第116話 塞ぐ耳〈4〉

 その願いは叶うことなく、目を覚ました時には病院のベッドの上にいた。当然ではあるが、病室には誰もいない。祖父母に連絡はいったのだろうか。入院費はどれくらいになるんだろうかなど、目が覚めたばかりなのに現実的な思考ばかり訪れてきて嫌になる。そんな思考から逃れるように眠りに落ちた。再び目を覚ました時には透が面会に来ていた。


「目が覚めてよかった……。……本当にごめん」


 縋るように謝られたけれど、思考が回らずいまいち実感がなかった。しかし、ぼんやりしていた頭はすぐさま叩き起こされることとなる。


 透の後方に得体の知れない透明な魚が浮遊していた。理解ができなくて、それを凝視してしまう。透明な魚はふわりと尾鰭を揺らすと、宙に溶けるように消えていった。一点を見つめる自分を不思議に思ったのか、透が不安そうに声をかける。


「……楽?」

「……なんでもない。ちょっと疲れているみたいだ」


 休ませてくれと強く言うと、改めて来ると告げて透は部屋を後にした。

 それからも、ふとした時に透明な魚を見るようになった。自分以外には見えないらしいそれに、強烈な不安を抱く。知っている世界なのにまるで見知らぬ場所に来たような感覚だった。


 入院して一週間半ほど経ったところだった。聴取なども一旦落ち着き、痛みも怪我もだいぶ落ち着いている。しかし、依然見える得体の知れない魚の存在のせいでだいぶ気が滅入っていた。頭を打ったせいかと思ったが、検査では頭部に異常はないらしい。ますます困惑するだけで、鬱々とした気分に苛まれる。そんな中、面会に来た透が躊躇いがちに尋ねた。


「……あのさ、楽。会って欲しい人がいるんだけど」

「茉白なら会わない」


 視線を外し、要望をすっぱりと切り捨てる。入院以来、透から茉白が面会したいと言っていると伝えられていたが、ずっと断っていた。いつまで断れば埒が明くのだろうと薄情なことを思ってしまう。


「……ううん。ごめん。頼まれていて、会ってもらわないといけない人がいるんだ」


 そう彼が告げた時、病室の扉がノックされた。自然と体が強張り、心臓が跳ねる。何も答えられないまま時が過ぎ、代わりに透が応じて扉が開いた。

 そこにいたのは黒髪の四十代ほどの男性。整ったスーツに身を包んでいた。彼は歩みを進めてベッドの足元に立つと、深く腰を折って頭を下げた。


「この度は娘を助けていただきありがとう。それに怪我をさせてしまい、本当に申し訳ない」


 滔々と淀みなく流れる謝意と謝罪。まるで他人のようなそれは感情を簡単に揺さぶる。


「こんな形ではお詫びとはならないと思うが、入院費など諸々は私の方で工面させて欲しい。もちろん——」


「出て行ってくれ」


 視線を下げ、ぐっと手を握り締める。先ほどよりもいっそう強い調子で言葉は口を衝いて出ていた。


「聞こえなかったのか。出て行ってくれ」


 部屋の中に深い沈黙が訪れる。それでも男性は動揺など見せずに小さな紙を床頭台に置くと、再び頭を下げた。


「君の意に反するとは思うが、色々と支援はさせていただく。命の恩人だからね。それに……困ったことがあったら、いつでも連絡をしてきて欲しい」


 それだけ言い残すと男性はあっさりと退室していった。再び訪れた沈黙はひどく息苦しかった。


「楽……」

「……悪いけど、透も帰ってくれ」


 心から心配していると分かる声音すら切り捨てて、独りになることを望んだ。立て続けにもたらされた現実を容易に受けられるほどの度量はなく、拒絶という形で体裁を保つ。


 退院してからは知人宅を転々するなどして、透と茉白には会わないようにした。しかし、その努力も叶わず、ある夜に自宅前で待っていた透と鉢合わせしてしまった。

 寒空の下にもかかわらず、彼は長いこと帰りを待っていたようだった。吐息がわずかに白く色づく。


「あの時のことは本当にごめん。でも、会いたいって頼まれたら、どうしても断れなくて……」


 透は深く頭を下げる。彼は悪くないと分かっていても感情が追いつかない。投げかけられる言葉を振り払うように背を向ける。掴まれた手を振り払っても彼は追いかけてきた。言い難い感情だけが募っていく。


「楽、お願いだから話を聞いてよ! ちゃんと話をしようよ」

「もう、放っておいて——」


 そう言いかけた瞬間、悪寒が背筋を駆け巡って振り返る。

 振り返った先にいたのは透明なクジラ。透明な魚と同種と思われるそれが透を喰らわんと、口を開けてそこにいた。咄嗟に手を伸ばす。

 現実から目を逸らし、かけられる声に耳を塞いだ。

 また自分は。

 同じことを繰り返すのか。



 * * *



 腕を掴み、はっと我に返る。


 藍墨色の世界で不思議と体が宙に浮いていた。和真はそこで誰かの腕を掴んでいることに気がつく。その途端に視線がぶつかった。

 視線の先の玖島も驚いた様子で目を見開いていた。彼は汗が滲む額に手を当てて苦悶の声を漏らす。


「ああ、くそッ……。あのクジラに喰われた……せいか……」

「くし——」


 手を強く払われ、冴えた視線に射抜かれる。酷薄な笑みを浮かべる玖島の視線はぞくりとするほど冷え切っていた。


「……何も言わないでくれる? 今、最高に機嫌が悪いから」


 足が藍墨色の地に着き、玖島はそのまま座り込む。傍目から見ても顔色が悪かった。彼は視線を合わせることなく、立てた片膝に腕を乗せて息をつく。


「悪いけど、探しに行くなら一人で行ってくれない?」


 投げやり気味に言われ、和真は慌てて周囲を見渡す。その場には和真と玖島の二人しかいない。恐らく皆、あの濁流に飲まれて散ってしまったのだろう。


「安心しなよ。逃げはしないから」


 玖島の声がやけに自嘲的に響く。今は一人にした方がよさそうだと思って、和真は何も言わずにその場を離れた。

 暗い世界を一人歩くことに不安があったが、自然と散ってしまった皆の気配を感じた。命を分け与えたためだろう。この時ばかりは自分の異能に感謝した。


 気配を感じるところで立ち止まり、虚空を見据える。ふっと人影が見えて腕を伸ばすと水に手を入れた時のように宙が揺れ、波紋が広がる。そのまま腕を引き寄せると、人が水の膜を通り越して現れた。

 膝から崩れ落ちた修司を見て、和真はすぐさま屈み込んだ。修司は頭を押さえて痛みに耐えるような表情をしている。


「大丈夫か?」

「……一ノ瀬、か? ここは……」

「記憶の海。深海だ」


 和真の答えを聞いて修司は納得したように相槌を打った。


「ああ、そうだった……。自分じゃない……誰かの記憶に飲まれていたみたいだ」


 世界の記憶の一片に飲み込まれていたということだろう。濁流も零が生み出したものなら、負の記憶が想起されたのかもしれない。


「立てるか? 無理ならここで待っていても……」

「……いや、大丈夫だ。それより早くした方がいい」


 彼も事の異常性を察したのだろう。体調がすぐれなさそうなものの立ち上がった。その意思を無下にしたくなくて、和真はそうだなと相槌を打つ。


 それから同じように桃香と拓海を助け出す。最後の虚空に手を伸ばして、朱音を引き戻した。


「大丈夫……。ありがとう」


 朱音は比較的症状が軽いようで、受け答えもはっきりしていた。皆の調子を考えて、少しだけ休憩を挟んでから玖島のもとへ戻る。

 玖島は別れた場所で同じように座り続けていた。顔色は先ほどより良くなっているように見える。和真たちを見ると彼は薄い笑みを浮かべた。


「戻ってきたね。……それで、行けるの?」

「こんなところでへたり込んでる人に言われたくないんですけど」


 そう言う拓海もまだ完全に調子が戻っているわけではない。意地を張っているのは分かっているようで、玖島はふっと笑った。


「……その威勢があれば心配ないか」


 玖島は立ち上がると和真に視線を向ける。彼の言わんとしていることを汲み取って、前方を見据えた。


「境界はここだ。この先に零がいる」


 改めて皆を一瞥する。皆が頷くのを見届けてから和真は虚空に手を伸ばした。


 ぽつんと一つ、水面に雫が落ちるように波紋が拡がる。

 掴めないものを掴むために、記憶の海を拓く。

 一人の少年の、夏の記憶だ。

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