第93話 彷徨うこころ〈2〉
その日の血液検査に問題はなく、数日以内に退院していい旨を主治医から伝えられた。
食欲も少しずつ戻り、抗生物質の投与も終わって無事に点滴が外れる。病衣から持参してもらった服に着替えて面会を待った。その間に異能を使ってみたが、遠くは焦点が合わずにぼやけていた。完全に使えなくなったわけではないことに安堵するが、頼り切っていることに苦笑してしまう。
昼過ぎ、病室の個室がノックされる。朱音がそれに応じると扉が開き、見慣れた二人の姿が視界に入った。桃香の強張った表情が安堵に染まる。彼女はベッドのそばに寄ると微笑んだ。
「朱音さん。よかった……」
「心配かけてごめんなさい。私の都合でなかなか連絡が取れなくて」
「いえ、会えてよかったです」
見たところ、桃香も修司も体調に問題はなさそうだ。心の中で安堵していると、桃香がバッグの中から何かを取り出す。
「これ、拓海くんからです」
桃香が差し出してきたのは小さな包み。開けるとそこには数種類の紅茶のティーパックと折り畳まれた紙が入っていた。急いで用意したのだろうか、紙はノートを切ったものだ。朱音はそっと紙を開く。
『こっちは変わりないから。ちゃんと休んで』
添えられていた言葉にグッと胸が支えたように苦しくなった。休んでいて欲しいという思いと反して、動けずにいる現状にもどかしさを覚える。
「一ノ瀬はこの病院の脳外科病棟にいるんです」
修司の言葉に朱音は弾かれたように顔を上げる。困惑したまま視線を向けると、桃香が不安そうな面持ちで修司を見ていた。彼は意に介さず続ける。
「同じ病院にかかれるように手回ししてもらったんです。ただ、あれからずっと目を覚ましていません」
「検査では何も異常がないそうなんですけど……」
すぐさま脳裏に蘇ったのは十和田透の姿だった。修司は静かに言の葉を重ねる。
「それでも会いに行きますか?」
たとえ目を覚ましていなくてもいいと思った。
二人と面会した上に和真のもとへ来訪する。もし父に知られてしまったら、皆との繋がりを完全に絶たれてしまうかもしれない。それは考えただけでも恐ろしかった。けれど、この時を逃してしまってはいけないとも思った。
「会いたい」
言の葉が自然と溢れる。不安そうにしていた桃香は途端にきゅっと表情を引き締め、修司に目配せした。
「拓海も来ています。行きましょう」
朱音は頷いて立ち上がる。父は少なくともこの時間帯には来院しないはずだ。看護師に面会のために病棟を離れることを伝えて出かける。
修司と桃香に案内されるまま病棟を歩く。二階へ下りて脳外科病棟のナースステーションを通り過ぎ、一つの個室の前で立ち止まった。修司は扉の前から身を離すと朱音に向き直った。
「ここです」
空けられた扉の前。少し逡巡した後、朱音は扉をノックしてから静かに開けた。
淡々と電子音が刻まれる静かな部屋。ベッドのそばで拓海が和真の手を握りながら座っていた。目の前にあるはずなのに、まるで現実味を帯びない光景だった。その中で意外な人物の姿があって朱音は驚いてしまう。
玖島がポケットに両手を入れたまま窓際の壁に背を預けて立っていた。朱音に気がついた拓海は目を丸くし、すぐさま歩み寄る。
「朱姉、体調は大丈夫なの? それに……」
「大丈夫よ」
言い淀む拓海にそう言ったものの、上手く笑えなかっただろうと朱音は思った。そう思うほどに拓海が不安そうな表情をしていたのだ。
「できる限りここに来て試してるんだけど。帰ってきてから上手く異能が使えなくて……ごめん」
拓海はすまなそうに呟いた。やはり、拓海も同じような状況だったのだと納得する。朱音は軽く首を振って応えるとベッドの横に歩み寄った。
バイタルサインを監視するモニター。繋がれた点滴。声をかければ今にでも目を覚ましそうな穏やかな表情。何一つ取っても、自分の目の前にあるものだと認識しきれない。
朱音は窓際に視線を向ける。視線が合うと玖島は薄く笑みを浮かべながら肩を竦めた。
「呼ばれてここにいるんだけど、気に
「……いえ。病院の件、手を回してくれたのは玖島さんですよね。ありがとうございます」
頭を下げる朱音を見て玖島は目を丸くする。それから居心地が悪そうに視線を逸らせて頭を掻いた。
「……状況は変わらないね。向こうで探りを入れているんだけど、これと言って掴めたものはない」
「玖島さんの耳で何か聞こえないんですか?」
「君たちよりはマシみたいだけど、どうもノイズが多くてね。それにあの子には完全に断絶されたみたいで、何も聞こえないよ」
玖島の返答に朱音は少なからず落胆してしまった。手がかりが何もないことに焦りを覚える。桃香がそばに立ち、戸惑いがちに声を発した。
「朱音さんの目で何か視えたりしないですかね?」
「分からない。あまりこういう形で使ったことがないから……」
「そう、ですよね。私もあの後から夢見ができてなくて……」
桃香は申し訳なさそうに俯く。その姿が居た堪れなくて、藁にもすがる思いで朱音は拓海が座っていた椅子に腰をかけた。手を取り目を伏せて意識を集中してみるが、視界はずっと暗いままだった。
「……駄目みたい」
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