第94話 彷徨うこころ〈3〉
朱音の言葉にその場の空気が重くなった。
朱音は和真たちと共にクジラに喰われた時のことを反芻する。あの時は拓海を助けるために異世界の渡り人が手を貸してくれた。拓海に対して似た力を得たみたいと女性は言っていたが、こうも違うものなのだろうか。
「前に手を貸してくれたあの女性。拓海とそんなに違うのかしら」
「俺は直接会ったわけじゃないけど、助けてもらった時の感覚なら覚えてる。あの人、俺なんかよりずっと人の心とか精神的なものに触れるのに慣れてるんだと思うよ」
異世界の住人だ。もともとそのような力を有しているなら練度も違うのだろう。似た力を持つ拓海がそう言うのなら間違いないとも思う。ただ、彼女たちにもう一度力を借りられる可能性はほぼないと言って等しい。
どうすべきかと皆が思案する中、玖島がかすかにため息をつく。彼が口を開きかけたその時だった。
部屋の扉がノックされる。はいと桃香が応じると扉が開いた。その先にあった姿を見て玖島は心底嫌そうに眉根を寄せた。
「こっちが本命か」
扉の先にいたのは茉白だ。玖島と茉白の視線がかちりと合う。すかさず玖島は扉に向かって歩き出し、茉白の脇を通り過ぎようとした。
「
腕を取ろうとした茉白の手はひらりと躱されて空を掴んだ。それ以上声をかけることもできずに、茉白は彷徨った手を下ろす。
「え、えっと……?」
困惑する拓海に対して答えを返したのは桃香だった。
「玖島さんが言ってた知人って、十和田さんのことなんだよ」
「え、じゃあ、あれって……」
私もこの前やっと気がついたんだけどね、と言って桃香は
朱音は床頭台に置かれていた写真を思い出す。見た目も印象もまったく違うし、今まで見てきた玖島では同じ人物だと想像し難い。しかし、先ほどの不機嫌な表情は写真の少年を思い起こさせた。
「漆間さんは、玖島さんがこの件に関わっていたことは知らなかったんですね」
「……はい。透君が倒れて、病院に付き添ってくれた以降は全然連絡が取れなかったんです。それに、その前から距離を置かれていたので……」
そう話す茉白は泣きそうな顔をしていた。なんと言っていいか分からず、朱音はそうですかと相槌を打つことしかできなかった。
「茉白さん……」
「ごめんなさい……。色々迷惑かけたから、やっぱり嫌われちゃったのかな……」
一筋の涙が零れる。やるせなさがせり上ってくるが、二人が今の関係に至った理由が分からないためどうすることもできない。心配事の種だけが増えていく。
袋小路に迷い込んでしまったように何もできないまま、面会の時間は終わってしまった。皆と面会できたことはよかったが、解決策が何一つ見当たらない。
朱音は少しだけ夕食をとって面会に来た母を見送った後、異能の目で辺りを見渡した。時間を置くにつれ視界がよくなってきているが、まだ近場を見るので精一杯というところだ。
気になって辺りを見渡しては休むを繰り返す。そうしているうちに二十時近くになっていた。今日は父は来ないのだろうかと一人思う。しかし、時間が経つに伴って嫌な予感に苛まれ始めた。
朱音は父の姿を探して病院内を異能の目で見渡す。そこで目の当たりにした光景に絶句した。
慌てて夜勤の看護師に断りを入れて病棟を離れる。たどり着いた個室の扉の前で耳を済ませると二人分の声が聞こえてきた。
漏れ聞こえた内容に朱音はノックもせずに扉を開ける。口を衝いて出た声は思っていた以上に強張っていた。
「父さん、何をしているの」
そこにいたのは父である
「朱音」
「ここで何をしているのと聞いているの」
強く父に詰め寄る。しかし、清隆は動揺など一切見せずにそれに答えた。
「救急車で運ばれた日、彼と一緒にいたんだろう。彼の母親だと言うから事の経緯を聞いていただけだ。それに随分前から共に行動していたそうじゃないか」
どこから情報を得たのだろう。こういう時は迅速なのだなと反抗心が先に立ってしまい、苛立ちが声に乗って出てしまう。
「ふさけないで。一ノ瀬君は目を覚まさない状態なのよ。あんな責めるような言い方なんてないわ」
「自分の息子が何をしていたのかも知らない。その上に行動を共にしていた者のこと、交友関係も
「おかしいのは父さんだわ。そんなの父さんだって同じじゃない。私が何をしているか知らないくせに」
「何?」
空気が底冷えする。それでも荒ぶる思いは止めることができず、言葉の奔流となって溢れ出た。
「何も話さなかった私にも非があると思う。けど、父さんに話しても信じてもらえるなんて少しも思えなかった。母さんを支えてくれたのも私を助けてくれたのも兄さんだった。世間体ばかり考えて拓海のことも邪険にする父さんのことを、どうやって頼れというの!」
瞬間、怒りに沸騰した瞳が向けられ、上げられた手に朱音は咄嗟に目を瞑る。
しかし、痛みはまったくない。ゆっくりと目を開けた先の光景に朱音は言葉を失った。
左肩に纏められていた髪がはらりと崩れる。改めて頭を下げて、静かにその人は口を開いた。
「この度は私の監督不行き届きで多大なご迷惑をおかけしたことを、心からお詫びいたします。息子が何をしているのか知らなかったことも、娘さんと行動を共にして巻き込んでいたことも事実です。できる形でお詫びをさせていただきます」
そこで顔を上げ、揺るぎない視線で清隆を見据える。
「すべては私の責任です。ただ、娘さんの体調も心配ですので、どうかこの場は収めてくださいませんか」
それは穏やかながらも重さを持った声だった。気圧されたのか、父は何も言えずに閉口し、わずかな沈黙を経て部屋を後にした。何が起こったのかそこでようやく理解が追いつき、朱音は血相を変える。
「……すみません! 私も父も、とんだご迷惑をお掛けして……‼︎」
そう言った時だった。
背に腕が回され、ふわりと甘い香りがした。抱き留められているのだと時間を置いて理解する。先ほどとは打って変わった優しい声音が耳元で聞こえた。
「大丈夫よ」
その一言で今まで張り詰めていた糸が。
ずっと保っていた緊張の糸が。
ぷつりと切れる。
瞬間、今まで押さえつけていた感情が溢れ、胸を圧迫するほどの激しい苦しみに襲われた。
「う……あぁ、……ごめんなさい……ごめんなさい! ごめんなさい……‼︎」
嗚咽が止まらない。子供のように縋り付いてしまう。
溢れ返った涙と言葉は止めどもなく零れていった。
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