第113話 塞ぐ耳〈1〉
「海を渡ってすぐここなのか」
辺りを見渡しながら、ぽつりと修司が呟いた。
目の前に広がるのは藍墨色の世界。底冷えする世界はまさに深海だ。周りを確認してから和真は修司の疑問に答える。
「俺がここに来たいと思ったからだと思う」
こうして望んだ場所に行けるとなると、記憶の海と繋がりが強くなっているのだといっそう感じる。大樹がそびえる海を渡りかけたのだから当然ともいえるが、少しだけ不安を覚えた。
その瞬間、異質な気配を感じて和真は振り返り際に風を迸らせる。風が切り払った影は怨嗟の声を上げながら、黒い光を伴って消失していく。
「なに、さっきの……」
「多分、人の記憶……だと思う」
桃香の言葉に答えたのは拓海だ。彼は不安そうに藍墨色の世界を見渡す。
「すごく嫌な感情が流れてきた。なんだかここ、この間と全然雰囲気が違う」
朱音は二人のやりとりを心配そうに見つめていたが、すぐに表情を引き締めた。
「長居するとよくなさそうね。一ノ瀬君、案内を頼めるかしら?」
「ああ」
和真を先頭に零の気配を頼りに足を進める。その行く先々で先ほどのような影——記憶の残渣が襲ってきた。ただ、攻撃は突っ込んでくるだけなので単純だ。気配を感じる和真と耳で異音を察知しやすい玖島がすぐに対処し、何事もなく先に進めている。しかし、透明な魚とは違って負の感情の塊のようなそれは、見るだけでも不安を掻き立てていく。零の本質である負の記憶と感情に引き寄せられているのだろうか。
早くたどり着かなければと焦燥感が生まれる。近づいてきた影を風で切り払い、玖島が独り言のようにぽつりと漏らした。
「さながら、沈んだクジラの死骸に集まる生き物だね」
「
「知っているんだ」
玖島は呟きを拾った和真を意外そうな目で見た。疑問符を浮かべる拓海に対して、和真は簡単に説明する。
「深海に沈んだクジラの死骸に細菌とか軟体動物が集まって、特殊な生態系が作られるんだ。それが鯨骨生物群集」
「ああ、そうなんだ……」
合点がいったのか、拓海は静かに言の葉を零す。それから不意に足を止めたのを見て、和真は俯く拓海を覗き込む。息苦しそうに胸元の服を掴んでいて、顔色も悪い。
「拓海」
「なん、か、すごく嫌な感じがする……」
「君がそういうこと言うと困るんだけどねぇ」
軽い声音ではあるが、辺りを見渡す玖島の瞳に剣呑な光が宿る。皆が警戒を最大級に引き上げ、臨戦態勢をとった時だった。沈んだ世界から人影が現れる。その途端に体に緊張が走るのがわかった。
クジラに導かれた時に見かけた青年――零が感情の読めない視線で立っていた。
「一ノ瀬君」
「……大丈夫」
困惑が滲む朱音の声に対して、和真は静かに応える。青年姿の零の目は仄暗く底が見えない。以前見た時とはまったく違う。眼の前にしている彼の雰囲気、加えて先程までのことを鑑みると恐らくこれは記憶の一片だ。黒く透ける魚が宙から滲み、さらに緊張感が高まった。
不意にもう一つ気配を感じて和真は後方に視線を向ける。それに続いた声はこの上なく平坦に聞こえた。
「趣味が悪いことこの上ないね」
そう呟いた玖島の視線を見てぞくりとする。眼鏡越しの目は声音とは裏腹にひどく冷え切っていた。
玖島は目の前で不定形に揺らぐ人の影を見据えている。特別な形を持たない、けれどそれは確実に彼を刺激する誰かとしてそこに存在していた。よりいっそう褪めた世界で玖島はふっと笑う。
「――さっさと片付けようか」
瞬間、玖島は影に向かって肉薄する。それに応じるように黒い魚と零も動き出した。
和真は自身に向かってきた影を紙一重で躱す。すぐさま朱音が視線を共有してくれたおかげで事なきを得た。すかさず反撃にと踏み込もうとした瞬間、後方に向かって足を引っ張られた。体勢を崩しつつも、危ういところでかがみ込んだ姿勢で着地する。
少し前の頭上を黒焔が通り過ぎていったのを見て肝が冷える。追従するように焔が迸って、足を引いた水がそのまま頭上に向かって広がる。和真は水が黒い焔を飲み込むのを横目で見ながら、反射的にその場を離れた。飲み込みきれなかった焔が落ち、ぶすぶすと不穏な音を立てる。
魚の群衆が結晶の波と正方形の空間に飲み込まれ、黒い光と共に消失する。その光に乗じて玖島は人影に烈風を見舞った。影は真っ二つに断絶されるものの、すぐに形を戻した。追撃と言わんばかりに玖島は烈風を迸らせるも、無数に断絶された影の中に核になるようなものはない。
「一緒に倒すか、それとも――」
玖島はそう呟くと、そのまま足に力を込めて左手側に大きく跳躍する。距離を空けたと思ったのも束の間、人影が間近に差し迫って玖島は体を捻った。間髪入れずに後方に下がると共に、薄い長方体の空間が玖島と影の間に割って入る。空間が弾き消される音が高く響いた。
玖島と人影との攻防を一瞥し、和真は目の前に差し迫った黒焔を避ける。周囲の魚を屠りながら、零との距離を詰めると蹴りを見舞った。体の左側面を捉えたが、わずかに形を崩しただけだった。
流れるように返されてきた手が頬を掠めて血が流れる。その腕を取って動きを封じると、和真の動きに呼応するように青焔の奔流が零の体を飲み込んだ。しかし、すぐに形は元に戻ってしまう。時を同じくして人影も玖島の烈風と修司の一閃に貫かれたが、何事もなかったように形を成した。
影に核はない。同時に討っても倒れない。どうすべきか。加減せず影と対峙する玖島を視界に捉えながら、和真は思考を走らせる。そもそも記憶の残滓とはいえ、自身は玖島と同じように真っ向から零と争うことができるのだろうか。
――争う必要があるのだろうか。
ふと足を止めた途端、首を零に掴まれる。遠く、誰かが呼ぶ声が聞こえた気がした。
しかし、首を掴まれても和真は微動だにせずに零を見据えた。恐らく彼が少しでも力を入れれば首は途端にあらぬ方向に曲がるだろう。そんな感覚がした。首を掴む手は紛れもなく殺意に塗れたものだった。湧き上がるような憤怒が昇華された故の殺意。
しかし、本当にそれだけなのだろうか。
憤怒と殺意よりもなお奥深くにあるのは――深い悲しみと喪失感。彼が命を分け与えてくれたからだろうか。それが手を通して伝わってくる。どうにもならないこと、必然と決められた結末への無力感が澱のように固まっている。
どれも穏やかで人目を避けてきた彼が持つはずではなかった感情。きっとこんな言葉が欲しいのではない。自己満足だろう。それでも、このような記憶を深く刻み込んでしまったのは、紛れもなく自分のせいなのだ。
「ごめん」
青年の目が見開かれ、首を掴んでいる手からふっと力が抜けた。和真は零の腕に触れる。
ただ、それだけだった。
今まで不定形に揺らごうとも元に戻っていた姿。それが触れた部分から色を失い、影となって崩れていく。欠片となった影は元に戻ることなく、光を伴い宙へ消えていった。同刻、玖島が相手取っていた影もまた同じように形を崩す。
玖島はそれを最後まで見届けることなく、烈風で切り刻んだ。あとを残さないと言うかのように。無数に。玖島に群がる魚を消失させていた拓海が少し乱れた息を整え、口を開く。
「何やってるん――」
そこまで言いかけて拓海は口を閉ざす。いや、その場にいる全員が自然と言葉を呑んだ。拓海が俯き、ぐっと胸もとの服を掴む。
肌を鋭く指すような空気が辺りを包み込み、和真は咄嗟に俯く拓海の元へと駆け寄った。息苦しそうに服を掴んでいて顔色も悪い。拓海に声をかけようとした矢先だった。
急激に圧迫感が身を襲ったと思った瞬間、見えない奔流にあっという間に飲み込まれる。海を渡る時と同じ、いや、それ以上の圧迫感だった。息苦しさと強烈な目眩に襲われると共に、和真は記憶に飲み込まれるのを感じた。
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