第98話 切り拓く意志〈3〉

 拓海一人で海を渡らせるのは朱音自身も不安しかない。それならば自分も一緒に行けばいい。二人ならば対処の仕方も増えるし、互いに注意を払える。


「それでも……」


 修司がそう言いかけた時だった。

 会議室の扉がノックされた。修司がはいと返すと、弓道着を着た三十代ぐらいの男性が中に入ってきた。二つのグラスが乗った盆を持っている。


「お邪魔して申し訳ないね。それにお客様が来ているのに気が利かなくて」


 そう言って男性は机にグラスを置く。冷茶だろうか。グラスに中には綺麗な若草色の飲み物が注がれていた。


「いえ、こちらが押しかけてしまったんです。すみません」


「こちらに来るということは急ぎの用件でしょう。まあまあ役には立つと思うから、こき使ってやってください」


「……師範」


 修司が眉根を寄せて男性をそう呼ぶ。早急に出て行ってくれという気配を感じるのは気のせいだろうか。そう思いながらも男性が道場の指導者なのだと認識し、朱音は改めて挨拶をする。


「五十嵐です。二見君にはいつもお世話になっていて、頼りにさせてもらっています」

「ならよかった。まあ、今は役に立つかちょっと怪しいんですけどね」

「師範」


 修司は先程より強い口調で牽制する。いつも平静な彼から苛立ちが垣間見えるような気がした。男性の発言に朱音は戸惑いがちに返す。


「そんなことはないと思いますよ」


「いや、本当に壊滅的なんですよ。修司がこんなにあたらないところを見るのは久し振りで、もう楽しくて楽しくて」


「大森さんッ」


 嬉々として話を続ける男性に修司が声を荒らげる。大森と呼ばれた男性は気にした様子もなく、修司の頭をぐいと押し込んで無動作に撫で回した。俯き黙った修司の頭に手を置いたまま朱音に問いかける。


「ご相談に来た件は修司にしかできないことなんですか?」

「はい」


 朱音のはっきりとした返答に大森はふっと笑みを浮かべ、修司を見遣る。


「事情は分からないけど、修司にしかできないことなら協力してあげなさい。慎重なのは分かるけど、わざわざここに来て話をしてくれているんだろう? 私はお前が思っているほど、彼女がか弱い人だと思わないよ」


 そう言うと乗せていた手を離した。修司は大森の言葉に何も返さず、沈黙を続けている。


「お邪魔して申し訳なかったね。あとはちゃんと二人で話し合って。何かあったら受付に声をかけてもらって大丈夫だから」


 それだけ告げると、大森は機嫌よさそうに退室していった。意外すぎる反応に朱音は取り残されたような感覚で後ろ姿を見送った。

 深いため息が聞こえてきて朱音は我に返る。修司はこめかみに手を当てて、眉根を寄せていた。


「色々と見苦しいところをお見せして、すみません」

「そんなことないわ。素敵な方ね」


 笑ってはいけないと思いつつも、二人のやりとりが微笑ましくてつい笑みが零れてしまう。修司は少し不貞腐れた表情のまま居住まいを正した。


「大森さんとはとても親しいのね」

「……ええ、まあ。あの人の弓を射る姿に憧れて弓道を始めたので」


 その一言がすべてを物語っていた。ほんのわずかな交わりだったけれど、家族とはまた違った信頼関係があると実感させられた。それとともにできるだけ道場に来ているという言葉が蘇って、気にかかることが心に浮上する。


「二見君、一つ聞いてもいい?」

「はい?」

「二見君はお父さんのこと、苦手?」


 端から見ると何の脈絡もない質問。ただ、父との不和、口論になった件を話している今だからこそ、彼に聞いてみたいと思った。


「……正直に言うとよく分かりません。家のことにはあまり干渉してこなかったので。でも、弓道をしたいと言った時にすぐに賛成してくれたのは、父でした」


 家族の関係は一言では語れるものではなくて。馳せる思いも一つではない。ただ単純に、不器用だけれど断てない関係があるのだと思った。


「そう。それは素敵ね。私はずっと父が苦手」


 苦味のこもった笑みを浮かべる朱音に対して、修司は意外そうな表情をする。


「そんなこと言うんですね」

「……そうね。ここまでストレートに言うのは初めてかも」


 抑えていた感情を出したせいだろうか。内側で凝り固まってしまっていた思いが不思議なほど自然に出てくる。拓海や桃香のように飾らず、真っ直ぐに思いを伝えるのもまた一つの信頼のように思えたのだ。そこでもう一つ聞きたいことが頭をもたげて、朱音は修司に尋ねた。


「もう一つ聞いてみたいんだけど。どうして二見君は私たちに付き合ってくれたの?」


「……それ、言わないと駄目ですかね」


「玖島さんに言われて改めて思ったの。二見君がここまで付き合ってくれる理由は普通ならないって。だから気になって」


 修司は腕を組んで渋い顔をする。余計なことをしてくれたと言わんばかりの態度だ。申し訳なさが優っていたが、修司が態度を露わにするのが微笑ましくて少し笑みが零れてしまう。


「あの人の思うように事を運ばされたのが嫌だったからなんですが。みんなお人好しが過ぎるというか、警戒心や危機意識が薄くて気にかかって。そもそもよく知りもしない人間を無謀なことをしてまで助けたり、人のことを疑わなかったり、無理を押し通したりするわで……」


「心配なのね」


 修司はなんとも言えない表情をして押し黙った。彼からすると意図せずに無茶をする姿が弟と重なったのかもしれない。

 恐らく、普通なら理解し得ない感性と行動。綺麗すぎる水と例えられるそれは、きっとこの世界では異質で眩しすぎるものだと思う。それでも。


「そんな人に助けられたから、私も助けたいと思うの。二見君もそうなんじゃない?」


 それに対する答えはなく、沈黙が二人の間に降り積もる。けれど、それは決して重苦しいものではない。だから彼もきっと、それに応えてくれると思った。


「……五十嵐さん。どこまで応えられるか分かりませんが、俺ができる限りの事はします」


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