第119話 残夏の夢〈3〉

 零の表情にわずかに郷愁が漂う。冷たく見せようとしているが、彼の中には確実に負の記憶と感情以外のものがあるのだと感じた。それを証明するかのような言葉が続く。


「和真は変わらずお人好しなんだね。でもダメだよ。きっと僕は君を喰らう。喰われた人を解放したいのなら、僕を消すのが一番安全で確実だよ」


「私たちがいたとしても?」


 朱音の問いを受けて零は和真の後方に並び立つ者を一瞥する。それでも彼の答えは揺るがなかった。


「縁があったとしても君たちはあくまで補助的に力を貸せるだけだ。もう少ないけど、僕は人の命を喰らっている。それでも僕をここから引き上げる気なら、誰かひとつ分の命はあったほうがいい。その命の代わりに僕を引き上げることはできるかもしれない」


 それはできないでしょうと言わんばかりに零は薄く笑う。

 言うまでもなく彼の提案を受け入れることはできない。しかし、望めば零を引き上げることができるにしても、彼がここから動く意思がなければ不確定要素が強くなる。どうすべきかと思いを巡らせた時だった。


「俺を使うといいよ」


 唐突な発言に和真は驚いて玖島を見た。視線の先の玖島はいつも通り感情が読めない笑みを浮かべている。


「彼が言う通り、得たいものを得るのなら等しく価値があるものを差し出すものだ。その通りにすればいい」


「そんなのおかしいです!」

「初めからそのつもりだったんだ」


 玖島は桃香の主張を一蹴する。その声は実に泰然としていて、死に行こうとしている人の言葉には聞こえなかった。


「どうして……」


 困惑した様子の朱音に玖島は酷薄めいた笑みを浮かべつつも、軽い調子で返す。


「透が元に戻ればそれでよかった。それに、俺がいると何かと面倒なことが多くてね。俺も面倒なことから解放されるし、透も元に戻る。色々と都合がいい——」


 そう言いかけた途端、ここにいるはずのない人物が視界に入って玖島は声を上げた。


「茉白⁉️」


 いつの間にか桃香のそばに茉白が立っていた。玖島は咄嗟に桃香を鋭く睨みつける。しかし、桃香は動揺を見せるどころか、玖島の視線を真正面から迎え撃った。恐らく、彼女が何かしら特殊な空間を形成して茉白をここに同伴させたのだろう。


 玖島は桃香を睨みつけたまま歩き出す。その間に茉白が割って入ったが、玖島は彼女の肩を少し乱暴に掴んで退けた。その次の瞬間、力強く胸元を引き寄せられて、玖島は視線の向く先を強制的に変えられた。茉白がまなじりを吊り上げて玖島に迫る。


「どうして! どうして、いつも一人で全部やろうとするの……⁉ 私が頼りないのは分かってるけど、透君を助けたいと思ってたのは、楽君だけじゃないんだよ!」


 普段の彼女からは想像できないような大声が響き渡る。玖島は口を開きかけて動きを止めた。声を詰まらせた茉白がぽろぽろと大粒の涙を溢れさせたからだ。茉白は掴んだ胸元に頭を寄せる。


「間違ってるよ……。……自分を蔑ろにして助けてもらっても、透君も私も……嬉しくないよ……」


 服を掴む手に力が籠った。嗚咽と共に涙を流す茉白を見て、玖島は居た堪れなさそうに視線を下げる。重苦しい空気がその場を占拠しかけた、その時だった。


「お前もだよ、バーカ」


 聞き慣れた声が聞こえたと思った途端、和真は容赦なく背中を蹴られた。倒れそうになったところを危うく踏みとどまって振り返る。


さとし⁉️」


 和真を蹴り飛ばしたのは俊だった。茉白と同じようにここに来たのだと理解したのは数秒ほど時間を置いてからだ。


「ほんと、話してくれないのな」


 和真も俊の指摘に言葉を詰まらせてわずかに俯く。しかし、すぐに頭を平手打ちされて顔を上げることとなった。顔を上げた先の俊は真剣な表情をしていた。


「四宮から話は聞いた。最後ぐらい、カッコつけさせろよな」


 本当に今更すぎると思った。


 信じられないような自分の話を彼はずっと信じてくれた。人を信じようと思い続けられたのは彼がいたからだ。死地に向かうと話すのが憚られて秘していたというのに、彼は最後まで自分を気にかけてくれていた。胸が苦しくなる。そんな幼馴染みに返せる言葉は一つしかない。


「……ああ。本当に、ありがとう」


 それから茉白の涙が止まるまでしばらく皆で待った。涙を止めた彼女は落ち着いたところで深く頭を下げる。


「ごめんなさい。迷惑をかけて」

「いえ……」


 茉白は改めて玖島に体を向けると、彼の手を両手で包んでぎゅっと握った。視線を上げられないまま、それでも訴えかけるように話しかける。


「楽君。私たちが透君を引き上げようよ。透君と縁が深いのは私たちでしょう? 透君だけでも私たちが助けられれば、和真君の負担が軽くなるんじゃないかって思うから……」


 静かに並ぶ言の葉。けれど、そこに悲壮感はなく、ただ自身ができることを成したいという意志が込められていた。玖島は観念したようにため息をつく。


「……分かったよ」


 それを見て和真は改めて零に向き直る。


「本当にやるつもり?」


 集った者たちを見て、彼は半ば呆れたような声を発した。けれど、それは理解し難いというよりも純粋にどうしてという疑問が強かったように感じた。和真はそれに真っ直ぐ応える。


「そのつもりだ」

「後悔しても知らないよ」

「後悔しないよ、俺は」


 和真の返答を聞いて零は目を見開き、次いで深く俯いた。


「君は、本当に……」


 零れ落ちた言葉は静かに空気に溶けゆく。まるで何かを予感させるかのように深海がさざめいた。

 零が顔を上げる。先ほどまでとは違って、瞳にはっきりとした感情が宿る。それは深海から出るための意志だ。


「連れて行ってよ。記憶の海の表層に」

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