終幕 旅路の果てに〈1〉
止まっていた時間が動き出す。
夏が過ぎ、重く濃かった青い空は秋の色に変わっている。
香の匂いが立ち上がる。両脇に花が飾られ、気持ちばかりのお菓子が添えられていた。一度来たきり訪れることができなかった場所に少年は立っていた。
盆も過ぎてしまった時期外れの墓参り。三浦家と書かれた墓石の下で眠るのは養父母だ。綺麗に整えられた墓の前に拓海は屈み込む。
「……全然来れなくてごめん。怒ってるかな」
そんなことは言わないと思いつつも、ついつい自責するような言葉が零れてしまう。こんな話がしたかったんじゃなかったのだと、拓海は苦笑いを浮かべた。
「短い間に色々あったよ。いっぱいあり過ぎて、上手く話せないんだけど」
すべての命と記憶は海に還る。ならばここで語ることはあまり意味がないのかもしれない。けれど、どうしても話したかった。たくさんの出来事があって、自身の許容量を遥かに超えていたからだろうか。拙いながらも墓前に報告をする。
養父母の事故から五年の歳月が経った。もう少しで二人と過ごした年月を越してしまうと思うと少し寂しかった。養父母と過ごした日々は短くて、時折本当にあったのかと夢現に見てしまう。
「ここまで短いのに、本当に今まで色々あったなあって。……これから先はもっと笑って生きられるかな。みんなと笑って生きていっても……いいかな?」
「拓海」
声をかけられて拓海は振り返る。義明の姿を見て拓海はすぐに立ち上がった。自分より先に逝ってしまった息子の墓を見るのは辛いだろうに、義明はずっとここに足を運んでいた。心配そうにしつつも笑みを浮かべる。
「大丈夫か?」
「うん。大丈夫。時間くれてありがと。今度のお盆はちゃんと一緒に来るよ」
それを聞いて義明は拓海の頭に軽く手を乗せる。無理をしなくてもいいと言うように。
気恥ずかしさはあるが、今は不思議と心を落ち着かせてくれた。自然と顔が綻ぶ。義明の手から逃れると、拓海は打って変わって自信に満ちた笑顔を浮かべた。
「じいちゃん、今日帰ったら試食してよ。今度こそ合格点もらうから」
「それは楽しみだ」
そんな会話をしながら二人は墓前を後にする。爽やかな香の匂いが立ち上がって、秋風に流れていった。
髪型を整え、服装に乱れがないか上から下まで目を通す。
いつも以上に身なりに気を使って、忘れ物がないか確認をした。手土産も忘れずに。そうこうしているうちに家を出なければならない時間になっていて、慌てて桃香は鞄を片手に靴を履く。
「気をつけてね」
「うん。行ってきます!」
母への挨拶もそこそこに家を飛び出す。待ち合わせの時間には十分間に合うのだが、とにかく気が急いていた。どくどくと心臓が煩いのはきっと走っているせいだけではない。
電車に乗ってからはそわそわして落ち着かなかった。車窓を流れていく秋空に想いを馳せる。空は秋めいた色で、急く心を撫でてくれた。
長いこと電車に揺られて目的地にたどり着く。待ち合わせの改札口の先で背の高い少年を見つけた。見慣れた少年のそばにもう一つの人の姿があって、不意に体が強張る。
心に抱くのは期待と不安と、少しの怖れ。それでも、会いたいという言葉に応じてくれたことを信じて一歩前に踏み出す。引っ越した先も知らなかったから、もう二度と会えないと思っていた。それでも縁は切れなかった。見守ってくれていた少年がずっと繋げてくれていたから。
「桃香」
少年がこちらに気がついて手を挙げた。二人が並ぶ姿が懐かしい。昔に戻ったみたいだなんて思ってしまったが、あの頃とは違う。何もかもが違う。けれど、これから新しく築ける関係もあると思っている。
桃香は少年に応えるために手を挙げる。ああ随分大人っぽくなったなと思いながら、並び立つ少女のもとに足を進めた。
天を眺める。水面が揺らめき、絶えず形を変える光が道行く人々に降り注ぐ。水の中を様々な種類の生き物が悠々と泳いでいった。水面を水中から見上げるという光景が白と青の世界を想起させる。海に神秘的なものと畏怖を感じるのは記憶に由来するのだろうかと、修司はトンネル型の水槽を見上げながら想いを馳せた。
「お兄ちゃん」
声をかけられて視線を下に戻す。どうやらいつの間にか距離が空いていたようだ。修司は先を歩く黒髪の少年とショートボブの少女のもとに向かった。
兄弟とは別居後は数ヶ月に一度ほどの頻度で会っていた。今日は兄弟だけで出かけたいという話になって、妹の
色鮮やかな熱帯魚、ふわふわと水を漂う
せっかくなら見ようよと言われてイルカのショーを見てから昼食を取る。昼食の時間帯を過ぎているのにもかかわらず客が多い。昼食をとりながら真央がずいと迫ってきた。
「お兄ちゃん、ちゃんとご飯食べてる?」
「食べてるよ」
いつしか律ともしたやりとりだ。真央はまるで言い分を信じていないようで眉根を寄せる。
「本当? 時間がないのも面倒で料理しようと思わないのも分かるけど、適当に買って食べるだけじゃ駄目だからね。そんなんじゃ、ちゃんと食べてるとか言わないから」
「……」
「……お兄ちゃん?」
真央は黙秘する兄をじとりと見据えた。別居前もしっかりしていると思っていたが、ここ最近は輪をかけている気がする。家のことを任せきりだった父と弓道や学校の課題にかまけきりだった兄。この二人での生活がどうなるかといえば言わずもがなである。
「やっぱり心配すぎる。……ねえ、どうするつもりなの?」
湧いて出てきたのはこれからの話。進路などのこともあって、修司は父と母のどちらが親権を持つか意見を求められていた。それが決まれば正式に離婚が決まる。
母が親権を持つとなると引っ越さなければならなくなる。弓道場は探せばあるだろうし、環境が変わるのは致し方ないと理解している。しかし、できるならまだ今の道場で指導を受けたいと考えていた修司にとっては悩ましい話だった。加えて、母に子供一人分の負担が増えるという憂慮もある。まさか出かけ先でこんな話をするとは思っておらず、修司は困ったように口を開く。
「真央、その話は……」
「お兄ちゃんはどうしたいの? 今のところで頑張りたいんでしょ?」
そう二人の間に割って入ったのは律だった。いつもの柔和さが消え、真剣な顔をしていた。畳み掛けるような問いに修司は口籠る。
「それは……」
「やりたいなら僕はやってほしい。ずっと頑張ってたんだもん。部活だって今ならまだ大きい大会だって出られると思う。家のこととかあるから大変だと思うけど……。でも、大会に出てるところ、やっぱり見たいよ」
兄弟が離れることに一番不安を感じていたのが律だというのに、そんなそぶりなど一切見せずに言い切った。そんな彼に修司は言葉を詰まらせる。沈黙を続ける二人を見て、真央が嘆息しながら頬杖をついた。
「……律にそう言われちゃうと、なんだか私が度が過ぎたお節介みたいだなぁ」
「え、そ、そんなつもりじゃ……」
真央の発言に律はハッとして狼狽る。冗談だよと言うと、真央は修司に向かって笑ってみせた。
「私だって、お兄ちゃんには弓道やってて欲しいし、大会出てるところ見たいって思ってたもん。また入賞してくれたら、みんなに自慢したい。この人が私のお兄ちゃんなんだよって」
思いがけない二人の言葉に修司は目を見張る。こういう機会でもなければ聞けなかったかもしれない思い。背中を押される安堵と嬉しさに修司は微苦笑を浮かべる。
「……そうか」
すべてのものは流れ行く時と共に形を変える。きっとそれは揺るぎないのだろう。それでも、自身が思い続ければこの繋がりは変わらない。
背を押してくれた弟と妹のためにも、いま自分ができることをしたいと思った。
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