第120話 残夏の夢〈4〉

「ああ」


 和真は腕を伸ばし、零の手を取る。

 瞬間、視界は黒に染まり、今まで感じたことのない寒気が体を駆け巡った。一拍を置いて全身が引き裂かれるような痛みに襲われる。それでも掴んだ手は離さない。痛みを堪え、周りに誰がいるかも認識できないまま、当てのない黒の海を渡る。


 唐突に頭を殴られたような痛みに襲われて、和真は頭に手を当てる。立て続けに吐き気が込み上げてくる。全身を侵食してくるようなこの感覚は恐らく負の記憶と感情なのだろう。体が冷えていく感覚と共に鈍痛に襲われ、ふっと意識が遠のきかける。


 不意に重苦しかった体が軽くなり、遠のいていた意識が引き戻された。いつの間にか隣で朱音が腕に手を添えていた。柔らかい光と共に。


『みんないるから』


 すべてを賭してでも譲れないものがあると知った。力及ばずとも道が開けると、できる限りを尽くして待ち続ける直向ひたむきさを教えられた。誰も信じてくれなかったことを信じ続けてくれた人がいた。

 実直に向き合ってくれて、逆境にも笑顔を忘れず、孤独に心を寄せてくれた。

 何よりも、この世界でもう一度生きたいと思わせてくれた。


 感覚を取り戻す。姿が見えなくても、確実に繋がりがある者たちがここにいる。そう感じられればそれで十分だった。


「行こう」


 登っていく。深く落ちてしまった底の世界から、上へと。

 上へ行くにつれ、徐々に胸苦しさが出てきた。自分の中から何かが零れ落ちていくのを感じる。早く光が欲しいと思った。黒の世界を彩る光が。

 一つの水面を越え、ぐらりと強烈な目眩に襲われる。視界が再び暗転しかけた時だった。


「やっぱり君は無茶するね」


 体を支えてくれた人を見て、和真は息を呑む。そこにいたのは同じ年ぐらいの黒髪の少年だった。

 零はふわりと笑うと体を離す。そこでようやく辺りに意識が向いた。彼は目の前にそびえ立つものを見て目を細める。一陣の風が頬を優しく撫でていった。


「まさかここまで来るとは思わなかったよ」


 透明な大樹が佇むエメラルドグリーンの海。透明な葉がさざめいて反射し、水面に光を落とす。それはすべての命と記憶が還る場所。


「すげぇ……」


 俊が思わずと言った様子で呟く。大樹と海を見たことのない者たちは、えも言われぬ光景に目を奪われていた。


「そっちも無事に僕から引き上げられたみたいだね」


 ハッとして和真は零の視線を追う。白浜に座り込む玖島と茉白のそばには一人の青年が横たわっていた。茉白が心底安心したように手を握りしめている。


「終わったね」


 そう言って微笑む零の体は微かに透けている。魚が消える時と同じ虹色の光が舞い始めていた。

 確かに彼は人ではなかったかもしれない。けれど、記憶には確かに彼の存在があって、消え行くのを見るとどうしようもなく苦しくなる。零は胸元に手を当て、とても寂しそうな顔をした。


「そんな顔をしないでよ。海に還るだけだ。僕を形作った命がここにあるから戻らないとね。……でもできるなら、もう少し君と……一緒にいてみたかった」


 確かにこれで物事のすべてが帰結する。しかし、これですべてが絶たれるとは思えなかった。

 ここは数多の世界が繋がる記憶の海。きっと望めば彼と会える。この世界でもたらされた縁で。何処とも知らない世界で、新しい関係のまま一緒に歩ける。そう思う。思えばきっとそれが未来を形作るから。


「また会えるよ」


 零は驚いて目を見開き、ふわりと笑った。彼は距離を埋め、和真の手を取って肩に額を寄せる。透ける手に触れられるのはきっとこれが最後だ。


「これは君に託されたものだ。ちゃんと受け取って」


 温かいものが体に流れ込んでくるのを感じた。朧げになってしまった声と共に。


 ——いつだって和真の味方だよ。


 最期の最期にそう思いながら、父は逝った。

 託されたのはいつか交わした言葉と命。あの日、泣き尽くしたと思ったのに、いつの間にか涙が流れていた。震える肩をぎゅっと抱きしめられる。


「人ではない僕を友達と言ってくれて、ありがとう。君と——君たちと、会えてよかった」


 少年の体が光で溢れる。虹色の光が弾けて離散した瞬間、眩い光に視界が覆われて浮遊感に包まれた。

 声が聞こえる。

 またねと。

 声が届かないと思っていたクジラは、虹の光となって空に溶けていった。




 * * *



 視界に入るのは夏の面影を残す秋の空。少し褪めた青空と秋の香りが混じる空気が出迎える。


 まだぼんやりする頭のまま、体を起こす。辺りを見渡すと海を渡る前の公園にいるようだった。陽はあまり高くなく人通りも少ない。現実世界に戻ってきたのだと思うが、何故か実感があまりなくて和真は自身の手を見つめた。

 手を握って開く。何の不自由もなく動いた。それに伴ってゆっくりと自身が生きていることを感じ始める。そうして、体から抜け落ちてしまったものが埋められていると感じて、じわりと胸が苦しくなった。瞬間、快活な声が耳を貫く。


「和真君、ちゃんと生きてるよね⁉️」

「何ともない⁉️」


 いつの間にか目の前には桃香と拓海が迫っていた。二人に勢いよく詰め寄られ、何も答えられないまま和真は硬直する。しかし、それも束の間。修司が無言で二人の腕を取り、ずるずると引き剥がしていった。視界が開けたところで和真は周りを一瞥する。


 誰一人欠けることなく皆がそこにいた。そこでようやく帰ってきたんだと、すべてが終わったのだと実感する。その中で朱音が座り込んだまま、どこかぼんやりとした様子で和真を見ていた。

 きちんと皆に礼を言わないといけない。そう思ったにもかかわらず、意に反して体が動いていた。和真は立ち上がって朱音の元に歩み寄ると屈み込んで向き合った。


「今まで助けてくれて、本当にありがとう」


 言葉だけでは足りないことは分かっている。それでも、今この時にできる限りの思いを伝えたかった。


「五十嵐のことが好きだ。俺はあんまり頼りにならないかもしれないけど、これから先、五十嵐と一緒に生きていきたいって思ってる」


 朱音がゆっくりと目を見張る。一筋の涙が頬を伝った途端、首に腕を回されて和真は慌てて朱音の体を支えた。勢いに押されて座り込んだ和真の肩で、朱音はぽろぽろと涙を流す。

 和真はその背にふわりと手を回した。安堵と喜びと温もりが体に伝わってくる。


「あーあ。見せつけてくれちゃって」


 そう言いながらも、俊は胡座あぐらの上に頬杖をついて嬉しそうに眺める。少し離れた場所で茉白が驚いた様子で口元に手を当て、微かに頬に朱を注いだ。

 その隣で玖島は自身の手を眺めていた。立てた片膝に腕を乗せて、和真たちを見ながらぽつりと呟く。


「……奇跡、起こしちゃったねぇ」


 そんな独白に近い呟きは溌剌はつらつとした声の主に拾われた。


「なに言っているんですか、玖島さん」


 玖島の言葉を拾ったのは桃香だ。彼女のそばには勝ち誇ったように笑う拓海と嘆息する修司がいる。何事かと三人を見つめる玖島に対して、桃香は満面の笑みを浮かべてみせた。


「これは奇跡でも偶然でもなく、必然です!」


 桃香の言葉に玖島は大きく目を見開く。次いで目を伏せると笑った。

 それはとても穏やかで、淡い笑みだった。


「……本当に、君たちには敵わないな」

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