第112話 君に告ぐ〈3〉
そんなに前からだったのかと今更ながらに知る。ありがたくもあり、もどかしい気持ちが募った。返す言葉はもう決まっていたから。
「朝木、ありがとう。朝木の気持ちは本当に嬉しい。だけど、俺は応えてあげられない」
人で賑わっているのに、ここだけが切り離されたような静けさになる。居心地の悪さに包まれても、きちんと伝えてくれた彼女に偽りのない答えを返したかった。次いで聞こえてきたのは、思っていたよりも軽い声音だった。
「……あーあ。私の方が先に好きになったのになぁ」
由香は少し大仰に腕を前に伸ばしてから、視線を落として頬杖をつく。
「……まぁ、私が悪いんだけどね。言えばよかったのに、ずっと言えなかったんだもん。一緒に楽しくやれてたのに、それが終わっちゃうんじゃないかって思ったら、怖くて……」
「終わる?」
「だって、そうでしょ……」
気まずそうに由香は呟く。恋人には至らず、友達とも違った距離感に変わる。確かに気まずいと言えばそうなのだろう。それでも変わらない思いもある。
「朝木はさ、俺とは違って面倒見がいいし、周りを引っ張っていってくれるだろ。一年で文化祭の委員になった時、なかなか話に入れないような子にも声かけて、気にかけてあげたりしててさ。そういうところが本当にすごいと思うし、好きだなって思う。だから、今までとは違うかもしれないけど、その……仲良くしてくれると嬉しいんだけど」
最後の方になって、なんて自分本位なんだろうという気まずさに襲われた時だった。突然頬を両手で挟まれて正面を向けられる。顔を真っ赤にした由香が恥ずかしそうに声を張った。
「もーほんと、そういうとこ!」
そんな彼女が初々しくて、驚くと共に思わず顔が綻ぶ。由香は気恥ずかしそうに手を離し、少し浮いた腰を下ろすと咳払いをした。
「それじゃあ、ちゃんとやることやってきなさいよ」
「え?」
唐突な発言に和真は言葉を詰まらせる。朱音たちも記憶の海の件は彼女に何も伝えていなかったはずだ。由香は和真の言いたいことを見越して続ける。
「私は何も知らないよ。でも、私にも裕介にも言えないことをしてるんだっていうことぐらいは分かるよ。……何とかしなきゃって、思い詰めてるのも感じてた」
あんな目にあったのだ、それぐらい察していて当然だろう。何が起こったのか知りたいと思うのが普通だろうに、ずっと触れないでいてくれたのだ。そういう気遣いには本当に頭が上がらない。
言葉の端に悔しさを乗せながら、上目遣いで由香は告げる。
「もう一個の方もちゃんとしなさいよ。じゃないと、仲良くしてあげないから」
「……ああ。そうだよな」
本当に自分は周りの人に恵まれているのだなと痛感する。こうして支えてくれる人たちのためにも、きちんと最後まで自分が見届けなければならないと改めて思った。
週末を迎え、和真は早朝に一人静かに支度を整える。
部屋を出て玄関に向かうといずみがリビングから姿を現した。記憶の海に渡ることは前もって伝えていたから、出かける頃合いを見計らって待っていたのだろう。改めて見送られるとなると居た堪れない気持ちが湧き上がってくる。
それすらも見通しているのだろう。母は微笑みながら歩み寄って、立ち止まると左腕に視線を向けた。そこにはいつも通り腕時計が着けられている。何事だろうと思っているうちに手を取られた。
「これも持って行って」
手のひらに乗せられたのは白いお守り。誕生日の時に姉が渡してくれたものだ。
「……顔を合わせたら引き留めそうだからって、千晃から頼まれて」
いずみはそう告げて笑みに苦みを乗せる。
目を覚ました時の姉の様子を思い出す。改めて心配をかけさせることに申し訳なさが募るが、ここで引き返すわけにもいかない。それに自分の意思を慮ってこそ、姉は母に頼んだろうとも思った。不安が尽きないだろうに母は気丈に笑う。
「いってらっしゃい」
だからこそ、和真も今できる限りの笑顔でそれに応えた。
「いってきます」
外に出るとまだ夏の面影を残す空気が出迎える。
向かう場所は玖島からゲームに誘われた時に向かった公園。人目につかない必要があり、最後に海を渡った場所であるということが重要だったのだ。
そこに居合わせた人を見て和真たちは足を止める。冴える赤紫の髪はこの時間には特に浮いて見える気がした。彼の周りにたおやかな尾鰭を持つ透明な魚が一匹浮遊している。
「俺がいた方が何かと都合がいいと思うんだけど、どうかな?」
「十和田さんですね」
朱音の問いに玖島は微かに笑ってみせただけだった。和真は皆を見渡して意向を確認すると、玖島に頷いてみせた。
「行こう」
その声と共にふわりと魚が尾鰭を揺らす。泳いできた魚に指先が触れると波に押される感覚に襲われ、瞬く間に視界は藍墨色の世界に飲まれた。
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