第106話 帰る場所〈1〉

 夢を見ていた。

 それは夏を彩るには些細な一幕。

 そこで瞬くように消え去った生。

 夏の果てにその微睡から再び目を覚ましたのは、必然だったのだろうか。



 * * *



 入院してからおおよそ三週間。週明けに退院の運びとなった。暦も夏を過ぎた九月。しかも中旬に差しかかろうとしている頃だった。


「ようやく退院だな」

「本当だな」


 遠慮なしにベッド端に座るのは俊だ。彼が持ってきてくれた漫画やタブレットのおかげで、目が覚めた後の入院生活は賑やかだった。勉強しようものなら、こういう時は遊ぶもんなのと言ってきっちり映画の感想を求められた。大人しくしてろという意味だと気がついたのは最近のことだ。


「色々と感謝しろよな。後でたっぷり請求してやるから」

「本当だな」


 同じことしか言っていないなと思い、思わず苦笑いが零れてしまう。

 喧嘩別れしたはずなのに、俊とはいつの間にか普通に話せるようになっていた。死にかけたのだからそんな場合ではないとも思うが、それ以上に俊が記憶の海に関する話を知ったことが起因しているのだろう。


 俊と呼びかけると、彼はなんの気もなしに振り返った。今更だとは思う。けれど、きちんと言葉にしたかった。


「倒れた時に助けてくれてありがとう。それに本当にひどいこと言った。ごめん」


 和真は頭を下げる。二人でいる時に謝たくてこんなにも遅くなってしまった。俊がふいと視線を前に戻し、しばらくの間、沈黙が二人の間を覆う。


「……俺さ、お前が見ているものが見えないってこと、今までにないくらいに悔しかった。なんで俺には見えないんだろうって。なんで何もできないんだろうって」


 言葉の端々から滲み出るのは悔しさと無力感。いや、疎外感かもしれない。自分が抱えていた別の孤独感を抱えていたのだと、今更ながらに痛感する。それでも変わらない思いはある。


「俺は見えなくてよかったって思ってる」


 微かに俊が肩を震わせる。透明な魚が見えるということは、何かしら命の危険があったということだ。命の危険なんてないに越したことはない。


「……人のことばっかだな、お前」


「え?」


「なんでもない。ほんと、いろんな人に心配かけて呆れるけど。まあ、こう言ってるわけだし、一応は反省してるみたいだし。多めに見て許してやらなくもないけど!」


「ツンデレか」


「ツンデレは可愛い女の子に使うもんなんだよ、バーカ」


 そこで二人でふっと笑った。ああこういう感じだったなと安堵する。肩の力が抜ける心地よさだった。


「それじゃあツンデレの復習にこのアニメ、ワンクール見とけよ。退院した後、感想聞くから」


「ええ……。ていうか退院、明後日だろ……」


 タブレットと共に無理難題を押し付けられて和真は思わず小言を漏らす。でもそれも悪くないかと思いながら、手元のタブレットを見ながら嘆息した。






 退院日は母が付き添ってくれた。二度もこうして母親の世話になるというのがとてつもなく気恥ずかしかったのだが、朱音たちから事の経緯はすべて聞いた。今まで黙っていたこともあって母の世話を甘んじて受ける。そもそも未成年なのだ。入退院の手続きなど、まだままならないことが多いと改めて思い知らされた。

 家で迎えてくれた姉は料理でもてなしてくれた。久し振りに家で食べる食事はやはり美味しい。病院食を満喫できたでしょ、という意地悪な小言のおまけ付きだ。


 翌日は雲一つのない秋晴れ。懐かしく感じさえする制服を身に纏ってリュックを手にする。


「いってらっしゃい。くれぐれも無理はしないでね」

「分かってるよ」

「分かってないから言ってるんでしょうが」


 頭を小突こうとした姉の手をサッと避ける。躱された千晃は不服そうに和真を睨みつけた。


「身長抜かされてから、こういうのがほんと腹立つー」


 もう行ってきなと雑に追い出されて和真は学校へと向かう。下手に腫れ物扱いされるよりよっぽど気楽で、心の中で姉に感謝しておく。熱気があるものの、風の中に秋の気配を感じた。


 教室を目の前にすると、久し振りだなぁという感想がふと浮かんだ。自分でも呑気すぎる感想だと思う。どんな雰囲気になるだろうかとわずかな不安を感じつつも、いつも通りを努めて扉を潜る。

 ざわめきが広がって視線が集中する。その中で珍しく早めに登校していた安藤が和真のもとに歩み寄ってきた。肩に手を当てて確認するように覗き込まれる。


「な、なんだよ?」

「いやあさ、本物なのかって」

「なんだよそれ」

「だって、見舞いに行った時、死んでるみたいに目も覚さないし動かないし。本当に目を覚ますのかって思ったしさ。本物かって思いたくもなるだろ?」


 意外な事実を知って和真は目を丸くする。


「……ていうか、安藤、見舞いに来てくれてたのか?」

「ん? そりゃ——」


 そこまで言いかけて安藤は口を噤む。何事かと思ったと同時に後方から声が響いた。


「『友達だから行くに決まってるだろ』」


 振り返った矢先に頭を軽く叩かれる。振り返った先にいたのは島崎だ。


「つか、入り口に立たれると邪魔なんだけど」


 確かに彼の指摘通り入り口の前を占領していた。悪いと詫びて和真は慌てて横に避ける。それと同時にわずかに焦ったような声が聞こえてきた。


なお……! お前だって見舞いに行ってただろうが!」

「俺は頼まれたから行っただけだし」


 島崎は何食わぬ顔で自分の席に向かった。ふざけんなという言葉を浴びせながら安藤が島崎に迫り、雑な蹴りやら手が飛ぶ。

 呆気にとられつつ安藤と島崎の攻防を見ているうちに、ふっと笑みが零れてしまった。それを見た二人は動きを止める。笑って悪いなと思いつつも、笑みを止めることができない。


「……いや、悪い。二人とも、ありがとう」


 安藤と島崎が顔を見合わせる。途端に二人の声が重なった。


「心配かけさせんなよ、バーカ」


 戻ってきた安藤に頭を小突かれる。悪いと再び謝ってから和真は席に着いた。

 それからは遠目に見ていたクラスメイトたちも声をかけてくれた。心配の声、労いの声、励ましの声。様々な形の言葉を送られながら日常が再開した。

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