相手の長所を探そうという意識は、潜在意識の中にもちゃんと存在し、本能として息づいていることを自分でも分かっていた。

 さらに隆子が、マスターに共鳴したのは、芸術作品を見てからだった。

 隆子には、芸術を嗜んだり、造詣を深めることは今までになかった。美術館に自分から行くこともなかったし。人から誘われて行ったとしても、

――どこが芸術なのかしら?

 という思いしかなく、芸術に関しては、持ち前の冷静さが発揮されることはなかった。

 ただ、デッサンの中で一つ気になるものがあった。

 それは、砂時計を描いたもので、じっと見ていると、上の砂が下に落ちてきて、上と下のバランスが崩れていくのが分かってくるようだった。

――これが芸術作品なのかしら?

 その時、マスターがどういう性格の人なのか、探ろうと考えている自分がいるのに気が付いたが、もう一人の隆子が、

――それはいけないわ――

 と止めているのを感じた。

 マスターはそんな隆子の考えなど知る由もないはずなのに、同じタイミングで隆子を見つめ、優しく微笑んだ。

 マスターの絵を見ていると、

「お姉ちゃん、絵に興味なんてあったの?」

 と、洋子が聞いてくる。

「あまり興味がある方じゃないんだけど、鉛筆書きのデッサンというのって、油絵に比べて分かりやすい気がするのよ」

 というと、マスターが横から、

「そうですね、分かりやすいかも知れませんね。でも、その分かりやすさの中に、奥深さを求めたいと、やっている人は思うようになるものなんですよ」

 と、答えてくれた。どうやら、マスターは絵のことになると、いろいろと言いたいことがあるような感じだった。

 マスターと話をしている二人を見ながら、由美はニコニコ微笑んでいた。連れてきてよかったと思っているのだろう。ちょうどその日は他に客もなく、ずっと三人だけだった。元々こじんまりとした店なので、客も一人の人が多いという。一人静かにしたいと思ってやってくる客には、三姉妹は眩しく映ったに違いない、

「この店に来ると、あっという間に時間が過ぎるというお客さんが多いんですよ。それでね、そのうちに『私が皆さんの時間を食べてるんですよ』って冗談で言うと、それが話題になったりしてですね。ここのブログで皆さんがそういう会話をしているのを結構見かけました。ここに来ている時は、どなたもお話をしないんですが、ネット上では結構会話をされているんですよ。それって結構楽しいですよね」

 とマスターは楽しそうに話してくれた。それを聞いて隆子と由美は楽しそうに笑っていたが、洋子だけは笑っているように見えるが、若干表情が引きつっていた。話を聞いて、笑い飛ばすことができないようだ。

 隆子も洋子も、今までにスナックには行ったことがあったが、バーというのは初めてだった。値段のリーズナブルで、何よりもスナックとの違いは、料理がおいしいことだった。その店はパスタも自家製であり、カボチャやホウレンソウなどの野菜を塗りこんだ麺をオリジナルメニューとして出している。

 店を出てから三人は家に帰り、マスターや店の話に興じた。

「マスターのお話、面白かったわね。特に時間を食べるなんて発想、なかなか出てこないわよね」

 と、洋子がいうと、

「そうね、私は今までにも、同じように時間があっという間に過ぎてしまったという感覚を味わったことがあったんだけど、その時も、誰かが時間を食べているんじゃないかって思ったこともあったのよ」

 と、隆子が話した。

「じゃあ、お姉さんは、マスターと同じような気持ちになったということよね。人間って意外と同じ環境に陥ると、同じ発想をするものなのかも知れないわね」

 洋子の意見にも一理ある。隆子もマスターの話を聞いた時、同じ発想だったことにビックリした。ただ、皆が皆同じわけではない、たまたま同じ意見の人が近くにいたということであり、それよりも、同じ感覚になった相手がこんなに近くにいるということが、隆子にとって不思議な感覚だった。

「私ね、人と夢を共有したように感じたことが、以前にあったの。その人に聞いてみたけど、そんなことはないってあっさりと言われて、その話はすぐに終わったんだけどね」

 隆子が洋子に自分の夢について話をしたのは初めてだった。その日の隆子は少し変だったのを、洋子は後になって思い出した。ひょっとして、洋子のその日は、普段との違いを自分の中でも気付いていたのかも知れない。

――今日のお姉さんは何か変だわ――

 と、洋子は感じていた。隆子のマスターへの気持ちに隆子自身がまだ気付いていなかったので、洋子もウスウスは感じていたとしても、

――まさか、そんな――

 と、すぐに打ち消していた。

 隆子が以前、一人の男性と付き合いがあって、結婚寸前まで気持ちが入っていたことを洋子は知らない。隆子が都会に出てきてすぐのことだったのだが、隆子にとってそれがトラウマとなっていた。

 洋子自身、その頃まで、実は男性と深く付き合ったことはなかった。大学に入学するまでに二浪してしまった洋子は、今年三年生になるのだが、浪人時代に遊んでいる友達を見ていて、自分は勉強を頑張るという強い意志を持っていた。それなのに、遊んでいた連中が翌年にはしっかりと大学生になっていて、自分だけが取り残されてしまった。これほどのショックはさすがになく、自己否定の毎日を送っていたが、

――要領が悪いのかしら?

 と考えるようになっていたが、根が楽をすることを嫌うたちなので、要領の悪さに関しては、自分では短所だとは思っていない。そこが自分の置かれた立場とのジレンマに苦しむことになる要因なのかも知れない。

 洋子は成績が悪かったわけではない。受験に関しては運が悪かったのか、やはり、要領の問題なのか、本人にもよく分かっていない。それでも、大学時代には、一皮剥けた気がしているのは、少しは融通が利くようになったことであろうか。よく言えば、生真面目なところがある洋子なので、少しは大学生活を満喫できたことは、他の姉妹たちに比べてよかったのかも知れない。

 姉の隆子は、大学進学は最初から考えていなかった。進学するとすれば短大だと思っていたのは、自分の力量を分かっていたことと、大学に入学しても、別にしたいことがあるわけでもない。短大に進学したのも、高校を卒業していきなり就職することに抵抗感があったからだ。隆子が進んだ高校は元々が進学校。まわりのほとんどは大学に進学した。後ろにまだ妹が控えているのを考えても、やりたいこともないのに、四年間も大学に行くというのは、金銭的な面でももったいないと思ったのも、短大を選んだ理由の一つだった。

 三女の由美の場合。

 由美も成績が悪かったわけではない。むしろ勉強が嫌いではなかった。大学に行けば、今は何をしたいのか見つからなくても、在学中に必ず何かを見つけられる力を持っているだろう。

 それなのに、わざわざ就職を選んだのは、洋子を見ていて、進学をあきらめたと言っても過言ではない。他の誰にも分かっていないと思っているが、由美はいつも洋子を意識していた。自分が洋子よりも優れているということを自負していて、そのせいもあってか、大学進学でもたもたしている洋子を見ていると、自分が大学に進学する意味がないように思ったからだ。

 何かをしたいと思っているわけでもない。さらには二浪している姉がいるのに、自分までが大学進学を考えてしまうと、金銭的なことが悩みの種として浮上してくるだろう。

 由美が就職して姉たちが暮らしている街に出ていくというのを聞いた母が別に反対をしなかったのは、家計のことを気に病んでいたからなのかも知れない。

 ただ、まさか洋子を意識して大学進学しないことを決めたなど、由美の性格からすれば、誰も想像できないことだろう。少なくとも由美を知っている親戚や家族、友達に至るまで、まさか由美が大学進学を考えていないなどということを誰が想像できたであろう。

「大学だけが人生じゃないからね」

 と、さらっと言ってのけた由美は、まわりから格好良く見えた。由美は、そんな自分に陶酔していた。由美が大学受験をしなかった理由は、家族のことを考えてと言いながら、正直受験勉強から逃げたと言ってもいいだろう、

 確かに由美は勉強が好きだ。しかし、それは受験のための勉強ではなく、もっと自由な時間、そして自由に行動しながら勉強ができる環境を欲していた。

「受験勉強、あれは苦痛以外の何物でもない」

 と言いたげで、元々好きなことであれば、徹夜してでも完遂していた由美が、受験勉強から逃げたという発想は少し違っていると思う、

「勉強は楽しいからするんであって、自分から苦痛に飛び込むようなことはしたくないのよ」

 と親しい人には言っていた。

 洋子のことも頭にあっただろうが、本当の理由は、勉強は楽しみながらしたいという思いがあったからだ。

 昔から勉強が嫌いで、やる気のない人の言葉であれば、説得力などあるはずもない。由美のように勉強が好きで、それなりの成績を残している人間がいうのだから、信憑性もある。そういう意味では、説得力があるくせに、由美のような人間が大学で勉強しないのは、世の中の皮肉に思えて仕方がない。

「あの娘には、入学試験くらいは受けさせてみたかったわね」

 と、ずっと由美と一緒に住んでいれば、その言葉を吐くのは隆子だっただろう、

 洋子は由美が自分に対して極端なまでに闘争心を燃やしていることに気付いてはいない。だが、由美に対しての気持ちは闘争心という意識まではないが、見えない力に操られ、お互いの意識が、どこかで一度交差して、さらに離れて行きつつあることに気付かない。いつまで経っても相手が見えてこないことに、焦りのようなものを感じていた。

 由美は完全に五月病から復活していた。

「以前の由美の明るさを取り戻したみたいね」

 と、二人の姉は喜んでいたが、本当のところの事情が違っているのを知っているわけではなかった。

 由美が、勉強も好きで、大学入学できるだけの十分な成績であるのに、大学受験をしなかった本当の理由は他にあったのだ。

 確かに受験のための勉強をしたくなかったというのは本当なのだが、その思いは由美だけではなく、誰もが思っていることだ。それを理由にしてしまうのであれば、理由としては軽いものではないだろうか、相手が妹ということが贔屓目になって、妹の言うことを鵜呑みにしてそのまま信じてしまったのも無理のないことだろう。

 由美には高校時代まで好きだった男の子がいた。

 由美とは幼馴染で、絶えず由美に対して自分に優位性を持っていなければいけないというおかしな観念を持っていた。

 最初は由美もそんな男の子に対して、友達以上の感情を持つなどありえないと思っていた。友達までであれば、彼の持つ自分に対する優位性も許せると思ったからで、一緒に話をしていても違和感はなかった。

「幼馴染だからな」

 というのが彼の口癖で、

「そうね、幼馴染」

 と由美の方からも、同じ言葉で相槌を打っていた。

 二人が使う「幼馴染」という言葉、微妙にニュアンスが違っている。

 相手の男の子の幼馴染という言葉の使い方は、完全に自分の態度に対しての言い訳であり、そのことを彼が意識しているのか、由美には分からなかった。しかし、由美が使う幼馴染という言葉は、相手に対して、言い訳だということを分かっているという意味で、繰り返しているのだった。由美自身、自分が相手への警告で繰り返しているという意識をハッキリと持っている。だが、実際には自分で発した言葉が言い訳であることを自覚していない相手に、繰り返して言っても、それは寝耳に水だった。

 そういう意味で、彼は鈍感な性格だった。

 要領も決していいとは言えず、不器用な性格であることに間違いはなかった。そんな彼のことを意識するようになったのは、中学三年生くらいの頃からだっただろうか。同じ高校に入学し、一年生の時に同じクラスになったことを、由美は運命のように感じていた。

 運命を感じた由美は、それから少しずつ彼への気持ちが接近してくることを感じていた。それまで男の子を好きになったことのなかった由美が最初に好きになったのが幼馴染の男の子。由美の中では、

――幼馴染でよかった――

 と感じていた。

 初対面の人を好きになる。つまりは一目惚れということに憧れも感じていたが、やはり相手の性格をしっかり知った上で好きになるものだと思っていることから、まわりの友達が話しているような、知り合ってすぐに付き合いだしたなどという話を、俄かに信じることはできなかった。

 幼馴染の彼が、由美を意識するようになったのは、由美が彼を意識し始めてから数か月も経ってからのことだった。

 あれは、夏休みも終わり頃の、花火大会の日だった。

 シチュエーションとしてはありがちだが、由美の方は最初から彼のことを意識していたので、

「ねえ、花火大会、一緒に行きましょう」

 と誘った時、まだ由美を幼馴染としてしか見ていなかった彼は、

「ああ、いいよ。でも、女の子同士で行く約束とかはないのかい?」

 と言われて、

「いいの、私がいいって言うんだから」

 と、少し強引だった。

 本当は彼の方が優位性を持っていないといけないはずだったが、その時初めて由美の強引な態度に、少しビックリはしていたが、素直に彼も従った。

 由美はそれを、彼の中で何か由美に対して心境の変化があったのではないかと思ったが、当たらずとも遠からじ、一緒に花火大会に行って、二人一緒に空を見上げていると、由美の中で、

――まさにこれを青春というのかしら――

 と感じさせられた気がした。チラリと見えた彼の横顔を垣間見た時、

――本当に二人だけで来れて、よかった――

 と、これから先の展開がほとんど何も変わらなくても、それだけで満足できるのではないかと感じた由美だった。

 その日は、彼とキスまでできた。

 女性に対して絶えず優位性を保ちたいと思っているような朴念仁とも思えるような男性とファーストキスするなど、想像もしていなかったことにやっと気が付いた。

 由美にとって、彼は確かに初恋だった。しかし、自分が好きだった時期と、恋だと思っていた時期にずれがあることを、ずっと知らずにいた。

 好きだった時期は結構長かったはずだ。

 ひょっとすると、小学生の頃から意識していたのかも知れない。二人は幼稚園からの腐れ縁だとお互いに言い始めたのは中学になってからだったが、それまでに好きになった時期は確かに存在した。

 お互いに溜め口を聞くようになるというのは、やはり好きだという意識が多少なりともあったからだろう。

 由美は、自分がまわりの人への依存性の高いことを分かっていた。三姉妹の末っ子だということも、その意識を証明しているように思えたからだ。

 ただ、自分の依存症が彼に対してあったという意識はなかった。相手に優位性があるのが分かっていたので、依存してはいけないと思っていた。だが、溜め口を聞くようになってから、依存できないことに対して苛立ちを覚えるようになっていた。

 ちょうど思春期の女の子、一番身体に変化が訪れ、身体だけでは飽き足らず、精神にまで影響をきたしていた時期なので、依存してしまうのも、仕方がないのかも知れない。

 それを自分では、まわりと自分に対しての不安だと思っていた。

 自分の精神状態よりも、はるかに身体の成長が早く、精神が追いついていないことに、すべてのバランスが崩れてしまうことが原因だった。

 身体と精神のバランスが崩れれば、一気に不安が押し寄せてくるというのは、今であれば当たり前のこととして受け入れることができるが、その頃は分からなかった。一番変化が序実に現れる時期に、精神的に不安定になってしまえば、自分ではどうコントロールしていいのか分からなくなる。

 それは、自分だけに言えることではなく、まわりの同級生皆が同じことだった。

 中学時代は。自分以外のものを、「汚い」という意識が強かった。それは自分が汚いかどうかが基準ではない、まわりはすべからく汚いものだという意識が最初にあった。

 自分が汚いかどうかというのは、その後の展開によって大きく変わってくる。特に女の子は、潔癖症だと思っているので、自分に汚さというのはありえないという考えが最初にあるのだ。

 思春期の由美の自分に対しての考え方は、「減算法」だった。

 まずは百パーセントから始まる。つまり、

「自分は汚くなんかないんだ」

 という考えから、すべてが始まるのだ。

 そうでなければ、まわりに対して相当な汚さと嫌悪感を抱いているので、自己否定を最初にしてしまえば、そこで終わってしまう。

 まわりと接して行くたびに、自分の汚いところが徐々に見えてくる。それは将棋の最初に並べた布陣に似ていた。

「将棋で一番隙にない布陣は最初に並べたあの形だ」

 と、中学の先生が話してくれたが、最初は意味が分からなかった。

「一手打つごとに、そこに隙が生まれる」

 と言われた時に、由美は目からウロコが落ちた気がした。

 自分が汚い人間かどうかというのは、まわりの影響も考えながら、すぐには結論など導き出せないと思った時、将棋の布陣を思い出した。いかなるプロセスを持って結論を見出すかというのも問題の一つであった。

 汚いということが自分で分かったとしても、もし別の方向から見れば、少し違った雰囲気に見えるかも知れないと思うと、人の視線をどのように感じるかで、自分の汚さが違って映るのではないかと感じた。やはり、自分が汚いかどうかの結論は、自分一人だけで決められるものではないようだ。

 由美のファーストキスは、甘い思い出だったが、それだけでは済まなかった。

 好きだと思い始めていた彼が、それからしばらくして他の女の子とキスをしているところを見てしまった。ショックでしばらく口が利けなくなったほどだったが、悩んで悩みぬいた後に由美は、自分が本当に彼を好きであることに気が付いた。

 彼も、他の女の子とキスをしてしまったのは、相手に無理やり迫られたと言っていたし、よく考えてみれば、相手の女の子は彼のタイプではなかったからだ。彼の言葉を信じた由美は、自分の気持ちに気が付いたことを本当によかったと思い、これで二人の仲がさらに深まることを確信したのだった。

 由美は、彼のことが好きだった時期を遡って考えることができた。やはり最初から好きだったと思う方が自然で、それを淡い恋心と言えなくもなかったが、まだ異性を意識する時期でもないので、それは恋ではなかっただろう。

 もし、恋がいつからなのかと聞かれれば、

「キスをした後からかな?」

 と、答えるだろう。

 だが、由美の中では、それでも釈然としないところがあった、

――キスをした時は、初めて自分の気持ちに気が付いた時であり、その気持ちは形になって現れたものだ――

 と感じていた。

 恋というのは、何かの形があって成立するものなのかということに疑問を感じていた由美は、恋はもう少し前だったように思えた。

 形があって人に恋をするというのであれば、それは自分にも恋心が燻っていて、分からなかっただけではないだろうか。形を相手が表すことで、お互いに気持ちの行き来が成立し、その中で相手が自分を思う気持ちに対して、自分の気持ちが間違っていないことを感じると、恋を確信する。由美はそこからが恋だと思っている。

 このことを他の人に話すと、

「あなたって、そんなに現実的な人だったの?」

 と言われてしまった。

「恋なんていう感情は、おぼろげな時からが恋というものじゃないのかしら? すべてが分かってしまってからは、そこからが発展性。だから、私は、自分が恋を感じた時から、遡る必要があると思うの」

 この時に、初めて遡るという感覚が由美の中に芽生えた。だから、今から考えると、好きだった時期と、恋をした時期に差があるというのも理解できる。

「好きになったから、恋をする」

 言葉だけを聞けば、当たり前のことのように聞こえていたが、実際に自分のこととなると、理解するまでにかなり時間が掛かった。それでも、由美は自分で気が付いたからまだいい。まったく気付かずに大人になってしまう人もいるだろう。純粋なまま大人になったという意味では、男性には新鮮に見えるのだろうが、大人になる過程で、何も分からずに過ごすことを、「もったいない」と感じる由美だった。

 ただ、彼に恋をしていた時期は、思ったよりも短かった。

 高校を卒業する頃までは、

――私はこの人と結婚するんだ――

 と思っていた。

 彼は大学進学を希望し、姉たちがいる街の大学を受験し、合格していた。

 由美は、最初こそ、彼と同じ大学に進むことを目指して勉強していたが、途中で急に気持ちが冷めてきた気がしたのだ。

 それは彼への恋心が冷めてきたわけではなかった。受験ということと、彼への恋心を一緒に考えている自分に疑問を感じた。

 一度疑問を感じてしまうと、それ以上先に進むには、それまでの勢いだけでは足りない何かを見つけなければいけないことに、その時の由美は気付かなかった。一度立ち止まってしまうと、見えているはずのものに、手が届きそうなはずなのに、手が届かないことが分かると、それまで見えていたものが見えなくなってしまう。

――私は、一体何を見ていたのかしら?

 それまで必死になって追いかけていたものが、まるで夢でも見ていたかのように分からなくなってしまう。

 もちろん、彼と同じ大学に進みたい。そして彼と一緒にい続けることで、最後には結婚したいという思いは分かっている。そして、自分が大学受験のために必死に勉強していたことも分かっている。それなのに、彼と一緒にいたいという感情と、大学受験のために頑張っている感覚とが結びつかないのだった。

――なぜなのかしら? こんなことは今までにはなかったことだわ――

 と、由美は自分がパニックに陥りかけているのを感じていた。

 それまで、まわりとの間でパニックに陥ったことがなかったのに、いきなり自分のことでパニックに陥ってしまうと、本当にどうしていいのか分からない。自分のことなので、人に相談するわけにもいかない。人が結論に導いてくれるわけではないからだ。

 由美の中では、

――これを乗り越えると大人になれるんだわ――

 という冷静に自分を見る目が備わっていることにビックリしていた。パニックに陥りながら、冷静な自分もいる。そう思うと、パニックが長くないことを確信していた。

 だが、どうやって抜ければいいのか分かるはずもない。いろいろ考えていたが、そのうちに、考えるのを止めてしまった。それが功を奏したのか、開き直りに繋がったのか、何かを考え始めると、それが、裏付けになっていくことが分かってきた。

――自分の中の考えなのに、相手のことを考えてしまうから、結論を導けないんだわ――

 と考えるようになった。

 つまりは、ある程度まで結論の寸前まで行っていながら、そこで邪念が入ってしまうために、考えが再度元に戻り、そこからは無限ループを繰り返すようになる。前を向いて歩いていたはずなのに、気が付けば、反対方向を向いていて、しかも、スタートラインに戻っているなど、誰が想像できるだろう。別世界が開けたような感覚になることで、パニックを乗り越えられないことを理解できないのだ。

 それは躁鬱状態にも言えることだった。

 由美は、それまで躁鬱症にかかったことはなかったが、姉のうちのどちらかが躁鬱状態に悩まされていることに、もう一人の姉よりも先に気付くことになるが、それも、パニックを乗り越えることができたことで、感じることができるようになったのだろう。

 由美が大学進学を辞めた経緯はそのあたりになるのだが、彼は無事に現役で志望校に合格できた。

「どうして、君は受験しなかったんだい? てっきり一緒に大学に通えると思っていたんだけど」

 と言っていた。

 由美のパニックを知らない彼は、当然そう思うだろう。同じ時期、彼も人のことに構っていられないほど、必死で勉強していたのは分かっている。実際、彼の成績では合格は五分五分と言われた。下手をすれば、ギャンブルだと言われかねない確率だったくらいである。

「おめでとう。本当は私も一緒に進学したかったんだけど、ごめんね。私は挫折しちゃった」

 と、言っておどけてみせた。それでも由美が同じ街の会社に就職することを聞くと、

「いつでも会おうと思えば会えるね」

 と言ってくれたが、それは彼と見ている方向の違いから、信憑性を感じなかった。

 大学生である彼の余裕と、社会人になった自分の生活を考えれば、どちらが遠い距離に感じてしまうかは一目瞭然である。

――やっぱり、住む世界が違うのよ――

 と、自分が彼のことをまだ好きなのかどうなのか分からないまま、自分に言い聞かせていた。

 家を離れ、姉たちの部屋に転がり込んで、社会人として新しい生活を始める。そこには希望と不安が渦巻いていたが、不安の方が大きな出発だった。

 しかし、それは自分の中でいろいろ考えている中で導いた結論の先にあるものだ。そう思えば、彼との思い出は、本当に記憶の中に封印するのが一番だと思っている。

 由美の中には開き直りと、不安の中から乗り越えた自信とが意識の中にあった。そのことを二人の姉は知らない。ただ、由美が初めてこちらにやってきた時から考えると、比べものにならないくらい落ち着いていることは、実感として分かっていることだった。

 姉たちから見えた由美の五月病は、他の人の五月病とは違っていた、一人でいろいろ考えている時期だったというだけで、由美が内に籠ってしまった時、他の人に比べて、特にまわりの侵入を許さない壁の厚さは尋常ではなかった。

 まわりから五月病に見えたのも仕方のないことで、時期が五月病の時期と重なったというだけで、由美の中では悩んでいたわけではなかった。

 しいていえば、

――由美が自分一人の時間をいかに過ごすかという確固たる意識を持つことができるようになった時期――

 と言えばいいだろうか。

 他の人から見れば孤独に見えることも、由美の中で孤独とは無縁の時間を過ごしていることを他の人には分かるはずもない。

 それは由美が自分で意識して作り上げたものだった。

 一人という時間をいかに大切にすることができるかということを、由美は大前提として考えていた。しかも、姉二人との生活の中でである。姉二人に自分が孤独であることで、苦痛を感じているなどと思わせないようにするための感覚だった。

 苦痛でもないのに、まわりが変に気を遣ってくると、必要以上に意識してしまうのが、今までの由美だった。三人姉妹の末っ子だという意識があったからだが、今はそんな感覚を感じないようにしている。

――私は姉たちの足を引っ張らないようにしながら、一人の時間を大切にしたい――

 と思うようになった。

 バーを見つけたのはそんな時期で、本当は隠れ家のように誰にも言わないようにしようと思ったが、姉たちに教えたのは、その中でも自分だけの空間を感じることができる店だったからだ。

 それからしばらくして、由美が少しずつ変わっていった。

 変わっていったというよりも、本性が現れたというべきなのか、今までが猫を被っていたのだろう。あまりにも素直すぎて大人しすぎた。そのことを、隆子は意識していた。

 洋子も由美のことを気にしていたが、本性を現すことは最初から分かっていたことのように、当たり前のこととして受け止めていた。仕事では真面目にやっているようだが、家に帰ってきてからは、ずぼらなところが見え隠れしていた。

 たとえば、部屋の中での服装も、シャワーを浴びた後、下着だけでウロウロすることが多くなったり、女性としての恥じらいを忘れてしまったかのような振る舞いに、隆子は何とか由美の心境を探ろうと、注意をしながら様子を見ていた。

 由美はなかなか自分の心境を表に出すことをしない。元々自分の気持ちを人から探られないような態度を自然とできるタイプなのかも知れない。それは持って生まれた性格というよりも育ってきた環境によるものだろう。苛められっこなど、習性で人から探られないように、殻に閉じこもるくせが自然とついてしまうものなのだろう。

「もう少し、女の子らしくすればいいんじゃない?」

 と、わざと他人事のように隆子は聞いてみた。

「そうね、お姉さんの言う通りだわ」

 と、答えていたが、そこには何か投げやりなところがあった。隆子は由美の様子を見て、何か張りつめていた糸が切れてしまった状態を想像した。凧の糸であれば、風に煽られてどこに飛んでいくのか分からない。しっかりつなぎとめておく必要があるのではないかと思った。

「由美は、失恋でもしたのかしら?」

 と、隆子は洋子に由美のことを相談してみた。隆子が思っているよりも、洋子の方が由美のことを分かっているかも知れないと思ったのだが、根拠があったわけではない。

「失恋と言えば、失恋かも知れないわね。でも、私が考えているのは、あの娘がフラれたわけではなく、自分から相手の男に愛想を尽かしたんじゃないかって思うところなのよ」

「あなたは、由美が誰か男の人と付き合っていたのを知っていたの?」

「幼馴染の男の子が、大学進学でこの街に来ていることは知っていたわ」

「由美から聞いたの?」

「ええ、ふとしたことで教えてくれたのよ」

 と洋子は言ったが、由美はそう簡単に自分のことを人に話すことはない。由美は洋子に話さなければならない状況だったに違いない。

 隆子は、由美に対して自分が優位であるということに、最近気付き始めた。しかも、由美は自分よりも優位に立っている相手と親密になる習性があるようで、幼馴染の男性の優位性に惹かれていたことも分かっていた。最終的には、彼と別れたわけだが、やはり大学生と社会人の間では、一度距離が離れてしまうと、その距離を埋めるには、お互いに歩み寄る必要があるのかも知れない。

 由美の方からは少しでも歩み寄ろうという努力をしていたのだが、彼の方には歩み寄るだけの気持ちが欠けていた。その気持ちは、実は子供の頃からあったのだが、そのことに由美が気付いていなかった。それは彼の中にある優位性が由美の中で劣等感となって芽生えたことで、見る方向が一方だけしか見ることができなかったのが一番の原因だったのではないだろうか。

 高校を卒業して社会人になった由美と、大学に進学した彼、それぞれに進む方向が違ったことで、彼の優位性がなくなってしまった。今度は逆に由美の中で優位性が生まれていきて、今までと逆の方向から見た相手に対して、

――こんなものだったんだ――

 という感覚が生まれ、次第に冷めてきた気持ちが、そのまま愛想を尽かす態度に現れたのかも知れない。

 男女の仲というのは、どこでどうなるか分からない。長女は、由美が付き合っていた男性を追いかける形で、この街にやってきたことまでは知らなかった。五月病の時にもそんな雰囲気を感じなかったからだ。五月病にかかれば一人の孤独さに耐えられず、彼氏を頼っていくのではないかと考える隆子は、由美が感じていた孤独の意味を分かっていなかったに違いない。

 由美にとって、孤独は鬱状態のようなものだった。

 一人でいると寂しいという感覚は付き纏っているのだが、だからといって、他の人が関わってくると、普段感じる煩わしさよりも辛くなる、それはちょっとしたことにでも、感情が敏感になっているからなのかも知れない。隆子には、そんな時の敏感な感情を今までに味わったことがなかった。

 それは、由美が躁鬱症であり、隆子が躁鬱状態に陥ったことがないことを意味している。それは、由美と隆子の間に決して交わることのできない平行線が存在することを意味していた。

 三姉妹はそれぞれに特徴があり、似ているところもあるが、完全に違うところは、それぞれの性格を見ていると、分かってくる。ただ、それまでに三姉妹にとって共通の知り合いがほとんどいるわけではなく、母親も、別々に暮らしているので、把握できないでいた。母親の性格が誰に一番受け継がれたかというと、隆子ではないかと母親自身は思っている。そのことを隆子自身も分かっているので、なるべく母親と似た性格である部分は表に出したくないと思っていた。それほど、母親を毛嫌いしていた。

 もっとも母親も自分が嫌われていることなど分かっていた。長女が都会に出て行くというのを止めなかったのも、娘とはいえ、一緒に暮らしていくことに苦痛以外の何も感じなかったからだ。

 そんな感情は、娘には伝わるもの、隆子はもちろん、洋子も二人を見ていて不穏な空気を感じていた。息苦しさすら感じていて、姉がいなくなるよりも、母親がいない方がよほど精神的に楽である。姉と一緒に暮らし始めた心境は、そのあたりに存在していた。

 母親への憎しみに近い視線が、隆子の性格を決定づけたと言っても過言ではない。

 隆子は、三姉妹の中でも、自分の性格を隠そうとしても、すぐに表に出てしまう分かりやすい性格である。

 それは長女として、口で諭すよりも自分の行動から、妹たちを導いていきたいという思いが子供の頃からあったからだ。

 そして、もう一つは、母親の性格が、いまいち分からないというのも大きかった。

 探ろうとしてもなかなか本性を現さない。隆子は、母親の性格や表に醸し出している雰囲気すべてを否定し、自分があんな風になりたくないという思いを元に、自分の性格を形成していったのだ。しっかりしているように見えるが、性格を表に出してしまうところは、洋子などから見ると、まだまだ頼りないと感じるところがあった。

 逆に洋子の場合は、自分の性格を必ずオブラートに隠している。姉と違い、三姉妹の中では、一番妖艶な存在なのかも知れない。

 妖艶さの中に、すべてをオブラートで包んでいる性格は、まわりの男性を近づけない雰囲気を持っていた。洋子に今まで男性と深く付き合ったことがないというのは、まわりが寄ってこないからで、寄ってこないものを自分から近づいて行こうとは思わなかった。

 ただ、そんな洋子なので、もし近づいてくる男性がいれば、相手がどんな男性であっても、騙される可能性は大きいかも知れない。

 洋子のような女性は、意外と自分のことを冷静に見ることができない時がある。普段であれば、冷静に見ている自分を感じるのだが、少しでも自分のまわりの環境が変わってくると、対応できないことも出てくるだろう。それだけ順応性は他の二人と違って持ち合わせていなかった。

 不器用だというのとは違っている。

 順応性がなくて、不器用であれば、目も当てられない。要領が悪いというわけではないところで、見た目に似ているところを意識しているのは、洋子の方よりも、三女の由美の方だった。

 洋子は、姉よりもむしろ妹の方に性格が似ていると言われる方がまだマシだと思っていたが、本当に似ていると言われることはないと思っていた。それだけ三姉妹といえども性格的な開きは大きいと思っているし、持って生まれたものよりも、まわりの環境に左右されやすい三人だという意識を一番感じていたのも洋子だった。

 自分のことがよく分からないくせに、洋子は、二人のことはよく分かっているつもりだった。

――私にだけ姉も妹もいるんだわ――

 という思いがあるからだ。

 何かあれば、二人の気持ちを一番よく分かるのが自分であり、離れて行きそうになった時、繋ぎとめることができるのも自分だと思っていた。

 しかし、自分と姉の関係を妹が、逆に自分と妹の関係を姉が、何かあった時に修復してくれるかどうかと言われれば無理だということは分かっている。姉も妹も、自分のことは分かっているようだが、それぞれの関係については、さほど意識していないのではないかと思っている。

 そんな洋子を、隆子は頼もしく思っている。自分の分からないことを洋子が指摘してくれるのは、今までにもあった。洋子の指摘は隆子自身のことではなく、隆子と他の誰かの関係についての指摘なので、分かりやすい。隆子は洋子と一緒に住むようになって本当によかったと思っているが、二人だけの生活に由美が入ってきたことで、どのように環境が変わっていくのか、想像もつかなかった。

――一冊の本ができるくらいのお話が生まれるかも知れないわ――

 と、隆子は期待と不安を感じたが、当たらずとも遠からじ、期待と不安、どちらが大きいかと言われると、

「どちらとも言えない」

 としか、答えられない。

「お姉ちゃん、今度私が付き合っている人を連れてきていいかしら?」

 と、由美が隆子と洋子を目の前にしてそう言ったのは、一週間前だった。由美に今付き合っている人がいるということにもビックリしたが、まさかこの時期にその人を引き合わせようとは、想像もしていなかった。

「えっ、あんた今誰か付き合っている人がいるの?」

 隆子が口を開こうとした瞬間、一瞬先に洋子が口を挟んだ。驚きが大きかったのは、隆子よりも洋子の方だったのだ。

「ええ、私だってこれでもモテるのよ」

 と、おどけた調子で話していたが、その様子を隆子は冷静に見ていたが、洋子は逆に冷静に見るkとはできなかった。

「あんた、幼馴染の子じゃないんでしょう?」

「ええ、違うわ。でも、お姉ちゃん私が幼馴染と付き合っていたのを、よく知っていたわね」

 離れて暮らしているのだから、知っているはずはないと思っていた。もし知っているとすれば、話は母親から漏れたとしか思えない。家にいる頃は結構オープンで、母親に彼のことを紹介したこともあったくらいだった。

 もし、母親が姉に話をしたのだとすれば、それは仕方がないこと、自分が彼を家に連れてきたのだから、話が伝わったとしても無理もないこと。ただ、何もない話題のつなぎとして自分のことを話題にされたのだとすれば、少しショックな気がする由美だった。

 洋子は、話をどこから聞いたのかということには敢えて触れることはなく、

「お仕事で一緒の人なの?」

「いいえ、違うわ」

「まさか、合コンとか、ナンパとか、そういうたぐいのこと?」

「まあ、そんな感じかしら」

 口を濁していたので、付き合い始めたのは、軽い感じのことであるのは分かった。

 それを聞いて気になったのが、隆子だった。

「いつのことなの?」

 軽い付き合いで、いきなり姉に紹介するなど、どういうものだろうかという考えが隆子にはあった。

「まだ梅雨に入る前だったから、五月の終わりか、六月に入ったことだったかしら。私が鬱状態の時だったから」

――やっぱり、この娘、五月病というよりも、鬱状態だったんだわ――

 と隆子は感じた。

「よく鬱状態だって分かったわね」

「私、高校時代にも同じような状態になったことがあって。でも、その時は、すぐに暗いトンネルは抜けれる気がしたの」

「鬱状態だって意識はあったの?」

「うん、意識があったから、暗いトンネルの中を彷徨っている気がしたんだけど、そのまま歩いていれば、抜けることができるという確信があった。でも、その時は、誰とも関わりたくはないという思いが強く、人に話しかけられただけで、吐き気がしそうになったくらいなのよ」

 由美の話を聞いて、洋子は黙って頷いた。

「洋子姉さんは、分かってくれそうですね」

「そうね、私も似たようなことがあったわ。でも、私にはすぐに抜けられるという感覚はなかったわ。確かにトンネルの意識はあったんだけどね」

「あなたは、それが鬱だという意識はあったの?」

 隆子が洋子に聞いた。

「さあ、鬱だという意識があったかどうか分からないけど、誰かに話しかけられると吐き気がしてきたところは一緒だったわ」

 今まで、洋子の一番そばにいたのは隆子だった。話を聞いて心当たりがないわけではない。ただ、その時、隆子は洋子に対して結界のようなものを感じた。それは絶対に踏み込むことのできない妹の領域、その存在を知った時、隆子は、自分が洋子に対して何か負い目を感じたような気がしていた。

 洋子は隆子に対して優位性を時々感じていた。

――勘違いなのかも知れない――

 姉である隆子は絶対だという思いがあるのも事実で、時々しか感じない優位性がどこから来るのか分からないが、それが当の本人である隆子が感じている負い目が大きく影響していた。本人ですら分からない負い目なので、洋子に分かるはずもないが、二人の姉妹の力関係の均衡は、洋子の優位性にあるのではないかということを、二人はお互いに感じていたのだった。

 優位性を表に出さないようにしようと、お互いに思っていたところへ、妹の由美がやってきた。

――二人の均衡が崩れるかも知れないわ――

 由美という厄介者を抱え込んでしまったように二人は感じていた。しかし、三人の関係は思ったよりも苦痛ではない。由美は少しずつ変わってきているが、最初のようによそよそしい雰囲気よりはいいのではないだろうか。

 しかも、彼氏をいきなり連れてくるなど、二人の姉からすれば、規格外もいいところである。

 由美に対して、あまり細かく詮索しないようにした。

 下手に刺激して、知りたいことを煙に巻かれてしまうことを恐れたのと、どんなに話だけを聞いても相手を見なければ分からない。変な先入観を持ってしまうことを二人は嫌ったのだ。

 由美も姉二人から、大した追及を受けることがないのを分かっていたかも知れない。連れてくるということよりも、面と向かって会ってみないと、どのような感情になるか分からない。本番が問題なのだ。

 由美は、彼氏を連れてくるという話をしてから、急に砕けた態度を取るようになった。それまでは、よそよそしさを気になっていたが、今ではまるで家にいる時のように、下着姿で部屋の中を歩き回ったりしている。

 もし、彼氏が見れば、

「百年の恋も冷める」

 というものである。

 隆子は、そんな妹を口では、

「ちゃんとしなさい」

 と言いながら、昔の可愛い妹を思い返していた。

 思春期の妹を知らずにここまで来たのだから、その頃の妹に戻ってくれたような感じがして、嫌な気はしなかった。

――私に甘えたいのなら、甘えていいのよ――

 という気持ちだった。

 それは、次女の洋子が自分に対しての甘えをほとんど見せなかったからだ。

 そこが負い目の一つになっているのかも知れない。

「お姉ちゃんのその態度が、私から甘えを許さない性格に変えたのよ」

 と、言いたげな表情をたまに感じるのだった。

 だが、隆子には洋子が感じるような、

――甘えを許さない――

 という雰囲気は感じられない。

 その思いを由美が示してくれることで、自分が高校時代くらいに戻ったような感覚になれるのは、新鮮だった。

 洋子はそんな由美を見て、

――この娘、白々しいわ――

 と、思っていた。

 だが、洋子は決して由美に対して文句を言おうとしない。由美の視線に何か危険なものを感じるからだ。

 元々、由美の彼氏が、由美に対して優位性を持っていたことなど、誰も知らない。優位性を持った相手に惹かれる性格になってしまったかと由美は感じていたが。それは相手が男の場合だけだった。相手が女性であれば、優位性をこちらに持ってくる相手とは、なるべく接近しないようにしていた。

――何もかも見透かされてしまいそうだわ――

 と、感じるからだ。

 相手が男性であれば逆で、

――相手が自分に優位性を持っているということは、それだけ、私の一部しか見ていないのよ。それが男と女の違い。女にしか分からないところが盲点なのね――

 と、相手に優位性があればあるほど、相手に気付かれずに、こちらが利用できるというしたたかな考えを持っていた。それが由美の特徴であり、自分では長所だと思っている。しかし、それが諸刃の剣として、一歩間違えると命取りになるかも知れないとでも感じたのか、幼馴染の彼と別れたのも、そのあたりに感じるところがあったからなのかも知れない――

 それが由美が誰にも知られたくないと思う一番の考え方だった。

 セミの声を聞きながら、朝を迎えた由美は、普段と変わらず、おどけた様子を見せていた。

 その日は由美が彼を連れてくると言った日だった。

 昼頃には来るだろうということで、隆子は身構えていたが、洋子の方は、

「お姉ちゃんがいればいいでしょう」

 と言って、火の子が飛んでこないように、自分は出かけると言っている。

 由美を必要以上に意識している洋子は、彼氏を見てみたいという興味よりも、その場に自分が居合わせることの違和感の方が辛かった。

 元々洋子がこの部屋に飛び込んできたのも失恋が原因だった。もちろん、由美が彼を連れてくると言ったのは、そんな洋子のいきさつを知らないことからだという軽い気持ちだったのだろうが、洋子にしてみれば、まるで当てつけのように思えてくるのは、由美が自分に対する警戒心のようなものを持っているかのように思えたからなのかも知れない。

「ピンポーン」

 時間としては、まだ十時過ぎだった。

「早いわね」

 声を荒げたのは、洋子だった。本当ならもう少しして出かけるつもりだっただけに、どうしようか迷っている。

 別に出かけても構わないのだろうが、妹の彼氏に頭を下げて出かけるというのも、何となく癪に障った。変なところでムキになるところのある洋子らしいが、それでもいたたまれない空気になったらどうしようという気持ちも少しはあるので、少しだけ様子を見て、出かけられるものなら出かけようと思った。要するに、長居は無用だということだ。

 隆子も少し虚をつかれたという気持ちはあったが、洋子に比べれば落ち着いていた。さすが長女というべきか、最初から早く来るかも知れないことを予測していたのかも知れない。

「お邪魔します」

 グレーのジャケットに、ベージュのスラックス。落ち着いたいでたちに、隆子は好青年をイメージした。さっきまではしゃいでいた由美も、彼の横にピタリとつくと、まるで自分もお客様になったかのように恐縮し始めた。彼の立場からすれば、由美が自分の側についていてくれると思うと心強い。隆子はそれでいいと思ったが、洋子はすでに由美は妹ではなくなり、現れた男の彼女の立場を表に出しているのは気に喰わなかった。

「ご紹介しますね。私の職場に出入りしている営業の、緒方裕也さんです」

 と、姉二人に向かって紹介すると、隆子は素直に頭を下げただけだが、洋子は頭を下げながら視線は裕也を捉えたままだった。裕也も洋子の視線に気付いていたのだろうが、別に意識することはなかった。

「こちらは、私の二人の姉になります」

 というと、姉二人は自己紹介をしながら、彼を見つめた。少しぎこちなさはあったが、それを由美は楽しそうに見つめていた。自分のことでまわりの人がぎこちなく動いてくれることに快感を感じているようだ。

 裕也を見つめる目は、洋子の方がずっと鋭かった。時々訝しそうに見つめる目は、自分が知っている人に似ていることを示唆しているかのようにも思え、裕也もその視線を感じていたが、わざとなのか洋子の視線をうまくやり過ごしているように思えた。

 そんな二人の間の空気を、由美は感じていた。洋子の中に何か引っかかりがあることを、合わせる前から知っていたような気がする。

 裕也は、洋子の視線を意識していたが、隆子をまったく意識していないようだ。自分から避けているような感じで、ひょっとすると裕也は隆子のような女性が苦手なのかも知れない。

 隆子が避けているのを、裕也が感じ取って、お互いに探りを入れているという考えもある。ただ、隆子は結果的に由美に対して、彼のことで触れることはなかった。妹の彼氏としてふさわしくないと思うのであれば、少しは何かを話してもいいのだろうが、何も話さないというのは、いかがなものだろう? 隆子自身、彼との間の間隔を、少しでも広げておこうと思っているように感じられた。

 姉たちの様子を見ていて、由美は楽しそうだ。

 それはまるで、姉たちの態度を試すために彼を連れてきたのではないかと思うほどで、そういえば、バーに連れていってくれた時も、あの時は、楽しい雰囲気だっただけに必要以上のことに疑念を感じなかったが、今から思えば、あれも由美の中に何か考えがあってのことだったのではないかと疑ってみれば疑えないこともなかった。

「態度を試してみたかった」

 という考えも、当たららずとも遠からじではないだろうか。

 ただ、由美が意識しているのは隆子ではなく洋子の方だった。

 洋子のほうも由美が意識しているということを分かっているのか、ぎこちなさをなるべく表に出さないようにしようとしているが、そういう小細工は苦手なのか、ごまかそうとすればするほど、余計ぎこちなくなる洋子だった。

 洋子は小細工が苦手だが、不器用ではない。そう思うと、やはり由美と裕也の間の関係と自分との間に、何かの接点を感じているに違いない。

 静かなる喧騒とした雰囲気の中、まるでリンがひとだまとなって冷たく燃えるような空気が、部屋には充満していた。それを一番感じていたのは由美であり、それを分かっていながら微笑んでいるその表情は、ゾッとするほどだったに違いない……。

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