第96話 切り拓く意志〈1〉

 父と口論をした日から一日過ぎ、朱音は退院日を迎えた。帰宅してからも実感が湧かず、ふわふわとした浮遊感に漂う。感情が流れ出てしまった分、うろができたような感覚だった。


 帰宅してからしばらくした後、兄から携帯電話を渡された。どうやら父から返すように言付けられたらしい。どういう心境の変化なのだろうかと一瞬思ったが、それ以上考えるのが億劫で思考に至らなかった。


 それでも連絡だけはしなければと思い、一通りメッセージを入れる。言い出しにくいことではあったが、拓海たちには父親と口論になったこと、和真の母親に記憶の海に関連した事について話したと簡潔に伝えた。

 一通りメッセージを送り終わると桃香から返信がきた。


『朱音さん、色々とあったんですね。教えてくれてありがとうございます。それに……力になれずにすみません。もしよければ、明日喫茶店に寄ってから和真君の様子見に行きませんか? 学校帰りになってしまうんですけど、それでも大丈夫なら』


 いつの間にか八月も最終週に入っている。もう都内の高校は学校が始まっているらしい。透の時もそうだったが、忙しい最中でも見舞いをこまめにする桃香には頭が上がらない。

 了承のメッセージを送って一息つく。大学はまだ夏季休暇中なのでどうとでもなるが、他の皆は動きにくくなっただろうという懸念がよぎる。


 そんな浮遊感漂う一日を過ごして、朱音は通い慣れた喫茶店に足を運ぶ。扉を潜ると義明よしあきは本当に安堵したように微笑んだ。朱音は仕事の邪魔にならないようにカウンターの端に寄って言葉を交わす。


「朱音。元気になってよかった」

「心配をかけて本当にごめんなさい」

「いいんだよ、そんなこと」


 義明の瞳はわずかに潤んでいた。それを見て本当に心配をかけていたんだなと感じて、少しだけ地に足が着いたような気がした。


 それから二人掛けの席に腰をかけて桃香を待つ。程なくして訪れた桃香も朱音の姿を見て、ほっとしたような笑みを浮かべた。

 二人ともオレンジのシフォンケーキと紅茶を頼む。手際よく働く義明の姿を見ながらケーキを口に運んだ。オレンジピールのわずかな苦味と柑橘の爽やかな香りが口に広がる。久し振りに喫茶店で過ごす時間はとても穏やかだった。束の間だったが、何よりも現実世界に戻ってきたのだと実感させてくれた。




 それでも、目の前にある現実はそう変わらない。病室を訪れると既に拓海と修司が面会に来ていた。握っていた手を離して拓海は静かに零す。


「……異能は大分戻ってきたと思うんだけど。十和田さんと一緒か……それより感じにくいんだよね」


「うーん……。この間、比較的すぐに感じ取れたのは、やっぱり記憶の海にいた影響なのかな」


 悩ましそうに桃香が眉を寄せる。

 記憶の海はアカシックレコードであり、潜在意識に近い空間だ。桃香の推測も頷ける。そうなると現実世界にいること、拓海の異能で察知しにくいこと合わせると和真を助ける手立てがないように思えてしまう。


「状況が変わらないのによくやるねぇ」


 そんな言葉が聞こえてきて皆が入り口に視線を向ける。開いた扉の先には玖島が立っていた。彼は中に入るとすぐに扉を閉める。


「聞き耳立ててたの?」

「状況を説明する手間が省けて便利でしょ」


 拓海の苦言にも頓着せず、玖島はしれっと答える。呆れ返る拓海をよそに、彼は壁際に歩み寄って背を預けると腕を組んだ。


「あんな話を聞いてよく頑張れるよ」

「それなら玖島さんは十和田さんのこと、諦められるんですか?」


 桃香は率直に切り返す。玖島は問いに答えない。気まずい空気が流れるが、桃香はそれさえ払い除けるように続けた。


「私は諦めません。和真君のことも、十和田さんのことも。何か方法があるはずです」

「……熱いねぇ」


 感心とも呆れとも取れる口調で玖島はそう零した。

 二人のやり取りを聞いて、朱音はどちらかというと玖島の気持ちに共感してしまう。すべては必然という事実は思った以上に心に影を落としていた。


「そんなにやる気があるなら、やりようはあるでしょ」

「え?」


 玖島の唐突な発言に朱音たちは驚く。彼は窓際に立っている人物を見て目をすがめた。


「それで、なんで君は何も言わないの? 方法は見当ついていると思うんだけど」


 そう問われたのは修司だ。戸惑う朱音たちにも目をくれずに玖島は左手を上げる。すると一匹の透明な魚をふわりと姿を現した。


「アカシックレコードで出会ったあの少年が言ったことを鑑みると、異能を使いこなせれば君は過去の記憶を意図的に見られるはずだ。彼は亡くなった時の記憶に囚われている可能性が高い。過去の記憶を起点に拓海くんが異能を使って海を渡ればいいんだ」


「あ……そうか! 修司君、やろうよ!」


「それはできない」


 修司は桃香の提案を強い口調で一蹴する。すぐさま返された否定の言葉に桃香は狼狽えた。


「え、な、なんで? 可能性があるのなら試して……」


「人が殺されるところを見るということなんだぞ。ただでさえ、そんなもの見るものじゃないのに――」


 そこでハッとしたように修司は口を噤んだ。彼は咄嗟に拓海へ視線を向けるが、居心地悪そうにすぐに顔を逸らした。病室内がしんと静まり返る。


「……やっぱり、知ってたんだ」


 静寂をはじめに破ったのは拓海だった。


「修兄の様子がいつもと違うなって思う時があったからさ。何となくだけど、そんな気はしてたんだ。……今まで何も言わないでくれて、ありがと」


 拓海は穏やかに笑う。ただ、顔を背けたままの修司とは視線が噛み合わない。拓海は少しだけ視線を落として、改めて口を開いた。


「俺さ。昔、本当の両親に暴力を振るわれて死にそうになったんだ」


 桃香が微かに息をのみ、玖島が目を見張る。桃香は口を開きかけたが、何も言えずに軽く目を伏せた。拓海は胸元の服をギュッと掴んで、修司を見据える。


「クジラに喰われた時、その記憶に囚われてさ。苦しくて、色々なことが嫌になってどうしようもなかった時、和兄と朱姉が助けてくれたんだ」


 遠い昔のように感じる、暗く沈んだ光景。

 まだ出会って間もない頃だったけれど、和真は今できる限りの言葉で拓海と向き合い、こちらの世界に引き留めてくれた。自分一人では拓海を助けることはできなかったと朱音は今でも思う。

 そんな彼がもし過去の記憶に沈んでいるのだとしたら。


「だから、今度は俺が助けたい。力を貸してほしいんだ」


 助けたいと思うのは、必然ではないだろうか。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る