第118話 残夏の夢〈2〉

 その願いは重なり呼応する。願いは世界と海の境界を曖昧にして繋いだ。いつの間にか藍墨色の世界に色彩が滲む。境内で女性が血塗れの少年を抱えて泣いていた。


 いなくならないで。君が生きてくれるなら、僕はなんだってする。


「あなたの命をください」


 いつしか招かれた家で会ったその人は少年の祖母だという。袖が触れ合うほどのわずかな邂逅。それでも、自身と海と繋がるには十分すぎるほどの縁と願いを抱えていた。その人の涙は溢れて止まらない。


『……ああ、この子が生きていてくれるなら。私の命なんか——いくらでもあげるよ』


 願いと共に生み出されたのは世界と海を繋ぐ透明な魚。魚は自身の命と女性の命を可能な限り喰らって、少年の中に溶けて消えた。少年の命を繋ぐには自分の命だけでは足りなかったのだ。


捌幡やつはたさんのお孫さん見つかったって——』

『おい、救急車! 救急車呼んでくれ!』


 喧騒が聞こえる。けれど、水の中から聞いているかのように遠い。当たり前だ。力を使いすぎたのだから。

 それでも、少年に命を与えてくれた彼女の最後だけは見届けたかった。浮遊する魚を通して、彼女が一幕を下ろす瞬間を待った。


 西日差す、彼時かれどき。それは魔物に遭遇する逢魔おうまが時。大きなわざわいが起こるといわれる刻限、そこにいた。


「それに触れてはいけないよ」


 彼女はそう少年に言った。それは正しい言伝。もうこのまま禍には触れずにいた方がいい。彼女が海に還ったら眠ろう。

 かたんと病室の扉が開く。一人の男性が部屋に中に入ってきた。よく見ると鳶色の髪の男性は少年とよく似ていた。男性は少年のもとに屈むとそっと頭を撫でる。


「待たせてごめん。お客さん帰ったからね」


 少年は祖母が眠るベッドに視線を向けたまま男性に縋りついた。


「和真、どうした?」

「とうめいな魚……」


 少年はそれだけ言って口を閉ざした。ぎゅっと首筋に抱きついてきた少年の背をさすると、男性は彼を抱き抱えて立ち上がる。


「そろそろ先生とお母さんのお話も終わるだろうから、行こうか」


 少年を抱えたまま男性は部屋を後にする。病室は静寂に包まれていたが、やがて男性が戻ってきた。

 戻ってきた時は彼一人だった。ベッド脇に設えられている椅子に腰掛ける。静謐の時を経てお義母さんと声をかけると、彼は穏やかに話し始めた。


「和真は僕に似たんでしょうね。人には見えないものを見ている」


 男性の言葉に彼女は目を見開いた。彼女と少年しか見えないはずの魚。それを彼は目に捉えていた。不明瞭だった女性の言葉が少年と約束を交わした時よりも明瞭になる。


「あれが見える……?」

「透明な魚がたくさんいますね」


 静かに返された言葉を聞いて、たちまち涙が瞳から零れた。


「ごめんなさい……私が悪いの。私が目を離さなかったら、あんな目には……」

「何があったんですか?」


 男性の問いに女性は言葉を飲み込む。口にするのも憚るのだろう。思い返しても胸が張り裂けそうになる。彼女の命をもらったから、よりいっそうそう感じたのかもしれない。


「この魚のせいなんですか?」


「違う……。これは悪い子ではないの。……でも、できるなら触れないでほしい。あの子にはもっと幸せに、生きてほしい……」


 返ってきた答えに男性は沈黙する。経緯は分からないけれど、想像しているより異常なことが起きていると感じていたのかもしれない。彼は長い沈黙の後、宙に浮く魚に手を伸ばした。

 女性は唖然とした様子でそれを見る。同じように自分も驚いた。透き通って触れられないはずの魚に手が触れたのだから。


 目の当たりにして理解した。子供ですらほとんど見ることができないものを今も見られる。そう、彼は記憶の海と強い縁を持つ人だった。

 わずかに顔をしかめるも、男性は虚空の魚に手を伸ばし続ける。やがて手を離した彼ははっきりとした言葉で彼女に告げた。


「この魚を僕に任せてくれませんか」


 そうして透明な魚が彼の命を喰むのを見届けながら、深海の底で眠りについた。

 けれど、時が経てば記憶が蓄積する。蓄積した記憶に引き寄せられて目が覚めた。深海でただ一人目を覚ました時、ぼんやりと思ったのだ。

 ひとりぼっちは寂しいと。誰かそばにいてほしいと。

 そうして誰にも届かない声を上げた。世界一孤独なクジラを生み落として。




 * * *




 少年は深海でただ一人、膝を抱えて宙にとどまっていた。

 出会った頃の幼い姿だった。気配を感じたのか、零はゆっくりと顔を上げて笑みを浮かべる。それはとても皮肉に満ちた笑顔だった。


「僕を消しにきたの?」

「違うよ。会いに来たんだ。約束しただろ?」


 零の表情がわずかに驚きの色に染まる。次いで覗いた笑みは昔と変わらない柔らかなものだった。


「……そうだね。そんなこともあったかもしれない」


 しかし、彼はそれをすぐに潜めた。抱えていた膝を解放して宙に立つ。代わりに現れた冷たい視線はいっそ寒々しかった。それでも和真は変わらずに声をかけ、手を伸ばす。


「ここを出よう。そのために来たんだ」


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