第107話 帰る場所〈2〉
一日二日と経つと日常生活にも慣れてくる。そんな折に朱音からメッセージが入ってきた。
『一ノ瀬君、体調はどう? 体調に問題がなければ、今度の土曜の十七時に喫茶店に来てくれると嬉しいんだけど』
大学も講義が始まる時期なので忙しいのだろうと思っていた矢先だった。これからについて話し合いたいのだろうと、和真は了承の返事を送る。
迎えた土曜日。和真は喫茶店へと向かった。街灯が並ぶ道を歩き、エトワールと掲げられた看板に誘われて扉を潜る。
「はーい、おかえりー!」
そんな声と共にけたたましい音が和真を迎えた。いつぶりか分からないクラッカーを浴びて、和真は呆気に取られて動きを止める。
「おーす、和兄びっくりした? っていうかちょっと待って、兄貴テンション低すぎでしょ」
「クラッカーって普通にやるもんなの? ていうか、なんでお前はそんなテンション高いんだよ」
「えー! こういう時にやらなくていつやるの?」
そう言い合うのは夏海と俊だ。思ってもいなかった人物の出迎えに言葉もない。改めて見渡すと左手側に由香と祐介が同じようにクラッカーを持っていた。
「あはは、驚いたでしょ? と言っても、主催者はあっちなんだけど」
そう言って由香は店の奥側へと手のひらを向ける。その手の先には朱音がいた。
それだけではない。桃香と修司。果てには安藤や島崎、高瀬までが揃っていた。テーブルには色とりどりの食事が綺麗に盛り付けられて用意されている。カウンターの奥で、義明と拓海が心待ちにしていたというように笑った。
「料理はお祖父ちゃんと拓海と私。飾り付けとか準備は朝木さんと望月君、陸田君たちが手伝ってくれたの」
朱音はふわりと笑った。
「おかえりなさい」
——おかえりって言ってくれる人がいるのってすごく安心するから。
以前、拓海と話していた時の言葉がふっと頭に蘇る。
そうだ。離れてしまっていたけれど、ここから始まったんだ。
照れ臭くて。それ以上に心温かくて。和真は淡く笑った。
「……ただいま」
サーモンのカルパッチョ、きのことミニトマトのオープンオムレツ、野菜と共にオーブンで焼かれたスペアリブ。その他にも様々な品が用意されていて、腕によりをかけてくれた料理はどれも綺麗だ。しかもカフェメニューとは違う品揃えで目移りしてしまう。思い思いに料理を取り、皆が舌鼓を打つ。美味しさから一瞬で和やかな雰囲気に包まれ、話に花が咲いた。
和真は照り焼きチキンと卵のパエリアを口に運ぶ。鶏肉の旨味が染み込んだご飯はもちろん美味いし、照り焼きチキンもしっかりと焼き目がついていて香ばしい。和風のパエリアはどことなく落ち着く味だ。料理を楽しんでいると、オレンジジュースとバケットが添えられたアヒージョを手に由香が近寄ってきた。
「あ、それも美味しそう。どれも美味しそうだから目移りしちゃうよね」
「そうだな」
「こういうの楽しいよね。あ、飾り付けもなかなかいいでしょ?」
改めてテーブルを見渡す。料理もだが、それを彩る飾りもシンプルながらに綺麗に纏まっている。ナチュラルな色合いで生花もさりげなく生けられていた。店の雰囲気を壊さず、何より落ち着く。
「ああ、すごくいいと思う。朝木はこういうの向いてるんじゃないか?」
「え、そ、そうかな? 確かに楽しかったけど……。と、ところで和真、ちゃんと休んでるよね?」
「そりゃまあ……」
バイトはしばらく休み。部活は様子を見てから再開するようにといずみから釘を刺されているので、今も休んでいる。海を渡ることもないので、むしろ時間にゆとりがあるぐらいだ。裕介がハニーマスタードを塗ったスペアリブを食べながら和真に冷めた視線を送る。
「まあ心配にはなるよなぁ。人には休めって言っといてこの有り様だし。由香のこと散々泣かせるし」
祐介の指摘に和真はたじろぐ。目が覚めて二人と面会した時は大変だった。由香も困らせるつもりはなかったらしいが、心配と安堵で泣くのを止められなかったらしい。現場を見ていた夏海がにやにやと笑う。
「女の子を泣かせるなんて罪だよねぇ。これはちゃんと責任取らないとね〜」
「……夏海、お前引っ掻き回そうとしてんの?」
「んー? 何のこと〜?」
俊の指摘に夏海はあっけらかんと答えた。呆れ返った俊は飯でも取ってこいと和真を手で追い払う。その場にとどまると碌でもないことが起きる気がして、和真はさっさと逃げることにした。食事が並ぶテーブルに向かうと珍しい組み合わせが目に留まる。
「……桃香、なんでもかんでも試しにタバスコかけるのは止めろ」
「えー、美味しいかもしれないじゃん」
呑気な桃香の主張に対して島崎が眉間に皺を寄せる。桃香が辛党ということを知ったのは修司の歓迎会の時だった。確かあの時も唐揚げにタバスコをかけていたな、と和真は思い返す。なんとも言えない表情で拓海が二人を見ていた。
「家は別にいいし、ファミレスとかなら百歩譲っていいけどな。個人店とかでは自粛しろ」
「ちなみに俺が店継いでそれやったら、即出禁だからね」
「あ、はい、しません!」
桃香の返答に拓海は半眼のままカルパッチョを頬張る。その時、くしゃりと頭を撫でられた。
いつの間にか拓海のそばに義明が立っていた。不貞腐れている拓海に対して義明は宥めるように言う。
「まあいいじゃないか」
「じいちゃんは嫌じゃないの? せっかくそのままで美味しいのにさ」
「好みは人それぞれだからね。私は楽しんでくれればそれで十分だよ」
義明はテーブルの上を一通り眺めると、ゆっくり楽しんでと告げて由香たちのいる方へと足を運んだ。回りながら食事の塩梅を見ているのかもしれない。義明の後ろ姿を見ながら桃香がぽつりと呟いた。
「拓海君は義明さんの懐の広さを見習った方がいいと思う」
「……もも? デザートはなしでいいよね?」
「は! ごめんなさい⁉︎」
島崎がそういうところだぞと言わんばかりの表情をするのを見て、和真は思わず失笑してしまう。
噂の事件以来、二人とはどうなることかと思ったが、意外と以前とあまり変わらなかった。入院したことを契機に噂も静かになったらしい。桃香が下手に弁明して事を荒立てなかったことがよかったのだろう。島崎が噂を立てる者に目を光らせていたという話も小耳に挟んだ。そういうこともあって、いつの間にか新たな噂に話題が移っているという。
三人の面白いやりとりを聞いているうちに、朱音がそばに歩み寄ってきていた。
「相変わらず拓海と桃香は賑やかね」
「ああ。拓海がデザート担当なんだっけ?」
「そう。楽しみにしてて」
朱音と話をしながら食事を共にするが、しばらくすると店の隅の方へ案内された。彼女がバッグから取り出した物を見て、和真は目を見張る。
「これ……」
それは普段から和真が着けていた腕時計だった。なくなったと思っていたが、まさか朱音が持っているとは思わなかった。
「この間の時に壊れてしまったみたいで。新しい物を買った方がいいって言われたんだけど、どうしても直したくて直してもらったの。……着けてもいい?」
「あ、ああ」
和真は言われるがまま左手を出す。少し手間取っていたが、やがて着け終わった。改めて着けられた腕時計を眺める。歪みのない文字盤で規則正しく針が動いていた。
無機質なモノトーンの世界。色彩を失っていた世界が色を帯びる。
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