第105話 落花情あれど〈2〉
唐突に投げかけられた言葉によって蓋をしていた感情が綻ぶ。
友人という名で塞いでいた感情。友愛が別のものに変わって、自覚しないようにと蓋を閉めてしまったのはいつだったのだろう。恋い焦がれるのとは違う。けれど、いつの間にか青い葉は茜色に染まっていた。
自分より長く彼のそばにいた彼女の気持ちも理解しているつもりだ。それでも、正直に伝えないと駄目だと思った。いや、理解しているからこそ伝えないといけないと思った。目の前に佇む少女の瞳は朱音を捉えて離さない。
「ええ」
朱音は臆せずに答えた。斜陽がやけに暑く感じる。
「分かりました」
由香はありがとうございますと言い、会釈をしてその場を後にした。その後ろ姿を見送って、朱音は詰めていた息を吐き出す。
胸が嫌に早鐘を打っていた。自覚しないよう抑えていた感情を認めてしまったのだ。相対した少女の揺らぎない思いに応えなければと口にしてしまったが、自分でも心と頭が追いつかない。そして、口にしたからには後に退けない。
そんなことを考えている場合ではないと朱音は自身を叱咤する。そもそも、和真の体調の回復が何よりも優先だ。余計なことに気を使わせたくない。朱音はこれからの予定を考えながら、とある場所へと足を向けた。
翌日は面会時間ギリギリに来院した。他の人の面会を邪魔してはいけないような気がして、夕方を避けていたらこんな時間になってしまった。
病室を訪れると和真はベッドサイドに座っていた。机に勉強道具を広げている。
「勉強してたのね」
「さすがにちょっとまずいかと思って。ちょうど休憩しようとしてたところ」
朱音の言葉に和真は苦笑いを浮かべた。二学期が始まって既に二週間経っている。期間が空けば空くほど置いていかれてしまうような気持ちがあるのだろう。ただ、復調してきたとはいえ心配は尽きない。
「そうね。無理はしないほうがいいわ」
ああと相槌を打って和真は道具を片付け始める。まだ本調子でないことは彼も承知済みなのだろう。
時間を見ては体を動かすようにしているためか、だいぶ起きているのも楽になってきたらしい。検査自体は何の異常もないため、体力が戻れば週明けには退院できるという話だった。
話をしていると扉がノックされて、和真が応じた。入ってきたのは若い看護師だ。検温に回ってきたのだろう。看護師は朱音の姿を見ると意外そうな顔をする。
「あら、まだいたのね」
そう言われてハッとし、朱音は慌てて携帯電話の時計を確認する。面会時間の終了の二十時を過ぎていた。すみませんと慌てて詫びる。退出するタイミングを逃して見守っていると、検温し終えた看護師が意味深な笑みを浮かべた。
「彼氏のことが心配なのも分かるけど、もう面会時間は終わりだから。気をつけて帰ってね」
「え、あ、はい……」
慌てて返事をするものの、言われたことを後から理解して顔が
「今日はこれで……。その、遅くに来てごめんなさい」
「そんなことないよ、いつもありがとう。気をつけて」
扉に手をかけ、朱音は不意に振り返る。振り返った先の和真が笑顔を浮かべているのを見て、開けかけた扉を止めた。
パチンという音がして電気が消え、唐突に視界が暗闇に覆われる。それでもよく視える目のために、迷うことなく彼のそばに歩くことができた。
バッグを置き、首に手を回してふわりと身を寄せる。びくりと体が一瞬強張ったのを感じた。 互いに喋らない。ただ、刻々と時が流れる。
「……五十嵐、俺は大丈夫だから」
先に言葉を発したのは和真だった。普通に聞こえる声音に揺らぎが混じっているのを感じて、息苦しさを覚えた。
「少しだけこうさせて」
目を覚ましてから明るく振る舞っていたものの、彼の中に苦しみと空虚さがどこかしらあると感じていた。こうして身を寄せれば彼が生きていることは実感できるけれど、かえって埋めきれないものがあると自覚させられて仕方がない。
「苦しいなら苦しいって言って。辛いなら辛いって言って」
「……俺にそんなこと言う資格ないよ」
静かに、和真はそんな言の葉を零す。
自らが意図したことではないとはいえ、祖母と父の命を喰らって生きている。生きたいと思ってくれて戻ってきたのだとしても、その事実は残ったままだ。どれほどの呵責に苛まれているのかなど理解できない。
それでも、少しは分かるのだ。残ってしまった者の苦しみが。自分ではなく伯父や伯母が生きていればよかった。そうすれば、拓海や祖父に苦労をさせることはなかったのではなかったと幾度も思った。
自分ではない誰かがここにいたらと仮定する。そんな世界を生み出せずにはいられない苦しみ。どうしたら彼の苦しみを少しでも負えるのだろうか。
「貴方の優しさは間違いじゃないわ。だから、そんな風に言わないで……」
抱きしめる肩が震える。しかし、彼は腕を回したり縋り付いたりしてこない。それがもどかしくて朱音は包み込む手に力を込める。相手がそれに応えてくれないと分かっていても、そうしていたかった。
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