終幕 旅路の果てに〈2〉

「……それで、楽。また一人で突っ走ったんだって?」


 軽く頭元を上げたベッドの上からそう問いかけられる。

 この上なく居心地が悪い。玖島は向けられる視線から目を逸らし続ける。逃げようにも茉白が外で出入り口を占拠しているので逃げられない。


 至って普通のように話しているが、目を覚ました透は長期の療養でかなり体力が落ちていた。久し振りに目にした彼はだいぶ痩せてしまっていて、元気だった頃を思うと居た堪れない気持ちになる。目眩もひどく、今は少しベッドを上げるだけでも精一杯という状況だ。それでも目を覚ましたという現実は彼の周りの人たちを大いに喜ばせた。


「それに全然会いに来てくれなかったって聞いたよ。親友としてそれはさすがに寂しすぎないかな。僕は君が怪我をした時、心配で仕方なかったのに」


 立て続けの口撃にぐうの音も出ない。目を覚ましてからそう間もないのにこの説教である。本当に今まで目を覚まさなかったのかと疑いたくなるような光景だ。ただ、以前と変わりない様子がかえって安心感をもたらしてくれた。不意に透の表情が真剣なものへと様変わりする。


「茉白から聞いた。無茶をして僕を助けようとしてくれたこと。……でも、茉白の言う通り、そんなことをして助けてもらっても、僕は嬉しくない」


 はっきりと突きつけられた言葉に玖島は視線を落とす。瞬く間に部屋は深い静寂に包まれた。息苦しさを伴う沈黙が続いたあと、透は視線を玖島から外す。


「こんなことを言うと怒られるかもしれないけど、僕はなんでもできる楽が羨ましかった。根も葉もないことを言われたり、大変なことばっかりだったと思うのに、周りの声に揺るがないでいられるところに……憧れてた。楽がいなくなったら僕は寂しいよ。茉白だってそうだ」


 とても寂しそうな声が耳に響いた。声に惹かれるように玖島は視線を上げる。目の前の透は穏やかな笑みを湛えていた。


「……楽はなんでもできるから、僕の助けなんて必要ないかもしれない。だけど、一緒に悩むことぐらいはできると思う。だからさ、茉白のお父さんと話してみようよ。話さないと……きっと分からないままだよ」


 話をしようと言っていたのはこのことだったのかと、今更ながらに知る。

 話さないと分からない。それはいつしか聞いた彼の行動理念。辛くも懐かしいそれはひどく身に沁みた。かけられる声に耳を塞ぎ、家を飛び出してしまったあの日から時が止まってしまっていたから。


「……本当に、相変わらず人のことばっかりだな」


 何よりも、自分のことより人のことを気にかける姿が懐かしくも苦しかった。




 * * *




 記憶の海を渡ってから一週間経った。

 和真は待ち合わせのために新宿駅へと向かう。海から戻った後の近況を報告するために五人で集まるのだ。待ち合わせの新宿駅の東口は相変わらず混雑している。


 もう街中で透明な魚を見ることはなくなった。安堵しつつも少しだけ寂しく感じてしまう。ただ、風を感じることはできるので異能は残っているのだろう。それだけが今まで起こったことが夢ではなかったと思わせてくれた。

 五人集まったところでファミレスに向かう。歩き始めてすぐに桃香が残念そうな声を上げた。


「夏、終わっちゃったね。色々したかったなぁ。海行ったり、花火見たり、お祭り行ったり。いろいろイベントあるから楽しみだったんだけどなぁ」


 誰にともなく漏らした言葉は思いがけない人に拾われた。


「それなら海にでも行くか?」


 そう言ったのは修司だ。思いがけない提案に桃香は目を瞬かせる。


「え? でも……」


「……別に、入らなければ問題ないだろ」


 海が苦手なのにもかかわらず提案してくれるということがなんだか嬉しくて、和真は二つ返事をする。


「二見がいいなら、行ってみたいな」


 修司曰く、海の水は入れ替わるのに二ヶ月かかるので、九月の末の今でも温かいらしい。シーズンも過ぎ、人も少なくなっているから穴場なのかもしれない。修司の提案に桃香も嬉しそうににこにこと笑う。


「それなら、夜まで遊び倒して最後は花火やりたいなー。私、線香花火好きなんだよね。情緒を感じるというか」


「え」


 桃香の発言に拓海がなんとも言えない声を上げた。次いで修司が神妙そうな表情して呟く。


「……四宮に情緒っていう言葉があったんだな」


「待って、二人とも。特に修司君、それはひどくない?」


 だって意外すぎるでしょと拓海が遠い目をして返す。確かに今までの言動からみて、桃香と情緒という言葉はなかなか結び付かない。わいわいと前で言い合う拓海と桃香を見守りながら、和真は隣に立つ朱音に声をかける。


「五十嵐は何かやりたいこととかあるか?」


 唐突に振られたので驚いたのだろう。朱音はパッと視線を向けた。それからしばらく考え込んでいたが、やがて躊躇いがちに口を開く。


「えっと、私は……みんなの写真が撮りたい、かな……」


 朱音の発言に和真は目を見張る。嬉しくて自然と笑みが浮かんでいた。


「……そっか。楽しみだな」


 少しずつ止まってしまっていたものが動き始めている。変わっていくことに不安がないとは言わないが、今はこれから起こることに期待が膨らんだ。話を聞いていたのだろうか、桃香が歩みを緩めて振り返る。


「和真君は何かしたいことある?」

「うーん。特には……」

「嘘でしょー。海だよ? 何か一つぐらいはあるよ」


 話をはぐらかそうとしたが、逃さないのが桃香である。むしろ興味津々といった様子で和真と朱音のそばに近づいてきた。その様子を呆れた様子で修司が目で追う。桃香に詰め寄られると逃げられない気分になるのは何故なのだろう。


「いや、俺がしたいっていうものじゃないから……」

「なになに?」


 なおも桃香は追及をやめない。何も言わないままでいたらいらぬ誤解を受けそうな気がして、和真は素直に答えた。


「……えっと。花火するなら、浴衣着てほしいなって……」


 朱音がえっと言ったのを聞いて、気恥ずかしさから思わず視線を逸らせた。桃香はパッと笑顔を咲かせて自信たっぷりに宣言する。


「いいね! 私、張り切って準備しちゃうよ。楽しみにしてて!」


 そういうや否や、すかさず桃香は朱音の腕を取って歩みを早めた。和真と少し距離を空けたところで小声で話し始める。


「朱音さん。浴衣もいいですけど、せっかく海に行くなら水着も着ちゃいましょうよ」

「え、で、でも……」


 思ってもみなかった提案に朱音は困り果ててしまう。桃香には交通事故の怪我のため服装に気を使っていると話していたからだ。そんな朱音に反して、桃香はふわりと笑う。


「今は可愛くて肌が結構隠れるものもありますよ。あと、私のお母さん化粧品の販売員なんです。メイクも詳しいし特殊メイクとかの業界とも繋がりあるので、相談乗ってくれると思うんです。これからいっぱい楽しんじゃいましょうよ」


 朱音は再び目を丸くする。しかし、それも束の間。明るい笑顔につられるように顔が綻んだ。桃香の提案に朱音はそうねと相槌を返す。


「……なに話してるんだ」


 和真は唐突に離れて話をし始めた二人に向かって問いただす。嫌な予感がしたが、桃香は何事もなかったように笑ってみせた。


「どんな浴衣にしようかな〜っていう相談だよ。和真君たちもどうかなって。うん、ほんと楽しみ!」


「俺もこうやって誰かと出かけるの久し振りだから、楽しみ」


 桃香の言葉に拓海も淡く笑う。喫茶店を営む祖父と二人では遊びに出かける機会もなかったのだろう。そう思うとよりいっそう楽しみが増えた。


「……色々決めなきゃいけないことがあるけどな」


 修司の呟きにそれが楽しいんじゃないと桃香が笑う。近況報告の後は出かけるための相談で話が盛り上がりそうだ。夏の色を微かに残す青空の中、秋の香りがする爽やかな風が通り抜けた。







 潮騒が聞こえる。

 柔らかい潮の香りと寄せては返す波。

 時期を過ぎたはずの海は迎え入れるように温かい。それでもここは海だと水の塩辛さが主張する。水が肌を濡らし、風が肌を撫で、乾いた砂が足につく。夜に瞬く線香花火は一瞬強く光り輝いて燃え尽きた。

 そんな石火のような一生。それでもこの記憶はきっと色褪せずに残り続ける。

 これは、春の終わりからひと夏を越すまでのほんの短い記憶と記録。





 ——その時、確かに僕らは生きていた。



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