第97話 切り拓く意志〈2〉

 誰も喋らない時が流れる。しばらくしてから、修司は無言のまま部屋を出て行ってしまった。病室内はこれ以上ないほどの深い沈黙に覆われた。  

 どのくらい時間が経っただろう。玖島は腕を下ろしてポケットに手を入れると、ある人に問いかけた。


「君は未来が見えるんでしょ。あんな話を聞いて嫌にならないの?」


 そう問われたのは桃香だ。桃香は一度玖島に視線を向けてから、わずかに俯いて思いを馳せるように胸に手を当てた。


「……聞いた時は嫌だって思いました。過去に私たちが積み重ねたものが未来を決めているのだとしても、今の意志なんて関係ないって言われているようで。でも、あの子が言っていたんです。世界は無常だって。それって常ではない。変わらないことはないってことですよね?」


 桃香はわずかに伏せていた顔を上げて玖島を見据え、グッと強く胸元の手を握った。


「私たちは世界の理を知ることができた。もし望まない未来を見たとしても、私たちが変えようと意思すれば物事は変化するんじゃないですか? すぐに変わらないかもしれないけど、積み重ねた分だけ可能性はあるし、結果は変わると思います」


「……その意思さえ、定められたものだったとしても?」


「定められていてもいなくても、どっちでもいいです。それに今私が思っていることが定められたことなら、いいことじゃないですか。私は未来をいい方向へ変えたい。みんなに幸せになって欲しい。今もそう願い続けるなら、未来も同じ思いを持てる可能性が高い。善い要因を作る意思がある限り、善い結果が訪れる。まだ、未来は変えられる。私たちの手の中にあります」


 桃香の言葉は凝り固まっていた心と思考をゆっくりと解していく。

 玖島の表情がわずかに驚きに染まる。軽く息をつくと、首を傾げながら病室の入口に視線を向けた。


「……せっかくなら聞いていてほしかっただろう人がちょうどいないけど」


 玖島の指摘にはたと動きを止め、桃香は頭を抱える。


「ああー! 修司くーん!」


 先ほどの張り詰めるような空気は桃香によって綺麗に吹き飛ばされてしまった。けれど、それでよかったと朱音は思う。


「まあ、彼なら大丈夫でしょ」


 玖島はまったく心配していないかのようにそう言った。彼が視線を向けると浮遊している魚はふわりと溶けるように消える。それを見て拓海は言葉にあからさまに棘を込めた。


「っていうか、まだ魚匿ってたんだ」


「なに言ってるの。こいつらがいないと海を渡れないでしょ。何かあった時に動けるようにある程度は残しているよ。戻ってきてからどうやって海を渡っていたと思ってたの?」


 玖島の正論に拓海はぐうの音も出ずに口を噤む。玖島は病室の扉の前に立つと、顔だけを向けて朱音たちを一瞥した。


「海を渡る気があるなら魚を譲るよ。それじゃあ」


 それだけを言い残して、玖島は病室を後にした。玖島の後ろ姿を見届けると、気まずそうに桃香が拓海に向き直る。


「拓海君、ごめんね。拓海君の事情、知らなかったからといって、無理させるようなこと言って……」


「何も言わなかったのは俺だよ? ももが悪いわけじゃないでしょ。それに、できることがあるならやりたいっていうのは俺も同じだから」


「それでもやっぱり、無神経なこと言ったと思うから」


 ごめんねと再び謝る桃香に対して、拓海は申し訳なさそうに笑う。

 拓海のような堅強な意志はない。桃香のように柔軟な思考もできない。そんな自分に何ができるだろうか。そう思ってしまうが、それでもいい結果を望むなら行動しなければ始まらない。

 朱音は目を覚まさない少年を見つめながら、これから何をすべきか思考を走らせた。






 


 明くる日、朱音は目的の場所に辿り着き、辺りを見渡す。

 落ち着いた趣の建物が目の前にある。中を窺うと夜にもかかわらず、弓道を嗜んでいる人の姿がそこそこ見られた。

 朱音は受付で用件を伝える。事務員は射場へ足を向けると程なくして弓道着を着た修司と共に戻ってきた。当然のように修司は複雑そうな表情をしている。しかし、彼は事務員に断りを入れて会議用の個室へと案内してくれた。椅子に腰掛けると朱音は開口一番に詫びた。


「ごめんなさい。道場に押しかけてしまって」

「……いえ、大丈夫です」


 連絡を控えていた中での突然の来訪。しかも、異能の目で見て場所を把握し、面会を断りにくいよう人の目がある弓道場を狙った。不躾なことは承知していたが、修司ときちんと話をしたくて朱音はあえてそうした。ここまできた理由については当然見当がついているだろう、修司は口を閉ざしたままだ。朱音は会議室を一瞥してから尋ねた。


「道場にはよく通っているの?」

「……来られる時にはできるだけ。道場が一番落ち着くので」


 彼の今の家庭環境を考えると余計にそうなのだろう。そう思うと心がざわめいてしまう。修司は朱音を真正面から見据えると先に口を開いた。


「要件は分かっています」


 ただ静かに。彼はそれだけを言った。

 だからこそ、朱音は深く頭を下げる。


「酷なことを頼むことは分かってるの。だけど、一ノ瀬君を助けるために二見君の力を貸して欲しくて。お願いします」


 人が殺される場面を見る。一度ならず二度目を見るという苦行を強いているのだ。それを自覚するために、朱音は要望を正直に伝えた。


「……頭を上げてください。俺は頭を下げてもらうような立場ではありません」


 落ち着いた修司の声が耳に届いて朱音は顔を上げる。困ったような表情をしている修司を見て、彼が懸念していることはやはり自分のことではないのだなと改めて思った。


「二見君は拓海のことを気にかけてくれているんでしょう?」


 修司は問いに答えず沈黙する。弟がいる彼のことだ。自ら望んでいるとはいえ、年下の拓海に好んで勧めたくないのだろう。だからこそ、朱音も腹を括る。


「私も一緒に海を渡るというのでも駄目?」

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