第95話 彷徨うこころ〈4〉
騒ぎを聞きつけた看護師が病室を訪れたのは程なくしてからだ。
女性が看護師に落ち着くまで多めに見てもらえないだろうかと頼み込んでくれて、了承を得てくれた。ひとしきり泣いて、ようやく落ち着いたのは消灯時間が近くなった頃だった。早めに電気は消され、小さな明かりだけがついている。部屋は薄暗いが今はそれがちょうどよかった。
「よかったらどうぞ」
椅子に腰掛け、ぼんやりとしていたところで何かが差し出された。カップの先を追うと柔らかい笑みを浮かべながら女性が立っていた。
「……ありがとうございます」
差し出されたカップを受け取る。中には柔らかな琥珀色のお湯が注がれていた。ふわりと芳しいバラの香りが漂い、強張っていた気持ちが和らぐ。
「ローズレッドに蜂蜜を加えてあるの。口に合うといいんだけど」
口を寄せると上品な香りが鼻腔を擽る。微かに苦味を感じるが、蜂蜜がまろやかな甘味で包み込んでくれた。一口飲んで自然と吐息が漏れる。
「美味しいです……」
「そう。それならよかった」
女性は嬉しそうに笑い、横にある椅子に腰かけた。何と呼んだらいいのかと迷って朱音は口を閉ざす。それを察したらしく、女性はふわりと笑った。
「改めまして一ノ瀬いずみです。いずみでいいわ。貴女が五十嵐さんね」
「私のこと、ご存知なんですか?」
自分のことを伝えていたのが少し意外だった。しかし、言葉に反していずみは軽く首を横に振った。
「和真から本当に少し話を聞いているだけ。もう高校生だし、男の子だし。家の事も色々やってもらっているから、そういうことは口煩くしないって決めていて。だから、何も知らないっていう貴女のお父さんの言葉は間違っていないの」
「……」
いずみは両手で包み込んだカップに視線を落として、苦笑いを零した。
「私に言えないことをしていると感じていたわ。本当に困った時は話してくれるんじゃないかと思って待っていたら、こんなことになってしまった。それに、こんな状態になっても
「そんなことないです」
朱音の言葉にいずみは驚いたように視線を上げる。朱音を見ると少し寂しそうに微笑んだ。
「職業柄ね、早かれ遅かれ、いずれは誰にでも死ぬ時が来ると思っているの。それでもね、和真には……目を覚ましてほしいわ」
狼狽えていないなんて嘘だと思った。揺れる瞳で、本当に寂しそうに目を覚まさない少年を見つめていた。
二人の間に静寂が訪れる。今度は朱音が手元に視線を落とした。再び胸が苦しくなり、視界が滲んでしまう。
「私も……彼の優しさにずっと甘えていました。一緒にいてくれるのが当たり前で、助けてもらってばかりで。こんなことになっているのも、私のせいなんです」
一度決壊してしまった堰は簡単に涙を溢れさせる。いずみは背に手を置きながら穏やかに声をかけた。
「……朱音さん。もしよければ、話を聞かせてもらえない?」
要点を掻い摘みながらゆっくりと話をする。ただ、和真が一度亡くなっているという点だけは伏せた。事実だとしても知らない方がいいと思うのと同時に、自分の口から言い出すことが憚られたからだ。
いずみはままならない話を辛抱強く聞いてくれて、最後にもう一度ギュッと抱きしめてくれた。
「色々あった、なんて言葉じゃ足りないぐらいね」
お疲れ様、という言葉が耳元で聞こえた。こうして誰かに縋るというのは気恥ずかしかったけれど、それ以上に安堵の気持ちに包まれる。ただ、それに伴って罪悪感も積み上がっていった。
「そんなことないです。何も解決していない上に、こんなことになってしまって……」
「すぐには無理にでも、落ち着いて物事を見たら解決策が出てくるかもしれないわ。何もできない私が言うことではないかもしれないけど」
まだできることがあるのだろうか。自分の許容量を遙かに超えた出来事と溢れかえった感情のせいで、思考がままならない。
「実はね、あの子が透明な魚が見えると言っていたことがあったの」
「え?」
「私の母が亡くなる前のことで、それきり私には言わなかったんだけど。その時、私の理解が及ばない何かが起きているんじゃないかって思った。和真が行方不明になって、あれだけ元気だった母が急に体調を崩したから。話を聞いて腑に落ちたわ。でも、やっぱり話してもらえなかったのは……ちょっと寂しいわね」
いずみの言葉を聞いて、朱音には和真が一度亡くなっていることを察しているように感じた。そう思うほど、先ほどまであった柔らかい雰囲気が影を潜めていたのだ。このまま話さない方がいいのだろうか。隠し続けることへの罪悪感が胸を占拠する。
「いずみさん、その……」
言葉が自然と零れ落ちる。ただ、話そうにもまだ迷いがある。
「すみません、話した方がいいことなのか……分からなくて……」
「あの子に関係することなら、教えてくれると嬉しいわ」
いずみは気丈に笑う。やはり察しているのだろうと思いながら、朱音は和真が事件に巻き込まれて一度亡くなっているという事実を打ち明けた。
深閑とする室内。朱音もいずみも自分の手元に視線を落としたまま喋らない。誰も話さない空間は気温が下がったように感じる。
「……話しにくいことだったのに、話してくれてありがとう」
唐突にもたらされた言葉に朱音は驚いていずみを見る。いずみは笑っていたがその笑顔には疲れが見えた。
現実離れした話に加えて、息子が事件に巻き込まれて死んでいたという事実。一度に話されて疲弊しないわけがない。話したことを後悔する。しかし、それを見越したようにいずみは言葉を続けた。
「もしあの子が目を覚ました時に、今度はひとりぼっちにしなくて済むわ」
自分よりも周りに気を使う姿が少年と重なる。気丈に笑おうとする姿が苦しくて、朱音は不意にいずみの肩に頭を寄せた。自分の母親にすらしたことがないのに、いつの間にかそうしていた。
いずみは驚いた様子だったがそれを受け入れる。一人では抱えきれない思いを抱き、二人は無言のまま過ごした。少し
「……五十嵐さん、色々とありがとう。さっきの話は私以外に伝えなくていいわ」
「……はい」
「特に私の娘、
そう言っていずみはハーブティーを口にする。
気がつけば、入れてもらったお茶は冷たくなってしまっていた。それでもハーブティーは乾いた喉と心を潤してくれた。
「長々と引き止めて、私だけでなく父もご迷惑をかけて……本当にすみませんでした」
病室を後にする前に朱音は深く頭を下げる。いずみは目を見張ってそれを見届けたが、次いで微笑んだ。
「私は貴女のお父さんも貴女のことを心配していると思うわ。きつく当たられて、そうは思えないかもしれないけど。興味がなければ、こちらに来さえしないんじゃないかしら?」
親にとってはいつまで経っても子供は子供だから心配なものなのよ、と付け加えていずみは微笑む。
そういうものなのだろうか。言われてもなかなか実感が湧かない。いつか理解できる日がくるのだろうかと思っていると、不意に床頭台に置かれている物が目に入った。朱音の視線の先にあるものを見て、いずみは苦笑いを浮かべた。
「いつも着けていてくれたから、そばにあった方がいいと思って置いているんだけど」
床頭台に置かれているのは和真が普段身につけていた時計だ。近づいて確認すると、フレームが歪み、ガラスも割れて針が止まっていた。朱音は手に取ると壊れてしまった盤面を静かに撫でる。
「いずみさん。これ、お預かりしてもいいですか?」
「え、ええ」
わずかに戸惑いが滲む相槌が返されると、朱音は壊れた時計を手に取った。改めて礼を言い、二人で病室を後にする。
「おやすみなさい。無理はしないでね。休むことも大切なのよ?」
「はい……」
いずみは朱音に笑ってみせると、ナースステーションにいる看護師に挨拶をして病棟を後にする。その後ろ姿を見送ってから、朱音は自分の病室へとゆっくりと戻っていった。
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